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五社英雄(1929~1992)

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五社 英雄(ごしゃ ひでお)

映画監督
1929年(昭和4年)〜1992年(平成4年)

1929年(昭和4年)、東京府北豊島郡滝野川町大字西ヶ原(現在の東京都北区西ヶ原)で生まれる。本名は、五社 英雄(ごしゃ えいゆう)。父親は吉原の近くで飲食店を営んでいたが、英雄が誕生した頃は古河財閥の使用人(用心棒のような仕事)をしており、母親は英雄を産んだ時42歳であった。貧しい家庭だったため、産まれたばかりの英雄は浅草にいる叔父(父の弟)夫婦の家に預けられた。叔父は一家を構える博徒で、英雄を養子にするつもりであったが、母は高齢出産した英雄への愛着が捨てきれずに取戻し、結局は実の両親と共に暮らすようになった。小・中学校時代には同級生と喧嘩しても、「お前はカタギの子じゃないから」という理由で、喧嘩の事情も聞かれず問答無用で英雄の方だけ体罰を受けた。1941年(昭和16年)、太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦し、不器用な英雄は軍事教練で三八式歩兵銃の手入れに手間取り、将校からよく怒鳴られ、つい不服そうな顔をすると、「これだからヤクザのセガレは!」と、右顎の歯が折れるほど、さらに激しい体罰を受けたこともあった。こうした生まれ育ちの差別や蔑みで味わった惨めさから、「弱味を見せたら、負けだ」、「決して相手に舐められてはならない」という思いが強くなった。そのため、大人になってからはハッタリやホラ話で周囲を煙に巻いて、実家が大層繁盛した芸妓置屋だったなどと生い立ちを偽ったりと、強気に脚色したりした。しかし、子供の当時は現実の惨めな環境は耐え難く、死にたいという思いから特攻隊の入隊を希望するようになり、中学を中退して1944年(昭和19年)に第13期として予科練に入った。だが予科練入隊まもなく日本脳炎の初期症状を患い、正式入隊が4か月遅れてしまったため実戦参加できず、本土決戦用の水上特攻隊の演習となった。同期の多くは1945年(昭和20年)に台湾や沖縄の戦闘で特攻隊として散っていったが、生き残った英雄は福知山市の飛行機工場で8月15日の敗戦を迎えた。予科練から復員後、一家を養うために食料調達に奔走し、その後は米軍基地の売店でアルバイトをした。基地の軍用品を銀座の闇市に横流しをして金を稼いだ後、明治大学商学部へ入学。卒業後、映画監督を目指し、各映画会社の就職試験を受けたが全て不合格となってしまった。当時は映画会社の社員でなければ監督にはなれなかったため、直接に大映の永田雅一の自宅にも日参して懇願したが叶わなかった。1年間の就職浪人を経て、少しでも映画界に近いところとしてマスコミ業界を目指し、民放ラジオ局のニッポン放送に就職。報道部に配属され、読売ジャイアンツの宮崎キャンプの取材記者などをした後、1959年(昭和34年)のフジテレビ開局に向けての人事異動により、前年の初頭にラジオのクイズ番組や音楽番組のディレクターに異動になった。しかし、どうしても映像業界に行きたい五社は、同期入社でフジテレビの編成部に移った村上七郎に、テレビドラマの演出をやりたい旨を話した。報道部入りを勧める村上の提案に一旦引き下がったが、信奉する黒澤明の演出研究の資料書類を持って再び訪れ、ドラマ演出への希望を滔々と語り懇願すると、村上はその熱意に押され常務に掛け合い、1958年(昭和33年)6月2日に念願かなってフジテレビ出向となり、1959年(昭和34年)1月に正式移籍して社員となった。スポンサー企業の意向に合わせてバラエティーなどを企画した後の同年6月に初めての演出テレビドラマシリーズ『刑事』を手がけた。『刑事』は高松英郎主演で生放送ドラマで、タイトルは「刑事」だが、偽札作りをする悪党がメインとなり、「破滅していくアウトロー」がテーマで、スピーディーな演出が社内で高評価を得た。自身の目指す生々しい迫力のあるアクションを体現できる俳優を探していた五社は、当時まだ有名俳優ではなかった丹波哲郎の野性味と堂々たる体躯に着目。五社は日本テレビで『丹下左膳』のセットで撮影中の丹波を訪れるといきなり初対面の口火で「自作のギャングドラマ『ろくでなし』に出演してほしい」と単刀直入に言った。江戸っ子の丹波と、チンピラ流コミュニケーションを駆使する五社は馬が合い、『ろくでなし』の成功後も、1960年(昭和35年)1月スタートのシリーズ物『トップ屋』でコンビを組むなど、付き合いが長く続くことになる。高視聴率のドラマを連発し、フジテレビの看板ディレクターとなった五社は、黒澤明のような時代劇の演出を目指した。また、同年10月の浅沼稲次郎暗殺事件発生により、警察から刃物やピストルなどの凶器を使う場面の自粛をテレビ局が求められたこともあり、時代劇なら非現実的なファンタジーとして暴力的描写も許容されうるという思いもあった。五社は、当時フジテレビに売り込みに来た無名の殺陣師・湯浅謙太郎が率いる「湯浅剣睦会」と組んだテレビ時代劇『宮本武蔵』の殺陣において、竹光ではなく真剣と同じ重さを持つ危険なジュラルミン製の模造刀を採用し、役者の迫真の演技を引き出した。五社の演出する立ち回りは、限りなくリアルに近い死闘であったが、テレビスタジオのセット内だけの撮影では今一つの限界もあった。五社は、入社2年目の編成部員の白川文造と共に企画を拡げていき、1963年(昭和38年)のテレビ時代劇『三匹の侍』で、丹波哲郎のほか、平幹二朗と長門勇をキャスティングした。当時、長門は浅草のストリップ小屋でコントをしながら下積み生活をしていた無名の役者であった。また、『三匹の侍』の殺陣では、刀と刀がぶつかる金属音や、刀を振った時の風の音、人が斬られる時の肉が裂ける音が付けられた。映画のようなカメラワークやロケが望めないテレビ時代劇において迫力のある立ち回りを演出するため工夫された「効果音」の演出は、五社が初めて時代劇で編み出したものであった。激しいアクションのテレビ時代劇『三匹の侍』の全26話は高視聴率を保ち続け、大成功を収めた。1964年(昭和39年)には映画版『三匹の侍』も製作され、丹波哲郎が創設した「さむらいプロダクション」が製作に乗り出し、松竹の京都撮影所で撮影された。当時、映画業界人はテレビの人間を「紙芝居屋」と見下げていたことから、松竹のスタッフはテレビ局のディレクターの五社に反感を持ち、様々な嫌がらせしたこともあったが、平然としてエネルギッシュな演出をみせる五社と次第に打ち解けていった。映画『三匹の侍』はテレビ局出身初の映画監督作品となったが、当時の映画ジャーナリズムから黙殺された。しかし、衰退の映画会社にとって五社の演出力は魅力だった。当時任侠路線に進んでいた東映は、その路線変更の会社の方針に反抗する中村錦之助のために、巨匠ではない五社を起用し『丹下左膳 飛燕居合斬り』など低予算の時代劇を製作。同じく東映製作の時代劇『牙狼之介』『牙狼之介 地獄斬り』では、五社は俳優座の夏八木勲を抜擢して西部劇風に演出した。1969年(昭和44年)、フジテレビが映画製作に乗り出すこととなり、多額の製作費を使った映画の監督を任されることとなった五社は、フジ製作第1作目『御用金』、第2作目『人斬り』のアクション時代劇を大成功させた。2作とも興行成績ベスト10にランクインし、五社は映画界のヒットメーカーに位置づけられるようになった。この大ヒットにより、同年11月にフジテレビの編成局映画部長に昇進。その後、思い通りのテレビドラマ作品を企画し、深作欣二監督・丸山明宏主演の『雪之丞変化』、田中徳三監督・天知茂主演の『無宿侍』、円谷プロダクションと提携し不条理ホラー『恐怖劇場アンバランス』などを製作するが、丹波哲郎発案の『ジキルとハイド』の内容が過激すぎ、試写を見た上層部が難色を示して、映画部長を解任された。チーフプロデューサーとして報道部へ異動となった五社は、『ひらけ!ポンキッキ』の企画に携わったり、ドキュメンタリーなどを製作したりする傍ら、東宝で映画『出所祝い』、東映で『暴力街』などを監督するが、あまりヒットせずに終わったため、映画会社からのオファーがなくなった。新たに劇画の原作などを書いていた五社だったが、元日本国粋会の森田政治が結成した「蒼龍会」の理事長に五社が就任したことが、フジテレビの鹿内信隆の逆鱗に触れた。1977年(昭和52年)11月には現場から外され、調査役として総務局の経営資料室に左遷。五社は会社にほとんど出社せず、俳優座に入り浸っていたが、そんな五社に佐藤正之が助け舟を出し、アクション時代劇『雲霞仁左衛門』の監督を任された。次作『闇の狩人』もエロと暴力と血しぶきを際立たせた演出で、原作の設定を完全に壊した大エンターテイメントに仕上げたために、原作者の池波正太郎が不快感を表明した。その一方、こうした五社の大胆な演出に角川春樹が注目し、山田風太郎原作の映画『魔界転生』の監督を依頼してきた。民放第3位という低視聴率に陥っていたフジテレビも、1980年代になって再び自社製作ドラマを復活させるべく、五社を現場復帰させた。しかし、1979年(昭和54年)末には妻が2億円の借金を残して家出し、1980年(昭和55年)5月30日には娘がアルバイト先に向かう途中で交通事故に遭い、頭蓋骨陥没骨折で下血腫脳挫傷となり危篤状態となった。五社は、もしも手術が失敗し娘が植物状態となるなら殺してくれと医者に頼み、その時は自身も後を追って死ぬ覚悟を決めていたが、以前から自殺願望を持っていた五社のことを気にしていた丹波哲郎は五社を説得。幸い娘の手術は成功し、失語症の後遺症は残ったものの最悪の事態は避けられた。しかしながら、同年の7月2日に拳銃所持の銃刀法違反容疑で逮捕。拳銃は他人から預かっていたものと見られ、妻の借金により売却された家を訪れた3人組の金融業者集金人によって通報された。3人は五社に執拗に利息を取り立て続け、業を煮やした五社がソファの背に隠しておいた拳銃を取り出したという。この一件は罰金刑だけで済んだが、五社は7月30日にフジテレビを依願退職した。この逮捕スキャンダルによって、オファーされていた『魔界転生』の監督の仕事もなくなった。その後、生活のために新宿ゴールデン街の知り合いの飲み屋に紹介された店で、「五社亭」という店名を付け飲み屋のマスターになる準備をしていたが、かつて『牙狼之介』などで組み、東映の社長となっていた岡田茂と、俳優座の佐藤正之が救いの手を差し伸べ、佐藤は東映京都撮影所の日下部五朗が仲代達矢主役で企画していた『鬼龍院花子の生涯』に、五社とパッケージなら仲代を貸すという条件をつけた。もともと五社と仕事がしたいと思っていた日下部や、東映社長の岡田茂は快く承諾。活動再開第1作『鬼龍院花子の生涯』は1982年(昭和57年)6月に公開され、大ヒットとなった。夏目雅子演じる松恵の発する「なめたらいかんぜよ!」という台詞は、台本にはなかったもので、現場で五社が即興で付け加えたものであった。『鬼龍院花子の生涯』の成功により、日本映画界の第一線に返り咲いた五社は、フジテレビからのオファーで『時代劇スペシャル』の監督を引き受け、復帰第2作目は『丹下左膳 剣風!百万両の壺』となった。続いてフジテレビは、かつてのヒット作『三匹の侍』を『時代劇スペシャル』枠で3時間スペシャル版として企画していたが、五社は東映の日下部五朗からのオファーの映画『陽暉楼』の方を選んだ。フジテレビの社運を賭けた企画を断わってしまった五社は、もう古巣の組織の中で安定収入が得られる道には戻れないと考え、『陽暉楼』の撮影前に京都で、二代目・彫芳の手により全身に羅生門の刺青を入れた。この『陽暉楼』で、日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞。当初、『陽暉楼』の主役は『鬼龍院花子の生涯』に引き続き仲代達矢で行く予定であったが、仲代が黒澤明の『乱』に起用されたためダメになり、緒形拳に決定。五社は緒形を気に入り、『櫂』でも緒形が採用され、『鬼龍院花子』『陽暉楼』『櫂』は、原作者の宮尾登美子とのコンビ作品で「高知三部作」と呼ばれた。1985年(昭和60年)、五社プロダクションを設立。同年には緒形が持ち込んだ企画で『薄化粧』も製作された。1986年(昭和61年)6月、前年に再上映された『人斬り』の宣伝で勝新太郎と週刊誌対談中、田中新兵衛役を演じた三島由紀夫について語った件で右翼団体の怒りを買ったためか、深夜に3人に待ち伏せされて顔を切られ大怪我を負う。五社は彼らがむしろマスコミ沙汰になることを期待していると思い、あえて警察には届けなかった。同年11月には『極道の妻たち』をヒットさせ、1987年(昭和62年)には名取裕子をはじめ、かたせ梨乃、西川峰子、藤真利子ら、当時の有名女優の大胆なヌードシーンが大きな話題を呼んだ『吉原炎上』もヒットさせた。しかし、1988年(昭和63年)公開の『肉体の門』が興行的に失敗。マンネリを打破するために二・二六事件を題材にした『226』の監督を担当するが、撮影終了後の1989年(平成元年)3月に食道がんを告知された。同年4月には京都大学医学部附属病院に入院。入院を仕事仲間や娘に隠すために、オーストラリアにいる兄の所に行ったふりをして密かに手術を受け、7月に退院。退院後は11月にヨーロッパのツアー旅行に行くなど養生した後、1990年(平成2年)6月から『陽炎』の撮影に入った。体調が思わしくない中、1991年(平成3年)11月からは古巣のフジテレビの協力を得て『女殺油地獄』の撮影にかかるが、現場で体調が悪化。入院したために撮影が一時中断し、病院から現場に通うことになった。青白く痩せ衰えてきた五社は撮影が終了するとすぐ入院生活に入り、完成披露試写や1992年(平成4年)5月の公開日には出席できなかった。病室でもかつてのヒット時代劇ドラマの『三匹の侍』のリメイクを企画し、キャスティングも渡辺謙、本木雅弘、竹中直人に決まろうとしていた。しかし、同年8月30日午後12時36分、食道癌及び併発した急性腎不全のため京都府西京区の病院にて死去。享年63。


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斬新な演出でテレビ時代劇に革命をもたらし、女優たちの濡れ場やバイオレンス的描写によって1980年代の映画界を盛り上げた五社英雄。時代劇においては、今や当たり前となった「刀と刀がぶつかり合う音」「刀を振った際の風の音」などを生み出し、草創期のテレビドラマ界に大きな足跡を残した。映画では、人間の持つ情念を壮絶なアクションと大胆なエロティシズムで描き、観客の度肝を抜いた。その世界観に魅せられた人は今なお多く、お笑い芸人の友近やタレントのマツコ・デラックスが、五社作品の魅力を度々テレビで語っている。しかし当の本人はというと、銃刀法違反による逮捕でそれまでの栄光を一瞬にして失い、古巣の仕事を断った際は背中に刺青を入れるなど、常人には理解できないアウトロー気質。それが故に浮き沈みの激しい生涯であったが、ピンチに陥ると必ず救いの手を差し伸べてくれる俳優やスタッフがいたことは、五社の人徳のなせる業といえよう。芸術性ではなく娯楽性を追い求めた映画人・五社英雄の墓は、埼玉県川越市の東陽寺にある。娘が交通事故で重傷を負い、その手術が上手くいかなかった場合は自身も後を追うべく建立したという墓には「五社家之墓」とあり、右側面に墓誌、左側面に座右の銘であった「花の嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生さ」が刻まれている。戒名は「大監院英岳悟道居士」。

# by oku-taka | 2024-07-24 00:30 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)

春日照代(1935~1987)

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春日 照代(かすが てるよ)

漫才師
1935年(昭和10年)〜1987年(昭和62年)

1935年(昭和10年)、大阪府大阪市に生まれる。本名は、近馬 せつ子。旧姓は、松尾。両親が上方漫才師だったことから、幼い頃より芸を仕込まれ、1945年(昭和20年)に姉とコンビを組み、春日淳子・照代でデビュー。1961年(昭和36年)、姉の結婚によりコンビを解消。1963年(昭和38年)、三河島事故で相方を亡くしていた漫才師の三球と結婚。芸能界を引退して家庭に入ったが、1965年(昭和40年)から夫婦漫才コンビとして再出発。売れる前は三球がウクレレ(実際に三球はウクレレは弾けず、弾いていなかった事が多い)を、照代がギターを持ち、テーマソングの「線路は続くよどこまでも」を歌ってから音曲漫才を展開していたが、次第にボケを活かしたしゃべくりに徹するようになり、1970年代中頃には『地下鉄漫才』が大ブレイクして全国区となった。『地下鉄漫才』は当時の大人だけではなく、鉄道に興味を持つ子供たちにも広く受け入れられ、テレビで観た子供たちが当時の営団地下鉄(現在の東京メトロ)の広報に「あの話は本当なんですか?」という問い合わせが夏休みなどに殺到し、営団は「実際には違います」と異例のPRを行う程だった。その後、地下鉄に続き新幹線ネタや山手線ネタなどの鉄道ネタ、タクシーやエスカレーターといった乗り物全般に関するネタをシリーズ化して人気を維持。1975年(昭和50年)には第3回放送演芸大賞ホープ賞、1976年(昭和51年)に第4回放送演芸大賞漫才部門を受賞し、ついに1978年(昭和53年)には第6回放送演芸大賞の大賞に輝いた。しかし、1987年(昭和62年)3月、テレビ番組『新伍のお待ちどおさま』(TBS系)に出演中、くも膜下出血を発症。舞台袖で急変し、近くの東京都新宿区の東京女子医大病院に搬送されたが、すでに手遅れで手術できず、意識の戻らぬまま4月1日午前9時55ふんに死去。享年51。


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「地下鉄の電車はどっから入れたんでしょうかねえ?それ考えると寝らんなくなっちゃうの」のフレーズで知られる『地下鉄漫才』で一世を風靡した春日三球・照代。とぼけた風貌でナンセンスをかます三球と、それにガンガンとツッコミを入れる照代の芸風は大ウケし、落語家の立川談志をして「漫才でトリがとれる」と言わしめた。また、三球のボケにツッコミを入れるだけでなく、『地下鉄漫才』では「アレ(電車)は階段から入れたんですよ。常識で考えないと」と言って、それに三球が「よく改札が通れましたねえ」とさらにボケるという、ボケの畳み掛けをも漫才に取り入れていた。これはひとえに、漫才師の娘として生まれたが故に幼くしてその素養を叩き込まれ、姉と漫才のコンビを組んで活動していた照代だからこそできた技だと思う。『地下鉄漫才』以降、「山手線は電車いっぱいあるんだから、この際全部繋げちゃったら」の『山手線漫才』、「お金を入れないでも切符が出てきたらもっと便利なのに、お金を入れるというのが実に不便ね」の『自動券売機漫才』など、乗り物を題材した漫才で人気を不動のものにしたが、その絶頂期に照代が急死。テレビ番組の出演中にくも膜下出血に倒れ、そのまま故人となったことは、世間に大きな衝撃を与えた。その美貌から、演芸界の同業者からも人気が高かったという春日照代の墓は、埼玉県熊谷市の保泉寺むさしの浄苑にある。墓には「春日三球 照代之墓」とあり、背面に墓誌が刻む。2023年(令和5年)に春日三球も亡くなったが、同年12月訪問時には未だ納骨はされていなかった。照代の戒名は「春日院照譽節操大姉」。

# by oku-taka | 2024-07-24 00:23 | 演芸人 | Comments(0)

山岸一雄(1934~2015)

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山岸 一雄(やまぎし かずお)

料理人
1934年(昭和9年)〜2015年(平成27年)

1934年(昭和9年)、長野県中野市に生まれる。4歳の時に父の勤務先だった神奈川県横須賀市に転居。7歳の時に父が戦死、母の実家のある長野県に戻り、同県下高井郡山ノ内町に移った。父親が日本海軍の職業軍人であったことが影響し、小さい頃は海軍の軍人になるのが夢であった。しかし、終戦によってその夢もなくなり、早く東京に出て働いて家族に仕送りしたいと思うようになった。1950年(昭和25年)、中学を卒業後に上京し、印刷機の部品を作る工場で旋盤を扱う仕事をしていたが、上京から1年位経った頃に、親の従兄弟であり、仲が良く「兄貴」と慕っていた坂口正安に勧められ、1951年(昭和26年)4月、一緒にラーメン屋「栄楽」に勤め始める。その後、坂口が独立する際に行動を共にし、『大勝軒』(中野店)を立ち上げた。この店名は「大きく軒並みに勝る」と言う言葉に由来。1954年(昭和29年)には、坂口が別の場所に本店(代々木上原店)を構えたことにより、山岸が中野店の店長を任されることになった。その頃、修行店時代から存在し、賄食としていた「湯呑み茶碗にスープと醤油を入れたものに、残ってしまった麺を浸したもの」を食していたところ、それを見ていた客が「今度俺にも食わせてよ」と関心を示した。これが転機となり、試行錯誤しながら研究を行い、常連客に試食させたところ評判が良かったのでメニューの一品として完成させ、1955年(昭和30年)「特製もりそば」として供されたものが、商品化された最初のつけ麺といわれ、その考案者とされている。1961年(昭和36年)6月6日、妻と妹の3人で『東池袋大勝軒』として独立創業(暖簾分け)。「特製もりそば」(つけ麺)を中心に人気を博す店となったが、仕事での無理を重ねたことにより二十代後半から下肢静脈瘤を発症。40歳頃に痛みが限界に達したために手術等の治療を行ったが、この病気が様々な面で後々まで広く影響を及ぼしている。1986年(昭和61年)夏、妻が病を発症し、9月30日には52歳で死去。そのため同年8月より7か月休業したが、客の強い要望を受けて復活。その後、弟子を取ることに方針を転換して約100人の弟子を持ち、暖簾分けもさせた。しかし、2005年(平成17年)には病気が悪化したことで厨房に立てなくなったことに加え、時代の流れと東池袋付近の再開発もあり、2007年(平成19年)3月20日をもって閉店。閉店を発表後は連日全国各地から大勢の客が殺到。最終日には数百メートルの行列になるなどの賑わいを見せ、その模様は国内外の新聞、雑誌、テレビなどのメディアで報道された。2008年(平成20年)1月5日、廃業済みの創業店から約100メートル先の場所に『東池袋大勝軒本店』がオープン。公式サイトではこれをもって東池袋大勝軒「復活」としている。山岸自身の指名で2代目店主として飯野敏彦(滝野川大勝軒、南池袋大勝軒で店主を務めていたが、本店店主就任時にこの2店舗は本店直営店化された)が就いたが、山岸自身もスープの味見と仕上げのために厨房に出向いていた。同店のオープンに際しては開店前から長蛇の列となり、用意した400食は約6時間で完売した。なお、同店オープン準備中であった前年の9月6日に脳出血で病院に搬送され、3週間入院していたことをオープン前日のプレオープンイベントで明かした。2011年(平成23年)9月、「山岸一雄製麺所」の1号店をエチカ池袋内にオープン。同チェーンはJ-style株式会社が運営し、経営ならびに総合プロデュースは弟子の田代浩二が行っているため、山岸一雄名義を使用しているだけであって山岸自身は直接関わっていない。同年、山岸の半生を追った映画『ラーメンより大切なもの~東池袋 大勝軒50年の秘密~』が公開された。2015年(平成27年)3月中旬に体調を崩して東京都板橋区の病院に入院。同月27日には危篤となり、4月1日午後0時31分、心不全のため死去。享年82。


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今やポピュラー食となった「つけ麺」を世に広めた山岸一雄。ラーメンを別の器に入った汁につける「つけ麺」で、東京・池袋の「東池袋大勝軒」を全国的な人気ラーメン店へと押し上げた。また、その技術を惜しげもなく伝えたことでも知られ、約20年間で100人以上の弟子を育成し、全国各地に大勝軒の暖簾分けを行った。白いタオルの極太鉢巻に白い長靴という頑固そうな出で立ちながら本人は大変に温厚。 「支那そばや」創業者の佐野実がラーメンの世界で唯一尊敬する人物と公言し、葬儀にはタレントの勝俣州和や猫ひろし、弔辞を当時衆議院議員だった小池百合子が務めるなど、飲食業界にとどまらない存在であった山岸一雄の墓は、埼玉県熊谷市の浄安寺にある。3基あるうち、山岸の納骨されている墓には「山岸家之墓」とあり、左側に墓誌、右側に直筆「麺 絆 心の味」と刻まれた碑が建つ。戒名は「雄厳一道居士」。

# by oku-taka | 2024-07-23 23:54 | 衣・食・住 関係者 | Comments(0)

伊藤一葉(1934~1979)

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伊藤 一葉(いとう いちよう)

奇術師
1934年(昭和9年)〜1979年(昭和54年)

1934年(昭和9年)、兵庫県城崎郡竹野町(現在の豊岡市)に生まれる。本名は、伊藤 家晴。兵庫県立豊岡工業高等学校建築科(現在の兵庫県立豊岡総合高等学校)を卒業。 劇団を経営していた父親の影響で芸人を志し、松旭斎天佐天勝一座に入って旅回りの生活を6年間続けた。文学青年であったことから、芸名を樋口一葉からとって「伊藤 一葉」とした。手品を始めたのは一座の手品師が高齢により舞台に出られなくなり代役を務めたからで、手品師の世界では珍しく師匠がいない。 当初は手品だけを行っていたが、性分に合わず面白くなかったため、しゃべりながら手品をするようになった。 1958年(昭和33年)、後に妻となるヒサ子と上京。当初は売れなかったが、1975年(昭和50年)頃からその軽妙な話術にのせた手品で寄席やテレビで注目を集め、手品を見せた後にいう「この件について何かご質問はございませんか?」というセリフは流行語にもなった。 1979年(昭和54年)1月頃から入退院を繰り返し、同年9月8日の栃木市民ホールの舞台が最後となった。9月30日午前3時5分、胃癌のため東京都文京区のとりつ駒込病院にて死去。享年45。


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軽妙洒脱な手品で一世を風靡した伊藤一葉。アッと驚くような手品ではないものの、巧みな話術で人気を獲得。手品を終えたときに発する「この件について何かご質問はございませんか?」は流行語となり、手品が失敗したときはアッサリ開き直るというその洒脱っぷりが大ウケした。同い年の初代引田天功には、伊藤が売れていなかったときに天功がチップを渡そうとしたという因縁があるためか否定的な姿勢をとっていたが、裏では天功の発想や演出を評価しており、最初で最後の2人テレビ共演ということもあった。天功と同じ45歳でこの世を去った伊藤一葉の墓は、埼玉県越谷市の越谷霊廟にある。墓には「伊藤家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「奇才院釋一葉居士」。

# by oku-taka | 2024-06-10 14:49 | 演芸人 | Comments(0)

本田美奈子.(1967~2005)

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本田 美奈子.(ほんだ みなこ)

歌手
1967年(昭和42年)〜2005年(平成17年)

1967年(昭和42年)、東京都板橋区上赤塚町(現在の成増)の成増産院にて生まれる。本名は、工藤 美奈子(くどう みなこ)。家族は東京都葛飾区柴又に在住していたが、美奈子の幼いうちに埼玉県朝霞市へ移住。美奈子も朝霞白百合幼稚園に入園した。歌手になることを夢見ていた母親の影響で、幼い頃からいつも歌を歌っていた。朝霞市立朝霞第六小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と書いていた。朝霞市立朝霞第一中学校3年生の時に『スター誕生!』のオーディションを受け、14歳で出場したテレビ予選では柏原芳恵の『ハロー・グッバイ』を歌い、合格して決戦大会へ進出した。15歳を迎えて出場した決戦大会では松田聖子の『ブルーエンジェル』を歌った。しかし、プロダクションは1社も獲得意思を示さず落選となった。1983年(昭和58年)4月、東京都北区の東京成徳短期大学附属高等学校に入学。同年7月に初めて原宿を訪れた際、少女隊のメンバーを探していたボンド企画のスタッフにスカウトされ、芸能界に入った。前述の『スター誕生!』の決戦大会にはボンド企画のスタッフも参加していたが、その時は指名に至っていなかった。社長の高杉敬二とはボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることとなった。中原めいこのヒット曲『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』をデモ音源で聞き、才能がある歌いっぷりから、この子はソロで売り出そうと決めたが、本人は演歌歌手志望で、事務所のオーディションのために準備してきた楽曲は演歌ばかりだった。所属するボンド企画は演歌歌手を育てた経験がなかったため、アイドルとしてデビューすることになったものの、本人はアイドルと呼ばれるのを嫌っていた。高校2年生の1984年(昭和59年)9月に第8回長崎歌謡祭に本名で出場し、『夢少女』(作詞:深田尚美、作曲:安格斯)という楽曲を歌ってグランプリを受賞。このことがレコードデビューのきっかけとなった。1985年(昭和60年)4月20日、東芝EMIから『殺意のバカンス』でアイドル歌手としてデビュー。本人の強い希望でアイドル色の強い『好きと言いなさい』から、アイドルとしては珍しい曲調である大人びた歌謡曲の『殺意のバカンス』に変更された。このように、事務所としては本人の意向を考慮し、個性を活かす方針が取られた。同期に、森川美穂・中山美穂・南野陽子・森口博子・斉藤由貴・大西結花・橋本美加子・芳本美代子・井森美幸・浅香唯、石野陽子・松本典子・森下恵理・おニャン子クラブなど、後にトップアイドルになる華々しい顔ぶれと並んでのデビューだった。キャッチフレーズは「美奈子、あなたと初めて♥」と「好きといいなさい!」の2パターン。その後、4枚目のシングル『Temptation(誘惑)』をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては松本伊代・岩井小百合に続いて日本武道館コンサートを成功させた。また、同年の数多くの新人賞を受賞した。1986年(昭和61年)2月5日、『1986年のマリリン』をリリース。デビュー曲の『Temptation(誘惑)』が各種ランキングの10位以内に届かなかったのが悔しく、さらに強く個性を出そうとして、へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど、当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って大ヒットとなった。また、事務所社長の高杉に薦められてマリリン・モンローやマドンナなど外国のスターの映像をくり返し見て演出の参考にするなど、『1986年のマリリン』における衣装や振り付けにもその影響が発揮された。7月23日発売の『HELP』は公共広告機構(現在のACジャパン)のいじめ防止キャンペーン「しらんぷりもいじめ」のテレビコマーシャルで使用された。また、この年にはゲイリー・ムーアから楽曲提供を受け、彼のギター・ワークをフィーチャーした『the Cross -愛の十字架-』をガイ・フレッチャー(ロキシー・ミュージックの元メンバー)のプロデュースにより制作した。この時にフランクフルトでのクイーンのコンサートに招かれ、メンバーとの交流を深めた。その後、再びロンドンを訪れて、クイーンのギタリストブライアン・メイのプロデュースによりシングル『CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS』を制作した。本田は武道館でのコンサートでフレディ・マーキュリーの『ボーン・トゥ・ラヴ・ユー』をカバーしており、またレーベルが同じEMIだったこともあって、クイーンの担当だった宇都宮カズを介してこのコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてメイに送ったところ、彼の方から申し出がありコラボレーションが実現した。『CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS』は翌1987年(昭和62年)に発売され、英語版もイギリスをはじめヨーロッパ20箇国でリリースされた。さらに、ラトーヤ・ジャクソンの来日公演のプロモートをボンド企画が手がけた縁で彼女とのジョイントコンサートを行い、ジャクソン・ファミリーとも親しくなった。ロサンゼルスのマイケル・ジャクソンの自宅にも招待され、彼らのスタッフのプロデュースにより全曲英語詞のアルバム『OVERSEA』を制作した。このアルバムはアメリカでも発売された。このように、デビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田の歌手活動の際立った特徴ともなっていた。一方、ドラマ『パパはニュースキャスター』には本人役で出演し、主題歌に採用された『Oneway Generation』(2月4日発売)はドラマ自体の好評にも支えられ人気を博した。同年、映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』も歌手の役ということで引き受け、劇中事故で亡くなったレーサーの兄に捧げて『孤独なハリケーン』(9月9日発売)を歌った。その後、女性だけのメンバーでロックバンドを組むことを思い立ち、東京と大阪でオーディションを行い 、1988年(昭和63年)1月にロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成。シングル『あなたと、熱帯』、アルバム『WILD CATS』などを発表した。同年9月11日、SHOW-YAが企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『NAONのYAON』に出演したが、1989年(平成元年)秋に解散。ロックバンドとしての活動は少なくとも商業的には成功したとは言えず、ソロに戻った後も人気は回復しなかった。それでも歌へのこだわりの強い本田はバラエティ番組への出演を断り続け、ドラマや映画の仕事も最小限に絞っていた。また、新たな方向性として演歌歌手への転向が真剣に模索されており、この時期に出演したテレビ番組では着物を着て演歌を歌ったほか、演歌歌手として活動する方針であることがマスコミでも報じられており、この計画はある程度具体化していた。しかし、東宝のプロデューサーであった酒井喜一郎から『ミス・サイゴン』のオーディションの話を聞かされ、初めは関心を示さなかったが、全編歌で構成されたミュージカルであることを知ると目の色を変えて意欲を示すようになる。1990年(平成2年)秋に始まったオーディションの選考は6ヵ月間7次にわたり、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。その後は全ての予定をキャンセルして公演に備えた。1992年(平成4年)5月5日、『ミス・サイゴン』日本初演。アイドル出身の彼女の力量を危ぶむ声もあったが、一年半のロングランをこなした。その一方、7月4日の本番中に舞台装置の滑車に右足を轢かれるという事故が起き、足の指4本を骨折。そのまま一幕最後の「命をあげよう」までを歌い切ったが、楽屋へ運び込まれてから靴を脱がせてみると中が血の海の状態だった。岸田敏志ら共演者にすぐに病院へ行くよう指示されたが本人は最後まで演じ切ると主張して譲らず、「(ダブルキャストの)入絵加奈子と連絡がついて今こちらへ向かっている」と言い聞かされて初めて声を上げて泣き出した。病院で診察を受けると足の指4本を骨折しており、19針を縫う重傷だった。全治3か月と診断されたがリハビリに励み、誕生日の7月31日にケガから1か月足らずで復帰を果たしたが、完治はしておらず特製ギプスを装着しての復帰だった。この作品で、その歌唱力と演技力が高く評価され、1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。1994年(平成6年)、『屋根の上のバイオリン弾き』にホーデル役で出演。9月24日にアルバム『JUNCTION』を、翌1995年(平成7年)6月25日にはアルバム『晴れ ときどき くもり』をリリースし、レコーディング・アーティストとしても復活を果たした。1996年(平成8年)、『王様と私』にタプチム役で出演。1997年(平成9年)、『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役で出演。以後も繰り返しこの役で出演した。1998年(平成10年)、エイズチャリティーコンサートで『ある晴れた日に』(プッチーニのオペラ『蝶々夫人』より)を歌い、2000年(平成12年)3月20日サリン事件チャリティーコンサートではラフマニノフの『ヴォカリーズ』を歌った。同年6月19日シドニーオリンピックを記念して開かれたシドニーのオペラハウスでの日豪親善コンサートに服部克久の推薦により出演した際には『タイム・トゥ・セイ・グッバイ』や『ある晴れた日に』を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。2002年(平成14年)、『ひめゆり』にキミ役で出演。日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。2003年(平成15年)5月21日、初のクラシックアルバム『AVE MARIA』をリリース。ソプラノ的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。同年、東宝によりシェイクスピアの戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために作られたものだった。2004年(平成16年)、地球ゴージャス制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。同年8月29日、「N響ほっとコンサート」でNHK交響楽団と共演し『新世界』と『シシリエンヌ』を歌った。11月、「字画を1つ増やせば、輝ける未来に」と言われて本田 美奈子から画数が31画となるよう名前の後に「.」をつけ改名。11月25日、アルバム『時』をリリース。2004年(平成16年)末頃から風邪に似た症状や微熱が続いた。12月1日、武道館での「Act Against AIDS」に出演した際は、38度を超える発熱をおして『ジュピター』と『1986年のマリリン』を歌った。この頃からすでに病気の兆候が表れていた。暮れには結果的に生前最後のTV出演歌唱となったテレビ朝日系放送の『題名のない音楽会21』の収録に臨んだ。 2005年(平成17年)1月12日、急性骨髄性白血病と診断を受けて緊急入院し、翌日にはその事実が公表された。 白血病による入院中もストレッチや発声練習を行うなど、復帰への意欲を強く持ち続けていた。その後、2度にわたる化学療法を受けるが、寛解は得られなかった。急性骨髄性白血病の中でも極めてまれな予後不良の治療抵抗性の白血病であったという。治療として骨髄移植が考慮されたものの、骨髄バンクでドナーが見つかるまでの猶予すらない病状であったことから、同年5月、臍帯血移植を受けた。7月末には一時退院。このとき、世話になった医師や看護師のためにナースステーションで「アメイジング・グレイス」を歌った。この歌唱に涙ぐんで聴き入る看護師の姿をとらえた写真は『天使になった歌姫・本田美奈子.』や『本田美奈子. 最期のボイスレター』で紹介された。しかし、病気の再発が認められ、9月8日に再入院し、輸入新薬による抗癌剤治療を受けた。翌月には再度一時退院、その間には白血病患者支援のためのNPO法人「Live for Life」が設立されたが、同月末には再入院となった。その後、肺への合併症から容態が急変し、11月6日午前4時38分、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去。享年38。


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歌手やミュージカル俳優として活躍するも、若くして病に倒れた本田美奈子。1980年代後半を彩ったアイドルの一人であるが、当時の本人はアイドルと呼ばれることに抵抗を感じ、「アイドルではなく、アーティストと呼ばれたい」と発言して「生意気」と叩かれることもあった。愛らしい童顔フェイス、そして明るいキャラと声ゆえにどうしてもアイドルと見られがちであったが、それに相反した力強い歌声と挑発的な衣装で世間からの評価に反発。果ては女性だけのロックバンド結成にまで至ったが、これが引き金となって人気は落ちてしまった。しかし、そこからのミュージカル挑戦、そして成功をおさめ、ミュージカル女優としての地位を築くという華麗な復活と転身は実に見事だった。クラシックを日本語で歌うことに挑戦するなど、かねてより願っていた「アーティスト」としての評価が揺るぎないものになりかけていた矢先、急性骨髄性白血病に侵されてしまったのは大変残念であった。最後まで希望を失わず懸命に生き、没後その歌声は「天使」と称された本田美奈子の墓は、埼玉県朝霞市の広称寺にある。墓には「南無阿彌陀佛」と、直筆による音符及び「ありがとう」とあり、左側面に墓誌が刻む。戒名は当初「釋優聲」であったが、2011年(平成23年)に広称寺住職の厚意によって院号が追贈され、現在は「澄光院釋優聲」である。

# by oku-taka | 2024-06-10 14:36 | 音楽家 | Comments(0)