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渡辺和博(1950~2007)

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渡辺 和博(わたなべ かずひろ)

イラストレーター
1950年(昭和25年)〜2007年(平成19年)

1950年(昭和25年)、広島県広島市に生まれる。運動神経は鈍かったものの、子供の頃からメカ好き、オートバイ好きであった。崇徳高等学校在学時に二輪免許を取得し、自動車雑誌の購読も始めた。1968年(昭和43年)、上京して東京綜合写真専門学校に入学。カメラマンを目指していたが中退し、1972年(昭和47年)に現代思潮社が開いた美学校(東京・四谷)へ入学し、赤瀬川原平に師事する。渡辺の渾名となる「ナベゾ」は、赤瀬川による講義の題材だった、宮武外骨による『滑稽新聞』のヘタウマな絵師「なべぞ」に由来している。1975年(昭和50年)、美学校の先輩である南伸坊の誘いで青林堂に入社。漫画誌『月刊漫画ガロ』の編集者となり、南とともに面白ければ漫画という表現に囚われぬという誌面作り(面白主義)を打ち出し、『ガロ』の傾向を変える。同年、南の薦めにより『ガロ』8月号掲載の「私の初体験」で漫画家としてデビュー。その後はエロ本や、自販機本『Jam』『HEAVEN』などでも漫画を執筆。1980年(昭和55年)の『ガロ』9月号には「毒電波」という電波攻撃の被害に苦しむ人を描いた漫画を発表し、創作における「電波系」の先駆けとなった。南の退社後は『月刊漫画ガロ』 の編集長を1年半務めたが、自らも青林堂を退社。フリーとなり、独得の「ヘタウマ」漫画と面白エッセイで、多くの雑誌にコラムの連載を持った。また、自らがオートバイ愛好家であることを活かし、1983年(昭和58年)にCBSソニー出版が日本語版を創刊することになったアメリカの老舗オートバイ雑誌「CYCLE WORLD」の中でも連載コラムとその挿絵を担当した。1984年(昭和59年)、コピーライター、イラストレーター、ミュージシャンなど“横文字職業”にある人々のライフスタイルを鋭く観察した『金魂巻』を発表。「一億総中流」と言われた当時、行動すべてがプラス方向に向かい高収入を得られる金持ち「○金」(まるきん)、行動がすべて裏目に出ていつまでも底辺にいる=貧乏な「○ビ」(まるび)を対比させ、その典型像を図解し、同じ職業の中に存在する階層差・所得格差を戯画化した同書はベストセラーとなり、「○金・○ビ」は同年の第1回流行語大賞を受賞した。1985年(昭和60年)、『笑っていいとも!』(フジテレビ)に1年間レギュラー出演。また、また、自動車雑誌「NAVI」には創刊から連載コラムを持ち、開始時のタイトルは「やっぱり自動車は面白い」で、その後、市井の車好きに話を聞く連載「みんな自動車が好き」になった。その連載3回目で、自動車趣味の人を表現する言葉「エンスー」(エンスージアストの略)を発明。1989年(平成元年)からはコラムが「エンスーへの道」となり、連載は1997年(平成9年)3月号まで続いた。1994年(平成6年)には書籍『エンスー養成講座』が刊行。これらの活動により、「エンスー」という言葉は世間に広まった。2003年(平成12年)、肝臓癌の診断を受ける。入院後も病室にノートパソコンを持ち込み、治療と仕事を両立。さらに、医者や看護師の実態から患者のおかしな生態までを独自の観察眼で綴った闘病記録「病院観察記録」として『キン・コン・ガン!―ガンの告知を受けてぼくは初期化された』を刊行した。2005年(平成17年)には妻から生体肝移植をうけるが、2006年(平成18年)に癌が再発。癌は後頭部まで転移し、右目は痺れて見えなくなっていた。それでも、友人である嵐山光三郎の原稿を読み、右手だけでイラストを描き続けた。2007年(平成19年)2月6日午前1時46分、肝臓癌のため東京都新宿区の病院にて死去。享年56。


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1980年代のサブカルチャー文化を牽引した「ナベゾ」こと渡辺和博。素朴で独特な「ヘタウマ」イラストと軽妙な文章で人気を博し、特に市井のさまざまな職業の人々を分析して評した「○金・○ビ」は流行語となった。しかし、「ユルい若者」「ガマン汁」といった造語や、雑誌の企画「スレスレ痴漢報」など、あの時代特有の「軽薄さ」「悪ふざけ」が溢れるものも多くあり、今の時代だったら炎上は避けられなかったであろう。そうした時代が到来する前に世を去り、今や知る人ぞ知る存在となってしまった渡辺和博の墓は、東京都国分寺市のメモリアルガーデン国分寺にある。洋型の墓には、渡辺のデザインと思しき絵と「ワタナベ」の文字が刻まれ、その下に車のモニュメント、下部に墓誌が刻む。戒名は「春光院乗雲和同居士」。

# by oku-taka | 2025-07-13 23:30 | 芸術家 | Comments(0)

蜷川幸雄(1935~2016)

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蜷川 幸雄(にながわ ゆきお)

演出家
1935年(昭和10年)〜2016年(平成28年)

1935年(昭和10年)、埼玉県川口市本町に生まれる。華やかなことが好きな母親の影響で、幼少期から歌舞伎、文楽、オペラ、バレエなどの観劇に出かけ、舞台に親しんできた。成績も優秀で、開成中学、高等学校へと進学。しかし、高校一年から二年への進級に失敗して留年。卒業後は画家を志して東京芸術大学美術学部を受験するが失敗。将来の進路に迷っていた時、偶然「劇団青俳」による安部公房『制服』の公演に接し、衝撃を受けて青俳に参加する。ここで、演出家による「芸術研究会」の講義を受け、演出の際にそれぞれの台詞の背後にどういう行動があるか分析する「サブテクスト」や戯曲分析を学び、以降映画を見たり撮影現場で監督と接するなどし、夜でも枕元にノートを置いて思いついたサブテクストを書き込むなど、独学で演出を身につけていく。1967年(昭和42年)、蟹江敬三ら青俳の若手俳優を集め、アトリエ公演『戸口の外で』で初の演出を担当。その後、友人で劇作家の清水邦夫に創作劇を依頼し、清水は『真情あふるる軽薄さ』を書き上げた。しかし、青俳は蜷川演出による同作の上演に難色を示し、これを機として1968年(昭和43年)に青俳の蟹江敬三、石橋蓮司、後に妻となる真山知子らと「劇団現代人劇場」を結成。1969年(昭和44年)、『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビューを果たした。当時はアングラ・小劇場運動盛んな時期であり、新宿文化劇場での現代人劇場の夜間公演は、若者層を中心に人気を集める。しかし、劇団員の中に70年代安保の街頭デモにのめりこむ者や配役を巡って不満を言う役者が現れたことで、1971年(昭和46年)11月に劇団現代人劇場を解散。しばらくは子育てに専念し、妻が女優として働く日々を送ったが、1972年(昭和47年)に清水、蟹江、石橋とともに劇結社「櫻社」を結成。同年秋の旗揚げ公演『ぼくらが非情の大河をくだる時』で、岸田戯曲賞(後の岸田国士戯曲賞)を受賞した。しかし、1974年(昭和49年)、5月に日生劇場で行われる『ロミオとジュリエット』の演出を東宝演劇部から申し入れされて快諾。大劇場を活かしたダイナミックな演出は好評となったが、商業演劇で演出したことで櫻社の劇団員から批判が集中。同年8月には、それまで櫻社の公演に関わった俳優・スタッフ30人ほどが集まって劇団総会が開かれ、蜷川の商業演劇の演出を巡って反対意見が噴出。全員が反対する中で蜷川は孤立し、櫻社は解散となった。そんな蜷川を見かねた劇作家の唐十郎から誘われ、1975年(昭和50年)に『唐版・滝の白糸』で演出を担当。以降は商業演劇に活動の場を移し、鮮烈なヴィジュアルイメージで観客を劇世界に惹き込む演出方法を展開。また、置いてあった立派な演出家の椅子は使わず、床に新聞紙を敷いて座り、怒鳴ったり罵声を浴びせたりしながら、稽古場を駆け回ってダメ出ししたりしていくスタイルは話題となり、「口よりも手よりも先に、物(靴や金属製の灰皿など)が飛んでくる」と言われる程であった。一方で躁うつ病を患っていた俳優には穏やかな表情で見守るなど、人情的で心優しく「他人に対しても同様に、自分に対しても厳しい」姿勢で仕事に取り組んでいたため、数多くの俳優やスタッフから慕われた。1976年(昭和51年)、『近代能楽集 卒塔婆小町』を演出。このときに主演を務めた平幹二朗は蜷川作品の常連となり、平を女形として起用した『王女メディア』、突然演歌を歌う「こまどり姉妹」が登場する『ハムレット』、舞台に仏壇を据えて設定を安土桃山時代にした『NINAGAWAマクベス』など、蜷川と平のコンビは演劇界で確固たる地位を築いた。また、ギリシャ悲劇やシェークスピアを日本人にも分かりやすいよう大胆に視覚化した演出は話題となり、いずれも人気を得た。1979年(昭和54年)には帝劇で初演された秋元松代作『近松心中物語』が大ヒットし、同作で菊田一夫演劇賞を受賞した。このとき、梅川役を務めた太地喜和子から「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優をやめてちょうだい」と言われたことから、俳優業をセーブして演出家一本に絞る。1980年(昭和55年)、『海よ、お前が - 帆船日本丸の青春』で映画監督デビュー。1983年(昭和58年)、『王女メディア』でローマやアテネなどを巡演する初の海外公演を行い、成功を収める。以降、毎年のように海外公演を重ね、「世界のニナガワ」と高く評価されるようになった。1984年(昭和59年)、「GEKISHA NINAGAWA STUDIO(現在のニナガワ・スタジオ)」を結成。1987年(昭和62年)、イギリス・ロンドンのナショナル・シアターで上演した『NINAGAWA・マクベス』が大評判となる。同年、英国ローレンス・オリヴィエ賞演出部門にノミネートされる。1988年(昭和63年)、『テンペスト』と『NINAGAWA・マクベス』で第38回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。1991年(平成3年)、『タンゴ・冬の終わりに』をイギリス人キャストによって送る『Tango at the End of Winter』で演出を担当。ロンドンで2ヶ月間の公演を行い、英国俳優と日本人スタッフによる日本の現代劇が、商業演劇街であるウェストエンドで長期公演されたことは画期的な出来事として話題を呼んだ。1992年(平成4年)、ロンドン・グローブ座芸術監督陣の一員となる。また、エディンバラ大学の名誉博士号を授与された。同年、小澤征爾の指揮によるリヒャルト・ワーグナー作曲の歌劇『さまよえるオランダ人』で演出を担当。1993年(平成5年)、桐朋学園大学短期大学部(現在の桐朋学園芸術短期大学)芸術科演劇専攻の教授に就任。1996年(平成8年)、読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞。1998年(平成10年)、彩の国さいたま芸術劇場のシェイクスピアの全作品を上演するプロジェクト「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の芸術監督に就任。1999年(平成11年)、東京のシアター・コクーンの芸術監督に就任。 同年、松尾芸能賞の大賞と毎日芸術賞を受賞。また、『青の炎』で19年ぶりに映画監督を務める。2000年(平成12年)、『リチャード三世』と『リア王』の演出で第41回毎日芸術賞を受賞。同年、紀伊國屋演劇賞の個人賞、二度目の読売演劇大賞最優秀演出家賞、第70回朝日賞を受賞。2001年(平成13年)、紫綬褒章を受章。2004年(平成16年)、文化功労者に選出。2005年(平成17年)、五代目尾上菊之助(現在の八代目尾上菊五郎)の依頼を受け、菊五郎劇団と組んだ『NINAGAWA十二夜』を演出。シェイクスピアと歌舞伎を見事に融合させた画期的な舞台を創造し、歌舞伎の可能性を飛躍させた演出が認められ、第53回菊池寛賞を受賞した。同年、三度目の読売演劇大賞最優秀演出家賞と大賞を受賞。2006年(平成18年)、彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督に就任。就任後第一に取り組むべき事業として、高齢者劇団「さいたまゴールド・シアター」を旗揚げ。55歳以上の高齢者を対象とし、演劇経験の有無を問わず新たな表現を模索し、個人史をベースにした演劇活動を行った。2010年(平成22年)、文化勲章を受章。2012年(平成24年)、四度目の読売演劇大賞最優秀演出家賞と、二度目の読売演劇大賞の大賞を受賞。2013年(平成25年)、狭心症により心臓バイパス手術を受ける。その後は肝臓などの不調が続いた。2014年(平成26年)、五度目の読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞。同年11月、さいたまゴールド・シアター香港公演の際、滞在先のホテルで下血し緊急入院。チャーター機で帰国する事態となった。長年の喫煙習慣による肺疾患もあり、帰国後は車椅子と酸素吸入器を手放せなくなったが、現場での演出活動は続けた。しかし、2015年(平成27年)12月半ばに軽い肺炎で入院。その後はリハビリに励んでいたが、2016年(平成26年)2月頃から何度も容体が急変。同年5月12日午後1時25分、肺炎による多臓器不全のため都内の病院で死去。享年80。没後、日本政府は生前の蜷川が演劇文化の発展に尽くした功績を讃え、従三位に叙することを閣議決定した。


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「世界のニナガワ」と評された演出家・蜷川幸雄。斬新かつビジュアル的な演出で、盟友の清水邦夫作品をはじめとした現代劇から、ギリシャ悲劇、シェイクスピア、チェーホフなど海外の古典・近代劇に至るまで、手がけた作品は多岐にわたる。特に、2歳違いの平幹二朗とコンビを組んだ作品の数々は世界的にも高く評価され、日本の演劇史に大きな金字塔を打ち立てた。また、鬼の演技指導でも知られ、怒りのあまり靴や金属製の灰皿といった物を投げることでも有名だった。しかし、その怒りの根源には演劇に対する熱情があり、そうした思いが通じていたのか、俳優やスタッフたちからは随分と慕われていた。かつて商業演劇を初めて演出した際、稽古初日までにセリフを覚えてくるように伝えていたが主役以外誰も覚えていない、立ち稽古にサングラスをしていたりサンダルをはいていたりする、乱闘シーンは軽めにやる、本番で声が嗄れるからと小さな声の俳優がいる、など本気で稽古しない俳優たちに激昂し、「そんないい加減な演技をやってるから、商業演劇はなめられるんだよ」と怒鳴ったという。この体験を機として、蜷川の代名詞ともいえる厳しい稽古が確立されたわけだが、これにより藤原竜也や小栗旬といった若い俳優の才能を開花させることにも繋がった。良いものを作るために妥協を許さず、大物俳優であろうが人気スターであろうが関係なく叱り飛ばし続けた蜷川幸雄の墓は、東京都西東京市の本願寺ひばりが丘墓地にある。墓には「蜷川家」とあり、下部に墓誌が刻む。

# by oku-taka | 2025-07-06 22:02 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)

森康二(1925~1992)

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森 康二(もり やすじ)

アニメーター
1925年(大正14年)〜1992年(平成4年)

1925年(大正14年)、鳥取県鳥取市に生まれる。幼少期は日本統治下の台湾で育ったが、中学時代にミケランジェロの伝記を愛読して建築家を志すようになり、1942年(昭和17年)に帰国して東京美術学校(現在の東京芸術大学)を受験。1度目の受験は失敗したが、浪人を経て、2度目の受験で同校の建築科に合格する。しかし、1945年(昭和20年)に召集令状を受けて千葉県の鉄道隊に入隊。戦時中に政岡憲三が演出を手がけたアニメ『くもとちゅうりっぷ』を観て感銘を受ける。その後、九州で終戦を迎え、1946年(昭和21年)に復学。卒業間際に、浅草の映画館でポール・アリーの短編アニメ『マイティマウス』シリーズの『グリーンライン』を観て衝撃を受け、アニメの道へ進むことを決意した。1948年(昭和23年)、政岡憲三に師事し、アニメ映画制作会社「日本動画」に入社。入社後、政岡の『トラちゃんと花嫁』で彩色を担当。次に熊川正雄の『ポッポやさんののんき駅長』で動画を務めた。しかし、日本動画は経営不振が続いており、1949年(昭和24年)に政岡が退社、1950年(昭和25年)には社員は全員解雇となる。25歳にして失業してしまった森は、小学館の学年誌から挿絵の仕事を請け負ったり、家具設計事務所や西武百貨店の宣伝部に勤務するなどして生活費を稼ぎながら、イラストの持ち込みなどをした。1953年(昭和28年)から「日本動画」を再建した「日動映画」のアニメ映画を手がけるようになり、1956年(昭和31年)に正式入社する。同年8月、「日動映画」は東映の傘下に入り、「東映動画(後の東映アニメーション)」が設立。1957年(昭和32年)、東映動画の第1作となる『こねこのらくがき』にメインアニメーターとして参加。非常に丁寧な作画でキャラクターの愛らしさとアニメーションの動きの魅力を存分に魅せつける作風で、その後の数々の動物擬人化アニメの原点とも言える作品となった。同年6月、香港からの持ち込み企画であった『白蛇伝』の制作が発表されると、森は大工原章とともに原画を担当。また、美術大学などにアニメーターとなる人材を求め採用した東映動画一期生達を指導し、後に『ルパン三世』や『未来少年コナン』の作画監督を務めた大塚康生や、『銀河鉄道の夜』を手掛けたアニメーション監督の杉井ギサブローなど日本アニメの基礎を担う人材を育てた。『白蛇伝』の成功後、長編アニメ『こねこのトランペット』を制作する予定だったが、上層部からの横やりが入り、『こねこのスタジオ』へと変更される。さらに、1961年(昭和36年)の『安寿と厨子王丸』では原画を務める会社からリアリティーのある絵を求められ、デフォルメされた絵を得意とする森はストレスで十二指腸潰瘍となり入院。軽度であったが森自身が早期復帰を強く望んだため、手術が行われた。1963年(昭和38年)、東映動画の長編アニメ第6作『わんぱく王子の大蛇退治』において、これまで東映長編の監督を担当してきた藪下泰司に代わり、新東宝出身の新人の芹川有吾が監督に初登板。従来、東映動画内では演出家はコーディネーター的立場だったが、アニメーター出身でない芹川は東映動画に本格的な演出を持ち込み、監督という職制を確立。さらに本作では、作画の絵柄統一を図る日本独特の原画監督(後の作画監督)制度が初めて採用され、森が日本初の作画監督となった。1964年(昭和39年)、十二指腸潰瘍の手術が原因で腸閉塞となる。以降、身体の不調と闘いながらのアニメ制作となる。1968年(昭和43年)、長編アニメ『太陽の王子 ホルスの大冒険』で原画を担当。このとき手がけたヒロイン「ヒルダ」は絶賛され、宮崎駿や奥山玲子といった関係者からも高く評価された。1969年(昭和44年)、『長靴をはいた猫』で2度目の作画監督を担当。同作は高評価となり、このとき描いた主人公の猫「ペロ」は、後に東映動画(東映アニメーション)のシンボルマークとなった。1971年(昭和46年)、東映創立20周年記念作品『どうぶつ宝島』で3度目の作画監督を担当。同年8月、東映社長の大川博が死去。後任として社長に就任した岡田茂は躊躇なく赤字噴出の東映動画の経営改善に踏み切り、激しいリストラを敢行。従業員320名(うち契約者104人)のうち約半数の150人の希望退職を募集。労組は激しく反発し、東映東京撮影所に機動隊が導入されるなど東制労闘争は激化、労使の間で団交が繰り返されたが、希望退職の募集は何度も延期され、のち5カ月間に及ぶロックアウトが敢行され、約120名が退職。その後も訴訟紛争は続き、労使紛争は二年に及んだ。森も会社の理不尽さに腹を立て、長編アニメ作品の仕事を断っていたことから目をつけられ、1973年(昭和48年)に岡田から退社を勧告された。その後、招かれる形でズイヨー映像(後の日本アニメーション)に入社し、テレビアニメ『山ねずみロッキーチャック』の中盤以降の作画監督を担当。しかし、激務の影響で視力が低下。治療法は無く、5年で失明すると診断され、アニメーターとしての余命宣告を受けてしまう。幸い失明は免れたが、激務に耐えられるほどの視力は回復しなかった。1975年(昭和50年)、ズイヨー映像の代表取締役だった本橋浩一が設立した日本アニメーションに移籍。同年、『フランダースの犬』でキャラクターデザインを担当。1978年(昭和53年)には宮崎駿の依頼で『未来少年コナン』に原画担当として参加したが、視力低下に悩まされほとんど描けなかった。1981年(昭和56年)、藪下泰司に招かれ、東京デザイナー学院アニメーション科の講師に就任。1985年(昭和60年)には小田部羊一・奥山玲子夫婦を同校の講師に招き入れた。1989年(平成元年)に3度目の手術を受けて自宅療養に入るが、病身を押して1990年(平成2年)にアニメ『ちびまる子ちゃん』のパイロット版の原画を手がけた。1991年(平成3年)、『おおかみと7ひきのこやぎ』の監督とキャラクターデザインを担当。この頃には癌を患っていたが本人には告知されておらず、その後も次回作に向けて打ち合わせを行っていた1992年(平成4年)9月4日、肝臓癌のため死去。享年67。


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東映動画の草創期から活躍し、「アニメーションの神様」と称えられた森康二。『白蛇伝』や『長靴をはいた猫』といった東映動画を代表する長編漫画映画を多く手がけ、特に『太陽の王子 ホルスの大冒険』のヒロイン・ヒルダと、『長靴をはいた猫』の主人公・ペロは高い評価を得た。また、大塚康生や小田部羊一といった次世代を担うアニメーターを数多く育てるなど、日本のアニメ史に残した功績は非常に大きい。後年は視力の低下と体調不良に加え、デフォルメされた絵を細部まで作り込むことを得意とする森と時代のギャップさが浮き彫りとなり、パイロット版として手がけた『ちびまる子ちゃん』では、それを観た原作者からアニメ化の話を断られてしまうという事態になってしまった。リアルさを追求せず、己の持つ美意識だけを信じ続けた森康二の墓は、東京都東大和市の三光院にある。洋型の墓には「森家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は、「温恭康徳居士」。

# by oku-taka | 2025-06-30 15:14 | アニメーション関係 | Comments(0)

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二代目・桂 小金治(かつら こきんじ)

落語家・タレント
1926年(大正15年)〜2014年(平成26年)

1926年(大正15年)、東京府豊多摩郡杉並町(現在の東京都杉並区)に生まれる。本名は、田辺 幹男。1942年(昭和17年)、帝京商業学校に入学。しかし、1943年(昭和18年)に太平洋戦争のため繰り上げ卒業となり、立川にあった飛行機工場の食堂に勤務となる。1945年(昭和20年)、特別幹部候補生として陸軍少年戦車兵学校に入校するが、在校中に終戦。金もなく、着物を着てできる職業ということで落語家を志望し、落語家になるため新宿末廣亭の楽屋に通い、誰にも入門できないまま、前座(後の五代目春風亭柳昇)の下でさらに下働きをする。落語家は前座の弟子を食べさせる慣例があるが、当時は食糧事情が悪すぎるため、前座一人分の食糧を捻出できる落語家がほとんどいなかった。しかし、よく働く田辺青年の姿に、当時の日本芸術協会副会長・ニ代目桂小文治が目をつけ、小文治のほうから入門をもちかけた。小文治はもともと上方噺家であり、常に関西弁のみをしゃべるため入門を躊躇したが、副会長の権勢は傍目にもすごいように見え、1947年(昭和22年)に入門を決意。小文治より"桂 小竹〟の初名(前座名)をもらう。小文治は「噺はよそ行って習うて来い。わしからは芸人としての生き方だけ覚えていったらええのや」と言い、小金治にいっさい稽古をつけなかった。そのため、『三方一両損』は八代目三笑亭可楽から、『蛇眼草』は三代目桂三木助から、『渋酒』は五代目立川ぜん馬から、『禁酒番屋』は五代目柳家小さんからそれぞれ習った。特に五代目柳家小さんには、ひょんなことから真打になったばかりの小さんの高座を観たときに「なんとこの人はうまいのだろう」と驚き、小さんから稽古をつけてもらうべく、師匠の小文治に頼んだ。すぐさま小文治自ら小さん宅に電話をかけ、小金治への稽古を依頼した。若き小さんにとって小金治は「最初に落語を教えた人」であり、小金治は「5代目柳家小さんの弟子」と自ら名乗るようになる。1949年(昭和24年)、二つ目に昇進し、"桂 小金治〟を名乗る。その後、小金治のファンでもある松竹大船撮影所の川島雄三監督が小金治の出演していた東京・神田の寄席『立花』を訪れ、そこで川島から直々に映画の世界に誘われる。川島は師匠の小文治に「良い噺家を一人ダメにします。お許しください」と手をつき、1952年(昭和27年)に映画『こんな私じゃなかったに』(松竹大船)で俳優デビューする。以降、川島により起用され続け、単発契約で何本か出演。いずれも好評で、川島の所属する松竹は小金治と専属契約を結びたいと考え、小金治に対して映画出演一本あたりのギャラ5万円を提示。師匠の小文治に「契約したほうがいいか断るべきか」を聞きに行くと、即座に「アホ!落語やってたら、そんな金、一生かかってもようもらえんで」と返され、松竹と専属契約を結ぶに至った。しかし、正式に俳優となってからは長い日数拘束され、スケジュール上なかなか寄席に出られないことから、日本芸術協会から事実上脱会状態となった。以降、フリーの落語家となり、落語家としてはどこの協会にも所属しなかった。しかし、師弟関係を大事にし、小金治は終生にわたり小文治を師匠と仰いだ。小金治が名を返そうと小文治のもとを訪問すると「アホ!師匠に『名を返す』なんてお前いつから偉くなったんじゃ?師匠が名を取り上げるのでもあるまいに…。小金治、これからもしっかりやりや」と、小金治に名を返上しなくていいと告げたため、落語家としての名を返上せずに活動することになる。松竹時代の川島は長く小金治を起用し続けたが、1954年(昭和29年)に川島が日活に単身移籍し、コンビを解消。だが、その川島が今度は東京映画(東宝系)に移ると、小金治も1959年(昭和34年)に東宝へ移籍し、再びコンビを組む。1961年(昭和36年)、今度は小金治が日活に単身移籍し、再度コンビを解消。日活ではスターとして迎えられ、1962年(昭和37年)から1963年(昭和38年)にかけて4本の主演作を残し、1965年(昭和40年)まで在籍した。一方、1955年(昭和30年)からテレビにも進出し、フジテレビ系の『オリンピックショウ 地上最大のクイズ』や『日清ちびっこのどじまん』では司会も務めた。1965年(昭和40年)5月4日、家族で房総半島にドライブへ行ったその帰り、途中で小学生の男女を渡らせてあげていたが、後ろから軽自動車が小金治の車を含む停まっていた3台を追い越して走行し、この小学生にぶつかってしまった。小学生2人は怪我をし、小金治はその小学生の入院先に見舞いへ訪れらようになったが、あるとき小金治は小学生から「あのお兄ちゃん(軽自動車のドライバー)も謝ってるから、あまりあのお兄ちゃんのことを怒らないで」と言われたことに感銘を受け、涙ぐんだことがあった。このときから小金治は交通事故防止キャンペーンに力を入れようと思い立ち、どこかアピールの場は無いかと探っていたところ「テレビで話してみたらどう」と妻に後押しされたことから、NET(現在のテレビ朝日)のワイドショー番組『木島則夫モーニングショー』に出演し、このエピソードを涙ながらに話した。放送後、モーニングショーのスタッフに「すごい反響だ」と言われ、後に榎本猛の降板のために後任司会者を探していたアフタヌーンショーのスタッフから「あの時の正義感を以って出ていただきたい」とオファーを受け、同年4月5日に小金治司会による『ただいま正午・アフタヌーンショー』がスタートした。小金治のメイン司会起用をめぐっては、当時NETの要職に就いていた朝日新聞社・NHK出身者を中心に、「マスコミ界をリードする公共性の強いテレビの聖域に落語家はなじまない」「ニュースの真実を伝えるべきテレビ局として、ニュース性の強い『アフタヌーンショー』の司会者に落語家や漫才師はふさわしくない」といった反対の声が局内から上がっていたという。しかし小金治は、モーニングショーの木島則夫と同じく、視聴者と同じ立場を心掛けながら司会を担当。さらに、木島に輪を掛けて感情を発露した司会振りで、視聴者に向けて大きな訴求力を発揮した。1966年(昭和41年)1月からは『桂小金治アフタヌーンショー』に改題され、小金治のネームバリューやキャラクターを前面に押し出すようになる。小金治の「怒りのコーナー」では、対象者をスタジオに呼び、その対象者が意見を交わし合って、小金治はその意見を静かに聞いている。そして、フロアディレクターが小金治に小声で「怒れ!」の指示を出すと、突然のように小金治が「すねっかじりのくせに、甘えたこと言うんじゃない!」や「親を何だと思ってるんだ!」と言う風に本気で罵声を発していた。この番組で"怒りの小金治〟の異名をとるようになった。また、田村魚菜の料理コーナーや指圧治療の権威であった浪越徳治郎の指圧コーナーも人気となった。特に小金治と負けず劣らずの強烈なキャラクターの持ち主である浪越は一世を風靡した。こうしたコーナーのおかげで最高視聴率は20%という当時の平日のお昼の番組としては驚異的なものとなり、アナログUHF新局開局と相まって、クロスネット局や他系列局でのネットも増加していった。しかし、小金治が呼びつけて怒鳴りつけた相手の多くが若者であったため、次第に流行りだしていたラジオの深夜番組に「恨み」の手紙が届き、これを汲み取ったDJを介して非難されるようになった事から司会としての進め方に疑問が示される。さらに、視聴者の主婦からも批判の声が多くなり、「悪人を罵倒するような小金治さんの司会は不愉快です」や「もっと冷静に司会して下さい」や「まじめなのはいいけど、怒ってばっかりなのはいやです」「もう少し今の若者の気持ちを理解して欲しい」などの批判を受け、とある生放送中に小金治が突然涙したことがあった。これが小金治が勇退するきっかけとなり、1973年(昭和48年)8月3日の放送をもって7年半にわたる番組の司会を降板した。1975年(昭和50年)、日本テレビ系のバラエティ番組『それは秘密です!!』で司会を担当。同番組の人気コーナーであった「ご対面コーナー」では、視聴者が探したかった肉親や兄弟姉妹と再会する「視聴者の秘密さん」が登場し、再会を果たした者同士は勿論、司会の小金治や解答者も感極まる場面が多々見られた。感動のあまりもらい泣きする小金治の姿は視聴者の共感を誘い、前述とは打って変わって「泣きの小金治」と呼ばれた。1987年(昭和62年)9月29日の放送をもって番組は終了したが、「視聴者の秘密さん」のみが朝のワイドショー『ルックルックこんにちは』金曜のコーナー「桂小金治の涙のご対面」として続けられた。小金治本人がコーナー進行役を務め、テーマ音楽もそのまま使われていた。1981年(昭和56年)、当時の落語芸術協会副会長・春風亭柳昇の要請に応える形で、9月中席の鈴本演芸場・落語芸術協会の芝居「のせもの」として高座に復帰。当時の副会長・春風亭柳昇の要請に応えた。その後、2回ほど定席に上がった後、1983年(昭和58年)6月14日の第二回本多寄席に出演。以降、国立演芸場や横浜にぎわい座などを借り切って独演会形式で活動を再開。また、既設の名人会に呼ばれることもあった。2000年(平成14年)以降は放送メディアに登場する機会は少なくなっていたが、全国各地で講演活動を展開していた。2011年(平成23年) 、高座からの引退を宣言。2012年(平成24年)頃から認知症を発症。2014年(平成26年)8月初めには肺炎で東京都内の病院に入院。同年9月に川崎市内の病院に転院したが、次第に体力が低下。10月には肺炎が悪化し、11月3日午後4時45分、肺炎のため神奈川県川崎市麻生区の病院で死去。享年88。


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「怒りの小金治」「泣きの小金治」の異名をとった桂小金治。落語家としてデビューしながら、映画、テレビ番組の司会とマルチに活躍し、そのどれもを器用にこなした。落語家としては、七代目立川談志から「軽くて、うまくて、人気もあった」「芸風やあの強情な性格から言って、啖呵なら啖呵はこうだと、崩すことを許さず、きちんとした古典落語を伝えていけたのに、兄さん責任あるよって、直に言いましたよ」と談志流に褒め称えられ、映画俳優としては、川島雄三にその才能を見出され、川島作品の常連として日本映画の黄金期に大活躍。商店の主人あるいは御用聞き、またはドジな青年など、高度経済成長期を懸命に生きる庶民を演じさせたら実に上手い人であった。司会者としては、その怒りっぷりで主婦層から文句の投書が来るほどであった「怒りの小金治」時代から打って変わり、「泣きの小金治」として親しみやすい人柄と涙もろい一面が視聴者の共感を呼んだ。歯切れの良い語り口と実直な性格、そして人情味あふれる人柄が印象的だった桂小金治の墓は、東京都狛江市の慶長寺にある。洋型の墓には「田邉家之墓」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「慈笑院幹譽演道居士」。

# by oku-taka | 2025-06-22 20:15 | タレント | Comments(0)

池田駿介(1940~2010)

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池田 駿介(いけだ しゅんすけ)

俳優
1940年(昭和15年)〜2010年(平成22年)

1940年(昭和15年)、殺陣師の大内龍生の次男として京都府に生まれる。本名は、池田 紀生(いけだ のりお)。幼少期より神奈川県川崎市で過ごしたが、子供の頃から少年剣劇団の一員として全国を巡業し舞台に立っていた。中学進学後は芝居から遠ざかっていたが、高校生になると再び芸能界に憧れる気持ちが強くなり、大学進学と同時に劇団文化座の研究生となる。やがて、母親の知人だった東映のプロデューサー・高橋昌一の推薦で、1962年(昭和37年)に東映ニューフェイス第10期生となる。ニューフェイスに合格後は俳優座預かりという形になり、しばらくは時代劇の舞台に出演していた。1963年(昭和38年)、東映映画『白い熱球』でデビュー。その後はテレビドラマを中心に活動し、同年10月より放送の『戦友』(NET)ではレギュラーを一年間務め、翌年『風来物語』で主役の書生を演じる。初主演となった『風来物語』であったが、当時のNETはネット局が東京と長崎ぐらいしかなかったため、池田自身が有名になるまでには至らなかった。その後、東映を離れ、天知茂のプロダクション設立に参加し、たつみプロダクションに所属。1969年(昭和44年)からは国際放映制作『鬼平犯科帳』に2年間レギュラー出演した。1971年(昭和46年)、円谷プロでウルトラシリーズが再開されることを聞きつけ、マネージャーを通して円谷一に相談し、『帰ってきたウルトラマン(TBS)でレギュラー・南猛隊員を演じることとなる。翌年には再び円谷プロの『緊急指令10-4・10-10』(NET)に花形一平役でレギュラー出演。1973年(昭和48年)には、古巣の東映で『人造人間キカイダー』の続編が制作されることを知り、プロデューサー・吉川進に自ら売り込みをかけ、『キカイダー01』の主人公・イチロー役に抜擢される。『01』終了後は『キカイダー』とともにハワイ州のKIKU-TVに輸出され、初放送時は人気が出ずに打ち切られたが、その後に日本国内を凌駕する一大ムーブメントに発展。キカイダー=ジロー役の伴大介とともに現地のイベントに招かれ、超満員のファンに迎えられた。一方、俳優業の傍ら、東京・三軒茶屋で「ゼロワン・チェーン」という大判焼きの店を経営し、「巡礼」に訪れるファンも多かった。1990年代には洋服メーカー・ゼビーのレギュラーキャラクターを務め、CMにも出演。晩年は主にCMや舞台のほか、『帰マン』や『キカイダー』関連のイベントなどで活躍していた。2009年(平成21年)1月、体調に異変を感じて検診。2月初めに胃癌と判明し、中旬には手術を行った。術後は医師も驚くほどの回復ぶりで、リハビリも順調だったが、同年9月に体調が悪化。抗がん剤の治療を施したが、その後リンパに転移。11月には一時危篤状態になったが、奇跡的に回復。その後、一進一退で入退院を繰り返していた。2010年(平成22年)6月11日午前3時10分、胃癌のため千葉県の病院で死去。享年69。


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多数の特撮作品に出演し、子どもたちの人気者となった池田駿介。『帰ってきたウルトラマン』の南隊員を皮きりに、『緊急指令10-4・10-10』の花形一平、そして『キカイダー01』の主人公・イチロー役と大活躍を見せ、その他の特撮作品にもあらゆる役でゲスト出演するなど、昭和を代表する特撮俳優の一人であった。一方、気さくな人柄としても知られ、経営していた店に特撮ファンが来店しても誠実に対応し、また晩年まで特撮イベントにも積極的に顔を出していた。それだけに、69歳というあまりに早すぎる旅立ちには多くのファンが涙した。「子ども番組に出たら役者として成功しない」と言われた時代に、自ら売り込んで特撮の世界に飛び込み、多くの子どもたちから慕われるお兄さんとなった池田駿介の墓は、東京都稲城市の新ゆり天望の丘墓苑にある。洋型の墓には「駿」とあり、『キカイダー01』のマークの下部に墓誌が刻む。

# by oku-taka | 2025-06-15 15:39 | 俳優・女優 | Comments(0)