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土屋文明(1890~1990)

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土屋 文明(つちや ぶんめい)

歌人
1890年(明治23年)〜1990年(平成2年)

1890年(明治23年)、群馬県群馬郡上郊村(現在の高崎市)に生まれる。祖父は賭博で身を持ち崩し強盗団に身を投じて北海道の集治監で獄死したと伝えられており、家族は村人たちから冷たい目で見られ、幼い文明にとって故郷の村は耐えがたい環境であった。父は農家の傍ら生糸や繭の仲買で生計を立てていたが、村に居づらく、村を出入りして商売をしていた。3歳から伯母の嫁ぎ先で育ち、幼少期に伯母の夫から俳句を教わった。1904年(明治37年)、旧制高崎中学校(現在の群馬県立高崎高校)に入学。在学中から蛇床子の筆名で俳句や短歌を『ホトトギス』や『アカネ』に投稿。卒業後に恩師・村上成之の紹介により伊藤左千夫を頼って上京。短歌の指導を受け『アララギ』に参加。さらに左千夫の好意により、第一高等学校文科を経て東京帝国大学(現在の東京大学)に進学。東大在学中には芥川龍之介・久米正雄らと第三次『新思潮』の同人に加わり、井出説太郎の筆名で小説・戯曲を書いた。1916年(大正5年)、文学部哲学科(心理学専攻)を卒業。1917年(大正6年)、『アララギ』選者となる。1918年(大正7年)、長野県の諏訪高等女学校に教頭として赴任。1920年(大正9年)には同校の校長となる。1922年(大正11年)、松本高等女学校の校長に転任。1924年(大正13年)、木曽中学校への転任を拒否して上京。法政大学の予科教授となる。1925年(大正14年)、第一歌集『ふゆくさ』を出版。1926年(大正15年)、『信濃教育』の編集主任となる。1930年(昭和5年)、信州を去って上京する頃からの歌を収めた歌集『往還集』を発表。自然主義文学の影響によるともいわれる、露悪的と見えるほど友人や肉親を突き放した冷静な視点の歌い方は、この歌集以降に歌壇に一般的になり、歌人としての地位を確立する。同年、斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引き継ぎ、アララギ派の指導的存在となる。また、この頃から万葉集の研究に打ち込み始め、1932年(昭和7年)に『万葉集年表』を発刊した。1935年(昭和10年)、都市社会のめざましい変貌を破調も怖れずに即物的なリアリズムで描いた『山谷集』を発表。第二次世界大戦中は日本文学報国会短歌部会の幹事長を勤め、1942年(昭和17年)には太平洋戦争へと向かう日本社会の動きを描いた『六月風』・『少安集』を発表した。1944年(昭和19年)7月から約5か月中国大陸を視察。これを基にした歌集『韮菁集』を1945年(昭和20年)に出版した。終戦間近の同年5月、東京・青山の自宅が空襲により焼失。このため群馬県吾妻郡原町(現在の東吾妻町)川戸に疎開し、終戦をはさんで6年半同地で生活した。疎開先からもしばしば上京して『アララギ』の復刊につとめ、9月号にて復刊。 1946年(昭和21年)の『アララギ』1月号から文明選欄がスタートし、優れた指導力を発揮。文明門下として近藤芳美、高安国世、吉田漱、渡辺直己、吉田正俊、岡井隆らを輩出した。1949年(昭和24年)、『万葉集私注』の刊行を開始。1950年(昭和25年)、『読売新聞』の歌壇選者となる1952年(昭和27年)、明治大学文学部教授に就任。1953年(昭和28年)、『万葉集私注』で日本芸術院賞を受賞。同年、宮中歌会始の選者となる。1962年(昭和37年)、芸術院会員に選出。1968年(昭和43年)、『青南集』『続青南集』で読売文学賞を受賞。1984年(昭和59年)、文化功労者に選出。1985年(昭和60年)、『青南後集』で第8回現代短歌大賞を受賞。1986年(昭和61年)、文化勲章を受章。歌壇の最長老として活動し、晩年まで創作活動を続けていたが、1990年(平成2年)10月に東京都渋谷区千駄ヶ谷の代々木病院に入院。同年12月8日午後3時58ふん、肺炎のため死去。享年100。没後、従三位に叙された。


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アララギ派の歌人として100歳まで生きた土屋文明。歌人としては、写実主義短歌の推進者として独自の歌境を開拓。斎藤茂吉から編集発行人を引き継いだ『アララギ』では、戦後復刊に奔走するとともに、指導者として近藤芳美、岡井隆といった後進を育成した。万葉研究の第一人者としても活躍し、永年の実地踏査を踏まえて万葉を文学作品として捉え、一般の人に向けてやさしく説いた。土屋文明の墓は、埼玉県比企郡の慈光寺墓地にある。墓には墓誌が刻まれ、墓域の右端には土屋の作品「亡き後を 言ふにあらねど 比企の郡 槻の丘には 待つ者が有る」の碑が建つ。戒名は「孤峰寂明信士」。

# by oku-taka | 2024-09-02 20:23 | 文学者 | Comments(0)

柴田睦陸(1913~1988)

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柴田 睦陸(しばた むつむ)

声楽家
1913年(大正2年)〜1988年(昭和63年)

1913年(大正2年)、岡山県児島郡興除村(現在の岡山市南区)に生まれる。歌手を志すも両親から猛反対され、宝物のベートーヴェンの彫刻一つを握りしめ家を飛び出す。秋吉宗鎮に師事し、草むしりなどの家事の手伝いをしながら住み込みで声楽の指導を受けた。1934年(昭和9年)、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学。ここでは、薗田誠一、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒ、クラウス・プリングスハイムに師事した。在学中の1935年(昭和10年)、ポリドール・レコードから宗近明として歌手デビュー。『上海リル』、『セントルイス・ブルース』などを吹き込む。1938年(昭和13年)、東京音楽学校声楽科を卒業。同時に、ビクターレコードへと移籍。本名の柴田睦陸で、『国民進軍歌』、『ラ・クンパルシータ』、『出せ一億の底力』、『朝』、『朝だ元気で』、『大東亜決戦の歌』など、流行歌、国民歌謡、軍歌の多数なジャンルの曲を吹き込む。一方、クラシック音楽のテノール歌手としての活動も行なった。1942年(昭和17年)1月、応召されて浜松飛行隊に入隊。1946年(昭和21年)3月の復員後はビクターレコードの歌手に復帰するが、同年11月に長門美保歌劇研究所 プッチーニ『蝶々夫人』のピンカートンでオペラデビューを果たす。徐々にオペラへと傾倒していき、NHK交響楽団との共演をはじめ、藤原歌劇団のオペラに数多く参加し、戦後の日本オペラ界をリードする役割を担う。1949年(昭和24年)、東京芸術大学の助教授に就任。なり、のち教授に就任。音楽教育者として幾多の後進を指導・育成し、後に同校の教授となった。同年12月にはオペラ研究部(あるいは「東京芸術大学歌劇研究部」)の部長となる。1952年(昭和27年)、ソプラノの三宅春惠、アルトの川崎靜子、バリトンの中山悌一を合わせた4人を中心に、志を同じくする12名の声楽家と、事務局の河内正三とともに、17名で新たなオペラ団体の創設に向かう。「先人のオペラ活動を第1期に自らは第2期の中心として気概を新たに」という趣旨から「二期会」(現在の東京二期会)と命名し、1952年(昭和27年)2月15日に結成披露・基金募集の「ヴォーカル・コンサート」を行なった。同年2月25日から28日にかけて、日比谷公会堂でプッチーニ『ラ・ボエーム』をマンフレート・グルリット指揮の東京交響楽団演奏で初演。この際の歌詞は宗近昭名義の訳詞による日本語の口語訳で行われ、柴田は主役ロドルフォを歌っている。以後、生涯にわたり二期会の中心人物として活動。宗近昭としては訳詞を手掛け、オペラの日本語上演の定番となったものが多い。柴田睦陸としては、歌手としてオペラの舞台に立ちながら、演出、歌唱指導、指揮、制作、プロデューサー、総監督、総指揮等も数多く務めた。また、旺盛な評論活動を展開。とりわけ発声法について論じ、日本声楽発声楽会の発起人および会長を務めた。1977年(昭和52年)、紫綬褒章を受章。1980年(昭和55年)、東京芸術大学教授を退官し、活水女子短大教授を務めた。1985年(昭和60年)、勲三等旭日中綬章を受章。1988年(昭和63年)2月19日午後3時49分、肝不全のため東京都新宿区の東京いかだいがぬ病院で死去。享年74。没後、正四位に叙せられた。


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戦後日本のオペラ界をリードし続けた柴田睦陸。東京二期会の創立者のひとりとして、初期の公演では主役のテナーを多く担当。特に『カルメン』のドン・ホセ伍長役は当たり役となった。また、宗近昭の名で日本語訳も手がけ、今日オペラの定番となっている作品の多くは彼の訳によるものである。まさに、戦後の日本オペラ界の中心人物であったが、それ以前に流行歌手としても活躍し、国民歌謡『朝だ元気で』や戦時歌謡『出せ一億の底力』をヒットさせたことは特筆しておきたい。柴田睦陸の墓は、埼玉県川越市の川越聖地霊園にある。墓には「柴田家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「釋梵音」。

# by oku-taka | 2024-08-11 23:45 | 音楽家 | Comments(0)

深沢七郎(1914~1987)

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深沢 七郎(ふかざわ しちろう)

作家
1914年(大正3年)〜1987年(昭和62年)

1914年(大正3年)、山梨県東八代郡石和町(現在の笛吹市石和町)に生まれる。その後、石和小学校から旧制山梨県立日川中学校(現在の山梨県立日川高等学校)に進学。しかし、成績が振るわなかったことから、小学生の時の担任の家へ預けられることになる。ここでの生活が深沢の転機となり、担任の家が農家だったため農業に親しむようになり、ギターや囲碁、映画などといった娯楽にも興味を持ち始める。その一方、アレクサンドル・デュマの『椿姫』、アベ・プレボーの『マノン・レスコー』を読んで感動し、詩作を始める。中学を卒業すると、東京の薬店、パン屋に住み込みで働きますが、いずれも1週間ほどで退職。転々と生活する中、本格的にギターを習い始め、やがてギタリストとなる。1934年(昭和9年)、胸を病み、同年に受けた徴兵検査で不合格となって徴兵を免れる。1939年(昭和14年)、第1回ギターリサイタルを開催。その後、17回にわたって公演を行った。1949年(昭和24年)、「ジミー・川上」の芸名で旅回りのバンドに入る。1954年(昭和29年)、「桃原青二」名義で日劇ミュージックホールに出演。ギタリストとして様々な公演に参加した。一方で、うばすてやま(姥捨て山)をテーマにした『楢山節考』を執筆。山梨県境川村大黒坂(現在の笛吹市境川町大黒坂)の農家の年寄りから聞き、それを肝臓癌を患った実母の「自分自らの意思で死におもむくために餓死しようとしている」という壮絶な死に重ね、老母・おりんと息子・辰平という親子の登場人物を創造した同作を、日劇ミュージックホールで働いていた丸尾長顕が読み、中央公論新人賞に応募するように勧めた。同作は第1回受賞作に選ばれ、三島由紀夫、伊藤整、武田泰淳、正宗白鳥といった多くの作家や評論家から反響をもって迎えられ、この一作で深沢七郎の名が有名となった。1958年(昭和33年)には戦国時代の甲州の農民を描いた『笛吹川』を発表し、こちらも評判となって映画化された。1960年(昭和35年)、『中央公論』に『風流夢譚』を発表。同作は全体的にシュールな展開で、主人公が見た夢の話であるという設定ではあったものの、「ミッチー」「美智子妃殿下」「昭憲皇太后」「ヒロヒト」などの呼称も見られ、「左慾」による天皇と皇后、皇太子と皇太子妃の処刑の場面が登場し、主人公が皇太后を殴る・罵倒するといった内容であったため、名誉を傷つけるものとして宮内庁が民事訴訟を検討するなど、発表当初より物議を醸した。皇室を冒涜しているような「毒のある革命幻想譚」に対し、「不敬」だという抗議が日に日に強まり、右翼団体が中央公論社に直接押しかけるなど、社では出版業務に支障が出るまでになった。しかし、『風流夢譚』は意図された支離滅裂なストーリーであり、革命らしき騒動が起きた都心の人々や皇居前の出来事が描かれているが、最後までなんだかわからないことが進行中という夢の中の世界が劇画風に語られ、60年安保の批判的パロディや、挫折後のシラケた世相への皮肉であったり、皇后のスカートに英国製の商標が付いているなど、皇室批判あるいは野卑表現であったりと、作者が諷刺や滑稽小説を企図した作品であった。中央公論社でも当初は(内容の如何に関わらず)言論の自由・表現の自由は守るという立場であったが、右翼団体の度重なる強い抗議や圧力が強まったため、次号に読者諸賢に深く遺憾の意を表わす「謹告」を掲載し、竹森清編集長と橋本進次長が更迭となった。その後、右翼少年が中央公論社の嶋中社長宅に侵入して社長夫人や家政婦を殺傷する「嶋中事件」が起こる事態となり、社は「お詫び」を全国紙に掲載して全面謝罪し、竹森にも退社処分となった。嶋中社長は「くだらない小説」で載せる気はなかったと『風流夢譚』を酷評した。一連の批判に衝撃を受けた深沢はしばらく筆を絶ち、1か月間都内で警護されつつ身を潜めた後に記者会見を開き、「下品なコトバ」を使い「悪かったと思います」と謝罪。その後、世間から姿を消し、1965年(昭和40年)まで地方を転々とする放浪(逃亡)生活をすることになった。1965年(昭和40年)11月8日、埼玉県南埼玉郡菖蒲町(現在の久喜市)に落ち着き、上大崎の見沼代用水近くに2人の若者を連れて「ラブミー農場」を開き、以後そこに住んだ。1968年(昭和43年)10月31日、心筋症による重度の心臓発作に見舞われ、生死の境をさまよった。以後、亡くなるまでの19年間、闘病生活を送ることとなる。1971年(昭和46年)、心臓病を患ったことから、農閑期に暖かい東京で商売をしたいという動機により、東京都墨田区東向島の東武鉄道・曳舟駅の近くで今川焼屋「夢屋」を開く。8日間他店に修行へ行った後に開店し、最初は1人でやりくりするつもりだったが、お客が殺到したため仕込みにアルバイトを雇ったり、知人に焼きに来てもらったりするなどの繁盛となる。1972年(昭和47年)の歳暮期には、友人の口添えで池袋の百貨店にも期間限定で出店し、深沢自身も実演販売するなどしたが、1973年(昭和48年)に原材料の高騰などもあって閉店となった。1980年、『みちのくの人形たち』で第7回川端康成文学賞に選ばれたが、「賞を得ることは殺生の罪を犯すこと」を理由に受賞辞退。しかし、1981年(昭和56年)に同作品で谷崎潤一郎賞を受けた。1987年(昭和62年)8月18日早朝、ラブミー農場のリビングルームにあった愛用の床屋椅子に座って昼寝をしていた。付き人が用を足しにほんの数分離れ、戻ってきたときには心不全のため亡くなっていた。享年73。告別式では、出棺の直前に「お暑い中をありがとう。お別れに歌を聴いてください」という深沢の声が流れ、遺言に従いフランツ・リストの『ハンガリー狂詩曲』やエルヴィス・プレスリー、ローリングストーンズなどをBGMに自ら般若心経を読経したテープや、自ら作詞した『楢山節』の弾き語りのテープが流された。


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ベストセラー『楢山節考』で一躍時の人となった深沢七郎。民間伝承の棄老伝説を題材とし、当時42歳の処女作でありながら、当時の人気作家や辛口批評家たちに衝撃を与えるとともに大絶賛を受けた。同作は2度にわたって映画化もされ、今村昌平監督作品では第36回カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝き、日本文学史に大きく名を残す作品となった。一方、当の本人は作家のみならず、ギタリスト、農場経営、今川焼き屋経営とあらゆる顔を持ち、その時そのときを飄々と生きてきた。生涯独身で、いつ死んでもいいようにと墓も仏壇も遺影も自分で用意。エルヴィス・プレスリー、ローリングストーンズなどをBGMに自ら般若心経を読経したテープを葬儀で流すよう遺言するなど、作風からは感じ得ない独特な感性を持つ作家であった。深沢七郎の墓は、埼玉県秩父市の秩父聖地霊園にある。洋型の墓には「深沢家」とあり、墓誌はないが建立者として深沢七郎の名が刻む。

# by oku-taka | 2024-08-11 23:26 | 文学者 | Comments(0)

上原敏(1908~1944)

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上原 敏(うえはら びん)

歌手
1908年(明治41年)〜1944年(昭和19年)

1908年(明治41年)、秋田県北秋田郡大館町(現在の秋田県大館市)に生まれる。本名は、松本 力治(まつもと りきじ)。旧制秋田県立大館中学校在学中からヴァイオリンに夢中になり、音楽の素養を身につけた。スポーツは野球を得意とし、専修大学商学部に入学後も東都大学野球連盟に選手として出場。ポジションは投手で、1933年(昭和8年)春と1934年(昭和9年)春の東京五大学リーグ戦優勝に貢献し、4年生では主将を務めた。大学卒業後の1936年(昭和11年)にわかもと製薬宣伝部へ入社し、普通のサラリーマンとして社会人になったが、野球は社会人野球チームに所属し続けた。ある日、試合でレコード会社のポリドール野球部と対戦。その際、上原の遠縁の親戚でポリドールの幹部だった浪曲作家の秩父重剛から作詞家の藤田まさとを紹介され、レコードの吹き込みを勧められる。当時のポリドールには東海林太郎・新橋喜代三というスター歌手を抱えていたが、新たなスターの発掘にかなり注力していた時期でもあった。1936年(昭和11年)、テスト盤として「須坂小唄」など4曲をレコーディング。さらに、浅草〆香、山中みゆきらと共演した『しゃんつく踊り』でデビューした。芸名は、訳詩集「海潮音」の作者・上田敏に、当時の映画俳優・上原謙を捩った「上原敏」とした。「第2の東海林太郎」の育成に躍起だったポリドールは、上原のデビューより前にタイヘイレコードから引き抜いた河崎一郎の宣伝に力を注いでいたが、河崎の人気が上昇しかけた矢先に河崎を巡って訴訟問題が起こり、「ポスト・東海林太郎」は自然に上原に注がれた。上原には義太夫好きだった父の影響を受けて邦楽の素養もあり、広沢虎造を意識した小節を利かせた歌い方は、正統派の東海林と違って大衆的なカラーが強かった。一方、この時点での上原は『遠い湯の町』『恋の絵日傘』などのヒット曲は存在するものの、東海林の模倣と評されるなど伸び悩んでいた。1937年(昭和12年)、東海林が当時の子役・高峰秀子を養女に迎えようとした際にトラブルが起き、藤田と意見が対立。一歩も引かない東海林に対して藤田は、東海林のために用意していた『妻恋道中』の吹き込みに上原を抜擢した。妻恋道中は発売されるや25万枚を超える大ヒットとなり、上原は流行歌手としての地位を確立した。その後、立て続けに松竹映画の主題歌である『流転』、結城道子がソロでレコーディングする予定だった『裏町人生』と連続して大ヒット。翌年の『鴛鴦道中』も、新人の青葉笙子とのデュエットで大ヒットとなった。上原の快進撃はまだ続き、『妻恋道中』をはじめとしたヤクザもの(股旅もの)や『波止場気質』のマドロスもの、『上海だより』『南京だより』などのいわゆる“たより”もの、『流沙の護り』『聲なき凱旋』などの戦時歌謡、それ以外にも『徳利の別れ』『俺は船乗り』など、東海林を追い越す勢いでヒット曲を量産した。異なるジャンルの流行歌を上手く歌い分け、幅広いファン層を獲得していく上原には銀幕への出演依頼も増え、東宝映画『ロッパ歌の都へ行く』『金語楼の大番頭』や、松竹映画『弥次喜多六十四州唄栗毛』『弥次喜多怪談道中』などにも特別出演している。また、同じポリドールに所属していた榎本健一の舞台にも出演し、秋田なまりの朴訥とした台詞まわしで人気を博した。1939年(昭和14年)には日本コロムビアとテイチクが多額の支度金を用意して引き抜こうとしたが、「こうして成功したのもポリドールのお陰です」と全く応じなかった。一方、1938年(昭和13年)3月から1942年(昭和17年)まで、上原は中国大陸を戦地慰問で通算7度訪問し、数多くの将兵の前で歌った。しかし、青葉笙子、山中みゆき、浅草染千代らと何度も戦地を慰問しては帰国直後からレコーディングするハードなスケジュールを消化していたため徐々に体調を崩すようになり、多数の薬を常用するようになっていった。そのため、1941年(昭和16年)にヒットした『仏印だより』では声が荒れ、デビュー当時の柔らかな歌声は失われている。さらに第二次世界大戦が開戦すると、世間は勇壮な軍歌や叙情的な歌曲が中心となり、上原が得意とした股旅歌謡は衰退。さらに上原の歌い方そのものも時局に合わなくなって人気も凋落していった。1942年(昭和17年)、東京・渋谷の劇場に出演してから大久保の自宅に帰ったところ、妻から召集令状が来ていることを告げられた。上原は顔色も変えずにそのまま支度を始め、ポリドール社長の鈴木幾三郎や山中みゆきらに上野駅で見送られ、地元・秋田で入営するため妻と帰郷した。積極的な慰問活動の実績や30代を迎えての召集には不可解な面も存在するが、これは上原敏と本名の松本力治を別人物と判断した秋田県のミスだった事が後に判明した。入隊後は、上原が流行歌手であることを知っていた上官から何度も「報道班員として内地に残るように」と勧められたが、自ら戦地行きを希望し、輜重兵としてニューギニア戦線に赴いた。現地でも気軽に慰問に応じ、最前線の将兵を励まし続けた。1944年(昭和19年)1月には妻に宛てた軍事郵便が届き、現地の食糧事情の苦しさを知らせている。さらに戦地ではマラリアに感染し、死線を彷徨った。日本軍の敗色が濃厚となってきた7月、ウエワク方面で連合国軍の上陸による激しい戦闘に巻き込まれ、消息を絶った。終戦後の1947年(昭和22年)、妻宛に「昭和19年7月29日、補充兵長・松本力治はニューギニア方面にて戦病死」との公報が届いた。ただし後日帰還した戦友が妻に語ったところによれば「戦病死ではなく空襲を受けての戦死だった」「亡くなった日は4月30日」との証言もあり、詳細な最期は不明である。享年36。1976年(昭和51年)、故郷である秋田県大館市の桂城公園に上原の顕彰碑が建立された。


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サラリーマンからポリドールの看板歌手へと華麗な転身を遂げた上原敏。冴える高音に浪花節を思わせる節回しが特徴的で、ヤクザもの、マドロスもの、戦時歌謡とその当時流行していたあらゆるジャンルの流行歌を歌いこなし、いずれもヒットさせた。また、丸眼鏡の見た目そのままに実直な人柄でも知られ、流行歌手になっても質素な生活を続けて借家暮らしを通し、日本コロムビアとテイチクから多額の支度金を用意されてもポリドールから移籍することはなかった。しかし、その実直さが仇となり、誤って召集されてもそれを拒否することなく出征に応じ、内地に残るよう勧められても自ら戦地行きを希望し、ついに戦死という最期を迎えてしまった。戦後も生きていたらば、昭和40年代中頃から巻き起こった懐メロブームによって往年の歌声を聴くことができたであろうと思うと、誠に残念でならない。没後、あらゆる歌手が彼の歌を歌い継ぎ、その人柄が偲ばれた上原敏の墓は、埼玉県秩父市の秩父聖地霊園にある。洋型の墓には「松本家」とあり、背面に墓誌が、右側に「上原敏君の霊に捧ぐ」と刻まれた、恐らく藤田まさと直筆による『流転』の歌碑が建てられている。戒名は「清揚院敬譽妙雅」。

# by oku-taka | 2024-07-24 01:04 | 音楽家 | Comments(0)

金子兜太(1919~2018)

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金子 兜太(かねこ とうた)

俳人
1919年(大正8年)〜2018年(平成30年)

1919年(大正8年)、埼玉県比企郡小川町の母の実家で生まれる。父は開業医で、「伊昔紅(いせきこう)」の俳号を持つ俳人。水原秋桜子の「馬酔木」に所属し、1930年(昭和5年)に自身の俳誌「若鮎」を創刊した。2歳から4歳までその父の勤務地であった上海で、帰国して以降は秩父の地で育つ。旧制熊谷中学を卒業し、1937年(昭和12年)に旧制水戸高等学校へ入学。在学中に一級上の出澤三太に誘われ、同校教授宅の句会に参加してはじめて句作し、「白梅や老子無心の旅に出る」と詠んだ。以来、本格的に句作をはじめ、翌年に全国学生俳誌「成層圏」に参加し、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男らの知遇を得る。1939年(昭和14年)、嶋田青峰の「土上」に投句するが、新興俳句弾圧事件によって「土上」が廃刊に追い込まれる。1940年(昭和15年)、旧制水戸高等学校を卒業。1941年(昭和16年)、東京帝国大学経済学部に入学すると、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事する。1943年(昭和18年)、大学を繰り上げ卒業し、佐々木直の面接をうけて日本銀行へ入行。その後、海軍経理学校に短期現役士官として入校して、大日本帝国海軍主計中尉に任官。トラック島で200人の部下を率いる。餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いする。1946年(昭和21年)、捕虜として春島でアメリカ航空基地建設に従事し、11月に最終復員船で帰国する。1947年(昭和22年)2月に日本銀行へ復職。1949年(昭和24年)から翌年末にかけて、日本銀行労働組合の専従初代事務局長を務めた。1950年(昭和25年)末に福島支店、1953年(昭和28年)に神戸支店、1958年(昭和33年)に長崎支店へ転勤ののち、1960年(昭和35年)に東京本店へ戻る。一方、1947年(昭和22年)に「寒雷」へ復帰。沢木欣一の「風」創刊に参加して主唱する社会性俳句運動に共鳴する。1951年(昭和26年)、福島の藤村多加夫の持ち家に居住しながら、「波郷と楸邨」を『俳句研究』に執筆する。1954年(昭和29年)、同人誌「風」が、俳句と社会性のアンケートを特集し、ここから「社会性とはなにか」との論争が起きた。金子はここで「社会性とは態度の問題」「自分を社会的関連のなかで考え、解決しようとする『社会的な姿勢』が意識的にとられている態度」と主張。 沢木欣一は「社会性のある俳句とは、社会主義的イデオロギーを根底に持った生き方、態度、意識、感覚から生れる俳句を中心に広い範囲、過程の進歩的傾向にある俳句」とした。 佐藤鬼房は「批評精神のないリアリズムというものは考えられないのであり、社会主義リアリズムはその発展した表現」と指摘した。これらの意見に対して、山本健吉、平畑静塔、神田秀夫などから反論が起こり、沢木側にたった原子公平・金子兜太などとの激しい論争が起きた。  1955年(昭和30年)、日本ペンクラブ会員になる。1956年(昭和31年)、第5回現代俳句協会賞を受賞。1957年(昭和32年)、西東三鬼の勧めで「俳句の造型について」を『俳句』誌に発表。従来の俳句を自分と対象との直接結合による素朴な方法によるものとした上で、自分と対象との間に「創る自分」という意識を介在させ、暗喩的なイメージを獲得する「造型」の方法を提唱し、自身の創作方法を理論化する。1958年(昭和33年)、新俳句人連盟の中央委員に推薦され、栗林一石路とともに同誌雑詠欄の選者を1959年(昭和34年)10月号までの1年間担当する。1960年(昭和35年)頃より前衛俳句の旗手に数えられ、1961年(昭和36年)には雑誌「俳句」に「造型俳句六章」を連載。主客という従来の二項対立的な俳句創作の概念を覆す、戦後俳句の革新的理論書となったが、中村草田男の俳句観と対立し論争となった。 1962年(昭和37年)、隈治人、林田紀音夫、堀葦男らと同人誌「海程」を創刊。1974年(昭和49年)、日本銀行を定年退職。同年から5年にわたり上武大学で教授を務めた。55歳定年まで勤めた。1983年(昭和58年)、現代俳句協会の会長に就任。テレビの俳句番組に数多く出演し、俳句の普及に貢献した。1985年(昭和60年)、同人誌「海程」が結社誌となり、主宰に就任。1987年(昭和62年)から朝日俳壇選者を務める。1988年(昭和63年)、紫綬褒章を受章。1992年(平成4年)、日本中国文化交流協会の常任理事に就任。1996年(平成8年)、句集『両神』で第11回詩歌文学館賞を受賞。同年、勲四等旭日小綬章を受章。1997年(平成9年)、第48回日本放送協会放送文化賞を受賞。2000年(平成12年)、現代俳句協会の名誉会長に就任。2001年(平成13年)、第1回現代俳句大賞を受賞。2002年(平成14年)、句集『東国抄』で第36回蛇笏賞を受賞。2003年(平成15年)、日本芸術院賞を受賞。2005年(平成17年)、日本芸術院の会員に選出。となる。2008年(平成20年)、第4回正岡子規国際俳句賞大賞を受賞。同年、文化功労者に選出。2010年(平成22年)、第51回毎日芸術賞特別賞、また句集『日常』で第22回小野市詩歌文学賞を受賞。同年、第58回菊池寛賞を受賞。2015年(平成27年)、朝日賞を受賞。また、『中日新聞』『東京新聞』の「平和の俳句」選者となる。2017年(平成29年)5月、高齢などを理由に2018年(平成30年)9月で「海程」を終刊することを公表。しかし、同年1月から体調を崩し、2月6日に誤嚥性肺炎の疑いで熊谷市内の病院に入院。同月20日午後11時47分、急性呼吸促迫症候群のため死去。享年99。


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戦後の現代俳句を牽引した金子兜太。季語や花鳥風月といった定型にとらわれず、自身の戦争体験や社会問題などを題材とした自由な俳句の世界を築き上げた。また、既成の俳句を批判し、伝統俳句派との論争に挑むなど、気骨ある「前衛俳句の旗手」として俳壇に大きな足跡を残した。晩年、作家の澤地久枝に依頼されて揮毫した「アベ政治を許さない」で話題となったが、この時点で96歳の現役俳人として俳句にテレビにと活躍していたのだから驚かされる。亡くなる直前には、時事通信社が「俳人の金子兜太さんが死去」と誤報を出すなど、何かと話題に事欠かなかった金子兜太の墓は、埼玉県秩父市の総持寺にある。2基ある墓のうち、兜太の眠る墓には「金子家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「海程院航句極居士」。

# by oku-taka | 2024-07-24 00:47 | 文学者 | Comments(0)