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夏木陽介(1936~2018)

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夏木 陽介(なつき ようすけ)

俳優
1936年(昭和11年)〜2018年(平成30年)

1936年(昭和11年)、東京府(現在の東京都)八王子市に生まれる。本名は、阿久沢 有(あくさわ たもつ)。1954年(昭和29年)、桜美林高等学校を卒業し、明治大学経営学部に入学。在学中、高校の同級生だったホキ徳田の祖母の家に画家の中原淳一が寄宿していたことが縁で中原が編集者を務めていたひまわり社を見学した際、中原が発行する雑誌「ジュニアそれいゆ」のモデルにスカウトされる。1958年(昭和33年)、大学卒業と同時に東宝へ入社。このとき、中原の命名によって「夏の太陽に向かって真っすぐに伸びていく若木のように、たくましく生き生きとした俳優になって欲しい」という意味を込められた「夏木陽介」の芸名を受け、数日後には『美女と液体人間』でデビューを飾る。当初、会社からは佐藤允・夏木・瀬木俊一の3人組で「スリーガイズ」と売り出されたが、瀬木が引退したために自然消滅した。また夏木本人もデビューからしばらくは「何かあったら辞めてやる」と軽い気持ちで役者をやっていたという。しかし、東宝の俳優養成所では講師役の小杉義男に対して一歩も引かなかったり、東宝撮影所の地主の息子だった守衛の態度に憤慨して撮影所の門の鎖をバイクで引きちぎったりと、他人に物怖じしない行動が畏敬の念を集めることとなり、東宝の社風も重なって、いじめられることはなかったという。同年、石原慎太郎が監督した『若い獣』に出演。続いて熊谷久虎監督の最後の作品となった『密告者は誰だ』で早くも主演を飾り、1959年(昭和34年)には『狐と狸』で新人賞を獲得する。1960年(昭和35年)に主演した『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』で役者としての気持ちが固まった後は、黒澤明監督の『用心棒』や稲垣浩監督の『野盗風の中を走る』などの作品で順調に出演を重ね、特に東宝の助監督が一本立ちして監督となる出世作のほとんどに主役として出演。爽やかさと野性味を兼ね備えた二枚目として、現代アクション、戦争映画、時代劇、怪獣映画、青春映画、サラリーマン物、文芸映画、コメディと東宝がカバーする多彩な領域にくまなく対応した。しかし、映画界が斜陽化の一途をたどり始める1964年(昭和39年)頃より徐々に俳優業への情熱が冷めてきて、房総半島のレジャーランド計画(行川アイランド)に幹部待遇で迎えられて参画するなど、ビジネスへと関心が傾いてゆく。そんな折に日本テレビの『青春とはなんだ』の主演を持ちかけられ、ビジネス優先を考えて固辞していたが、東宝の助監督であった松森健がこの作品で監督デビューすることなど、親しいスタッフの三顧の礼もあって出演を承諾。主役の教師・野々村健介役を務めた同作は高視聴率を誇り、一気にお茶の間での知名度を上げることとなる。1966年(昭和41年)には『青春とはなんだ』を肖って作られた主演映画『これが青春だ!』も大ヒット。また1967年(昭和42年)に主演した木下恵介監督の映画『なつかしき笛や太鼓』でも同じく教師役を演じた。1968年(昭和43年)、個人事務所「株式会社夏」を設立。同年から2年にわたり、竜雷太と共に刑事ドラマ『東京バイパス指令』に主演。1972年(昭和47年)にはNHKで『明智探偵事務所』に主演するなど、テレビドラマに活躍の場を移し、意欲的な活動を展開する。1973年(昭和48年)、東宝の先輩でもあった三船敏郎より「力を貸して欲しい、俳優が必要なんだ」との誘いを受け、竜雷太と共に「三船プロダクション」に移り、『荒野の用心棒』、『Gメン'75』、『江戸の激斗』などの人気ドラマに出演。特に『Gメン'75』は、プロデューサーの近藤照男から「次の作品がまた失敗に終われば、プロデューサーの地位を失うかもしれない、力を貸して欲しい」と言われ、「自宅から東映撮影所までは時間が掛かるので、3話に1話の位の出演にして欲しい」という条件を出して出演。しかし、同作のニューカレドニアでのロケ時に近藤と中華を食べに行き、夏木が先に支払いを済ませたところ、近藤はプロデューサーという立場の自分が支払いを、と考えていたため口論となり、夏木が「怒られる理由がない、降板する」と言い降板となった。近藤からは降板回のエピソードを作らせて欲しいと打診されたが、夏木がこれを固辞したため、突如番組から姿を消すこととなった。1982年(昭和57年)、「三船プロダクション」を退社。個人事務所「株式会社夏」で自身の活動の傍ら、芸能プロダクションの社長を務めた。一方、自動車好きとしても有名で、日本でも石原裕次郎、力道山、夏木の3人だけと言われたメルセデス・ベンツ・300SLを所有するなど免許を取得してから当時の高級車・スーパーカーを中心に数百台は乗り換えていると語っていた。その後はジャガー・SS100、ジャガー・Eタイプ2台、レクサス・SC430、ローバー・ミニなどを自身の愛車とした。そうしたことから、1985年(昭和60年)と1986年(昭和61年)にラリードライバーとダカール・ラリーに出場。また、1987年(昭和62年)から6年間にわたり「チーム三菱・シチズン夏木」の監督として篠塚建次郎・増岡浩らを出場させた。1988年(昭和63年)公開の映画『海へ 〜See you〜』でも三菱シチズンの監督として出演した。同年、個人事務所「株式会社夏」を「株式会社夏木プロダクション」に社名変更。しかし、自身はラリー参戦のため、俳優としての仕事のオファーを断ることが多かった。2009年(平成21年)7月、軽度の脳梗塞が見つかり、約1週間の入院治療を受ける。2010年(平成22年)3月には、かねてより患っていた胆石の経過観察のため検査を受けたところ、左腎臓に腎臓癌が見つかり、5月14日に摘出手術を受けた。2014年(平成26年)、自身の高齢を理由として「株式会社夏木プロダクション」を営業終了・解散する。2015年(平成27年)には再び自身の個人事務所「オフィス夏木」を作って活動していたが、2017年(平成29年)10月2日に肺炎のため入院。約2週間後に退院するも、11月25日にリハビリ中に倒れ、翌日再入院。11月29日、胸椎に癌が発見された。12月に入ると歩けない状態となり、12月27日に集中治療室へと入った。その後、意識不明となり、2018年(平成30年)1月9日に集中治療室を出て個室に移ったが、同年1月14日午前10時46分に腎細胞癌のため東京都内の病院で死去。享年81。


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東宝の二枚目スターからダンディーな俳優へと変化を遂げた夏木陽介。特に『青春とはなんだ』で演じた、ラグビーを通じて人間教育を展開していくアメリカ帰りの英語教師・野々村健介役は当たり役となり、同作のヒットで日本テレビの日曜20時は様々なバリエーションで作られる青春ドラマシリーズの枠となった。打って変わって『Gメン'75』では、渋くてダンディーな小田切警視を好演。語学が堪能で射撃の腕前も一流、私情を挟まない冷静な捜査でありながら時に見せる人間的な一面が魅力的で、途中で降板となったものの視聴者に大きな印象を残した。生涯独身を貫き、仕事は納得できるもののみ受け、こだわりの趣味に熱中するなど、自分の信じる道を歩み続けた夏木陽介の墓は、東京都八王子市の信松院にある。墓には「阿久澤家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「天優院輪覚有道居士」。

# by oku-taka | 2025-05-18 17:15 | 俳優・女優 | Comments(0)

内村剛介(1920~2009)

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内村 剛介(うちむら ごうすけ)

ロシア文学者
1920年(大正9年)〜2009年(平成21年)

1920年(大正9年)、栃木県に生まれる。本名は、内藤 操。1934年(昭和9年)、家庭の事情で姉夫婦の住む満州に渡る。14歳で満鉄育成学校に入学したが、その後に大連二中へ転校。20歳のときに旧満洲国立大学哈爾濱(ハルビン)学院へ入学し、ロシア語を学んだ。1943年(昭和18年)、同校を卒業。関東軍に徴用されて翻訳業務に従事する。1945年(昭和20年)、女子の軍属を引率して京城へ向かう途中の平壌で、日本人難民の救助活動と越冬準備に走り回る哈爾濱学院の先輩・梶浦と出会う。梶浦から頼まれ、内村は進駐してきたソ連軍による関東軍の武装解除に通訳として立ち会う。同年9月、平壌の官憲に拘束されるも釈放。しかし、収容所を出た途端に梶浦が発疹チブスに罹り、医者のいる収容所に戻ってしまう。このとき、哈爾濱学院がスパイ養成所と目され、関東軍に所属していたことを隠していたという理由で、内村はソ連諜報機関に逮捕された。1948年(昭和23年)、25年の禁固刑を受け、ソ連に抑留される。以後、11年間をソ連内の監獄・ラーゲリで過ごした。日ソ国交回復後の1956年(昭和31年)、最後の帰還船で帰国。帰国後は、日商岩井に勤務する傍ら文筆活動を始め、1967年(昭和42年)に発表した『生き急ぐ』は、青年期をラーゲリー内に拘束された「タドコロ・タイチ」とソ連取調官の攻防を描き、ロングセラーとなった。このほか、スターリニズムやソ連の文学・思想を、抑留体験から解読・批判したほか、現代日本への批判も行なった。1973年(昭和48年)、北海道大学の教授に就任。1978年(昭和53年)、上智大学の教授に就任。2009年(平成21年)1月30日午前2時41分、心不全のため東京都世田谷区の病院で死去。享年88。


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壮絶なシベリア抑留の体験を文学として昇華させた内村剛介。不当な逮捕と理不尽な仕打ちにもめげず、毅然と抗い続け、見事11年にも及ぶ地獄の生活から帰還した。そうした体験はこの男に大きな力を与え、戦後スターリニズム批判などの文筆活動を展開。旧ソ連研究などに多大な影響を与えることになった。運命を翻弄したロシアを生涯かけて追い続けた内村剛介の墓は、東京都八王子市の高尾霊園にある。1999年(平成11年)4月、ハルビン学院の同窓会が解散するにあたり、高尾霊園に「ハルビン学院記念碑」が建立された。ここには、カロートに卒業生の「分骨」や「遺品」「校旗の燃え残り」や「学院史」その他思い出の品などが収納されているとのことで、内村もこの記念碑に分骨されたとのことである。

# by oku-taka | 2025-05-12 00:59 | 文学者 | Comments(0)

山本茂実(1917~1998)

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山本 茂実(やまもと しげみ)

作家
1917年(大正6年)〜1998年(平成10年)

1917年(大正6年)、長野県東筑摩郡松本村(現在の松本市)に生まれる。小学校では成績優秀であったが、農家の長男として父亡き跡を継がなければならないため、旧制中学校への進学が叶わず、松本青年学校に入学。1937年(昭和12年)、召集されて近衛歩兵第3連隊に入隊。大陸へと渡ったが、病気を得て帰国。以後、陸軍の療養所で詩作と思索の日々を送る。1945年(昭和20年)1月、青年学校の代用教員となる。戦後は農業に従事したが、青年運動にも参加。また、「神田塾」を創設し、農村青年の学習運動を始める。 1948年(昭和23年)、上京して早稲田大学文学部哲学科に聴講生として学ぶ。同年、『生き抜く悩み 哲学随想録』を発表し、大きな反響を呼ぶ。翌年、「葦の会」をつくり、さらに同志と共に「葦会」を組織し、雑誌『葦』や『小説 葦』、総合雑誌『潮』などを創刊。働く若者達の民主サークル運動に影響を与えた。1965年(昭和40年)に青年海外協力隊が発足されると、専任講師も務めた。その後、作家として執筆活動に専念。1968年(昭和43年)に「明治百年」を迎えるにあたって、祖母から聞いた野麦峠の話をテーマとした作品に取り掛かる。かつて野麦峠を越えて働きに出た女工経験のある老女を訪ね、その聞き取りを基に『あゝ野麦峠 - ある製糸工女哀史』を発表。250万部のベストセラーとなった。しかし、参考にしたと思われるエピソードについて、出典を明らかにしなかったことから盗作騒動が巻き起こった。以降もノンフィクション文学を手がけ、『松本連隊の最後』『喜作新道』『高山祭―この絢爛たる飛驒哀史』『塩の道・米の道』などを発表した。1998年(平成10年)3月27日、死去。享年81。


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女工の悲劇を描いた『あゝ野麦峠』で知られる山本茂実。口減らしのため製糸工場へ出稼ぎに行った主人公・政井みねが、厳しい労働環境に耐えて働くも病に倒れ、兄の背におぶられて実家に連れ戻される途中の野麦峠で息絶える間際に発した「あゝ飛騨がみえる…」の言葉は多くの人の涙を誘った。それまで、働く若者たちのカリスマ的存在であった彼が、『あゝ野麦峠』のヒットを受けてノンフィクション作家となり、寡作でありながらも優れた記録文学を発表し続けた。そんな山本茂実の墓は、東京都八王子市の上川霊園にある。墓には「無」と直筆のサインがあり、背面に墓誌が刻む。

# by oku-taka | 2025-05-06 15:02 | 文学者 | Comments(0)

松前重義(1901~1991)

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松前 重義(まつまえ しげよし)

教育者
1901年(明治34年)〜1991年(平成3年)

1901年(明治34年)、熊本県上益城郡嘉島町に生まれる。小学5年生のときに熊本市へ移った際、故郷の農村と違って夕方になると一斉に電灯がともるのを見て、その美しさと不思議さに驚き、これが後に電気を専攻するきっかけとなった。1919年(大正8年)、旧制熊本県立熊本中学校(現在の熊本高校)を卒業し、熊本高等工業学校(現在の熊本大学工学部)電気工学科に入学。在学中は、中学時代に兄の影響で始めた寝技主体の高専柔道などのスポーツに熱中する日々を送る。1922年(大正11年)、東北帝国大学(現在の東北大学)工学部電気工学科に入学。抜山平一に師事し、トランジスタやICへと発展する真空管の特性などについて研究した。1925年(大正14年)、逓信省に技官として入省。しかし、役所の生活は無味乾燥で事勿れ主義が蔓延り、思い悩んだ末に内村鑑三が主宰する聖書研究会や講演会などに通う。ここで内村の思想と人類の救済を説く情熱的な訴えに深く感銘を受け、妻や篠原登ら数人の同志と自宅で勉強会(聖書・教育研究会)を開催。シュバイツァーやペスタロッチなどの人生観、世界観、使命感や理想などを語り合い、教育への志を立てる決意を固める。その中で、プロシアとの戦争に敗れ、疲弊した国を教育によって再興させたデンマークの精神的、ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィを知り、彼の提唱するフォルケホイスコーレ(国民高等学校、国民大学とも訳す)に教育の理想の姿を見出す。1932年(昭和7年)、「無装荷ケーブル通信方式」を提唱し、篠原登と共に完成させる。それまでの電話通信の分野は、アメリカ・コロンビア大学のミカエル・ピューピンが開発した装荷ケーブル方式が世界の主流であり、これは長距離ケーブルでは2線間の静電容量により損失があるが、ケーブルに一定間隔で装荷コイルを挿入してインダクタンスで釣り合いをとる装荷方式は損失による減衰が少ないところが長所であった。しかし、この方式では音声が不明瞭、1回線で1通話しかできず不経済であるなどの様々な欠点があった。そうしたことから、松前たちは長距離ケーブルの途中に増幅器を設置して電流を増幅させ、高周波の電流に音声を乗せて送る新しい通信方式を開発し、装荷ケーブル方式の欠点を一気に解決。また、1回線で複数の通話ができる多重通信を可能とする経済的なもので、これを「長距離電話回線に無装荷ケーブルを使用せんとする提案」として発表。また、小山 - 宇都宮間で多重電話伝送を実験して良好な結果を得た。1933年(昭和8年)、逓信省より電話事業研究の目的でドイツ留学を命じられる。 無装荷ケーブルの実用化の目処が付き次第、教育事業に転身するつもりでいた松前は留学を断るが、直属の上司であった梶井剛の特別な配慮でデンマークの視察が認められたため留学。ドイツで官庁や通信施設、研究所、工場などを視察したほか、無装荷ケーブルについて電気通信関係者と議論を行う一方、留学中の1カ月余りをデンマーク各地の国民高等学校や酪農学校の視察に費やし、デンマークでは想像以上にニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィの教育理念が、国民教育や農業振興の実践面で良く生かされているということを実感した。1934年(昭和9年)、帰国。逓信省の会議にて欧米の電気通信事情を報告し、無装荷ケーブルの有用性を訴えた。これによって無装荷ケーブルが日本と大陸を結ぶ通信網に採用する方針が固まり、実用化が図られていく。その一方、技術者の地位向上を訴える技術者運動を梶井や山田守らとともに展開。当時の日本の社会は指導者として法学部出身者を最優先する風潮が根強く、技官より文系出身者を優位とみなす逓信省の組織構造があった。こうした現実を憂え、国家の正常な発展のためには文科系と理科系の相互理解が不可欠であるとの思いを強くし、世界や社会の動向に無関心になりがちな技術者の意識改革と地位の向上を訴えるべく「逓信技友会」を結成。その後、各省の技術者運動の流れと統合し「六省技術者協議会」となり、さらに「日本技術協会」へと発展した。1935年(昭和10年)年1月、電気学会より「長距離無装荷ケーブル通信方式の研究」に対し、第10回浅野博士奨学祝金を授与される。松前はこの祝金を基金の一部とし、武蔵野市西久保に自宅と浅野博士奨学記念館(現在の東海大学望星学塾の塾舎)を建築し、キリスト教主義学校「望星学塾」を開設。デンマークの国民高等学校の教育を範としながら、対話を重視し、ものの見方・考え方を養い、身体を鍛え、人生に情熱と生き甲斐を与える教育を目指し、聖書の研究を中心として日本や世界の将来を論じ合う場とした。学生が8人ぐらい寝泊りできる寄宿舎と体育館兼講堂兼図書館も完成し、日曜ごとにキリスト教の礼拝を行い、週2回はデンマーク体操、月に1度は必ず公開講演会を開いた。旧制一高で教える三谷隆正が近くに居住していたことからたびたび講師を務め、少数ではあったが熱心な青年が集まった。1937年(昭和12年)、満州国の安東と奉天間で無装荷通信方式で長距離電話通信が成功し、同年11月には『無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究』で東北帝国大学より工学博士の学位を授かる。同年、逓信省工務局調査課長に就任。1940年(昭和15年)、大政翼賛会の発足に伴い総務局総務部長に就任。しかし、主導権を争う内紛から辞表を求められて辞任する。1941年(昭和16年)、逓信省工務局長に就任。国家の正常な発展のためには文科系と理科系の相互理解が不可欠であるとの思いを強くし、大学建設の目標を共有。同年2月22日には宮本武之輔、梶井、松前を発起人とする国防理工科大学の設立計画が新聞各紙にて報じられ、1942年(昭和17年)12月8日に財団法人国防理工学園を設立。これにより、1943年(昭和18年)4月8日に航空科学専門学校が静岡県清水市(現在の静岡市清水区)で開校。1944年(昭和19年)には東京市江古田(現在の東京都中野区江古田)に電波科学専門学校も開校した。一方、太平洋戦争に突入したことで松前は、人間が体力や技能や精神力で戦ってきた過去の戦争は終わり、新しい時代の戦争は、科学技術を駆使した兵器や、それらを生産する技術と人材、資源量などによって優劣が決定すると主張。その後、技術者を集めて日米の生産力や資源量の調査を始め、当時の政府が主張したデータとは全く異なる結果を導き出した。当時の日米の生産力を比較すると、日本は米国の約十分の一であり、大規模な戦争を行うことは不可能であった。そうした現実を隠蔽し、戦争を続けようとするのは無謀であるという結論に達した松前は、この結果を軍令部や近衛文麿らに広め、総理大臣・東條英機の退陣と和平工作を訴えた。そのため、同年7月に懲罰召集を受け、42歳の勅任官が兵隊の位で一番低い二等兵として南方戦線に送られる。これにより、私塾であった望星学塾の活動は休止を余儀なくされた。マニラでは南方軍総司令官寺内寿一元帥の配慮により、軍政顧問として勤務して無事に復員。後に技術院参技官として終戦を迎える。戦後は逓信院総裁に就任。1946年(昭和21年)には松前が念願としていた「文理融合」を理念とする旧制東海大学の設立が認可された。しかし、同年4月に逓信院総裁を辞任し、同年9月には戦時中に大政翼賛会の活動に関わっていたとを理由として公職追放となる。1950年(昭和25年)10月13日、公職追放解除の閣議決定を受け、同年に旧中島飛行機の残留従業員労働組合が土地の払い下げを受けて設立した、株式会社東京グリーンパークの社長に就任。当時、首都圏では慢性的な球場不足で、プロ野球の運営をよりスムーズにすることを目的として、進駐軍より返還された三鷹駅北側の中島飛行機武蔵製作所東工場(旧武蔵野製作所)跡地に武蔵野グリーンパーク野球場が建設された。しかし、工期の限られた突貫工事だったことに加えて、フィールドと外野スタンドの盛土は保水力の乏しいローム層のため、芝の生育が不完全な状態での開場となり、さらに翌年には神宮球場の接収が解除され、川崎球場が開場するなど、首都圏の野球場不足も緩和。こうした様々な不利な条件が重なったため、完成はしたもののほとんど使用されることなく打ち捨てられ、1953年(昭和28年)に会社は解散となった。一方の松前自身は、1951年(昭和26年)に教職追放からも解除されたことから国防理工学園に復帰。1952年(昭和27年)、第25回衆議院議員総選挙に熊本1区より出馬して当選。以後、日本社会党の右派議員として当選6回を果たし、中道保守系の有力議員として社公民路線を提唱した。同年1月、新制東海大学の理事長、6月には学長に就任。この頃、戦後の経済的混乱や学制改革による大学の急増などで東海大学の学生数は減少しており、大学経営は悪化の一途をたどっていた。また、大学が静岡県清水市にあっては地理的条件から教員確保が困難であるといった様々な制約もあり、校舎を静岡県へ売却。東京都渋谷区富ヶ谷にあり同じく経営難であった名教高等学校の経営母体である名教学園と東海大学が合併する形で同地を買収し、1955年(昭和30年)に代々木校舎(現在の渋谷キャンパス)へと移転した。1954年(昭和29年)7月、貿易や経済状況など国際関係を調査するため、国会議員視察団の一人として、東南アジア(ビルマ、インド、パキスタン)をはじめ、西欧(フランス、西ドイツ、デンマーク、スウェーデン、フィンランド)、ソビエト連邦、中国を視察。ここで、原子力の平和利用に関する研究を日本でも積極的に推し進める必要性を痛感し、原子力基本法制定に尽力するとともに東海大学工学部に原子力工学専攻を設置した。1957年(昭和32年)6月、文部省(現在の文部科学省)は放送を使用した高等教育構想に関心を示しており、東洋大学文学部教授であった米林富男はテレビおよびラジオ放送を使用した勤労学生向け大学教育の研究を行っており、文部省は研究助成金も拠出していたことから、東海大学も超短波放送実験局の免許を郵政省(現在の総務省)に申請。1958年(昭和33年)4月に東海大学超短波放送実験局(呼出符号JS2AO、周波数86.5Mc(メガサイクル。現在のメガヘルツ(MHz)と同義)、空中線電力1kW)の予備免許を取得し、同年12月に放送を開始した。1959年(昭和34年)11月に周波数を84.5Mcに変更し、1960年(昭和35年)4月には「東海大学超短波放送実用化試験局」(呼出符号JS2H)も放送を開始した。1962年(昭和37年)、学生数の急増に伴い、静岡県清水市や神奈川県相模原市(現在の付属相模高等学校の敷地)に新たなキャンパスを開設。さらに、同年5月の理事会で神奈川県平塚市郊外の土地・約41万mの買収と、土地の利用計画、建設する校舎の計画についての決定がなされ、1963年(昭和38年)に湘南キャンパスとして開設した。1964年(昭和39年)、全日本大学野球連盟が翌年から全日本大学野球選手権大会の出場枠を拡大するにあたり、当時東都大学野球連盟に準加盟だった東海大学が新リーグの結成について同連盟の3部、準加盟1部2部所属校を中心に呼びかけた。この呼びかけに対し、まず成城大学、日本体育大学、東京教育大学(現在の筑波大学)、武蔵大学が賛同を示して東都大学野球連盟を脱退。明治学院大学と東京経済大学も追随した。同年6月22日にはこれら賛同チームにより首都大学野球連盟が正式に発足。同年9月9日、明治神宮第二球場で、松前による始球式を経て最初の公式戦が行われた。1966年(昭和41年)、ソ連政府の提案によるソ連と東欧との交流組織「日本対外文化協会」(対文協)を石原萠記、松井政吉らとともに設立し、会長に就任。ソ連初の野球場としてモスクワ大学松前重義記念スタジアムの建設・寄贈に尽力するなど、国際交流事業を展開した。同年、三池工業高校を甲子園で優勝させた手腕を見込み、原貢監督を東海大相模高校の硬式野球部監督に招聘。原の指導で創部7年目にして初の神奈川制覇を成し遂げ、夏の全国高校野球選手権では2回優勝を果たすなど、東海大相模の名を全国に轟かせ、神奈川高校野球界の勢力図を塗り替えた。1968年(昭和43年)、文部省と郵政省が放送を使用した高等教育を政府として行う方向へ方針を転換。また、かねてより広告放送が認められていない実験局との区別があいまいなことが国会でも問題となっていたことから、郵政省は「FM放送の実施のために必要な資料収集が完了した」という理由を東海大学に提示し、実用化試験局の再免許を拒否した。短期間再免許されたもののすぐに期間満了となり、不法無線局として郵政省は電波法違反で東海大学を告発した。これに対し東海大学は「これまでの実績を評価していない」として誣告罪で郵政省を提訴するなど、松前は古巣の郵政省と争うことになる。その後、他の出資元も増やした株式会社形式の民間放送に移行することで妥協。1970年(昭和45年)3月17日に新会社「株式会社エフエム東京」が設立され、FM東海(JS2AO)は同年4月25日に廃局となった。1969年(昭和44年)、全日本柔道連盟の理事に就任。1971年(昭和46年)、勲一等瑞宝章を受章。1978年(昭和53年)、ソ連諸民族友好勲章を受章。1979年(昭和54年)、国際柔道連盟の会長に就任。1980年(昭和55年)1月、嘉納履正が全日本柔道連盟の会長(講道館長)を辞任。後任に嘉納行光が推されたことから、松前は全柔連会長と講道館館長の双方を嘉納家が独占することに異議を唱えた。松前は東海大を中心勢力とした全日本学生柔道連盟(学柔連)を率いて抵抗したが、満場一致で嘉納行光の会長就任が決定。この件は後に大きな遺恨を残した。1982年(昭和57年)、勲一等旭日大綬章を受章。1983年(昭和58年)1月5日~6日、日本武道館にて学柔連主催の第1回正力松太郎杯国際学生柔道大会を開催し、全柔連とのトラブルが表面化する。同年1月25日、「柔道界の改革のため」として学柔連は全柔連から脱退。一方の全柔連は、同年9月21日に全柔連傘下かつ親講道館派で学生柔道界少数派の対抗団体「全日本大学柔道連盟」を設立。同年11月5日には、1984年(昭和59年)の第2回正力松太郎杯国際学生柔道大会に参加した選手、審判、役員は全柔連が主催や後援する大会、代表を派遣する国際大会には出場できなくなる旨の通知文を発行した。1987年(昭和62年)11月17日、国際柔道連盟(IJF)会長選挙において、全柔連が推すサルキス・カルグリアンが松前および学柔連が推すフランス柔道連盟前会長のジョルジュ・ファイファーに勝利。IJFを味方につけた全柔連は攻勢にかかり、同年11月30日には全柔連臨時評議員会がIJF理事会決定「IJFは全柔連に加盟していない日本国内のいかなる団体も承認しない」に基づき、学柔連への要求「全日本大学柔道連盟との統合、団体名称を日本学生柔道連盟に改称、全柔連への加盟」の三項目を決定。これを受けて学柔連は同年5月25日に三項目を合意した。1989年(昭和64年)、東ドイツ民族友好ゴールドスター章を受章。1991年(平成3年)8月25日、心不全のため神奈川県伊勢原市の東海大医学部付属病院 にて死去。享年89。没後の2022年(令和4年)、武蔵野グリーンパーク野球場建設に携わったことや首都大学野球連盟設立により初代会長を務めたこと、モスクワ大学に野球場を寄贈するなど野球界への貢献が評価され、野球殿堂特別表彰者となった。


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東海大学を創立し、日本の国際化にも尽力した松前重義。逓信省の技官として電話の「無装荷ケーブル」という世界的大発明を成し遂げたにもかかわらず、その地位を捨てて教育業界に転身。借入金や寄付だけで大学建設に挑み、自分の理想とする教育の実現を目指した。創立後もたびたび苦難に直面したが、今で言う学校法人のM&A方式の採用や、当時はまだ馴染みのなかった原子力工学の学部設置など、その斬新な手腕で従来にない学園経営を展開し、今や学生数3万人近く、北海道から九州まで10のキャンパスを展開するマンモス大学を築き上げた。また、三池工業高校を甲子園で優勝させた原貢の手腕を見込んで招聘したり、後に柔道選手として大活躍する当時高校一年生だった山下泰裕を見出したりなど、人を見る力も大変に長けていた。一方、自分の主張を曲げない人物でもあり、戦時下において日米の生産力を調査し、そのうえで圧倒的な差があることを明らかにして時の東條内閣を批判、懲罰召集されて激戦地へ送られたことは有名な話である。後年においても、FM東海の件で郵政省と、柔道界の派閥をめぐって嘉納家と争うなど、老いてなお強い存在感を発揮した。まさに昭和史の怪物の一人ともいうべき松前重義の墓は、東京都あきる野市の西多摩霊園にある。広大な敷地の真ん中に鎮座する墓には「望星」とあり、左側に墓誌、右側に顕彰碑が建つ。墓誌によると、元参議院議員の長男・松前達郎、元東海大学学長の次男・松前紀男、元衆議院議員の三男・松前仰も同墓に納骨されている。

# by oku-taka | 2025-04-30 00:05 | 学者・教育家 | Comments(0)

永山武臣(1925~2006)

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永山 武臣(ながやま たけおみ)

実業家
1925年(大正14年)〜2006年(平成18年)

1925年(大正14年)、東京府に生まれる。母が歌舞伎好きだったことから、幼少の頃より歌舞伎に触れて育つ。学習院初等科から高等科 (旧制) を卒業し、京都帝国大学経済学部に入学。真正極楽寺 (真如堂)内にある喜運院の離れを借り、そこから京大に通う生活を送る。1945年(昭和20年)8月1日、薦められるがまま豊橋の予備仕官学校に入り、伍長となる。終戦とともに京都大学へ復学するが、戦後にもてはやされた共産主義に疑問を持ち、従来から日本にあったものが何故もてはやされないのかと考えるようになる。冬になって真如堂に立て籠もり、誰とも話しをせずに考えた結果、「こんなに世の中が変わるのだったら、変わらないところで行こう」と思い立ち、歌舞伎に携わることを志す。在学中の1947年(昭和22年)10月、松竹に入社。東京劇場の夜景を務めた後、1948年(昭和23年)3月の大学卒業後は監事室に配属され、松竹創業者の一人である大谷竹次郎の下で、同年に上演された『源氏物語』(9代目市川海老蔵(後の11代目市川團十郎)や7代目尾上梅幸、2代目尾上松緑ら)や6代目中村歌右衛門襲名披露興行など第2次世界大戦後初期の歌舞伎の代表的な公演に関わる。1953年(昭和28年)12月には学習院初等科時代からの友人であった三島由紀夫に依頼し、歌舞伎化した『地獄変』(芥川龍之介原作)を歌舞伎座で上演した。1958年(昭和33年)7月、演劇部へ異動してプロデューサーとなり、正式に製作を担当。一方、1960年(昭和35年)に第1回の米国公演を行ったのを皮切りに、1961年(昭和36年)にはソビエト連邦共和国公演を行うなど、歌舞伎の海外上演に早くから取り組んで国際化を進めた。松竹は永山の存命中に33ヶ国・延べ56回の歌舞伎海外公演を行ったが、そのうちの41公演に同行して陣頭指揮を執った。1966年(昭和41年)11月、演劇部長に就任。1967年(昭和42年)10月、演劇担当取締役に就任。以降は歌舞伎だけでなく、1969年(昭和44年)にロック・ミュージカル『ヘアー』を上演したほか、1982年(昭和57年)には『アマデウス』の日本初演なども手がけるなど、ミュージカルや翻訳劇にも手を広げ、新派や松竹新喜劇まで含めた幅広い分野の演劇の製作・興行に携わるようになる。こうした取り組みの一方で、6代目中村歌右衛門達と共に古典歌舞伎の充実を図り、また歌舞伎俳優の大名跡の襲名を相次いで仕掛け、七代目尾上菊五郎や「高麗屋三代」(初代松本白鸚、九代目松本幸四郎、 七代目市川染五郎)、十二代目市川團十郎、十一代目市川海老蔵、四代目坂田藤十郎、十八代目中村勘三郎などの襲名披露興行を指揮した。1968年(昭和43年)7月、松竹演劇部発行の季刊雑誌として「古典歌舞伎の保存・振興および新歌舞伎の育成」を目的に掲げ、雑誌『歌舞伎』を創刊。自身が発行人となり、毎号特集に重点を置く編集で、「歌舞伎細見、俳優の芸談、座談会、評論、研究」や「新作の戯曲」などが掲載されたが、創刊から10年後の10巻4号をもって「完結終刊」した。1978年(昭和53年)、副社長に就任。同年12月20日、当時衰退していた関西歌舞伎を復興させるために大阪の民間労働組合(高畑敬一大阪民労協代表幹事)の呼びかけによって結成された「関西の歌舞伎を育てる会」(現在の「関西・歌舞伎を愛する会」)に参加。1984年(昭和59年)、当時社長だった大谷隆三が自宅に放火し、住み込みの手伝いの女性を焼死させる事件を起こしたことから、同年5月に大谷一族以外から初となる社長に就任した。1986年(昭和61年)、藍綬褒章を受章。1987年(昭和62年)、真山青果賞を受賞。1990年(平成2年)、1990パリ市ヴェルメーユ章を贈られる。同年8月、歌舞伎座で納涼歌舞伎を復活させたのを皮切りに、歌舞伎座を年間を通して歌舞伎上演を行う専用劇場化とした。また、東京・渋谷のシアターコクーンの「コクーン歌舞伎」のほかにも、野田秀樹の「野田歌舞伎」や蜷川幸雄の「NINAGAWA十二夜」など現代演劇の演出家を起用した新たな「歌舞伎」にも挑戦。こうした「伝統歌舞伎を現代の演劇として国民の間に広く浸透させ、あわせて海外公演を積極的に推進し、文化交流と国際親善に尽くした功績」から菊池寛賞を受賞した。 1991年(平成3年)、京都の南座を建物そのままに内部設備を一新した最新設備の近代劇場として改修。1995年(平成7年)、伝統歌舞伎の発展に尽力したことなどから、文化功労者に選出。1997年(平成9年)2月、映画館であった「大阪松竹座」が最新設備を備えた劇場として新築開場。改装ににあたり、永山は「豪華でそれでいて温かい雰囲気を持った劇場」「どこででも見やすい劇場」「俳優にとって使い勝手の良い楽屋施設のある劇場」という3つの要望を出し、8階には広い稽古場を作る「演劇専門劇場」案を示した。その後、「上方歌舞伎の復活を目指す」と宣言し、8階の稽古場を活かした『上方歌舞伎塾』を開校。関西に住んで上方の言葉を話す歌舞伎俳優を育てるという指針のもと、歌舞伎の実技や日本舞踊、長唄、義太夫などを教育し、3期生まで輩出した。また、2004年(平成16年)には大阪松竹歌劇団の後継にあたるNewOSK日本歌劇団(現在のOSK日本歌劇団)によるレビューとして『春のおどり』を66年ぶりに復活させ、以後毎年の恒例となった。1998年(平成10年)、ユネスコの外郭団体である公益社団法人国際演劇協会日本センターの会長に就任。1999年(平成11年)、レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られる。2006年(平成18年)12月13日午前7時48分、急性白血病のため都内の病院で死去。享年81。没後、演劇界に於ける功労を多として、日本政府は永山武臣を従三位に叙し、旭日大綬章を追贈された。


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今や海外に誇るジャパニーズカルチャーとなった歌舞伎。その一翼を担った人物の一人に、松竹で会長にまで上り詰めた永山武臣がいる。学生時代、野球と柔道に熱中していた青年が、松竹入社後は一貫して制作畑を邁進。歌舞伎の世界公演を成功させるのみならず、大名跡の襲名興行を次々に成功させ、敏腕プロデューサーとしての名声を極めた。それ故に、一時期は襲名披露の口上で役者たちは「松竹株式会社、永山会長のお勧めを受け…」と真っ先に謝意を述べ、本人もまたパンフレットやNHKでの芝居中継等で挨拶に応じるなど、まさに歌舞伎界の大重鎮として君臨した。かつてGHQによる伝統芸能統制や若者の歌舞伎離れ等で低迷した歌舞伎を今日に至るまでに大きく成長させた永山武臣の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「永山家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は、「徳風院本壽日武大居士」。

# by oku-taka | 2025-04-24 02:59 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)