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上原敏(1908~1944)

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上原 敏(うえはら びん)

歌手
1908年(明治41年)〜1944年(昭和19年)

1908年(明治41年)、秋田県北秋田郡大館町(現在の秋田県大館市)に生まれる。本名は、松本 力治(まつもと りきじ)。旧制秋田県立大館中学校在学中からヴァイオリンに夢中になり、音楽の素養を身につけた。スポーツは野球を得意とし、専修大学商学部に入学後も東都大学野球連盟に選手として出場。ポジションは投手で、1933年(昭和8年)春と1934年(昭和9年)春の東京五大学リーグ戦優勝に貢献し、4年生では主将を務めた。大学卒業後の1936年(昭和11年)にわかもと製薬宣伝部へ入社し、普通のサラリーマンとして社会人になったが、野球は社会人野球チームに所属し続けた。ある日、試合でレコード会社のポリドール野球部と対戦。その際、上原の遠縁の親戚でポリドールの幹部だった浪曲作家の秩父重剛から作詞家の藤田まさとを紹介され、レコードの吹き込みを勧められる。当時のポリドールには東海林太郎・新橋喜代三というスター歌手を抱えていたが、新たなスターの発掘にかなり注力していた時期でもあった。1936年(昭和11年)、テスト盤として「須坂小唄」など4曲をレコーディング。さらに、浅草〆香、山中みゆきらと共演した『しゃんつく踊り』でデビューした。芸名は、訳詩集「海潮音」の作者・上田敏に、当時の映画俳優・上原謙を捩った「上原敏」とした。「第2の東海林太郎」の育成に躍起だったポリドールは、上原のデビューより前にタイヘイレコードから引き抜いた河崎一郎の宣伝に力を注いでいたが、河崎の人気が上昇しかけた矢先に河崎を巡って訴訟問題が起こり、「ポスト・東海林太郎」は自然に上原に注がれた。上原には義太夫好きだった父の影響を受けて邦楽の素養もあり、広沢虎造を意識した小節を利かせた歌い方は、正統派の東海林と違って大衆的なカラーが強かった。一方、この時点での上原は『遠い湯の町』『恋の絵日傘』などのヒット曲は存在するものの、東海林の模倣と評されるなど伸び悩んでいた。1937年(昭和12年)、東海林が当時の子役・高峰秀子を養女に迎えようとした際にトラブルが起き、藤田と意見が対立。一歩も引かない東海林に対して藤田は、東海林のために用意していた『妻恋道中』の吹き込みに上原を抜擢した。妻恋道中は発売されるや25万枚を超える大ヒットとなり、上原は流行歌手としての地位を確立した。その後、立て続けに松竹映画の主題歌である『流転』、結城道子がソロでレコーディングする予定だった『裏町人生』と連続して大ヒット。翌年の『鴛鴦道中』も、新人の青葉笙子とのデュエットで大ヒットとなった。上原の快進撃はまだ続き、『妻恋道中』をはじめとしたヤクザもの(股旅もの)や『波止場気質』のマドロスもの、『上海だより』『南京だより』などのいわゆる“たより”もの、『流沙の護り』『聲なき凱旋』などの戦時歌謡、それ以外にも『徳利の別れ』『俺は船乗り』など、東海林を追い越す勢いでヒット曲を量産した。異なるジャンルの流行歌を上手く歌い分け、幅広いファン層を獲得していく上原には銀幕への出演依頼も増え、東宝映画『ロッパ歌の都へ行く』『金語楼の大番頭』や、松竹映画『弥次喜多六十四州唄栗毛』『弥次喜多怪談道中』などにも特別出演している。また、同じポリドールに所属していた榎本健一の舞台にも出演し、秋田なまりの朴訥とした台詞まわしで人気を博した。1939年(昭和14年)には日本コロムビアとテイチクが多額の支度金を用意して引き抜こうとしたが、「こうして成功したのもポリドールのお陰です」と全く応じなかった。一方、1938年(昭和13年)3月から1942年(昭和17年)まで、上原は中国大陸を戦地慰問で通算7度訪問し、数多くの将兵の前で歌った。しかし、青葉笙子、山中みゆき、浅草染千代らと何度も戦地を慰問しては帰国直後からレコーディングするハードなスケジュールを消化していたため徐々に体調を崩すようになり、多数の薬を常用するようになっていった。そのため、1941年(昭和16年)にヒットした『仏印だより』では声が荒れ、デビュー当時の柔らかな歌声は失われている。さらに第二次世界大戦が開戦すると、世間は勇壮な軍歌や叙情的な歌曲が中心となり、上原が得意とした股旅歌謡は衰退。さらに上原の歌い方そのものも時局に合わなくなって人気も凋落していった。1942年(昭和17年)、東京・渋谷の劇場に出演してから大久保の自宅に帰ったところ、妻から召集令状が来ていることを告げられた。上原は顔色も変えずにそのまま支度を始め、ポリドール社長の鈴木幾三郎や山中みゆきらに上野駅で見送られ、地元・秋田で入営するため妻と帰郷した。積極的な慰問活動の実績や30代を迎えての召集には不可解な面も存在するが、これは上原敏と本名の松本力治を別人物と判断した秋田県のミスだった事が後に判明した。入隊後は、上原が流行歌手であることを知っていた上官から何度も「報道班員として内地に残るように」と勧められたが、自ら戦地行きを希望し、輜重兵としてニューギニア戦線に赴いた。現地でも気軽に慰問に応じ、最前線の将兵を励まし続けた。1944年(昭和19年)1月には妻に宛てた軍事郵便が届き、現地の食糧事情の苦しさを知らせている。さらに戦地ではマラリアに感染し、死線を彷徨った。日本軍の敗色が濃厚となってきた7月、ウエワク方面で連合国軍の上陸による激しい戦闘に巻き込まれ、消息を絶った。終戦後の1947年(昭和22年)、妻宛に「昭和19年7月29日、補充兵長・松本力治はニューギニア方面にて戦病死」との公報が届いた。ただし後日帰還した戦友が妻に語ったところによれば「戦病死ではなく空襲を受けての戦死だった」「亡くなった日は4月30日」との証言もあり、詳細な最期は不明である。享年36。1976年(昭和51年)、故郷である秋田県大館市の桂城公園に上原の顕彰碑が建立された。


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サラリーマンからポリドールの看板歌手へと華麗な転身を遂げた上原敏。冴える高音に浪花節を思わせる節回しが特徴的で、ヤクザもの、マドロスもの、戦時歌謡とその当時流行していたあらゆるジャンルの流行歌を歌いこなし、いずれもヒットさせた。また、丸眼鏡の見た目そのままに実直な人柄でも知られ、流行歌手になっても質素な生活を続けて借家暮らしを通し、日本コロムビアとテイチクから多額の支度金を用意されてもポリドールから移籍することはなかった。しかし、その実直さが仇となり、誤って召集されてもそれを拒否することなく出征に応じ、内地に残るよう勧められても自ら戦地行きを希望し、ついに戦死という最期を迎えてしまった。戦後も生きていたらば、昭和40年代中頃から巻き起こった懐メロブームによって往年の歌声を聴くことができたであろうと思うと、誠に残念でならない。没後、あらゆる歌手が彼の歌を歌い継ぎ、その人柄が偲ばれた上原敏の墓は、埼玉県秩父市の秩父聖地霊園にある。洋型の墓には「松本家」とあり、背面に墓誌が、右側に「上原敏君の霊に捧ぐ」と刻まれた、恐らく藤田まさと直筆による『流転』の歌碑が建てられている。戒名は「清揚院敬譽妙雅」。

# by oku-taka | 2024-07-24 01:04 | 音楽家 | Comments(0)

金子兜太(1919~2018)

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金子 兜太(かねこ とうた)

俳人
1919年(大正8年)〜2018年(平成30年)

1919年(大正8年)、埼玉県比企郡小川町の母の実家で生まれる。父は開業医で、「伊昔紅(いせきこう)」の俳号を持つ俳人。水原秋桜子の「馬酔木」に所属し、1930年(昭和5年)に自身の俳誌「若鮎」を創刊した。2歳から4歳までその父の勤務地であった上海で、帰国して以降は秩父の地で育つ。旧制熊谷中学を卒業し、1937年(昭和12年)に旧制水戸高等学校へ入学。在学中に一級上の出澤三太に誘われ、同校教授宅の句会に参加してはじめて句作し、「白梅や老子無心の旅に出る」と詠んだ。以来、本格的に句作をはじめ、翌年に全国学生俳誌「成層圏」に参加し、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男らの知遇を得る。1939年(昭和14年)、嶋田青峰の「土上」に投句するが、新興俳句弾圧事件によって「土上」が廃刊に追い込まれる。1940年(昭和15年)、旧制水戸高等学校を卒業。1941年(昭和16年)、東京帝国大学経済学部に入学すると、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事する。1943年(昭和18年)、大学を繰り上げ卒業し、佐々木直の面接をうけて日本銀行へ入行。その後、海軍経理学校に短期現役士官として入校して、大日本帝国海軍主計中尉に任官。トラック島で200人の部下を率いる。餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いする。1946年(昭和21年)、捕虜として春島でアメリカ航空基地建設に従事し、11月に最終復員船で帰国する。1947年(昭和22年)2月に日本銀行へ復職。1949年(昭和24年)から翌年末にかけて、日本銀行労働組合の専従初代事務局長を務めた。1950年(昭和25年)末に福島支店、1953年(昭和28年)に神戸支店、1958年(昭和33年)に長崎支店へ転勤ののち、1960年(昭和35年)に東京本店へ戻る。一方、1947年(昭和22年)に「寒雷」へ復帰。沢木欣一の「風」創刊に参加して主唱する社会性俳句運動に共鳴する。1951年(昭和26年)、福島の藤村多加夫の持ち家に居住しながら、「波郷と楸邨」を『俳句研究』に執筆する。1954年(昭和29年)、同人誌「風」が、俳句と社会性のアンケートを特集し、ここから「社会性とはなにか」との論争が起きた。金子はここで「社会性とは態度の問題」「自分を社会的関連のなかで考え、解決しようとする『社会的な姿勢』が意識的にとられている態度」と主張。 沢木欣一は「社会性のある俳句とは、社会主義的イデオロギーを根底に持った生き方、態度、意識、感覚から生れる俳句を中心に広い範囲、過程の進歩的傾向にある俳句」とした。 佐藤鬼房は「批評精神のないリアリズムというものは考えられないのであり、社会主義リアリズムはその発展した表現」と指摘した。これらの意見に対して、山本健吉、平畑静塔、神田秀夫などから反論が起こり、沢木側にたった原子公平・金子兜太などとの激しい論争が起きた。  1955年(昭和30年)、日本ペンクラブ会員になる。1956年(昭和31年)、第5回現代俳句協会賞を受賞。1957年(昭和32年)、西東三鬼の勧めで「俳句の造型について」を『俳句』誌に発表。従来の俳句を自分と対象との直接結合による素朴な方法によるものとした上で、自分と対象との間に「創る自分」という意識を介在させ、暗喩的なイメージを獲得する「造型」の方法を提唱し、自身の創作方法を理論化する。1958年(昭和33年)、新俳句人連盟の中央委員に推薦され、栗林一石路とともに同誌雑詠欄の選者を1959年(昭和34年)10月号までの1年間担当する。1960年(昭和35年)頃より前衛俳句の旗手に数えられ、1961年(昭和36年)には雑誌「俳句」に「造型俳句六章」を連載。主客という従来の二項対立的な俳句創作の概念を覆す、戦後俳句の革新的理論書となったが、中村草田男の俳句観と対立し論争となった。 1962年(昭和37年)、隈治人、林田紀音夫、堀葦男らと同人誌「海程」を創刊。1974年(昭和49年)、日本銀行を定年退職。同年から5年にわたり上武大学で教授を務めた。55歳定年まで勤めた。1983年(昭和58年)、現代俳句協会の会長に就任。テレビの俳句番組に数多く出演し、俳句の普及に貢献した。1985年(昭和60年)、同人誌「海程」が結社誌となり、主宰に就任。1987年(昭和62年)から朝日俳壇選者を務める。1988年(昭和63年)、紫綬褒章を受章。1992年(平成4年)、日本中国文化交流協会の常任理事に就任。1996年(平成8年)、句集『両神』で第11回詩歌文学館賞を受賞。同年、勲四等旭日小綬章を受章。1997年(平成9年)、第48回日本放送協会放送文化賞を受賞。2000年(平成12年)、現代俳句協会の名誉会長に就任。2001年(平成13年)、第1回現代俳句大賞を受賞。2002年(平成14年)、句集『東国抄』で第36回蛇笏賞を受賞。2003年(平成15年)、日本芸術院賞を受賞。2005年(平成17年)、日本芸術院の会員に選出。となる。2008年(平成20年)、第4回正岡子規国際俳句賞大賞を受賞。同年、文化功労者に選出。2010年(平成22年)、第51回毎日芸術賞特別賞、また句集『日常』で第22回小野市詩歌文学賞を受賞。同年、第58回菊池寛賞を受賞。2015年(平成27年)、朝日賞を受賞。また、『中日新聞』『東京新聞』の「平和の俳句」選者となる。2017年(平成29年)5月、高齢などを理由に2018年(平成30年)9月で「海程」を終刊することを公表。しかし、同年1月から体調を崩し、2月6日に誤嚥性肺炎の疑いで熊谷市内の病院に入院。同月20日午後11時47分、急性呼吸促迫症候群のため死去。享年99。


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戦後の現代俳句を牽引した金子兜太。季語や花鳥風月といった定型にとらわれず、自身の戦争体験や社会問題などを題材とした自由な俳句の世界を築き上げた。また、既成の俳句を批判し、伝統俳句派との論争に挑むなど、気骨ある「前衛俳句の旗手」として俳壇に大きな足跡を残した。晩年、作家の澤地久枝に依頼されて揮毫した「アベ政治を許さない」で話題となったが、この時点で96歳の現役俳人として俳句にテレビにと活躍していたのだから驚かされる。亡くなる直前には、時事通信社が「俳人の金子兜太さんが死去」と誤報を出すなど、何かと話題に事欠かなかった金子兜太の墓は、埼玉県秩父市の総持寺にある。2基ある墓のうち、兜太の眠る墓には「金子家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「海程院航句極居士」。

# by oku-taka | 2024-07-24 00:47 | 文学者 | Comments(0)

五社英雄(1929~1992)

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五社 英雄(ごしゃ ひでお)

映画監督
1929年(昭和4年)〜1992年(平成4年)

1929年(昭和4年)、東京府北豊島郡滝野川町大字西ヶ原(現在の東京都北区西ヶ原)で生まれる。本名は、五社 英雄(ごしゃ えいゆう)。父親は吉原の近くで飲食店を営んでいたが、英雄が誕生した頃は古河財閥の使用人(用心棒のような仕事)をしており、母親は英雄を産んだ時42歳であった。貧しい家庭だったため、産まれたばかりの英雄は浅草にいる叔父(父の弟)夫婦の家に預けられた。叔父は一家を構える博徒で、英雄を養子にするつもりであったが、母は高齢出産した英雄への愛着が捨てきれずに取戻し、結局は実の両親と共に暮らすようになった。小・中学校時代には同級生と喧嘩しても、「お前はカタギの子じゃないから」という理由で、喧嘩の事情も聞かれず問答無用で英雄の方だけ体罰を受けた。1941年(昭和16年)、太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦し、不器用な英雄は軍事教練で三八式歩兵銃の手入れに手間取り、将校からよく怒鳴られ、つい不服そうな顔をすると、「これだからヤクザのセガレは!」と、右顎の歯が折れるほど、さらに激しい体罰を受けたこともあった。こうした生まれ育ちの差別や蔑みで味わった惨めさから、「弱味を見せたら、負けだ」、「決して相手に舐められてはならない」という思いが強くなった。そのため、大人になってからはハッタリやホラ話で周囲を煙に巻いて、実家が大層繁盛した芸妓置屋だったなどと生い立ちを偽ったりと、強気に脚色したりした。しかし、子供の当時は現実の惨めな環境は耐え難く、死にたいという思いから特攻隊の入隊を希望するようになり、中学を中退して1944年(昭和19年)に第13期として予科練に入った。だが予科練入隊まもなく日本脳炎の初期症状を患い、正式入隊が4か月遅れてしまったため実戦参加できず、本土決戦用の水上特攻隊の演習となった。同期の多くは1945年(昭和20年)に台湾や沖縄の戦闘で特攻隊として散っていったが、生き残った英雄は福知山市の飛行機工場で8月15日の敗戦を迎えた。予科練から復員後、一家を養うために食料調達に奔走し、その後は米軍基地の売店でアルバイトをした。基地の軍用品を銀座の闇市に横流しをして金を稼いだ後、明治大学商学部へ入学。卒業後、映画監督を目指し、各映画会社の就職試験を受けたが全て不合格となってしまった。当時は映画会社の社員でなければ監督にはなれなかったため、直接に大映の永田雅一の自宅にも日参して懇願したが叶わなかった。1年間の就職浪人を経て、少しでも映画界に近いところとしてマスコミ業界を目指し、民放ラジオ局のニッポン放送に就職。報道部に配属され、読売ジャイアンツの宮崎キャンプの取材記者などをした後、1959年(昭和34年)のフジテレビ開局に向けての人事異動により、前年の初頭にラジオのクイズ番組や音楽番組のディレクターに異動になった。しかし、どうしても映像業界に行きたい五社は、同期入社でフジテレビの編成部に移った村上七郎に、テレビドラマの演出をやりたい旨を話した。報道部入りを勧める村上の提案に一旦引き下がったが、信奉する黒澤明の演出研究の資料書類を持って再び訪れ、ドラマ演出への希望を滔々と語り懇願すると、村上はその熱意に押され常務に掛け合い、1958年(昭和33年)6月2日に念願かなってフジテレビ出向となり、1959年(昭和34年)1月に正式移籍して社員となった。スポンサー企業の意向に合わせてバラエティーなどを企画した後の同年6月に初めての演出テレビドラマシリーズ『刑事』を手がけた。『刑事』は高松英郎主演で生放送ドラマで、タイトルは「刑事」だが、偽札作りをする悪党がメインとなり、「破滅していくアウトロー」がテーマで、スピーディーな演出が社内で高評価を得た。自身の目指す生々しい迫力のあるアクションを体現できる俳優を探していた五社は、当時まだ有名俳優ではなかった丹波哲郎の野性味と堂々たる体躯に着目。五社は日本テレビで『丹下左膳』のセットで撮影中の丹波を訪れるといきなり初対面の口火で「自作のギャングドラマ『ろくでなし』に出演してほしい」と単刀直入に言った。江戸っ子の丹波と、チンピラ流コミュニケーションを駆使する五社は馬が合い、『ろくでなし』の成功後も、1960年(昭和35年)1月スタートのシリーズ物『トップ屋』でコンビを組むなど、付き合いが長く続くことになる。高視聴率のドラマを連発し、フジテレビの看板ディレクターとなった五社は、黒澤明のような時代劇の演出を目指した。また、同年10月の浅沼稲次郎暗殺事件発生により、警察から刃物やピストルなどの凶器を使う場面の自粛をテレビ局が求められたこともあり、時代劇なら非現実的なファンタジーとして暴力的描写も許容されうるという思いもあった。五社は、当時フジテレビに売り込みに来た無名の殺陣師・湯浅謙太郎が率いる「湯浅剣睦会」と組んだテレビ時代劇『宮本武蔵』の殺陣において、竹光ではなく真剣と同じ重さを持つ危険なジュラルミン製の模造刀を採用し、役者の迫真の演技を引き出した。五社の演出する立ち回りは、限りなくリアルに近い死闘であったが、テレビスタジオのセット内だけの撮影では今一つの限界もあった。五社は、入社2年目の編成部員の白川文造と共に企画を拡げていき、1963年(昭和38年)のテレビ時代劇『三匹の侍』で、丹波哲郎のほか、平幹二朗と長門勇をキャスティングした。当時、長門は浅草のストリップ小屋でコントをしながら下積み生活をしていた無名の役者であった。また、『三匹の侍』の殺陣では、刀と刀がぶつかる金属音や、刀を振った時の風の音、人が斬られる時の肉が裂ける音が付けられた。映画のようなカメラワークやロケが望めないテレビ時代劇において迫力のある立ち回りを演出するため工夫された「効果音」の演出は、五社が初めて時代劇で編み出したものであった。激しいアクションのテレビ時代劇『三匹の侍』の全26話は高視聴率を保ち続け、大成功を収めた。1964年(昭和39年)には映画版『三匹の侍』も製作され、丹波哲郎が創設した「さむらいプロダクション」が製作に乗り出し、松竹の京都撮影所で撮影された。当時、映画業界人はテレビの人間を「紙芝居屋」と見下げていたことから、松竹のスタッフはテレビ局のディレクターの五社に反感を持ち、様々な嫌がらせしたこともあったが、平然としてエネルギッシュな演出をみせる五社と次第に打ち解けていった。映画『三匹の侍』はテレビ局出身初の映画監督作品となったが、当時の映画ジャーナリズムから黙殺された。しかし、衰退の映画会社にとって五社の演出力は魅力だった。当時任侠路線に進んでいた東映は、その路線変更の会社の方針に反抗する中村錦之助のために、巨匠ではない五社を起用し『丹下左膳 飛燕居合斬り』など低予算の時代劇を製作。同じく東映製作の時代劇『牙狼之介』『牙狼之介 地獄斬り』では、五社は俳優座の夏八木勲を抜擢して西部劇風に演出した。1969年(昭和44年)、フジテレビが映画製作に乗り出すこととなり、多額の製作費を使った映画の監督を任されることとなった五社は、フジ製作第1作目『御用金』、第2作目『人斬り』のアクション時代劇を大成功させた。2作とも興行成績ベスト10にランクインし、五社は映画界のヒットメーカーに位置づけられるようになった。この大ヒットにより、同年11月にフジテレビの編成局映画部長に昇進。その後、思い通りのテレビドラマ作品を企画し、深作欣二監督・丸山明宏主演の『雪之丞変化』、田中徳三監督・天知茂主演の『無宿侍』、円谷プロダクションと提携し不条理ホラー『恐怖劇場アンバランス』などを製作するが、丹波哲郎発案の『ジキルとハイド』の内容が過激すぎ、試写を見た上層部が難色を示して、映画部長を解任された。チーフプロデューサーとして報道部へ異動となった五社は、『ひらけ!ポンキッキ』の企画に携わったり、ドキュメンタリーなどを製作したりする傍ら、東宝で映画『出所祝い』、東映で『暴力街』などを監督するが、あまりヒットせずに終わったため、映画会社からのオファーがなくなった。新たに劇画の原作などを書いていた五社だったが、元日本国粋会の森田政治が結成した「蒼龍会」の理事長に五社が就任したことが、フジテレビの鹿内信隆の逆鱗に触れた。1977年(昭和52年)11月には現場から外され、調査役として総務局の経営資料室に左遷。五社は会社にほとんど出社せず、俳優座に入り浸っていたが、そんな五社に佐藤正之が助け舟を出し、アクション時代劇『雲霞仁左衛門』の監督を任された。次作『闇の狩人』もエロと暴力と血しぶきを際立たせた演出で、原作の設定を完全に壊した大エンターテイメントに仕上げたために、原作者の池波正太郎が不快感を表明した。その一方、こうした五社の大胆な演出に角川春樹が注目し、山田風太郎原作の映画『魔界転生』の監督を依頼してきた。民放第3位という低視聴率に陥っていたフジテレビも、1980年代になって再び自社製作ドラマを復活させるべく、五社を現場復帰させた。しかし、1979年(昭和54年)末には妻が2億円の借金を残して家出し、1980年(昭和55年)5月30日には娘がアルバイト先に向かう途中で交通事故に遭い、頭蓋骨陥没骨折で下血腫脳挫傷となり危篤状態となった。五社は、もしも手術が失敗し娘が植物状態となるなら殺してくれと医者に頼み、その時は自身も後を追って死ぬ覚悟を決めていたが、以前から自殺願望を持っていた五社のことを気にしていた丹波哲郎は五社を説得。幸い娘の手術は成功し、失語症の後遺症は残ったものの最悪の事態は避けられた。しかしながら、同年の7月2日に拳銃所持の銃刀法違反容疑で逮捕。拳銃は他人から預かっていたものと見られ、妻の借金により売却された家を訪れた3人組の金融業者集金人によって通報された。3人は五社に執拗に利息を取り立て続け、業を煮やした五社がソファの背に隠しておいた拳銃を取り出したという。この一件は罰金刑だけで済んだが、五社は7月30日にフジテレビを依願退職した。この逮捕スキャンダルによって、オファーされていた『魔界転生』の監督の仕事もなくなった。その後、生活のために新宿ゴールデン街の知り合いの飲み屋に紹介された店で、「五社亭」という店名を付け飲み屋のマスターになる準備をしていたが、かつて『牙狼之介』などで組み、東映の社長となっていた岡田茂と、俳優座の佐藤正之が救いの手を差し伸べ、佐藤は東映京都撮影所の日下部五朗が仲代達矢主役で企画していた『鬼龍院花子の生涯』に、五社とパッケージなら仲代を貸すという条件をつけた。もともと五社と仕事がしたいと思っていた日下部や、東映社長の岡田茂は快く承諾。活動再開第1作『鬼龍院花子の生涯』は1982年(昭和57年)6月に公開され、大ヒットとなった。夏目雅子演じる松恵の発する「なめたらいかんぜよ!」という台詞は、台本にはなかったもので、現場で五社が即興で付け加えたものであった。『鬼龍院花子の生涯』の成功により、日本映画界の第一線に返り咲いた五社は、フジテレビからのオファーで『時代劇スペシャル』の監督を引き受け、復帰第2作目は『丹下左膳 剣風!百万両の壺』となった。続いてフジテレビは、かつてのヒット作『三匹の侍』を『時代劇スペシャル』枠で3時間スペシャル版として企画していたが、五社は東映の日下部五朗からのオファーの映画『陽暉楼』の方を選んだ。フジテレビの社運を賭けた企画を断わってしまった五社は、もう古巣の組織の中で安定収入が得られる道には戻れないと考え、『陽暉楼』の撮影前に京都で、二代目・彫芳の手により全身に羅生門の刺青を入れた。この『陽暉楼』で、日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞。当初、『陽暉楼』の主役は『鬼龍院花子の生涯』に引き続き仲代達矢で行く予定であったが、仲代が黒澤明の『乱』に起用されたためダメになり、緒形拳に決定。五社は緒形を気に入り、『櫂』でも緒形が採用され、『鬼龍院花子』『陽暉楼』『櫂』は、原作者の宮尾登美子とのコンビ作品で「高知三部作」と呼ばれた。1985年(昭和60年)、五社プロダクションを設立。同年には緒形が持ち込んだ企画で『薄化粧』も製作された。1986年(昭和61年)6月、前年に再上映された『人斬り』の宣伝で勝新太郎と週刊誌対談中、田中新兵衛役を演じた三島由紀夫について語った件で右翼団体の怒りを買ったためか、深夜に3人に待ち伏せされて顔を切られ大怪我を負う。五社は彼らがむしろマスコミ沙汰になることを期待していると思い、あえて警察には届けなかった。同年11月には『極道の妻たち』をヒットさせ、1987年(昭和62年)には名取裕子をはじめ、かたせ梨乃、西川峰子、藤真利子ら、当時の有名女優の大胆なヌードシーンが大きな話題を呼んだ『吉原炎上』もヒットさせた。しかし、1988年(昭和63年)公開の『肉体の門』が興行的に失敗。マンネリを打破するために二・二六事件を題材にした『226』の監督を担当するが、撮影終了後の1989年(平成元年)3月に食道がんを告知された。同年4月には京都大学医学部附属病院に入院。入院を仕事仲間や娘に隠すために、オーストラリアにいる兄の所に行ったふりをして密かに手術を受け、7月に退院。退院後は11月にヨーロッパのツアー旅行に行くなど養生した後、1990年(平成2年)6月から『陽炎』の撮影に入った。体調が思わしくない中、1991年(平成3年)11月からは古巣のフジテレビの協力を得て『女殺油地獄』の撮影にかかるが、現場で体調が悪化。入院したために撮影が一時中断し、病院から現場に通うことになった。青白く痩せ衰えてきた五社は撮影が終了するとすぐ入院生活に入り、完成披露試写や1992年(平成4年)5月の公開日には出席できなかった。病室でもかつてのヒット時代劇ドラマの『三匹の侍』のリメイクを企画し、キャスティングも渡辺謙、本木雅弘、竹中直人に決まろうとしていた。しかし、同年8月30日午後12時36分、食道癌及び併発した急性腎不全のため京都府西京区の病院にて死去。享年63。


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斬新な演出でテレビ時代劇に革命をもたらし、女優たちの濡れ場やバイオレンス的描写によって1980年代の映画界を盛り上げた五社英雄。時代劇においては、今や当たり前となった「刀と刀がぶつかり合う音」「刀を振った際の風の音」などを生み出し、草創期のテレビドラマ界に大きな足跡を残した。映画では、人間の持つ情念を壮絶なアクションと大胆なエロティシズムで描き、観客の度肝を抜いた。その世界観に魅せられた人は今なお多く、お笑い芸人の友近やタレントのマツコ・デラックスが、五社作品の魅力を度々テレビで語っている。しかし当の本人はというと、銃刀法違反による逮捕でそれまでの栄光を一瞬にして失い、古巣の仕事を断った際は背中に刺青を入れるなど、常人には理解できないアウトロー気質。それが故に浮き沈みの激しい生涯であったが、ピンチに陥ると必ず救いの手を差し伸べてくれる俳優やスタッフがいたことは、五社の人徳のなせる業といえよう。芸術性ではなく娯楽性を追い求めた映画人・五社英雄の墓は、埼玉県川越市の東陽寺にある。娘が交通事故で重傷を負い、その手術が上手くいかなかった場合は自身も後を追うべく建立したという墓には「五社家之墓」とあり、右側面に墓誌、左側面に座右の銘であった「花の嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生さ」が刻まれている。戒名は「大監院英岳悟道居士」。

# by oku-taka | 2024-07-24 00:30 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)

春日照代(1935~1987)

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春日 照代(かすが てるよ)

漫才師
1935年(昭和10年)〜1987年(昭和62年)

1935年(昭和10年)、大阪府大阪市に生まれる。本名は、近馬 せつ子。旧姓は、松尾。両親が上方漫才師だったことから、幼い頃より芸を仕込まれ、1945年(昭和20年)に姉とコンビを組み、春日淳子・照代でデビュー。1961年(昭和36年)、姉の結婚によりコンビを解消。1963年(昭和38年)、三河島事故で相方を亡くしていた漫才師の三球と結婚。芸能界を引退して家庭に入ったが、1965年(昭和40年)から夫婦漫才コンビとして再出発。売れる前は三球がウクレレ(実際に三球はウクレレは弾けず、弾いていなかった事が多い)を、照代がギターを持ち、テーマソングの「線路は続くよどこまでも」を歌ってから音曲漫才を展開していたが、次第にボケを活かしたしゃべくりに徹するようになり、1970年代中頃には『地下鉄漫才』が大ブレイクして全国区となった。『地下鉄漫才』は当時の大人だけではなく、鉄道に興味を持つ子供たちにも広く受け入れられ、テレビで観た子供たちが当時の営団地下鉄(現在の東京メトロ)の広報に「あの話は本当なんですか?」という問い合わせが夏休みなどに殺到し、営団は「実際には違います」と異例のPRを行う程だった。その後、地下鉄に続き新幹線ネタや山手線ネタなどの鉄道ネタ、タクシーやエスカレーターといった乗り物全般に関するネタをシリーズ化して人気を維持。1975年(昭和50年)には第3回放送演芸大賞ホープ賞、1976年(昭和51年)に第4回放送演芸大賞漫才部門を受賞し、ついに1978年(昭和53年)には第6回放送演芸大賞の大賞に輝いた。しかし、1987年(昭和62年)3月、テレビ番組『新伍のお待ちどおさま』(TBS系)に出演中、くも膜下出血を発症。舞台袖で急変し、近くの東京都新宿区の東京女子医大病院に搬送されたが、すでに手遅れで手術できず、意識の戻らぬまま4月1日午前9時55ふんに死去。享年51。


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「地下鉄の電車はどっから入れたんでしょうかねえ?それ考えると寝らんなくなっちゃうの」のフレーズで知られる『地下鉄漫才』で一世を風靡した春日三球・照代。とぼけた風貌でナンセンスをかます三球と、それにガンガンとツッコミを入れる照代の芸風は大ウケし、落語家の立川談志をして「漫才でトリがとれる」と言わしめた。また、三球のボケにツッコミを入れるだけでなく、『地下鉄漫才』では「アレ(電車)は階段から入れたんですよ。常識で考えないと」と言って、それに三球が「よく改札が通れましたねえ」とさらにボケるという、ボケの畳み掛けをも漫才に取り入れていた。これはひとえに、漫才師の娘として生まれたが故に幼くしてその素養を叩き込まれ、姉と漫才のコンビを組んで活動していた照代だからこそできた技だと思う。『地下鉄漫才』以降、「山手線は電車いっぱいあるんだから、この際全部繋げちゃったら」の『山手線漫才』、「お金を入れないでも切符が出てきたらもっと便利なのに、お金を入れるというのが実に不便ね」の『自動券売機漫才』など、乗り物を題材した漫才で人気を不動のものにしたが、その絶頂期に照代が急死。テレビ番組の出演中にくも膜下出血に倒れ、そのまま故人となったことは、世間に大きな衝撃を与えた。その美貌から、演芸界の同業者からも人気が高かったという春日照代の墓は、埼玉県熊谷市の保泉寺むさしの浄苑にある。墓には「春日三球 照代之墓」とあり、背面に墓誌が刻む。2023年(令和5年)に春日三球も亡くなったが、同年12月訪問時には未だ納骨はされていなかった。照代の戒名は「春日院照譽節操大姉」。

# by oku-taka | 2024-07-24 00:23 | 演芸人 | Comments(0)

山岸一雄(1934~2015)

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山岸 一雄(やまぎし かずお)

料理人
1934年(昭和9年)〜2015年(平成27年)

1934年(昭和9年)、長野県中野市に生まれる。4歳の時に父の勤務先だった神奈川県横須賀市に転居。7歳の時に父が戦死、母の実家のある長野県に戻り、同県下高井郡山ノ内町に移った。父親が日本海軍の職業軍人であったことが影響し、小さい頃は海軍の軍人になるのが夢であった。しかし、終戦によってその夢もなくなり、早く東京に出て働いて家族に仕送りしたいと思うようになった。1950年(昭和25年)、中学を卒業後に上京し、印刷機の部品を作る工場で旋盤を扱う仕事をしていたが、上京から1年位経った頃に、親の従兄弟であり、仲が良く「兄貴」と慕っていた坂口正安に勧められ、1951年(昭和26年)4月、一緒にラーメン屋「栄楽」に勤め始める。その後、坂口が独立する際に行動を共にし、『大勝軒』(中野店)を立ち上げた。この店名は「大きく軒並みに勝る」と言う言葉に由来。1954年(昭和29年)には、坂口が別の場所に本店(代々木上原店)を構えたことにより、山岸が中野店の店長を任されることになった。その頃、修行店時代から存在し、賄食としていた「湯呑み茶碗にスープと醤油を入れたものに、残ってしまった麺を浸したもの」を食していたところ、それを見ていた客が「今度俺にも食わせてよ」と関心を示した。これが転機となり、試行錯誤しながら研究を行い、常連客に試食させたところ評判が良かったのでメニューの一品として完成させ、1955年(昭和30年)「特製もりそば」として供されたものが、商品化された最初のつけ麺といわれ、その考案者とされている。1961年(昭和36年)6月6日、妻と妹の3人で『東池袋大勝軒』として独立創業(暖簾分け)。「特製もりそば」(つけ麺)を中心に人気を博す店となったが、仕事での無理を重ねたことにより二十代後半から下肢静脈瘤を発症。40歳頃に痛みが限界に達したために手術等の治療を行ったが、この病気が様々な面で後々まで広く影響を及ぼしている。1986年(昭和61年)夏、妻が病を発症し、9月30日には52歳で死去。そのため同年8月より7か月休業したが、客の強い要望を受けて復活。その後、弟子を取ることに方針を転換して約100人の弟子を持ち、暖簾分けもさせた。しかし、2005年(平成17年)には病気が悪化したことで厨房に立てなくなったことに加え、時代の流れと東池袋付近の再開発もあり、2007年(平成19年)3月20日をもって閉店。閉店を発表後は連日全国各地から大勢の客が殺到。最終日には数百メートルの行列になるなどの賑わいを見せ、その模様は国内外の新聞、雑誌、テレビなどのメディアで報道された。2008年(平成20年)1月5日、廃業済みの創業店から約100メートル先の場所に『東池袋大勝軒本店』がオープン。公式サイトではこれをもって東池袋大勝軒「復活」としている。山岸自身の指名で2代目店主として飯野敏彦(滝野川大勝軒、南池袋大勝軒で店主を務めていたが、本店店主就任時にこの2店舗は本店直営店化された)が就いたが、山岸自身もスープの味見と仕上げのために厨房に出向いていた。同店のオープンに際しては開店前から長蛇の列となり、用意した400食は約6時間で完売した。なお、同店オープン準備中であった前年の9月6日に脳出血で病院に搬送され、3週間入院していたことをオープン前日のプレオープンイベントで明かした。2011年(平成23年)9月、「山岸一雄製麺所」の1号店をエチカ池袋内にオープン。同チェーンはJ-style株式会社が運営し、経営ならびに総合プロデュースは弟子の田代浩二が行っているため、山岸一雄名義を使用しているだけであって山岸自身は直接関わっていない。同年、山岸の半生を追った映画『ラーメンより大切なもの~東池袋 大勝軒50年の秘密~』が公開された。2015年(平成27年)3月中旬に体調を崩して東京都板橋区の病院に入院。同月27日には危篤となり、4月1日午後0時31分、心不全のため死去。享年82。


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今やポピュラー食となった「つけ麺」を世に広めた山岸一雄。ラーメンを別の器に入った汁につける「つけ麺」で、東京・池袋の「東池袋大勝軒」を全国的な人気ラーメン店へと押し上げた。また、その技術を惜しげもなく伝えたことでも知られ、約20年間で100人以上の弟子を育成し、全国各地に大勝軒の暖簾分けを行った。白いタオルの極太鉢巻に白い長靴という頑固そうな出で立ちながら本人は大変に温厚。 「支那そばや」創業者の佐野実がラーメンの世界で唯一尊敬する人物と公言し、葬儀にはタレントの勝俣州和や猫ひろし、弔辞を当時衆議院議員だった小池百合子が務めるなど、飲食業界にとどまらない存在であった山岸一雄の墓は、埼玉県熊谷市の浄安寺にある。3基あるうち、山岸の納骨されている墓には「山岸家之墓」とあり、左側に墓誌、右側に直筆「麺 絆 心の味」と刻まれた碑が建つ。戒名は「雄厳一道居士」。

# by oku-taka | 2024-07-23 23:54 | 衣・食・住 関係者 | Comments(0)