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平田昭彦(1927~1984)

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平田 昭彦(ひらた あきひこ)

俳優
1927年(昭和2年)〜1984年(昭和59年)

1927年(昭和2年)、統治時代の朝鮮・京城(ソウル)に生まれる。本名は、小野田 昭彦(おのだ あきひこ)。父は東洋拓殖に勤務しており、2つ上に映画監督の小野田嘉幹、4つ下に女優の音羽美子がいる。しばらくして東京都中野区に移り、中学1年のときに東京陸軍幼年学校へ入学。1944年(昭和19年)には陸軍士官学校に入学するが、終戦により旧制の第一高等学校に移る。その後、東京大学法学部に進学。在学中には演劇部に所属。また、母が世田谷で映画関係者のよく利用する旅館を営み、兄が映画界に就職したこともあって映画界への興味を抱き、新東宝にアルバイトとして出入りし、中川信夫監督の『私刑(リンチ)』、加戸野五郎監督の『青春デカメロン』に助監督見習いとして携わる。1950年(昭和25年)、東京大学法学部政治学科を卒業。東京貿易(現在の三菱商事)に入社したが、映画界への興味は捨てきれず、山口淑子の勧めもあって、俳優への転身を決意。1953年(昭和28年)、第5期東宝ニューフェイスとして東宝に入社し、マキノ雅弘監督『抱擁』でデビューする。端整なマスクと知的で気品のある雰囲気で東宝の若手スターの1人となり、同年には『鉄腕涙あり』で初主演。しかし、同作では演技の生硬さを指摘され、映画自体も不評に終わる。以後、準主役や脇役として、文芸作品から、アクション、時代劇、戦争映画、コメディまで数多くの映画に出演し、岡本喜八、福田純、本多猪四郎、稲垣浩らの監督作品の常連となった。特に戦争映画における士官役や、アクション映画の殺し屋やインテリヤクザ役などで、堂に入ったダンディぶりを発揮した。1954年(昭和29年)、東宝の特撮怪獣映画第1作『ゴジラ』に芹沢博士役で出演。以降、東宝・円谷プロ系特撮作品の常連となる。芹沢博士は苦悩する科学者だったが、以後は主にクールで知的な博士・科学者役を得意として作品を引き締め、品格を与えた。1960年(昭和35年)、『大坂城物語』の共演を機として女優・久我美子との交際がスタート。撮影中は毎朝ロケ地の宿泊先前の喫茶店でデートを重ねたが、スタッフや共演者たちは誰も冷やかさず、週刊誌などにもゴシップとして漏らさなかったのは、平田の日頃からの人柄の良さゆえのことであった。1961年(昭和36年)10月9日、帝国ホテルで挙式。披露宴では久我美子の親友で3人娘として売り出していた岸恵子や有馬稲子、三船敏郎、池部良などが出席し、東宝の小林桂樹の司会、仲人が稲垣浩と、錚々たる参加者が300人以上詰めかけた。2人の間に子宝は恵まれなかったが、非常に仲の良いおしどり夫婦として知られた。1964年(昭和39年)以降はテレビを活動の中心とし、ドラマ『青春とはなんだ』や『ウルトラマン』の岩本博士、『愛の戦士レインボーマン』では悪役のボスであるミスターKを演じた。また、バラエティ番組にも出演し、クイズ番組『ぴったし カン・カン』の「ぴったしチーム」レギュラー解答者としても活躍。この番組では、司会の久米宏が休暇中に司会を代行する萩本欽一に替わって「カン・カンチーム」キャプテンを務めたり、ゲストとしても出演した。俳優としては、東宝系を中心に舞台にも数多く出演し、芸術座の『人間の条件』では主演、帝国劇場では山田五十鈴演じる静御前の相手役として1カ月間にわたり源義経を務めた。1975年(昭和50年)に放送された『鬼平犯科帳』のテレビドラマ第3シリーズで、主人公長谷川平蔵の理解者である若年寄・京極備前守高久を演じ、1980年(昭和55年)から放送された第4シリーズにおいても同じく京極備前守を演じた。1983年(昭和58年)9月頃、十二指腸潰瘍を患い手術。回復後はテレビ出演も続け、翌年12月公開の『ゴジラ』では当初林田信を演じる予定だったが、1984年(昭和59年)7月15日に呼吸不全で駿河台日大病院に入院。その結果、林田役は夏木陽介に譲り、8月の収録で東都日報編集長役で出演する意欲を示していた。しかし、7月25日午前11時15分、癌性リンパ管症のため死去。享年56。


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クールで知的な役所を得意としていた平田昭彦。特に特撮映画では博士役を多く演じ、日本のSF映画に貢献した俳優の1人であった。また、『ぴったし カン・カン』で見せた映画俳優らしからぬ気さくな人柄とリアクションはお茶の間にも親しまれた。亡くなる1年前に出演した『今夜は最高!』においても、タモリとコントや楽しい特撮トークを繰り広げており、紳士的な俳優像とはかけ離れたお茶目な姿が大変微笑ましかった。芸能界きっての愛妻家としても知られていたが、若くして病に倒れた平田昭彦。彼の墓は、東京都八王子市の善能寺にある。墓には「南元阿弥陀佛 小野田家」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「真実院釋智昭」。

# by oku-taka | 2022-03-21 23:37 | 俳優・女優 | Comments(0)

丘灯至夫(1917~2009)

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丘 灯至夫(おか としお)

作詞家
1917年(大正6年)〜2009年(平成21年)

1917年(大正6年)、福島県田村郡小野新町(現在の小野町)に生まれる。本名は、西山 安吉。少年時代は体が弱く、よく家族に連れられて福島県猪苗代町の沼尻鉄道に揺られて中ノ沢温泉へ湯治へ出かけていた。1929年(昭和4年)、福島県郡山市立金透小学校尋常科を卒業。福島県郡山市立郡山商工学校(現在の福島県立郡山商業高等学校)商業科に進学し、1932年(昭和7年)に同校を卒業。体が弱かったため仕事が長続きせず、職を転々とする。一方、ひたすら読書にふけり、詩人・西條八十主宰の雑誌に作品を載せてもらったり手紙を出したりしているうちに交流を持つ。1935年(昭和10年)、西條に弟子入り。また、西條を迎えて「蝋人形」郡山支部を結成して主宰となる。「蝋人形」誌に多くの詩作を発表するとともに、1936年(昭和11年)には同期の塩谷賢司とともに詩誌「蒼空」(第一期)を東京で発刊。この頃から、太田博、菊池貞三、三谷晃一など多くの詩人を育てた。1940年(昭和15年)、詩誌「蒼空」を郡山で復刊(第二期)。1941年(昭和16年)、NHKに入局。郡山放送局に勤務し、一時アナウンサーも務める。1942年(昭和17年)、NHKから毎日新聞社(東京)に転職し、地元の福島支局記者となる。1943年(昭和18年)、小柄で脊椎が悪くいつもギプスを着用していたが、召集令状が下る。海軍に配属されたものの病気になり、海軍病院に入院して召集解除される。1946年(昭和21年)、詩誌「蒼空」を福島で復刊(第三期)。1948年(昭和23年)、毎日新聞東京本社出版局に転勤し、毎日グラフ記者として活躍。1949年(昭和24年)、たまたま手がけることとなった『母燈台』(歌:霧島昇)の作詞をきっかけに、日本コロムビア株式会社の専属作詞家となる。作詞家となった後も毎日新聞社には籍を置き続けており、1972年(昭和47年)に毎日新聞社を定年退職している。その際、毎日新聞社会長より終身名誉職員の名を与えられ、出版局特別嘱託となる。作詞家としては、『高原列車は行く』(歌:岡本敦郎)、『東京のバスガール』(歌:コロムビア・ローズ)、『襟裳岬』(歌:島倉千代子)とヒット曲をコンスタントに発表。1963年(昭和38年)には『高校三年生』(歌:舟木一夫)で日本レコード大賞作詞賞を受賞した。1964年(昭和39年)、童謡『ワン・ツー・スリー・ゴー』により日本レコード大賞童謡賞を受賞。その後はアニメ主題歌も手がけ、『ハクション大魔王の歌』(歌:嶋崎由理)、『みなしごハッチ』(歌:嶋崎由理)などをヒットさせた。1988年(昭和63年)、勲四等瑞宝章を受章。1993年(平成5年)、福島県田村郡小野町に「丘灯至夫記念館」(ふるさと文化の館内)がオープン。2008年(平成20年)6月頃に体調を崩し、2009年(平成21年)6月には慢性腎不全のため東京都内の病院に入院した。11月24日午前4時2分、腎不全のため東京都千代田区の病院にて死去。享年92。


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明るい青春歌や思わず口ずさんでしまうホームソングを生み出した丘灯至夫。『あこがれの郵便馬車』『高原列車は行く』といった乗り物ソングから始まり、舟木一夫の歌った爽やかな青春歌謡、『ねこふんじゃった』『ハクション大魔王』『みなしごハッチ』などの童謡・アニメソングを手がけ、老若男女に親しまれた。晩年、「まだ詩にしていない乗り物がある。霊柩車の歌を作らなくては死んでも死にきれない」と語り、『霊柩車はゆくよ』と『あの世はパラダイス』を作詞。コロムビアは発売にあたり「丘作品の集大成」と銘打ったが、丘の死去でその通りとなってしまい、実に見事な作詞家人生の幕切れとなった。丘灯至夫の墓は、東京都八王子市の東京霊園にある。墓には作詞家としての名と妻の名前、西山家と彫られ、右横に墓誌、左横に代表作『高校三年生』の歌碑が建つ。

# by oku-taka | 2022-03-21 23:14 | 音楽家 | Comments(0)

吉岡隆徳(1909~1984)

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吉岡 隆徳(よしおか たかよし)

陸上競技選手
1909年(明治42年)〜1984年(昭和59年)

1909年6月、島根県簸川郡西浜村(後の湖陵町、現在の出雲市)に生まれる。幼い頃から足が速く、運動会では常に一番だった。小学校卒業後に斐川町(現在の出雲市)の吉岡家の養子となる。旧制島根県立杵築中学校(現在の島根県立大社高等学校)から島根県師範学校に進学。本科1年のとき、陸上競技の指導で来県していたパリオリンピック100メートル競走代表の谷三三五にスプリンターとしての才能を見出される。その後、東京高等師範学校に進学。東京高等師範時代の1930年(昭和5年)5月、第9回極東選手権競技大会の男子100メートルに日本選手として初めて優勝。それまでこの大会の男子100メートルはフィリピン選手の独擅場であったが初めて打ち勝ち、晩年の吉岡は現役時代の「思い出に残るレース3つ」の1番目に挙げていた。6月、京城府(現在のソウル特別市)で開かれた競技会で10秒7の日本タイ記録をマーク。この記録は翌年4月に南部忠平が10秒6で更新するが、吉岡はその1ヶ月後に10秒5を出して王座を奪い返した。1932年(昭和7年)8月、第10回ロサンゼルス五輪で、100メートル競走に出場。東洋人初の6位入賞を果たした。このロサンゼルス五輪の100メートル走で金メダルをとり、「深夜の超特急」と呼ばれたエディ・トーランにちなんで、スポーツライターの川本信正(当時読売新聞記者)が「暁の超特急」という呼び名をつけた。吉岡の走りで特に優れていた部分はスタートダッシュで、当時の世界トップレベルを誇った。その訓練のために、吉岡は日常生活においても「何かが切り替わった瞬間にスッと行動する」というのを習慣づけていたほどだという。1933年(昭和8年)9月、自己記録を0秒1更新する10秒4を記録。1935年(昭和10年)、6月9日の関東近畿フィリピン対抗陸上競技大会と6月15日の日比対抗戦には、10秒3の世界タイ記録を達成した。この記録は日本陸上界の短距離走が世界に追いついたことを意味する非常に意義のあるものだった。その翌年のベルリンオリンピックでは、日本中からメダル獲得の大きな期待を寄せられて出場したが、それがプレッシャーとなり10秒8の平凡な記録で2次予選落ちしてしまう。その結果に責任を感じた吉岡は自殺まで考え、ノイローゼ寸前になった。しかし、日本で迎えた小学生に「吉岡選手、悲観するな。この次のオリンピックで頑張ってください」と励まされたことで再び競技の道に戻ることができた。一方、日本陸上競技選手権大会の100メートルでは、1931 - 32年、1935年、1938 - 1940年の6回優勝を果たす。この優勝回数は神野正英に破られるまでは最多記録であった。その後も1940年(昭和15年)の第12回東京オリンピックに向けて準備を進めていたが、日中戦争の勃発によりオリンピックの開催が中止。吉岡も現役を退いた。1941年(昭和16年)、広島高等師範学校に招かれ教授に就任。1945年(昭和20年)8月6日、吉岡は同校学生を連れて東洋工業内で勤労奉仕中原爆投下に遭うが、爆心地から10km離れていたため大きな怪我はなかった。しかし、中心部に残った家族に会うため、途中瀕死の人達を無視し先を急いだ自身の行動にショックを受け教職を離れた。戦後は広島県庁教育委員会保健体育課長に職を移り、1950年(昭和25年)の国民体育大会広島開催に尽力するなど戦後の約10年間、陸上の現場から離れ体育行政に携わった。また、1952年(昭和27年)には広島カープの初代トレーナーを務めるなど当地のスポーツ界に功績を残した。こうして裏方の仕事を続けるうち、指導者としてベルリンの屈辱を晴らしたいと強く願い、吉岡はリッカーミシンの陸上部監督として55歳で陸上の現場に復帰。飯島秀雄や依田郁子らを指導した。東京オリンピック終了後にリッカーミシンを辞し、中央大学の陸上部監督に就任。1970年(昭和45年)には東京女子体育大学の教授となった。一方、高齢になっても100メートルをどの程度の記録で走れるかにこだわり、マスターズ大会や東京女子体育大の運動会に出走。70歳の東京女子体育大運動会では15秒1を記録している。1978年(昭和53年)、紫綬褒章を受章。1983年(昭和58年)6月、アキレス腱を切断して入院。当初は負傷した足の治療が目的であったがそのまま病の床に就き、1984年(昭和59年)5月5日午後3時10分、胃癌のため東京都立府中病院(現在の東京都立多摩総合医療センター)にて死去。享年74。


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「暁の超特急」と呼ばれた、伝説的スプリンター・吉岡隆徳。驚異的なロケットスタートで世界の強豪と渡り合い、日本人でただひとりオリンピック100メートルの決勝に進出した。引退後は後進の指導にあたり、100メートル元日本記録保持者の飯島秀雄や、1964年(昭和39年)東京オリンピックの80メートル障害5位の依田郁子ら多くのアスリートを育てた。晩年も走り続け、年代ごとの100メートル世界記録に挑戦。「私は死ぬまで記録を追って後輩に記録を残したい」の言葉を残し、生涯かけて記録に挑み続けた吉岡隆徳の墓は、東京都八王子市の高尾霊園にある。洋型の墓には「吉岡家」とあり、背面に墓誌が刻む。また、カロート部分には「暁の超特急 隆徳」と彫られている。

# by oku-taka | 2022-02-15 16:24 | スポーツ | Comments(0)

水原茂(1909~1982)

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水原 茂(みずはら しげる)

プロ野球選手・監督
1909年(明治42年)〜1982年(昭和57年)

1909年(明治42年)、香川県高松市に生まれる。幼少時に両親が離婚。その後、父親が入り婿になり、再婚した先の「水原」姓になった。野球を始めたのも、実家の環境からの気晴らしであったという。旧制高松商業学校(現在の香川県立高松商業高等学校)時代は、先輩の宮武三郎(後の阪急初代主将)とともに甲子園へ出場。投手・三塁手として名を馳せる。甲子園では1925年(大正14年)夏と1927年(昭和2年)夏の2回で全国優勝を達成した。水原と宮武はともに慶應義塾大学に進み、チームメートとして、また、先輩・後輩の関係が続いた。慶應時代は六大学野球のスター選手(三塁手、投手)として人気を博し、春秋通算で5度のリーグ優勝。1931年(昭和6年)からは大リーグ選抜来日時の全日本チームメンバーに選ばれた。しかし、1933年(昭和8年)の秋季リーグ戦の早大対慶大3回戦の9回表、水原が三塁の守備につくと、三塁側早大応援席から水原に向かってごみなどと一緒にリンゴの芯(梨だとする説もある)が投げ込まれた。これは、2回に早大の悳宗弘投手の投球がいったんストライクと宣告されるものの慶大腰本寿監督と打者井川喜代一の抗議でデッドボールに覆り、8回には慶大の岡泰蔵選手の二盗判定を、塁審は最初セーフと判定したが早大高須清遊撃手の抗議でアウトに覆るも、これに対して慶大の三塁ベースコーチだった水原茂が塁審に詰め寄り猛抗議を展開するなど、審判の判定を巡ってトラブルが重なった経過から両校の応援団は興奮状態にあり、それが為に先の水原の抗議での態度に興奮した者が起こした出来事だった。水原がこれを守備の構えのままバックトスのように三塁側に投げ返したことで早大側がさらに激高。試合は9回裏に慶大が2点を返し9-8の逆転サヨナラ試合となったが、試合終了と同時に早大応援団は慶大ベンチ・応援席になだれ込み、慶大応援団の指揮棒が奪われ行方がわからなくなるなどの大乱闘となり、警官隊が出動する騒ぎとなった。その後、両校は「水原謹慎」「早稲田謹慎」と言い合ったが、11月19日早大野球部長が辞任することで決着した。その後、12月3日に麻雀賭博で検挙され、野球部を除名される。1936年(昭和11年)秋、巨人に入団し、前川八郎に代わって三塁手のレギュラーとなる。以降、二番または三番の上位打線を打ち、1937年(昭和12年)秋季リーグでは打率.290、31打点といずれもチーム2位を記録した。1938年(昭和13年)には秋季リーグで投手も務め、スタルヒンに次ぐ8勝(2敗)を挙げ、防御率1.76とリーグ2位に付けた。1939年(昭和14年)からは主将を務め、1940年(昭和15年)はベストナインにもなった。1942年(昭和17年)には応召によってシーズン途中の8月で途中離脱したにもかかわらず、人望があったということで最高殊勲選手に選ばれている。戦争ではアジア大陸に渡り、シベリア抑留を経験。1949年(昭和24年)7月20日、舞鶴港に帰国。4日後、東京駅に列車で到着したその足で後楽園球場に行き、そこで行われる巨人対大映戦(ダブルヘッダー)の試合前、「水原茂、ただいま帰ってまいりました」の言と共に帰還をファンに報告する。水原は既に40歳になっていたが、ファンからの水原のプレーを見たいとの声を受けた読売本社からの要請を受けて、現役に復帰。しかし、シベリア抑留中に極度の栄養失調に陥っていたこともあり、衰えは隠せず復帰したシーズンは公式戦には出場しなかった。1949年(昭和24年)、シーズン終了後、巨人選手たちが三原監督に対する排斥騒動を起こし、その流れに押されて12月31日に監督に就任することが発表された。この年チームを戦後初優勝に導いた三原は総監督に異動となる。水原自身は「優勝に導いた監督が辞めさせられるのは筋が通らない」と監督就任に反対していたというが、1950年(昭和25年)は兼任監督となった。この年は3位に終わるが、1951年(昭和26年)から1953年(昭和28年)までリーグ3連覇と日本一を達成。巨人の「第二期黄金時代」を築いた。選手には与那嶺要、川上哲治、千葉茂、広田順、別所毅彦ら名選手が揃っていたが、1954年(昭和29年)は杉下茂擁する中日ドラゴンズにペナントを奪われて2位となり優勝を逃した。この間、ユニホームに黒とオレンジのチームカラーを導入した(MLBのニューヨーク・ジャイアンツを参考にしたもの)。再び独走でリーグ優勝を達成して臨んだ1955年(昭和30年)の日本シリーズは南海と4度目の対戦になった。巨人は第1戦に勝利したが第2戦から3連敗を喫し、シリーズで初めて王手をかけられる。水原は第5戦にあたって、捕手を広田順から藤尾茂へ、二塁手を千葉茂から内藤博文へ、左翼手を樋笠一夫から加倉井実へと若手選手を抜擢する賭けに出ると、これらの選手が活躍して3連勝。逆転日本一を達成した。翌年もリーグ優勝を達成すると、日本シリーズの対戦相手はライバルの三原脩率いる西鉄ライオンズとの対戦となり、マスコミから(三原の巨人退団の経緯を踏まえて)「巌流島の決戦」と喧伝された。1956年(昭和31年)、品川主計球団社長が新田恭一を水原の頭越しにコーチで招いた。新田は野球を科学的に分析した新田理論で、当時の球界に一目置かれる存在だったが、しかし水原と新田の考えは合わなかった。1957年(昭和32年)はリーグ優勝したものの日本シリーズでは続けて西鉄ライオンズに敗れた。このときの対戦成績は1分4敗で1勝も挙げることなく敗れたため読売内部から水原の手腕を問う声が高まった。2年連続で日本シリーズ敗退を受け、品川球団社長は藤本英雄、谷口五郎の2コーチの解任を決めた。しかし、水原が「藤本をやめさせるなら、自分も身を引く」と反発。正力松太郎オーナーは国家公安委員会委員長を務めており、水原を人事院ビルにあった国家公安委員長室に呼びつけた。正力オーナーは品川球団社長のコーチ解任人事について、水原に新任コーチの人選を認めることを条件に受け入れるよう命じた。水原はこれを聞いて監督の辞任を撤回する。だがこれを聞いた品川球団社長はその場にいたマスコミの前で「ワシに謝れ」となじった。この修羅場は「人事院騒動」あるいは「謝れ事件」と報道された。1958年(昭和33年)の日本シリーズは三原の西鉄ライオンズと3度目の対決となった。第1戦から3連勝して王手をかけるが、明け方まで降り続いた雨のために第4戦は中止。しかし試合開始前に雨は上がっており試合に耐えるグラウンドコンディションだったという。九州各地からバスで観戦に向かうファンたちに配慮しての中止決定とする西鉄側を巨人と水原は執拗に抗議したが認められなかった。その第4戦を落としたものの第5戦は9回表を終わって1点のリード。しかしその裏西鉄の代打小淵泰輔の三塁線への打球を二出川延明塁審がフェアと判定したことに水原・三塁手長嶋茂雄がファウルだと抗議。結局判定は覆らずその後関口清治がセンターにタイムリーヒットを放って同点、延長10回に稲尾和久のサヨナラ本塁打(シリーズ史上初)で試合を落とした。さらに第6戦開始前に西鉄が先発メンバーの変更を申し出(当時は前日に先発メンバーを発表)、これを巡って両軍はもめ、井上登コミッショナーを挟んで悠然と座る三原と苦虫をかみつぶしたような表情の水原が対峙する写真が残っている。この騒ぎで試合開始が遅れ、調整に混乱させられた先発藤田元司が初回に中西太に決勝打となる先制2ランを浴びこの試合も敗れ、稲尾の4連投で4連勝を挙げた西鉄に史上初の3連敗4連勝を許してしまった。この年のオフ、投手の別所毅彦が契約更改で登板数の保障を求めたことに、「選手の起用は監督の専権事項」と強く批判。この対立はマスコミを賑わせたが最終的に別所が誤りを認めて謝罪し、水原もできるだけ別所の意向に沿うように努めることで決着した。1959年(昭和34年)もリーグ優勝を果たすが、今度は杉浦忠を擁する南海ホークスの前に4連敗を喫した。1960年(昭和35年)には三原が同じセ・リーグの大洋監督に就任し、マスコミから巌流島の決戦再びと喧伝された。三原は6年連続最下位の大洋を巧みな選手起用でチーム力を引き上げ、巨人と優勝争いを繰り広げ、大洋に屈してリーグ優勝を逃し2位となる。結果、水原は5年連続の日本一を逃す結果となり、正力オーナーの水原に対する評価も下落し、「グラウンドの恥は、グラウンドでそそぐ」との名言を残して11月19日に水原は巨人の監督を辞任した。12月8日、東映フライヤーズのオーナー大川博に「金は出すが、口は出さない」と口説かれて東映監督に就任。東映は当時万年Bクラスに甘んじていたが、水原は就任1年目で南海ホークスとシーズン終盤まで優勝争いを繰り広げ2位に上げた。水原は着任とともに、ユニフォームを自らデザインして頭文字のFを飛翔する鳥を摸したデザインになっている胸ロゴなどスタイリッシュな物に変更させた。1961年(昭和36年)は、9月初めに勢いが落ちた南海に代わって首位に浮上し、一度は初優勝が目前に見えたが、優勝争いに慣れない面々は守備でエラーを連発するなど、誤算が続出。最終的に息切れし南海の優勝を許したが、83勝52敗5分けの貯金31は球団史上最高、張本が首位打者、土橋が30勝、久保田が25勝、西園寺昭夫はリーグ最多の97得点、毒島章一もリーグ最多の11三塁打と投打が噛み合ってきた。この年のオフには大規模な補強を敢行して、浪商2年生だった尾崎行雄を中退させて獲得、早慶戦で活躍した安藤元博、立教大学の青野修三、芝浦工大の岩下光一らを獲得。翌年には尾崎はエースとして活躍し、青野、岩下は二遊間を組んでレギュラーとなるなど、補強は成功し、張本が打率333(リーグ4位)、31本塁打、99打点(共にリーグ2位)でMVP、久保田が最優秀防御率のタイトルを獲得し、チームはリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは藤本定義率いる阪神タイガースと対戦。第1戦と第2戦に連敗し、第3戦は引き分けで、第4戦から4連勝して日本一を達成する(第1戦、第2戦で先発だった土橋を第3戦以降は救援に回し2勝を挙げて種茂雅之と共にMVPを獲得[12]、第3戦からデータ研究に長けていた安藤順三から種茂に捕手を変え、種茂は思い切ったリードで投手の力を引き出しながら打っても殊勲打を放った[13]、第7戦では主砲張本勲に守備固めの選手と交代させるなど非情な采配でチームを引き締めた)。以後1967年(昭和42年)まで監督を務めて、その間Aクラスを保った。張本は「私はいつも言うけど80年以上のプロ野球の歴史の中で、名将と言えるのは、三原脩さん、水原さん、鶴岡さん、川上哲治さん、この4人だと思うんですよ。優勝して、その後もっと戦力を上げたいじゃないですか。補強もしたい。そのためにはお金も使いたい。ムダなお金じゃないんだから。ところが球団が聞く耳を持たなかったから水原さんは去っていくわけです。東映に7年いらっしゃて、最後の2年ぐらいは我慢したそうなんですよ」と回顧している。1967年(昭和42年)11月25日、大川博オーナーから監督の解任を通告された。1968年(昭和43年)11月6日、中日ドラゴンズの監督に就任。就任時には中京財界の要人を複数従え、そのことが球団内での立場を強くした。在任中には4位、5位、2位と優勝は果たせなかったものの、星野仙一、島谷金二、谷沢健一といった若手の選手育成に心血を注ぎ、自身をヘッドコーチとして支え後継監督の与那嶺要による巨人のV10を阻む優勝の土台をつくった。また、水原は東映に続いて中日でもユニフォームのデザインを担当。当時MLBでは鮮やかなユニフォームが全盛を迎えており、鮮やかな赤いユニフォームを纏い来日して日本のファンに衝撃を与えたセントルイス・カージナルスにあやかろうと思ったが、自身は巨人、球団も前年に赤いユニフォームで失敗しているためこれに代えて鮮やかなスカイブルーとを導入、赤は差し色として使用した。さらに胸ロゴの「Dragons」は髭をoの下までだったのをロサンゼルス・ドジャースのように頭のDの下まで伸ばしたものに変更ており、この意匠はその後のユニフォームにも継承されることとなる。1971年(昭和46年)10月4日、公式戦終了とともに中日監督を辞任し、監督業からも引退することを表明した。水原の監督最終日の第一試合の相手はライバル・三原率いるヤクルトアトムズだった。この試合に水原中日は勝利し、第二試合の大洋ホエールズ戦終了後、水原はナインから胴上げされた。以降は東京放送(TBSテレビ・TBSラジオ)専属野球解説者として活動。日刊スポーツ野球評論家も務めた。1977年(昭和52年)、野球殿堂入り。1982年(昭和57年)2月、吐血して入院。同年3月26日、肝不全のため東京都新宿区の東京女子医科大学病院で死去。享年73。葬儀は、腸チフスで現役中に急逝し、背番号4が永久欠番となった黒沢俊夫に次ぐ史上2人目の読売巨人軍の球団葬として行われた。


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ライバル・三原脩とともに戦後のプロ野球界を盛り上げた水原茂。特に監督としては、新人の長島と王を発掘してON時代の基礎を築き、巨人軍第2期黄金時代をもたらした。また、アメリカ仕込みの大リーグ戦法をいち早く取り入れ、ブロックサイン、ワンポイントリリーフなどを駆使した。まだ成績を残していない若手選手を試合の大事な局面で抜擢するなど、稀代の勝負師としても知られた水原茂の墓は、神奈川県横浜市の総持寺にある。墓には「水原家之墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。戒名は「樂雲院禅風巨献居士」。

# by oku-taka | 2022-02-15 16:09 | スポーツ | Comments(0)

真家ひろみ(1946~2000)

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真家ひろみ(まいえ ひろみ)

歌手・タレント
1946年(昭和21年)〜2000年(平成12年)

1946年(昭和21年)、東京都渋谷区西原に生まれる。本名は、真家 弘敏。その後、杉並区上高井戸で育ち、渋谷区立代々木中学校、東京商業高等学校、日本大学芸術学部と進学。一方、ジャニーズのプロデューサーであるジャニー喜多川が教えていた野球チーム「ジャニーズ」の一員としても活動。ある日、雨で野球の練習が出来なかったため、ジャニーは少年たちを引き連れて映画『ウエスト・サイド物語』を鑑賞。彼らは同作に衝撃を受け、ジャニーはエンターテインメント事業への参入を決意する。ジャニーは米国由来の舞台芸術への憧れを持っており、メンバーもダンスのレッスンを熱心に行った。1962年(昭和37年)4月、野球チームのメンバーだった真家、飯野おさみ、中谷良、あおい輝彦の4人でジャニーズが結成される。8月、NHK総合『夢であいましょう』で田辺靖雄のバックを務め、芸能界デビュー。同番組は生放送の舞台ショーであったため、「歌って踊れるアイドル」という稀有な存在が重宝されることとなった。本物の舞台ショーにも積極的に出演し、1963年(昭和38年)1月には、日劇『第19回ウエスタン・カーニバル』に出演し、伊東ゆかりの「ロコモーション」のバックを務める。デビュー当初は名和プロダクション内の「新芸能学院」に在籍していたが、1964年(昭和39年)6月にジャニーがジャニーズ事務所を創業。ジャニーズは同事務所初の所属グループとなる。12月、『若い涙』でレコードデビュー。『夢であいましょう』内のコーナー「今月の歌」に採用される。以降も、永六輔、中村八大のゴールデンコンビによる楽曲を次々と発表。『涙くんさようなら』『太陽のあいつ』などのヒットを飛ばした。1965年(昭和40年)、日本版ウェストサイド物語というべきミュージカル『焔のカーブ』(脚本:石原慎太郎、主演:北大路欣也)に出演。同年、『第16回NHK紅白歌合戦』に初出場。披露したのは音楽劇『三文オペラ』の劇中歌「マック・ザ・ナイフ」のカバーで、舞台を意識したパフォーマンスであった。1966年(昭和41年)8月28日、本格的なダンスレッスンをするために渡米。その後、ワーナー・ブラザースとの契約が決まり、予定の3ヶ月という滞在期間を延長してLPレコードのレコーディングを開始。その中から2曲を全世界に向けてシングルリリースした。プロモーションフィルムも制作していたが、何らかの原因により吹き込みが叶わなかった。なお、未発売の楽曲のうち、『Never My Love』はアドリシ・ブラザーズが作った楽曲で、ジャニーズのLPのお蔵入りが決まった後、1967年(昭和42年)にアソシエイションによって演奏及びレコード化され、全米チャート第1位の大ヒットを記録している。同年1月5日に帰国。渡米中に爆発的に流行していたグループサウンズを参考にした楽曲を発表するが、アメリカ留学や色々な経験を経て、メンバーそれぞれやりたいことや方向性に個性が出てきたことから、程なくして解散へと至ることになる。11月20日、渋谷公会堂にて解散コンサートを開催。そして12月31日放送の『プラチナゴールデンショー』(日本テレビ)への出演を最後に解散した。解散と同時にジャニーズ事務所からも退所。 その後は所属事務所を転々としたり、芸名を幾度も改名(真家宏満→まいえ宏満→ 真家宏満→立花正太郎 )しながら、『3時のあなた』のサブ司会、俳優、作詞(日本作詞家協会の会員にもなる)、更には日活ロマンポルノ出演までこなした。 私生活では、元宝塚歌劇団54期生で1歳下の白河かほると結婚。夫婦で個人事務所「真家企画」を設立し、妻のリサイタルプロデュースも手がけた。1982年(昭和57年)、タクシー運転手に転身。 その模様は猪瀬直樹の著書『あさってのジョー』(文庫化の際に『日本凡人伝 ~ 二度目の仕事』に改題)や、フジテレビ『ザ・ノンフィクション』でも取り上げられた。1993年(平成5年)には、『ハイ!どうぞ ~ ジャニーズ・タクシー奮走記』を上梓している。1995年(平成7年)、念願だった個人タクシーの資格を取得。 しかし、2000年3月6日午前0時頃に胸の痛みを訴えて救急搬送。午前2時55分、心筋梗塞のため新宿区の病院で死去。 享年53。


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初代ジャニーズのメンバーだった真家ひろみ。芸能界にジャニーズ帝国が築かれる前、歌って踊れる男性4人組として芸能界にデビューし、ジャニーズグループの第一号となった。中でも真家はトークが上手く、ステージでは進行役を務めることが多かったことから、リーダーポジションとして活躍した。そんな真家だったが、ジャニーズ解散後しばらくをしてタクシー運転手に転身。華やかな元アイドル、しかも作家の池波正太郎からもらった「立花正太郎」の名に改めた後だっただけに、衝撃を受けた人も多かったのではないだろうか。それでも彼は卑屈になることなく、むしろその転身ぶりを堂々とアピールしていて、元来の明るく前向きな性格を感じたものだった。突然の死から22年、真家ひろみの墓は、神奈川県川崎市の春秋苑にある。洋型の墓には花が彫られ、背面に墓誌が刻む。

# by oku-taka | 2022-02-15 15:31 | タレント | Comments(0)