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岡田時彦(1903~1934)

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岡田 時彦(おかだ ときひこ)

映画俳優
1903年(明治36年)〜1934年(昭和9年)

1903年(明治36年)、東京市神田区宮本町(現在の千代田区外神田2丁目)に生まれる。本名は、高橋 英一(たかはし えいいち)。父の放浪癖のため、川崎に3年、茅ヶ崎に1年、その後逗子に移るなど各地を転々とした。旧制逗子開成中学校には抜群の成績で入学したが、伊勢佐木町の映画館で観た『名金』に感動して、学業そっちのけで浅草六区に足を運ぶほど映画に熱中し、後に中退した。1920年(大正9年)、山下公園に撮影所をもつ横浜の映画会社・大正活映(大活)の俳優募集に応募し、17歳で入社。「野羅久良夫」または「野良久良男」の芸名をもらう。8月、同社設立第一作であるトーマス・栗原監督の『アマチュア倶楽部』で映画デビューを果たす。続いて12月公開の『葛飾砂子』に出演。その後、本名の「高橋英一」名義で何本かの短編理想映画に出演し、同社文芸顧問として脚本を担当していた谷崎潤一郎にかわいがられ、「岡田時彦」という芸名をもらう。1922年(大正11年)、栗原監督病臥のため大活が解散。東京・蒲田の松竹キネマに吸収される。それに伴い、前年すでに「大活」を退社していた同期入社の内田吐夢(当時俳優)、井上金太郎らのいる京都へと移り、帰山教正の映画芸術協会、マキノ省三のマキノ等持院撮影所を経て、兵庫県芦屋の帝国キネマ芦屋撮影所、大阪府下中河内郡小阪町(現在の東大阪市)の帝国キネマ小阪撮影所などを転々とする。1925年(大正14年)、小阪撮影所が東邦映画製作所に改組された第一作として、伊藤大輔監督の『煙』に主演。伊藤監督の主宰する伊藤映画研究所(伊藤大輔プロダクション)に稲垣浩らと三か月ほど住み込みの研究生となる。同年、日活大将軍撮影所に入社。1926年(大正15年)2月、溝口健二監督の『紙人形春の囁き』に出演。同作はキネマ旬報ベストテン7位に入った。10月、阿部豊監督のソフィスティケイテッド・コメディ『足にさはつた女』に出演。1927年(昭和2年)3月には『彼を繞る五人の女』に主演。同作では岡田嘉子や当時18歳の夏川静江と共演し、ベストテン2位に入った。モダンでスマートな阿部監督作品にて近代的な知性と憂鬱を漂わせた繊細な演技を披露し、映画誌「映画時代」のファン投票では当時の大人気スター・阪東妻三郎に400票以上も差をつけて第1位に輝き、トップスターの仲間入りをした。その後も、『母いづこ』(阿部豊監督)、『激流』(村田実監督)、『日本橋』(溝口健二監督)などに出演し、中野英治とともに昭和初期の典型的なモボ像を確立した。1929年(昭和4年)、松竹蒲田撮影所に移籍。小津安二郎監督の信頼を受け、『その夜の妻』、『お嬢さん』、『淑女と髯』、『東京の合唱』、『美人哀愁』に出演。どこにでもいるような小市民を飄々と演じて新境地を開拓し、松竹蒲田の哀愁とユーもアをたたえた小市民喜劇において才能を発揮した。また、鈴木傳明、高田稔と共に松竹蒲田の三羽烏と呼ばれた。しかし、1931年(昭和6年)9月、鈴木、高田らとともに退社し、不二映画社およびその撮影所「不二スタジオ」を豊島園に設立。阿部豊監督の作品に主演するが、1年足らずで解散となる。1933年(昭和8年)、京都に舞り、大活の同期だった内田吐夢が発掘した入江たか子の「入江ぷろだくしょん」、かつて不二映画社の作品を配給した新興キネマ京都太秦撮影所(帝国キネマ太秦撮影所の後身)に入社し、溝口健二監督の『瀧の白糸』、『祇園祭』に出演。しかし、村田実監督の『青春街』に出演した頃から持病だった結核が悪化。12月には大阪市の大阪赤十字病院に入院した。年末にいったん小康を得たものの、1934年(昭和9年)1月16日、兵庫県西宮市の寓居で死去。享年30。


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無声映画時代を代表する二枚目の一人であった岡田時彦。その近代的な容姿と演技で一躍スターとなり、流行語ともなった「モダンボーイ」の代表的存在として女性の支持を得た。映画関係者からも愛され、脚本家時代の谷崎潤一郎は芸名の名付け親となり、岡田の弔辞も担当したのみならず、一人娘・岡田茉莉子の芸名の名付け親ともなった。溝口健二は病臥に伏していた岡田を自身の作品に主演させることを決め、回復を二か月の間待っていたという。多くの人に愛されながらも、結核のため30歳の若さで世を去った岡田時彦の墓は、神奈川県横浜市の久保山墓地にある。墓には「岡田家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。入口には、松竹蒲田撮影所から贈られたという石灯籠もある。戒名は、谷崎潤一郎が授けた「清光院幻譽雪瑛居士」。

# by oku-taka | 2022-05-25 00:01 | 俳優・女優 | Comments(0)

寺田ヒロオ(1931~1992)

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寺田 ヒロオ(てらだ ヒロオ)

漫画家
1931年(昭和6年)〜1992年(平成4年)

1931年(昭和6年)、新潟県西蒲原郡巻町(現在の新潟市西蒲区)に生まれる。本名は、寺田 博雄。新発田市で育ち、新潟県立新発田高等学校時代は野球部に所属する。同時期に少年漫画雑誌『漫画少年』と出会い、漫画投稿を始める。卒業後は知人の紹介で地元警察の事務職へ就職するが、電電公社(現在のNTT)の電報電話局に転職。電報電話局では社会人野球の投手としても活躍し、都市対抗野球大会にも出場した。その後、井上一雄・福井英一の漫画『バットくん』に刺激され、1953年(昭和28年)漫画家になるために上京。同年の大晦日に東京都豊島区のトキワ荘に入居する。入居当初は、向かいの部屋に手塚治虫が暮らしていた。トキワ荘に次々と入居してくる漫画家らと『新漫画党』を結成。漫画誌に合作、競作を発表するなど、様々な活動をする。面倒見のいいトキワ荘のリーダー的な存在として知られ、後輩である安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)や赤塚不二夫らは漫画関係だけでなく私生活の相談に乗ってもらったこと、また度々家賃等の金銭を貸してもらった思い出などを語っており、寺田を慕った。特に安孫子の著作である『まんが道』では寺田のそうしたエピソードが多数描かれ、後に実写ドラマ化もされた。一方、創作活動に生真面目な年下の後輩達の前で「頼もしい兄貴分」でいることには相応の心的苦労もあり、唯一そうした悩みを吐露していたのが、投稿漫画で知り合って以来の友人で、寺田とは正反対の無頼漢として知られる棚下照生だった。寺田の死後、棚下は「寺田は自分を律してたから…そして、そこからはみ出してはいけない…っていう。かなり自分の中に重圧があって、苦しんで生きてたと思うんですね。自分で自分に規律を持って、そこからはみ出してはいけない…っていう。私なんか全く反対の人間だから、それが羨ましいって彼は言うんです。逆に私は、寺田の鉄のような部分が羨ましかったんですけど、だけど寺田は私のような八方破りな生き方が羨ましい…っていう。結局、彼は自分がそういう生き方をしたいと思うことを、漫画に描いてみたかったんじゃないでしょうか。寺田は、描いてる人間に自分を同化させようとしてたところがある」と振り返っている。1956年(昭和31年)、『野球少年』で連載をはじめた『背番号0』、1959年(昭和34年)週刊少年漫画雑誌『週刊少年サンデー』の創刊号から連載された『スポーツマン金太郎』などの野球漫画で人気漫画家となり、試合の場面に中継アナウンサーのコメントを入れるようにした嚆矢であるとされる。『スポーツマン金太郎』は1960年(昭和35年)の第1回講談社児童まんが賞を受賞した。『暗闇五段』は不慮の事故で失明、記憶喪失となった柔道家を主人公にした作品で、後に千葉真一主演で『くらやみ五段』としてテレビドラマ化された。この間の1957年(昭和32年)6月、結婚を機にトキワ荘から退居。しかし、週刊漫画誌の隆盛にともない、どんどん速度を上げていく仕事のペースについていけなくなったという。『週刊少年サンデー』に連載した『スポーツマン金太郎』の終了後には、憂鬱な気持ちになり「もうへとへとだった。やめたい」と申し出たとされる。また、1960年代からの漫画業界は、劇画ブームの影響から、リアルで映像的な画調と刺激的なストーリーがもてはやされるようになり、一貫して正統派の児童漫画だけを書き続ける寺田の作風は、時流からも取り残されるかたちになっていった。寺田は劇画ブームへの強い反感を示し、仲間内での集まりでもこれを度々批判した。安易な劇画ブームへの批判に同感だった仲間たちも、会う度に批判だけを繰り返す寺田の言動に、かつての頼もしさを感じなくなっていった。その劇画に対する過剰なまでの反感が昂じ、全く面識のない著名な劇画作家に自分の描いた原稿を送り付け、「あなたはこんな物を描いていては駄目だ。漫画を描くならば、こういった物を描きなさい」と、一方的に諭した事もあったという。最後には、自分が執筆している雑誌の編集長に、劇画作品の連載を全て打ち切るように進言するという荒っぽい行動まで出たが、独善的な考えも目立ったために聞き入れられず、周囲からも反感を買い、逆に自分の連載が打ち切られるという顛末となった。寺田は『えすとりあ』季刊2号(1982年)で、「ちょうど高度成長の始まりで、大きいことはいい事だ。儲けることは美徳であると、モーレツ時代に突進して行ったわけで、漫画も雑誌もドギツク、エゲツナクなる一方で」と批判的に語っている。これらの出来事を積み重ねるうち、元の生真面目さまで豹変していった寺田は、徐々に著作のペースを減少させ、寡作となっていった。1964年(昭和39年)、『暗闇五段』の終了を最後に、週刊誌の連載から撤退。活動の場は小学館の学習雑誌などの月刊雑誌に限定されるようになったが、作風も正統派の児童漫画とは言えなくなったとの批判が増え、ついに1973年(昭和48年)には漫画業そのものから完全に引退した。その際、手塚がしばらく休んで思いとどまるようにと説得したものの、耳を貸さなかったという。手塚や他の漫画家仲間も、内心では頑固な寺田にほとほと困っていたが、元々の漫画への信念と技量を思い、何とか復帰させようと幾度も諭したが、功を奏することはなかった。この時期、トキワ荘時代の仲間に送られた手紙に書かれてあったのは、現役時代からは想像もつかないほど弱気な内容で、受け取った方も驚いたという。漫画家を引退した一方、1981年(昭和56年)4月には、『漫画少年』の歴史を記録した「『漫画少年』史」を編纂・出版した。引退後は、トキワ荘時代の仲間とすら殆ど会わなくなり、トキワ荘の取り壊し直前に当時のメンバーが集うテレビ番組が企画がされた際も、寺田は出演依頼を断った。このように人を避ける一方、助言を求めてきた漫画家志望の若者には、直接会ってアドバイスをすることもしばしばあったという。寺田は晩年の1989年(平成元年)に毎日新聞のインタビューに答え、「60年(1985年)にちょっとしたカゼがもとで、全身につぎつぎに病気が出た。手塚さんの葬儀にも出席できなかったぐらいです」と明かし、漫画家仲間との断交は、自身の健康問題に起因するものだったことを示唆している。1990年(平成2年)6月23日、突然トキワ荘の仲間(藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一、つのだじろう)を自宅に呼んで宴会を催し、終了後、三々五々去ってゆく仲間たちにいつまでも手を振り続け、「もう思い残すことは無い」と家族に話したという。翌日、藤子Ⓐは礼を伝えるため、寺田宅に電話をかけたが、寺田は電話口に出ず、妻を通じて「今後一切世俗とは関わらない」との旨を伝えた。この時の寺田について、藤子Ⓐは「緩慢な自殺」と述べている。またこの時期、棚下によく電話をかけていたという。電話口で泣きながら「会いたい」と言う寺田に「今すぐ行く」と伝えると「いや、来ないでくれ」「会いたいけど、来ないでくれ」と訴える状況を振り返り、棚下もまた「結局ね、寺田は死にたかったんじゃないかな…。寺田は、ゆっくりゆっくり死んでいったんじゃないかな」と述べている。なお、この宴会の模様は鈴木がホームビデオで撮影しており、鈴木はこの時に撮影したビデオのコピーを寺田に進呈しており、遺族の話では彼は晩年そのビデオを繰り返し観ていたという。その後は一人自宅の離れに住み、母屋に住む家族ともほとんど顔を合わせることはなかった。朝から酒を飲み、妻が食事を日に3度届ける生活を続けていたが、1992年(平成4年)9月24日に朝食が手つかずで置かれたままになっているのを妻が不審に思い、部屋の中に入ったところ、既に息絶えているのが発見された。妻は晩年の寺田について「身体が悪くなって、病院に行ってくれと頼んでも、行こうとしないんです。色々手を尽くして、あきらめました。この人は、もう死にたいんだなって…」と、ただ見守るしかなかった状況を語っている。1996年(平成8年)、映画『トキワ荘の青春』で、本木雅弘が主人公である寺田を演じ、藤子や石ノ森、赤塚らの後輩を年長者としてサポートしていくなか、徐々に時流から取り残されていく寺田の姿が描写されている。


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週刊漫画雑誌の草創期に、スポーツをテーマとした漫画で人気を博した寺田ヒロオ。特に野球漫画においては、本格的な試合を漫画上で展開するだけでなく、放送席の実況を描き、主人公が実在のプロ野球球団に入団して実在の選手と一緒にプレイするといった斬新なシチュエーションを次々に生み出した。また、「テラさん」の愛称でトキワ荘のリーダー格としても知られ、先日亡くなった藤子不二雄Ⓐの自伝的漫画『まんが道』で、頼もしい兄貴分的な理想の先輩としても描かれた。しかし、その生真面目な性格、児童善導主義からくる劇画への批判で、時代から取り残されてしまった。トキワ荘の仲間が売れていく中でも商業的な漫画を否定し続け、そして苦悩するその姿は映画化もされ、その姿は実にせつないものがあった。晩年、トキワ荘の同窓会を自ら企画。その後は「俗世とは関わらない」と自宅の離れに住み、家族とも顔を合わせず朝から酒を飲む「緩慢な自殺」で静かに世を去った寺田ヒロオ。温厚な人格者でありながら、最期は闇の中へと沈んだ男の墓は、神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺にある。墓には「寺田家之墓」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「博譽残夢漫歩居士」。

# by oku-taka | 2022-04-17 23:01 | 漫画家 | Comments(0)

坂井三郎(1916~2000)

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坂井 三郎(さかい さぶろう)

軍人
1916年(大正5年)〜2000年(平成12年)

1916年(大正5年)、佐賀県佐賀郡西与賀村大字厘外(現在の佐賀市西与賀町大字厘外)に生まれる。5歳のときに一家は祖父の家から夜逃げ同然で出奔して貧しい生活を送った。父は小さな精米所に勤めたが、坂井が小学校6年生の1928年(昭和3年)秋に病没。残された母と6人の子供の生活は困窮した。見るに見かねた伯父が兄弟を中学に入れてやろうとして、坂井は東京に引き取られる形で上京。新宿の府立六中を受験したが落ちて青山学院中等部に進学。しかき、成績不振で落第して退学処分となった。その後は実家に帰され、約2年間農作業に従事した。この頃から自身の将来について真剣に考えるようになり、スピードへの憧れがあって騎手になろうとしたが、本家の反対で挫折。次に、同じ西与賀村出身で佐世保航空隊の平山五郎海軍大尉操縦の飛行艇が故郷で低空を旋回するのを、農作業をしつつ仰ぎながら見たことから飛行機に憧れた。「海軍少年航空兵」募集のポスターを見て二回受験したが、結果は不合格。飛行機のある海軍に入れば近くで見られるだろうし、触るぐらいはできるだろうという思いから、海軍の志願兵に受験して合格。周囲は反対したが、1933年(昭和8年)5月1日に四等水兵として佐世保海兵団へ入団する。10月1日、戦艦霧島に配属され、15センチ副砲の砲手となる。1935年(昭和10年)5月11日、横須賀の海軍砲術学校に入校。1936年(昭和11年)、同校を200人中2番の成績で卒業し、5月14日に戦艦榛名に配属された。大艦巨砲主義全盛の当時、花形とされた戦艦の主砲の二番砲塔の砲手に任せられるが、演習で榛名の艦載機の射出を見て海軍入隊の目標であった搭乗員への志願を上官の搭乗員に打ち明けると、「指導してやるが、学科試験に合格しなければ道は開けない」と言われる。受験を上官に打ち明けたところ、主砲の砲手を外され、艦底で装薬や砲弾を扱う弾庫員に回される。それでもめげずに年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。1937年(昭和12年)3月10日、霞ヶ浦航空隊に入隊し、4月1日に初飛行。練習生の中では操縦が上手いほうではなく、単独飛行が許されたのは卒業も近い最後だった。卒業後の延長教育の射撃も上手くはなかった。首席を目指して勉強に励んだ結果、希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。卒業式では昭和天皇名代の伏見宮博恭王より恩賜の銀時計を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。また、佐伯航空隊付、戦闘機操縦者としての延長教育を受ける。この佐伯航空隊時代に、操練の三期先輩に当たる原田要が空戦訓練の相手に組まれ、切磋琢磨した。1938年(昭和13年)4月9日、大村航空隊に配属。5月11日、三等航空兵曹に昇進。高雄航空隊付となった。9月11日、第十二航空隊に配属され、勤務地の中国大陸九江に進出。10月5日、漢口空襲に参加。これが坂井の初出撃であり、指揮官相生高秀大尉の三番機として九六式艦上戦闘機に搭乗した。坂井は中華民国国軍のI-16戦闘機1機を撃墜。1939年(昭和14年)5月1日、二等航空兵曹に昇進。同月、九江基地からの南昌基地攻撃に参加。6月、占領した南昌基地に進出。10月3日、SB爆撃機12機編隊が漢口基地を空襲。坂井は迎撃に上がり、単機で宜昌上空8千メートルまで追尾して、1機を撃墜。11月、上海基地に移動。1940年(昭和15年)5月、運城基地に進出し、同基地上空哨戒等に従事。1940年(昭和15年)6月、大村航空隊に配属され、内地に帰還する。8月、横須賀航空隊で行われた新機種の取り扱い講習会で、登場したばかりの零式艦上戦闘機(零戦)を初めて見る。1940年10月17日、高雄海軍航空隊に配属。搭乗機が九六戦から零戦に変更されたため、坂井は名古屋で零戦を受け取って、鹿屋基地経由で台湾の高雄空まで空輸する形で、24日に高雄基地に着任した。零戦については、思い通りに動いてくれる格闘性能と燃料切れを気にせず空中戦に集中できる長大な航続力(≒滞空時間)から高く評価している。そのため、翼幅を削り速度が上昇し、他性能が低下した零戦三二型が導入された際には、操縦性、格闘戦の上から改悪であると意見している。1941年(昭和16年)春、坂井は高雄空の零戦18機のうちの1機として、海南島の三亜基地に前進。更に坂井を含めた12機は、陸軍の北部仏印進駐に呼応する形で、ハノイ飛行場に進出する。4月10日、第12航空隊配属。12空の横山保大尉の希望で中国大陸に再進出。漢口基地から華中における作戦に従事。5月3日、重慶攻撃に出撃。6月1日、一等飛行兵曹に昇進。7月9日、梁山攻撃に参加。27日、成都攻撃に参加。8月11日、零戦16機、一式陸上攻撃機7機による成都黎明空襲に参加。攻撃に参加する戦闘機はあらかじめ前日に漢口基地から宜昌飛行場へ移動し、同飛行場を夜間離陸し、漢口出撃の一式陸攻に合流した。中華民国国軍のI-15戦闘機1機を撃墜。坂井にとって零戦での初撃墜となる。8月21日、再度の成都攻撃で、I-16戦闘機1機を撃墜。ソ連からの援蒋ルート(北方ルート)を遮断すべく派遣された零戦18機の1機として、運城基地に進出。8月25日、零戦7機のうちの1機として蘭州基地攻撃に出撃。上空を制圧した。その数日後、更に奥地の西寧への零戦12機での攻撃に参加。8月31日、岷山山脈の谷間という地形的に上空からの攻撃が難しい松潘基地への攻撃に指揮官新郷英城大尉以下零戦4機で参加。同基地上空に達しつつも、天候不良にて引き返す。坂井は支那事変では実戦を数えるほどしかやらなかったと回想している。10月、台湾の台南基地に新設された台南航空隊(以下、台南空と略)に配属。坂井は台南空で先任下士官兵搭乗員であった。台南空では下士官のみの小隊も組まれ、坂井は初めて僚機を持つことになった。坂井は副長の小園安名中佐に頼まれ、新任で上官の笹井醇一中尉の戦闘教育を任せられたという。また、夜中に現地住民のニワトリを盗み出し、小園安名から「いやしくも日本海軍の軍人が、たとえニワトリの一羽でも、原住民のものを荒らすなどとは、とんでもないことだ」と叱られたが、その後も豚を盗みに行ったこともあったという。またある時は、軍で禁止されていた麻薬成分が含まれたカナカタバコを吸い、他の下士官・兵たちにもそれを勧めていたところを上官の笹井に見つかって「それはカナカじゃないか。それを吸ってはいけないことぐらい知っているだろう。それには阿片が入っているんだぞ」と注意されたがそれでも坂井はやめようとせず、台南空司令部の士官にだけ上等なタバコが支給されていることを批判した。すると笹井は怒りで唇を噛み顔を曇らせて立ち去ると、士官向けに支給された通常の煙草をいっぱい詰めた箱を持ってきて、「みんなで分けろ。あんなくだらんタバコは捨てろ」と指示し、坂井の思惑通りになったこともあったという。12月8日、太平洋戦争が開戦。台南空はフィリピン・クラーク空軍基地攻撃に参加。第一中隊(新郷英城大尉指揮)の第三小隊(坂井一飛曹、横川二飛曹、本田三飛曹)の小隊長として台南基地を出撃。坂井は、台南空零戦36機で護衛した高雄空の一式陸上攻撃機27機、一空の九六式陸上攻撃機27機の爆撃成功で、黒煙の上がる飛行場500メートル上空で米陸軍第21追撃飛行隊のカーチスP-40ウォーホーク戦闘機と初の空戦を行う。坂井は零戦得意の左急旋回からの一撃でP-40戦闘機を大破、同機は滑走路に滑り込んだ。12月10日、空の要塞と呼ばれたボーイングB-17フライングフォートレス爆撃機を日本が初撃墜した。戦後、坂井がAP通信社の東京支局長ラッセル・ブライアンに対し、この撃墜者が坂井であり、墜落するまで機影を見届けずに「戦果未確認」と報告したと語り、ラッセルが「あれは撃墜だった」と答える会見の様子が「日本タイムス」や「スターズ・アンド・ストライプス」に発表された。しかし、坂井は当日出撃はしたが、当時の台南空・三空の資料に記載されているB-17を攻撃した複数の搭乗員の中に坂井の名前はない。戦闘行動調書によれば、交戦した豊田光雄、山上常弘、菊池利生、和泉秀雄、野澤三郎の協同撃墜であり、坂井は交戦していない。台南空は、12月25日よりスールー諸島のホロ島へ順次進出。1942年(昭和17年)1月16日、蘭印のタラカンに進出。1月24日、坂井はボルネオ島・バリクパパン上空哨戒中、米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17爆撃機の7機編隊を発見。台南空4機(坂井一飛曹、松田三飛曹/田中一飛曹、福山三飛曹)で20分にわたり攻撃し、うち3機の大破。1月25日、坂井はバリクパパン基地に進出。2月5日、同基地を出撃した坂井は、ジャワ島スラバヤ上空で米陸軍第20追撃飛行隊のP-40戦闘機1機を撃墜。2月8日、新郷大尉指揮9機(新郷大尉、田中一飛曹、本田三飛曹/坂井一飛曹、山上二飛曹、横山三飛曹/佐伯一飛曹、野沢三飛曹、石井三飛曹)の第二小隊長として、バリクパパン基地を出撃。日本陸軍が上陸を開始したセレベス島マカッサル方面に対する爆撃に向かっていた米陸軍第19爆撃飛行隊のB-17爆撃機の9機編隊とジャワ海カンゲアン島上空で交戦。零戦隊は、その後方から忍び寄り、B-17爆撃機の防御砲火が相対的に弱いと考えられた正面に回って攻撃。うち2機を協同撃墜し、4機を大破。2月18日、オランダ領東インド(今のインドネシア共和国)・ジャワ島マオスパティ基地4,000メートル上空で蘭印軍のフォッカーC.XI-W水上偵察機1機を共同撃墜。2月28日には、バリ島デンパサール基地より出撃し、ジャワ島マラン西方の6,000メートル上空で、蘭印軍のブルースターF2Aバッファロー戦闘機(C.A.フォンク少尉機)を左垂直旋回から発射機銃弾160発で撃墜。4月1日、台南空は第25航空戦隊に編入され、ラバウル方面に移動する。4月16日、台南空はニューブリテン島のラバウルに進出。17日、ラバウルの前進基地となるニューギニア島東部のラエ基地に進出。この基地から連合国軍(米豪軍)のポートモレスビー基地まで近距離であり、台南空は、ポートモレスビー攻撃、連合軍のラエ基地爆撃の邀撃に従事する。この頃、坂井は遠方から油断した単独の敵機を発見し、後ろに回って死角である胴体の真下から隠れながら高度を上げて接近し、優位な位置を占めることに成功する運のいい巡り合わせがよくあり、隊内では坂井の落ち穂拾い戦法と笑い話になったという。5月27日、飛行機隊長中島正少佐指揮の零戦18機によるモレスビー攻撃に参加。6月9日、来襲する敵爆撃機の迎撃に参加。8月7日、ガダルカナル攻撃に参加。アメリカ海軍のジェームズ・“パグ”・サザーランドのF4Fワイルドキャットとの戦闘があった。坂井曰く、はぐれた列機、柿本円次と羽藤一志が一機のグラマンに追われていたので助けに入り、単機巴戦の末撃墜したとのこと。しかし、サザーランド曰く、陸攻との戦闘で被弾した結果、グラマンは黒煙を吹き、機銃も故障した状態で零戦4機に追われる中火災が発生したので落下傘で脱出したとのこと。戦後このグラマンを調べた結果、機銃の故障などサザーランドの証言と一致した。日本の戦闘詳報では、坂井と列機の羽藤、そして別隊の山崎市郎平による共同撃墜となっている。この戦闘からの帰路、ガダルカナル島の上空において坂井はSBDドーントレス艦上(偵察)爆撃機の編隊を油断して直線飛行しているF4Fの編隊と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。坂井は右前頭部を挫傷して左半身が麻痺し、加えて右目も負傷。(左目の視力も大きく低下)計器すら満足に見えないという重傷を負った。坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。一時は負傷の状態から帰還は無理と考えて体当たりを画策するが敵艦を発見できず、帰還を決意。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした。正常な着陸操作ができる状態ではなかったため、降下角と進入速度のみをコントロールし、椰子の木と同じ高さに来た時、エンジンを足で切って惰性で着陸するという方法を取った。周回をあと1回行っていたら、燃料切れで墜落していたと言われるほど際どいものであったと語っている。坂井が受けた傷はラバウルの軍医では治療できず、内地に送還。坂井は、笹井醇一から「貴様と別れるのは、貴様よりもつらいぞ」と言われ、虎は千里を行って千里を帰るという縁起から坂井がまた帰って来るように、笹井が父からもらった虎のベルトバックルを渡されたという。その後笹井は戦死したが、がっかりするだろうからという理由で坂井には半年間知らされず、知ったときは自分がついていたら死なせなかったのにと地団太踏む思いがしたという。横須賀海軍病院で手術を受けたが、右目の視力をほぼ失い左も0.7にまで落ち、左半身は痺れた状態だった。右目の視力を失ったことにより、搭乗員はもちろん軍人としてさえ勤務はできないであろうから軍人を辞めるように宣告された。市中での生計手段として指圧師や按摩師の道を勧められ、研修も受けていたが、転職する前に転院することになった。佐世保病院に移されたときに、ラバウルより帰国して再編成中の251空(改称後の台南空)に行った坂井は、司令になっていた小園安名中佐に対して「片目でも空戦経験の少ない戦闘機乗りよりも、私は使えると思う」と説得した。軍医は反対したが、小園も訓練を見てみて具合が悪くて飛べなくても教官にすると言ったことから、坂井は航空隊に留まることになった。台南空が内地で訓練する間、坂井が後輩たちをバットで殴る指導もあった。坂井はラバウルでは10月になると死者が出て、内地で教える時間がないからまずい戦いをしたやつは殴った、殴ると反省するから効果があったと語っている。10月、飛行兵曹長に昇進。1943年(昭和18年)2月、豊橋航空隊で搭乗員に復帰して訓練を行ったが、ラバウル進出直前の1943年(昭和18年)4月、大村航空隊に異動となり、教官に配属される。1944年(昭和19年)4月13日、横須賀海軍航空隊に配属。台南空の上官だった中島正少佐によって、大村空で教官をしていた坂井は横須賀空へ呼び寄せられた。戦況の悪化、絶対国防圏の重要な一角であったサイパン島への米軍上陸を受け、横須賀航空隊に出撃命令が下り、1944年(昭和19年)6月22日、中島正少佐指揮の零戦27機に参加し、硫黄島へ進出。中島は訓練を見る限り坂井は戦えるところまで目が治っていると考え、若いパイロットを元気づけるためにも出てほしいと頼まれたことで、坂井は右目の視力が完全に治っていない状態で前線に戻ることになった。横空派遣部隊は、硫黄島防衛に加え、マリアナ沖海戦に勝利したばかりで、マリアナ諸島沖に展開の米海軍機動部隊(第58任務部隊)を攻撃することも視野に入れつつ、三沢基地で練成中だった252空他と共に、零戦の他に艦上攻撃機天山、艦上爆撃機彗星他も含めて急遽編成された「八幡空襲部隊」の傘下に加えられた。まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊のグラマンF6F ヘルキャット戦闘機約70機が、空母ホーネット、空母ヨークタウン、空母バターンを発艦して硫黄島に来襲。これをレーダー探知して、横須賀空の25機、そして252空と301空(戦闘601飛行隊)の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がる。梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、7,8機引き連れた坂井の雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで予定の高度をとれず、硫黄島防空戦に突入する。坂井は一機と旋回戦になって左ひねり込みに誘いこみ巴戦で撃墜、視界の利かない右側後方から不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ撃墜、合計でF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜したという。硫黄島からの帰還後の1944年(昭和19年)8月、少尉(特務士官たる少尉)に昇進。12月、第三四三海軍航空隊(通称『剣』部隊。以後、343空とする)戦闘七〇一飛行隊『維新隊』に配属。343空が装備する最新鋭戦闘機紫電改の操縦などの指導に当たる。指導に当たった坂井は空戦講話をやったが、激戦を経験した若者には不評だった。いわゆる昔語りに過ぎず、暴力をたびたび振るったことも反感を買った。特に坂井より8つ年下でありながら坂井の撃墜数を超える杉田庄一は、大村空でも坂井と一緒だったが、杉田は坂井が前線から退いた後もずっと勝ちぬいてきた誇りがあった。また杉田は後輩に対して鉄拳制裁を好まず面倒見の良い優しい性格だったことから、自分より若い搭乗員達をことごとくジャク(未熟者)呼ばわりする坂井を嫌い、「坂井は敵がまだ弱かった頃しか知らない、坂井がいなくなった後の方が大変であった」と言って坂井と対立した。343空でも杉田は「零戦は正しく整備、調整されていれば、たとえ手を離して飛んでも、上昇下降を繰り返してやがて水平飛行に戻る。意識を失って背面状態に入り、それが続くなんてことはない。だいたい、意識がないのにどうして詳しい状況が話せるんだ」と坂井のガダルカナル上空で負傷した話を批判し、「あんなインチキなこと言うやつ(坂井)はぶん殴ってやる」と公言していた。飛行長の志賀淑雄少佐は一触即発の状態に苦慮し、空戦に使える杉田を残し、坂井の経験を活かすため飛行実験を任務としている横空へ武藤金義との交換の形で異動させる事にした。これに対し横空は反発し、特に塚本祐造は「片目が見えない坂井と武藤の交換は割にあわない、横空は飛行実験だけが任務ではない」として猛反発した。結局、野口毅次郎少尉を付けての2対1の交換でまとまった。1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。松田千秋司令は、准士官以上を講堂に集合させ、「残念ではあるが日本は降伏することになった。しかし、厚木、その他の航空隊では、徹底抗戦を叫んで降伏をがえんじないようであるが、うち(横空)はこれには加わらぬ。諸君も無念ではあろうが、軽挙妄動してはならぬ」と戒めた。8月17日、アメリカ軍をはじめとする連合国軍による占領下の沖縄の基地から日本本土偵察のため上空写真の撮影に飛来していたB-32ドミネーター2機を多数の日本海軍機が襲撃して房総半島から伊豆諸島の上空で交戦した第二次世界大戦最後の空中戦があった。坂井もまたこの時に出撃しており、零戦で交戦したともされる。空戦の結果はB-32の搭乗員1名が戦死、2名が負傷。ダメージを負った機体は沖縄へ退いた。この戦闘での死者がアメリカ軍兵士の第二次世界大戦での最後の戦死者となった。この空戦に参加した小町定は「紫電ですら追いかけるのに苦労したのに、零戦では無理」のような趣旨の発言をして、離陸した坂井が攻撃には参加できなかったことを示唆している一方で、大原亮治上等飛行兵曹は零戦52型で同日にB-32を迎撃し、三撃目までを加えたことを証言している。小町と大原の証言を本にまとめた神立尚紀は、この日飛来したB-32は複数機だったらしく、小町と大原が迎撃したのはそれぞれ別の機体であろうと解釈している。9月5日、ポツダム進級により海軍中尉となった。戦後は、笹井醇一の親戚で大西瀧治郎の妻である大西淑恵に社長を依頼して印刷会社を経営した。一方、AP通信社東京支局長のラッセル・ブラインズが日本の撃墜王に会いたいと復員省に依頼し、中島正中佐の推薦により東京在住で連絡が取れるということで、きわだって目立つ存在ではなかった坂井が紹介された。その縁で福林正之にも紹介され、坂井の著書が出版されることになった。その後もさまざまな著書を出版し、『SAMURAI!!』が海外で売れたことや一人娘がアメリカ軍人と結婚したことにより、渡米する機会も得るようになった。しかし、元部下の内村健一が始めたねずみ講組織である天下一家の会に参加し、ほとんどの元下士官搭乗員たちを勧誘して被害を出すなど広告塔的存在となっていた。訴訟が相次いだが、規制する法律は間に合わず、ねずみ講は社会問題化していた。当時は頻繁に宗教法人が映画によって広報活動を行っており、1976年(昭和51年)には坂井の『大空のサムライ』が天下一家の会の宗教法人「大観宮」(大観プロダクション)から資金提供を受けて制作された。零戦にねずみ講のイメージが付くことを嫌悪した元零戦搭乗員たちが「零戦搭乗員の会」を一度解散して、新たに「零戦搭乗員の会」を設立する事態まで起こった。このことで坂井はますます居場所をなくしてしまった。東大教授の加藤寛一郎が航空自衛隊を取材した際には、遠回しに「坂井三郎には近づきすぎない方がいい」という注意を受けたという。航空自衛隊の士官あるいは幹部(空自のパイロットは全て幹部)は組織戦を好み、戦いを組織の戦いと考えているので、彼らから「自己宣伝をしすぎる」「宣伝が上手すぎる」「単なる職人」「自分のためだけに戦っていた」と見られる坂井は好印象を持たれていない。坂井より腕のいい戦闘機乗りはたくさんいたが坂井だけが有名になっていたと考えている人もいた[49]。なお、「坂井は単なる職人」という批判に坂井は、「それこそが我々の誇りである。それによってのみ、我々は存在意義を示せるのだ」と語っている。1983年(昭和58年)、アラバマ州空軍の航空200年祭に招待された坂井は、原爆投下の指揮・立案をしたポール・ティベッツが軍人として命令(原爆投下作戦)を遂行したことを賞讃し、坂井も原爆投下を命令されれば実行したと発言して、二人は握手した。この発言に被爆者たちからは非難の声が上がった。もっとも坂井は、原爆投下の道義的責任はハリー・S・トルーマン大統領にあると話してティベッツの個人的責任を追及しなかっただけで、原爆投下それ自体を問題無しとした訳ではない。1987年(昭和62年)7月、ワシントン州シャトル市で、エクスペリメンタル機(手作りのプラスティック飛行機)でスタントを体験する機会を得た。老いたパイロットが今も飛行機を見事に操縦した事で賞賛を受けるも、坂井は戦争以来のGに胃袋が腹の底に伸びきったような感じがしたと語っている。1995年(平成7年)頃には坂井への関心は薄れており、当時坂井の漫画の連載を開始した「ミスターマガジン」編集部によれば、読者は坂井三郎の名前すら全く知らなかったという。また、アメリカでも本が売れたはずの坂井が米海軍に招待されることはなく、厚木や横須賀の米海軍でも、他の零戦パイロットと比べて関心は低かった。あるときから坂井も招待されるようになったのだが、始めのうちは、アメリカのパイロットたちはみんな大原亮治に寄ってきて、坂井のことは誰も知らなかったので大原も一生懸命先輩の坂井を立てようとしていた。しかし、坂井は週刊プレイボーイの人生相談の連載などを開始し、プレイボーイ編集長などの出版関係者は坂井三郎を宣伝する「零の会」を結成して活動を開始した。それから徐々に坂井の知名度が回復した。マイクロソフトで発売された『Microsoft Combat Flight Simulator 2』(フライトシミュレータ)では、パイロット経験者や技術者などからの取材が参考にされており、坂井も取材に協力している。完成の暁には、同じく取材に協力した元アメリカ軍パイロットとのゲームでの空中戦も予定されていた。2000年(平成12年)9月22日、米軍厚木基地の司令官交代式に招待されたときに倒れた。帰途につく際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。享年84。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となった。坂井の葬儀のそばで元零戦搭乗員が30名ほど集まる会合もあったのに、坂井の生前の行いもあり、元零戦搭乗員で参列したのは4人だけだった。


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著書『大空のサムライ』で一躍時の人となり、戦後の零戦ブームの火付け役ともなった坂井三郎。操縦練習生時代は首席の上に恩賜の銀時計を拝領。日中戦争から太平洋戦争初期にかけて航空戦の最前で活躍し、負傷しながらも1機を確実に撃墜するほどの実力を持つ凄腕パイロットであった。反面、戦後はねずみ講に参加して仲間の搭乗員を勧誘、そこで得た資金で自著を映画化。また、自身の戦争体験を大言壮語する癖が見受けられるなど、元搭乗員達などから批判されることが多かった。それだけに、評価が真っ二つに分かれている坂井三郎。彼の墓は、神奈川県相模原市の相模メモリアルパークにある。墓には「坂井家」と墓誌が一緒に刻まれている。

# by oku-taka | 2022-04-17 22:40 | 軍人 | Comments(0)

佐久間正英(1952~2014)

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佐久間 正英(さくま まさひで)

ミュージシャン・音楽プロデューサー
1952年(昭和27年)〜2014年(平成26年)

1952年(昭和27年)、東京都文京区に生まれる。三味線の師匠だった母から音楽的な影響を受け、東京都立杉並高等学校に在学していた頃から音楽家を志していたが、「その為には音楽バカになってはまずい。音楽より人間のことを知らなければいけない」と考え、和光大学人文学部人間関係学科に進学。心理学を専攻した後に卒業。大学生の時にいくつかやっていたバンドの一つで、吉田拓郎や六文銭を抱える事務所に所属。そこで一緒だった茂木由多加とキーボード・トリオの「ミスタッチ」を結成する。1975年(昭和50年)、「四人囃子」に加入。先にバンドに入っていた茂木から、脱退したベーシストの後任として呼ばれての参加だった。その後、バンドのフロントマンだった森園勝敏の脱退に伴い、楽曲の多くを手がけるようになる。また、作曲家・編曲家・セッションミュージシャンとして個人活動も開始する。1978年(昭和53年)、「四人囃子」を脱退。プロデュースする機会を窺っていた「プラスチックス」にベーシストとして誘われて加入。しかし、ほぼ素人だった他のメンバーとは技術的な差が大きすぎたことと、当時バンドで使用していたリズムボックスと合わないということで、生楽器ではなくシンセサイザーで参加した。この頃よりCM音楽の作曲も始め、同時に歌謡曲、ポップス等の作曲・編曲家としての仕事も多くなる。1979年(昭和54年)、P-MODELの1stアルバム「IN A MODEL ROOM」をプロデュース。これ以前にもCM音楽の制作・他のアーティストの楽曲のアレンジ等プロデュース的な仕事は行っていたものの、佐久間本人が公式に「プロデューサーとしての仕事」と認めるのはこれが最初であり、以後は本格的にプロデューサーとしての活動を開始する。また、香港映画『ドランクモンキー 酔拳』の日本向け主題歌「拳法混乱〜カンフージョン」を作曲したのを機に、映画音楽も手がけるようになる。1981年(昭和56年)、「プラスチックス」を脱退。1984年(昭和59年)、初のソロアルバム『LISA』を発表。同年11月、自身の活動拠点としてブイ・エフ・ブイスタジオをエンジニア/プロデューサーの小野誠彦と設立。1985年(昭和60年)、「プラスチックス」を気に入っていた布袋寅泰の推薦で「BOØWY」のプロデュースを担当。以後、プロデュースの仕事が圧倒的に増える。1989年(平成元年)、活動休止から再始動した「四人囃子」に参加。1991年(平成4年)7月、新たなスタジオ「dog house studio」を開設。1994年(平成6年)、「JUDY AND MARY」、「modern grey」をプロデュース。1995年(平成7年)、オファーを受けて「GLAY」をプロデュース。1998年(平成10年)、「Hysteric Blue」をプロデュース。基本的にオファーされてプロデュースする佐久間が、デモ・テープを聴いて自分の方から声をかけ、自らサポートベーシストとして参加した。1999年(平成11年)、ミュージシャン/プロデューサーとしてNiNaに参加。2001年(平成13年)、佐久間が中心となって「The d.e.p」を結成。同年5月9日アルバム『地球的病気』を発売。2003年(平成15年)、佐久間が憧れていたという元ジャックスの早川義夫とユニット「Ces Chiens」を結成。2008年(平成20年)、「unsuspected monogram」を結成。このバンドではギタリストとして活動し、不定期ながらライブを行っていた。2010年(平成22年)、2月19日より"Goodnight_to_followers"、通称"おやすみ音楽"として、毎晩曲を作成しネット上に無料でアップロード。"いつまで続けるかはわからない。"としながらも500夜、700夜、1001夜達成の節目節目にライブを開催。連続アップロードは1111夜で一旦終了し、その後は「気が向いた時」に作りたいとしていたが、結果的には1112夜目が最後となった。同年、レコード会社「CircularTone Records」を設立。2012年(平成24年)4月12日、還暦を祝うライブイベント「The Party 60」が開催。その場でボーカルのゆあさみちるとの2人組ユニット「blue et bleu」がプロデューサーに「dip in the pool」の木村達司を迎えて近々作品制作に入ることを発表した。しかし、2013年(平成25年)4月にスキルス胃癌の診断を受ける。7月に脳腫瘍が見つかり、8月には肝臓、ひ臓に癌が転移。8月9日、自身の公式サイトにて末期のスキルス胃癌であることを公表した。その後は治療を続けながら不屈の精神で音楽活動に励み、コンピレーションアルバム『SAKUMA DROPS』のリリースを目指して、息子の佐久間音哉や従兄弟の娘にあたる乃木坂46の生田絵梨花と新曲『Last Days』をレコーディング。これが遺作となった。2014年(平成26年)1月16日午前2時27分、残胃癌のため自宅で死去。享年61。


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30年以上にわたって日本のロック・ポップス界を牽引してきた佐久間正英。ミュージシャンとしては、1970年代にプログレッシヴ・ロック・バンドの四人囃子、80年代にはニュー・ウェイヴ・テクノポップ・バンドのプラスチックスのメンバーとして活動。だがそれ以上に彼の名を馳せたのが、プロデューサーとしての面であった。BOØWYを皮切りに、THE STREET SLIDERS、ザ・ブルーハーツ、GLAY、JUDY AND MARY、エレファントカシマシ、くるりなど、数々のアーティストのプロデュースを担当し、生涯にわたって手掛けたアーティストは140組以上にものぼる。「エゴや自意識が出たら負け。プロデューサーがやったと思われたらおしまい。音楽はアーティストのものであってプロデューサーのものではない」という哲学のもと、アーティストの個性を尊重しつつ全体像を客観的に捉えて相手や楽曲に合わせていく調整型の名プロデューサーであった佐久間正英の墓は、東京都八王子市の富士見台霊園にある。洋型の墓には「佐久間家」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「妙響院法正居士」。

# by oku-taka | 2022-03-22 00:03 | 音楽家 | Comments(0)

三ツ矢歌子(1936~2004)

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三ツ矢 歌子(みつや うたこ)

女優
1936年(昭和11年)〜2004年(平成16年)

1936年(昭和11年)、大阪府堺市東区に生まれる。本名は、小野田 宇汰子。プール学院高等学校在学中の1955年(昭和30年)、女友達が内緒で新東宝の新人募集に応募書類を送ったところ、合格。第4期スターレットとして入社し、。1956年(昭和31年)に『君ひとすじに』で銀幕デビューを果たす。以降、『何故彼女等はそうなったか』『女真珠王の復讐』、1957年に『海女の戦慄』『暁の非常線』、1958年(昭和33年)には『スーパージャイアンツ 宇宙艇と人工衛星の激突』『人喰海女』とコンスタントに映画への出演を続け、新東宝が倒産するまでに40作以上の映画に出演。池内淳子、久保菜穂子と「新東宝現代劇の女優三羽烏」と呼ばれ、清純派女優の地位を築いた。1960年(昭和35年)、映画監督の小野田嘉幹と結婚。後に二男をもうける。新東宝倒産後はフリーとなり、活動の中心をテレビに移す。特に、1969年(昭和44年)からTBS系列局で放送されていたテレビドラマ「愛の劇場」シリーズでは、『女の絶唱』『新・女の絶唱』『人妻椿』『愛染椿』『妻と女の間』などでヒロインを演じ、必ず2桁の視聴率を獲得したことから「昼メロの女王」と呼ばれた。1992年(平成4年)にはワイドショー『独占!女の60分』の司会を務めた。また、「味の素」のテレビCMでお茶の間に親しまれ、1970年(昭和45年)の全日本CMフェスティバルタレント賞を受賞した。2001年(平成13年)、腰痛で病院に行ったところ肺癌が発覚。その後、入退院を繰り返し、手術後は車椅子での生活を余儀なくされた。 2003年(平成15年)1月、家族が相談の上、三ツ矢に癌であることを告知。本人はショックを受けるどころか「どうしても仕事復帰したい」と意欲を燃やし、抗がん剤治療などの闘病生活を送った。担当医も驚くほどの頑張りを見せたが、2004年(平成16年)3月11日午後1時頃に自宅で「息が苦しい」と訴えて都内の病院に緊急入院。酸素吸入や抗がん剤投与など懸命の治療が続けられたが、3月24日午後11時5分、間質性肺炎のため東京都港区の病院で死去。享年67。


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「昼メロの女王」と呼ばれ、後年は母親役を好演した三ツ矢歌子。新東宝時代は清楚を売りとし、テレビドラマ界に進出後は妖艶さも兼ね備え、ヒロイン女優として独特の地位を確立した。平成期以降は、息子の逮捕や闘病生活と様々な不幸に見舞われた三ツ矢歌子。67年という早すぎる生涯に幕を閉じた彼女の墓は、東京都八王子市の善能寺にある。墓には「南元阿弥陀佛 小野田家」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「演慈院釋尼妙歌」。

# by oku-taka | 2022-03-21 23:50 | 俳優・女優 | Comments(0)