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いわさき ちひろ

画家
1918年(大正7年)〜1974年(昭和49年)

1918年(大正7年)、福井県南条郡武生町(現在の越前市)に生まれる。本名は、松本 知弘(まつもと ちひろ)。旧姓は、岩崎。幼少から絵を描くのが得意で、小学校の学芸会ではたびたび席画(舞台上で即興で絵を描くこと)を行うほどだった。あるとき、隣の家で絵雑誌「コドモノクニ」を見かけ、当時人気のあった岡本帰一、武井武雄、初山滋らの絵に強く心を惹かれた。その後入学した東京府立第六高等女学校(現在の東京都立三田高等学校)でも絵がうまいと評判だった。母は娘の絵の才能をみとめ、ちひろが14歳のときに岡田三郎助の門をたたいた。そこでデッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たした。女学校卒業後は岡田の教えていた美術学校に進むことを希望したが、両親の反対にあって第六高女補習科に進学。18歳になるとコロンビア洋裁学院に入学。その一方、書家の小田周洋に師事して藤原行成流の書を習い始めた。1939年(昭和14年)、3人姉妹の長女だったことから、両親の薦めを断り切れずに婿養子を迎える。同年6月には夫の勤務地である満州・大連に渡ったが、夫を心身共に受け入れることが出来ずに拒否し続け、そのショックから翌年に夫は自殺。その後帰国して中谷泰に師事し、再び油絵を学び始めた。しかし、再度習い始めた書の師である小田周洋から「絵では無理でも書であれば自立できる」と励まされ、書家を目指すようになる。1944年(昭和19年)、女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡るが、戦況悪化のため同年に帰国。翌年には5月25日の東京大空襲で東京・中野の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えた。1946年(昭和21年)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加した後に入党。同年5月には党宣伝部の芸術学校(後の日本美術会付属日本民主主義美術研究所、通称「民美」)で学ぶため、両親に相談することなく上京した。東京では人民新聞社の記者として働き、また丸木俊に師事してデッサンを学んだ。この頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、1949年(昭和24年)に発表した紙芝居『お母さんの話』をきっかけに画家として自立する決心をした。広告ポスターや雑誌、教科書のカットや表紙絵など、画家としての多忙な日々を送る中、党支部会議で演説する松本善明と出会う。2人は党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、1950年(昭和25年)1月21日のレーニンの命日を選んで結婚した。同年、善明はちひろと相談の上で弁護士を目指し、ちひろは絵を描いて生活を支えた。善明は1951年(昭和26年)司法試験に合格し、1952年(昭和27年)4月に司法修習生となる。一方、ちひろはヒゲタ醤油の広告の絵を担当。1954年(昭和29年)には朝日広告準グランプリを受賞した。同年4月、善明は弁護士の仕事を始めて自由法曹団に入り、弁護士として近江絹糸争議、メーデー事件、松川事件などにかかわる。しかし、自宅に泥棒が入って私信を盗まれたり、執拗な尾行を受けたり、家政婦として住み込みで働いていた若い女性が外出中に誘拐され、松本家のことを事細かに聞かれたが隙を見て逃げ出す等の出来事があった。1956年(昭和31年)、福音館書店の月刊絵本シリーズ『こどものとも』12号で、小林純一の詩に挿絵をつけて『ひとりでできるよ』を制作。これが初めての絵本となったが、この頃のちひろの絵には「少女趣味だ」「かわいらしすぎる」「もっとリアルな民衆の子どもの姿を描くべき」などの批判があり、そのことに悩んでいた。1963年(昭和38年)、雑誌『子どものしあわせ』の表紙絵を担当。「子どもを題材にしていればどのように描いてもいい」という依頼に、それまでの迷いを捨てて自分の感性に素直に描いていくことを決意。1962年(昭和37年)の作品『子ども』を最後に油彩画をやめ、以降はもっぱら水彩画に専念することにした。1964年(昭和39年)、日本共産党の内紛で交流の深かった丸木夫妻が党を除名されたころを境に、丸木俊の影響から抜け出して独自の画風を追い始める。「子どものしあわせ」はちひろにとって実験の場でもあり、そこで培った技法は絵本などの作品にも多く取り入れられている。当初は2色もしくは3色刷りだったが、後にカラー印刷になると、代表作となるものがこの雑誌で多く描かれるようになった。1963年(昭和38年)6月、世界婦人会議の日本代表団として渡ったソビエト連邦で異国の風景を数多くスケッチし、かねてより深い思い入れを持っていたハンス・クリスチャン・アンデルセンへの思いを新たにした。1966年(昭和41年)、アンデルセンの生まれ育ったオーデンセを訪れたいとの思いを募らせていたことから、「美術家のヨーロッパ気まま旅行」に母とともに参加。このときにアンデルセンの生家を訪れ、ヨーロッパ各地で大量のスケッチを残した。2度の海外旅行で得た経験は、同年に出版された『絵のない絵本』に生かされた。1966年(昭和41年)、赤羽末吉の誘いで、まだ開発の進んでいなかった黒姫高原に土地を購入。アトリエとして山荘を建て、毎年訪れては絵本の制作を行うようになる。1968年(昭和43年)、『あめのひのおるすばん』を出版。当時の日本では、絵本というものは文が主体であり、絵はあくまで従、文章あってのものにすぎないと考えられていた。至光社の武市八十雄は欧米の絵本作家からそうした苦言を受け、ちひろに声をかけた。2人はこうして新しい絵本、「絵で展開する絵本」の制作に取り組んだ。『あめのひのおるすばん』以降ほぼ毎年のように新しい絵本を制作し、中でも1972年(昭和47年)の『ことりのくるひ』はボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞した。一方、当時挿絵画家の絵は美術作品としてほとんど認められず、絵本の原画も美術館での展示などは考えられない時代で、挿絵画家の著作権は顧みられず、作品は出版社が「買い切り」という形で自由にすることが一般であったことから、ちひろは教科書執筆画家連盟、日本児童出版美術家連盟にかかわり、自分の絵だけでなく、絵本画家の著作権を守るための活動を積極的に展開した。1973年(昭和48年)秋、肝臓癌が発覚。入退院を繰り返しながらも作品を描き続けたが、1974年(昭和49年)8月8日、原発性肝癌のため死去。享年55。


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淡い色彩と柔らかなタッチで、優しい眼差しの子供を描き続けたいわさきちひろ。生き生きとした子供の姿を美しく描き、黒柳徹子は自著『窓ぎわのトットちゃん』で彼女の作品を挿絵するなど、その世界観に魅せられた著名人は多い。しかし、いわさきちひろ自身は、最初の夫を拒絶して自殺をもたらし、空襲で家を焼かれ、共産党に入党して夫婦共に共産党員、スパイに尾行されるなどの陰湿な目に遭うなど、その絵からは想像できない壮絶な生涯を送った。若くして癌に倒れたいわさきちひろの墓は、埼玉県所沢市の狭山湖畔霊園と長野県松本市の蟻ヶ崎霊園にある。前者の墓には、「松本」とあり、後ろにいわさきちひろの描いた少女の絵のレリーフと墓誌が刻まれている。

# by oku-taka | 2024-09-02 20:39 | 芸術家 | Comments(0)

左卜全(1894~1971)

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左 卜全(ひだり ぼくぜん)

俳優
1894年(明治27年)〜1971年(昭和46年)

1894年(明治27年)、埼玉県入間郡小手指村北野(現在の所沢市北野)に生まれる。本名は、三ヶ島 一郎(みかじま いちろう)。1901年(明治34年)に北野小学校に入学するが、1902年(明治35年)父の転勤のため東京市麻布区(現在の東京都港区)の南山小学校に転校。まもなく東京府南葛飾郡船堀村(現在の江戸川区船堀)に移った。1905年(明治38年)、船堀小学校を卒業。京橋のばら歯磨本舗「東光園」へ小僧奉公に出るが、1907年(明治40年)に船堀に戻り高等小学校3年に編入した。1909年(明治42年)、高等科を卒業後、牛乳配達や新聞配達、土工など様々な仕事に就く。この間、苦学して立教中学校(現在の立教池袋中学校)に短期間通ったが中退した。1914年(大正3年)、帝劇歌劇部に第3期生として入り、オペラ歌手として歌唱法やダンスを学ぶ。同年、帝劇歌劇部のコーラス・ボーイとして初舞台を踏む。当時は舞踏家を目指していたが、帝劇洋劇部が解散したことにより断念。その後、東京歌劇座、バンドマン一座を経て地方回りの小さな劇団を転々とした。1920年(大正9年)、関西に移り新声劇に入る。1926年(大正15年)、松旭斎天華一座に入り、三ヶ島天晴(みかじま てんせい)の芸名で活躍。満州、中国まで巡業に出た。1935年(昭和10年)、東京へ戻り、経営者の佐々木千里に誘われてムーランルージュ新宿座に入る。以来、左卜全の芸名で老け役の喜劇俳優として活躍しているところを松竹に引き抜かれ、移動演劇隊に入る。しかし、この頃から左脚に激痛を伴う突発性脱疽を発症。医者からは脚の切断を勧められたが、俳優以外に天職が無いと考えていた卜全はあえて激痛を伴う脱疽と共に生きる決意をし、以後は生涯にわたり撮影時以外は移動に松葉杖を使うようになった。1945年(昭和20年)、敗戦後に水の江滝子の「劇団たんぽぽ」に参加。1946年(昭和21年)、小崎政房を座長とする「劇団空気座」の結成に参加。1949年(昭和24年)、空気座が解散すると、小崎の紹介で「太泉映画大泉スタジオ」(後に合併して東映)に入った。同年、今井正監督の『女の顔』にて銀幕デビュー。山本嘉次郎監督の『脱獄』での飄々とした演技が目に留まり、黒澤明監督の『醜聞』にワンシーンながら出演。ここでもその存在を印象づけた。以後、黒澤に重用され、『生きる』『七人の侍』など計7本に出演。フリーとなってからは、とぼけた老人役で映画・テレビと活躍。舞台では『左甚五郎』で主演を務めた。1970年(昭和45年)、日本グラモフォン(現在のユニバーサルミュージック)より『老人と子供のポルカ』で歌手デビュー。同曲は当初、経済評論家の小汀利得が歌う予定だったが、没案となったため、急遽卜全が代役で歌うことになった。これが40万枚を売り上げる大ヒットとなり、76歳当時「史上最高齢の新人歌手」として話題になったが、卜全は買取契約をしていたため20万円しか支払われなかった。レコード収録の際、卜全の歌い方が遅くて演奏やひまわりキティーズの歌声と全然噛み合わず、何度も録り直しをして6時間かけて収録。テレビ中継や収録で歌うときも口パクを嫌って地声で歌っていたが、演奏と歌がなかなか噛み合わず、演出担当者が指導しようとすると「機械のほうで俺に合わせろ!!」と啖呵を切り、マイペースで歌っていたと言う。そこで演出担当者は歌が途切れそうだった時はミキサーを調整して流すと言う手法を使って本放送を凌いだ。啖呵を切る一方、本番で歌い終わった後は必ずスタッフ全員に「皆さんお疲れさんでした」と労いの言葉をかけてから帰ったという。1971年(昭和46年)5月26日午前1時33ふん、老衰による全身衰弱のため死去。享年77。


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飄々とした演技の老け役として知られる左卜全。その朴訥とした味わい深い演技で日本映画に欠かせぬ名優となり、特に黒澤明作品では常連役者の一人として数多の名作で印象に残る演技を見せた。私生活では、演じた役に負けないほどの奇人変人として知られ、不老長寿の霊薬が入った水筒を首から提げていたという話はあまりに有名である。また、『老人と子供のポルカ』の大ヒットでテレビの歌番組に出るも、卜全の歌い方が遅くて演奏やひまわりキティーズの歌声と全然噛み合わず、それでも当の本人は頑なに口パクを拒否するため、軽い放送事故になっていたのがとても印象的だった。日本を代表する個性的俳優・左卜全の墓は、埼玉県所沢市の三ヶ島霊苑にある。世田谷区若林にあった卜全の自宅の門をくぐると数基ある三ヶ島家の墓のうち、卜全の墓は和型で「三ヶ島家之墓」とあり、右側面に墓誌、左側に卜全の略歴と「お互ひは 何と恵まれた環境と そして又 実に貴い無限の生命と個性をもって現在この時、日々時々、生活しているおられることよ、君も僕も。一郎 糸/なにものにもとらわれず 左卜全」と刻まれた碑が建つ。

# by oku-taka | 2024-09-02 20:31 | 俳優・女優 | Comments(0)

土屋文明(1890~1990)

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土屋 文明(つちや ぶんめい)

歌人
1890年(明治23年)〜1990年(平成2年)

1890年(明治23年)、群馬県群馬郡上郊村(現在の高崎市)に生まれる。祖父は賭博で身を持ち崩し強盗団に身を投じて北海道の集治監で獄死したと伝えられており、家族は村人たちから冷たい目で見られ、幼い文明にとって故郷の村は耐えがたい環境であった。父は農家の傍ら生糸や繭の仲買で生計を立てていたが、村に居づらく、村を出入りして商売をしていた。3歳から伯母の嫁ぎ先で育ち、幼少期に伯母の夫から俳句を教わった。1904年(明治37年)、旧制高崎中学校(現在の群馬県立高崎高校)に入学。在学中から蛇床子の筆名で俳句や短歌を『ホトトギス』や『アカネ』に投稿。卒業後に恩師・村上成之の紹介により伊藤左千夫を頼って上京。短歌の指導を受け『アララギ』に参加。さらに左千夫の好意により、第一高等学校文科を経て東京帝国大学(現在の東京大学)に進学。東大在学中には芥川龍之介・久米正雄らと第三次『新思潮』の同人に加わり、井出説太郎の筆名で小説・戯曲を書いた。1916年(大正5年)、文学部哲学科(心理学専攻)を卒業。1917年(大正6年)、『アララギ』選者となる。1918年(大正7年)、長野県の諏訪高等女学校に教頭として赴任。1920年(大正9年)には同校の校長となる。1922年(大正11年)、松本高等女学校の校長に転任。1924年(大正13年)、木曽中学校への転任を拒否して上京。法政大学の予科教授となる。1925年(大正14年)、第一歌集『ふゆくさ』を出版。1926年(大正15年)、『信濃教育』の編集主任となる。1930年(昭和5年)、信州を去って上京する頃からの歌を収めた歌集『往還集』を発表。自然主義文学の影響によるともいわれる、露悪的と見えるほど友人や肉親を突き放した冷静な視点の歌い方は、この歌集以降に歌壇に一般的になり、歌人としての地位を確立する。同年、斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引き継ぎ、アララギ派の指導的存在となる。また、この頃から万葉集の研究に打ち込み始め、1932年(昭和7年)に『万葉集年表』を発刊した。1935年(昭和10年)、都市社会のめざましい変貌を破調も怖れずに即物的なリアリズムで描いた『山谷集』を発表。第二次世界大戦中は日本文学報国会短歌部会の幹事長を勤め、1942年(昭和17年)には太平洋戦争へと向かう日本社会の動きを描いた『六月風』・『少安集』を発表した。1944年(昭和19年)7月から約5か月中国大陸を視察。これを基にした歌集『韮菁集』を1945年(昭和20年)に出版した。終戦間近の同年5月、東京・青山の自宅が空襲により焼失。このため群馬県吾妻郡原町(現在の東吾妻町)川戸に疎開し、終戦をはさんで6年半同地で生活した。疎開先からもしばしば上京して『アララギ』の復刊につとめ、9月号にて復刊。 1946年(昭和21年)の『アララギ』1月号から文明選欄がスタートし、優れた指導力を発揮。文明門下として近藤芳美、高安国世、吉田漱、渡辺直己、吉田正俊、岡井隆らを輩出した。1949年(昭和24年)、『万葉集私注』の刊行を開始。1950年(昭和25年)、『読売新聞』の歌壇選者となる1952年(昭和27年)、明治大学文学部教授に就任。1953年(昭和28年)、『万葉集私注』で日本芸術院賞を受賞。同年、宮中歌会始の選者となる。1962年(昭和37年)、芸術院会員に選出。1968年(昭和43年)、『青南集』『続青南集』で読売文学賞を受賞。1984年(昭和59年)、文化功労者に選出。1985年(昭和60年)、『青南後集』で第8回現代短歌大賞を受賞。1986年(昭和61年)、文化勲章を受章。歌壇の最長老として活動し、晩年まで創作活動を続けていたが、1990年(平成2年)10月に東京都渋谷区千駄ヶ谷の代々木病院に入院。同年12月8日午後3時58ふん、肺炎のため死去。享年100。没後、従三位に叙された。


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アララギ派の歌人として100歳まで生きた土屋文明。歌人としては、写実主義短歌の推進者として独自の歌境を開拓。斎藤茂吉から編集発行人を引き継いだ『アララギ』では、戦後復刊に奔走するとともに、指導者として近藤芳美、岡井隆といった後進を育成した。万葉研究の第一人者としても活躍し、永年の実地踏査を踏まえて万葉を文学作品として捉え、一般の人に向けてやさしく説いた。土屋文明の墓は、埼玉県比企郡の慈光寺墓地にある。墓には墓誌が刻まれ、墓域の右端には土屋の作品「亡き後を 言ふにあらねど 比企の郡 槻の丘には 待つ者が有る」の碑が建つ。戒名は「孤峰寂明信士」。

# by oku-taka | 2024-09-02 20:23 | 文学者 | Comments(0)

柴田睦陸(1913~1988)

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柴田 睦陸(しばた むつむ)

声楽家
1913年(大正2年)〜1988年(昭和63年)

1913年(大正2年)、岡山県児島郡興除村(現在の岡山市南区)に生まれる。歌手を志すも両親から猛反対され、宝物のベートーヴェンの彫刻一つを握りしめ家を飛び出す。秋吉宗鎮に師事し、草むしりなどの家事の手伝いをしながら住み込みで声楽の指導を受けた。1934年(昭和9年)、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学。ここでは、薗田誠一、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒ、クラウス・プリングスハイムに師事した。在学中の1935年(昭和10年)、ポリドール・レコードから宗近明として歌手デビュー。『上海リル』、『セントルイス・ブルース』などを吹き込む。1938年(昭和13年)、東京音楽学校声楽科を卒業。同時に、ビクターレコードへと移籍。本名の柴田睦陸で、『国民進軍歌』、『ラ・クンパルシータ』、『出せ一億の底力』、『朝』、『朝だ元気で』、『大東亜決戦の歌』など、流行歌、国民歌謡、軍歌の多数なジャンルの曲を吹き込む。一方、クラシック音楽のテノール歌手としての活動も行なった。1942年(昭和17年)1月、応召されて浜松飛行隊に入隊。1946年(昭和21年)3月の復員後はビクターレコードの歌手に復帰するが、同年11月に長門美保歌劇研究所 プッチーニ『蝶々夫人』のピンカートンでオペラデビューを果たす。徐々にオペラへと傾倒していき、NHK交響楽団との共演をはじめ、藤原歌劇団のオペラに数多く参加し、戦後の日本オペラ界をリードする役割を担う。1949年(昭和24年)、東京芸術大学の助教授に就任。なり、のち教授に就任。音楽教育者として幾多の後進を指導・育成し、後に同校の教授となった。同年12月にはオペラ研究部(あるいは「東京芸術大学歌劇研究部」)の部長となる。1952年(昭和27年)、ソプラノの三宅春惠、アルトの川崎靜子、バリトンの中山悌一を合わせた4人を中心に、志を同じくする12名の声楽家と、事務局の河内正三とともに、17名で新たなオペラ団体の創設に向かう。「先人のオペラ活動を第1期に自らは第2期の中心として気概を新たに」という趣旨から「二期会」(現在の東京二期会)と命名し、1952年(昭和27年)2月15日に結成披露・基金募集の「ヴォーカル・コンサート」を行なった。同年2月25日から28日にかけて、日比谷公会堂でプッチーニ『ラ・ボエーム』をマンフレート・グルリット指揮の東京交響楽団演奏で初演。この際の歌詞は宗近昭名義の訳詞による日本語の口語訳で行われ、柴田は主役ロドルフォを歌っている。以後、生涯にわたり二期会の中心人物として活動。宗近昭としては訳詞を手掛け、オペラの日本語上演の定番となったものが多い。柴田睦陸としては、歌手としてオペラの舞台に立ちながら、演出、歌唱指導、指揮、制作、プロデューサー、総監督、総指揮等も数多く務めた。また、旺盛な評論活動を展開。とりわけ発声法について論じ、日本声楽発声楽会の発起人および会長を務めた。1977年(昭和52年)、紫綬褒章を受章。1980年(昭和55年)、東京芸術大学教授を退官し、活水女子短大教授を務めた。1985年(昭和60年)、勲三等旭日中綬章を受章。1988年(昭和63年)2月19日午後3時49分、肝不全のため東京都新宿区の東京いかだいがぬ病院で死去。享年74。没後、正四位に叙せられた。


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戦後日本のオペラ界をリードし続けた柴田睦陸。東京二期会の創立者のひとりとして、初期の公演では主役のテナーを多く担当。特に『カルメン』のドン・ホセ伍長役は当たり役となった。また、宗近昭の名で日本語訳も手がけ、今日オペラの定番となっている作品の多くは彼の訳によるものである。まさに、戦後の日本オペラ界の中心人物であったが、それ以前に流行歌手としても活躍し、国民歌謡『朝だ元気で』や戦時歌謡『出せ一億の底力』をヒットさせたことは特筆しておきたい。柴田睦陸の墓は、埼玉県川越市の川越聖地霊園にある。墓には「柴田家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「釋梵音」。

# by oku-taka | 2024-08-11 23:45 | 音楽家 | Comments(0)

深沢七郎(1914~1987)

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深沢 七郎(ふかざわ しちろう)

作家
1914年(大正3年)〜1987年(昭和62年)

1914年(大正3年)、山梨県東八代郡石和町(現在の笛吹市石和町)に生まれる。その後、石和小学校から旧制山梨県立日川中学校(現在の山梨県立日川高等学校)に進学。しかし、成績が振るわなかったことから、小学生の時の担任の家へ預けられることになる。ここでの生活が深沢の転機となり、担任の家が農家だったため農業に親しむようになり、ギターや囲碁、映画などといった娯楽にも興味を持ち始める。その一方、アレクサンドル・デュマの『椿姫』、アベ・プレボーの『マノン・レスコー』を読んで感動し、詩作を始める。中学を卒業すると、東京の薬店、パン屋に住み込みで働きますが、いずれも1週間ほどで退職。転々と生活する中、本格的にギターを習い始め、やがてギタリストとなる。1934年(昭和9年)、胸を病み、同年に受けた徴兵検査で不合格となって徴兵を免れる。1939年(昭和14年)、第1回ギターリサイタルを開催。その後、17回にわたって公演を行った。1949年(昭和24年)、「ジミー・川上」の芸名で旅回りのバンドに入る。1954年(昭和29年)、「桃原青二」名義で日劇ミュージックホールに出演。ギタリストとして様々な公演に参加した。一方で、うばすてやま(姥捨て山)をテーマにした『楢山節考』を執筆。山梨県境川村大黒坂(現在の笛吹市境川町大黒坂)の農家の年寄りから聞き、それを肝臓癌を患った実母の「自分自らの意思で死におもむくために餓死しようとしている」という壮絶な死に重ね、老母・おりんと息子・辰平という親子の登場人物を創造した同作を、日劇ミュージックホールで働いていた丸尾長顕が読み、中央公論新人賞に応募するように勧めた。同作は第1回受賞作に選ばれ、三島由紀夫、伊藤整、武田泰淳、正宗白鳥といった多くの作家や評論家から反響をもって迎えられ、この一作で深沢七郎の名が有名となった。1958年(昭和33年)には戦国時代の甲州の農民を描いた『笛吹川』を発表し、こちらも評判となって映画化された。1960年(昭和35年)、『中央公論』に『風流夢譚』を発表。同作は全体的にシュールな展開で、主人公が見た夢の話であるという設定ではあったものの、「ミッチー」「美智子妃殿下」「昭憲皇太后」「ヒロヒト」などの呼称も見られ、「左慾」による天皇と皇后、皇太子と皇太子妃の処刑の場面が登場し、主人公が皇太后を殴る・罵倒するといった内容であったため、名誉を傷つけるものとして宮内庁が民事訴訟を検討するなど、発表当初より物議を醸した。皇室を冒涜しているような「毒のある革命幻想譚」に対し、「不敬」だという抗議が日に日に強まり、右翼団体が中央公論社に直接押しかけるなど、社では出版業務に支障が出るまでになった。しかし、『風流夢譚』は意図された支離滅裂なストーリーであり、革命らしき騒動が起きた都心の人々や皇居前の出来事が描かれているが、最後までなんだかわからないことが進行中という夢の中の世界が劇画風に語られ、60年安保の批判的パロディや、挫折後のシラケた世相への皮肉であったり、皇后のスカートに英国製の商標が付いているなど、皇室批判あるいは野卑表現であったりと、作者が諷刺や滑稽小説を企図した作品であった。中央公論社でも当初は(内容の如何に関わらず)言論の自由・表現の自由は守るという立場であったが、右翼団体の度重なる強い抗議や圧力が強まったため、次号に読者諸賢に深く遺憾の意を表わす「謹告」を掲載し、竹森清編集長と橋本進次長が更迭となった。その後、右翼少年が中央公論社の嶋中社長宅に侵入して社長夫人や家政婦を殺傷する「嶋中事件」が起こる事態となり、社は「お詫び」を全国紙に掲載して全面謝罪し、竹森にも退社処分となった。嶋中社長は「くだらない小説」で載せる気はなかったと『風流夢譚』を酷評した。一連の批判に衝撃を受けた深沢はしばらく筆を絶ち、1か月間都内で警護されつつ身を潜めた後に記者会見を開き、「下品なコトバ」を使い「悪かったと思います」と謝罪。その後、世間から姿を消し、1965年(昭和40年)まで地方を転々とする放浪(逃亡)生活をすることになった。1965年(昭和40年)11月8日、埼玉県南埼玉郡菖蒲町(現在の久喜市)に落ち着き、上大崎の見沼代用水近くに2人の若者を連れて「ラブミー農場」を開き、以後そこに住んだ。1968年(昭和43年)10月31日、心筋症による重度の心臓発作に見舞われ、生死の境をさまよった。以後、亡くなるまでの19年間、闘病生活を送ることとなる。1971年(昭和46年)、心臓病を患ったことから、農閑期に暖かい東京で商売をしたいという動機により、東京都墨田区東向島の東武鉄道・曳舟駅の近くで今川焼屋「夢屋」を開く。8日間他店に修行へ行った後に開店し、最初は1人でやりくりするつもりだったが、お客が殺到したため仕込みにアルバイトを雇ったり、知人に焼きに来てもらったりするなどの繁盛となる。1972年(昭和47年)の歳暮期には、友人の口添えで池袋の百貨店にも期間限定で出店し、深沢自身も実演販売するなどしたが、1973年(昭和48年)に原材料の高騰などもあって閉店となった。1980年、『みちのくの人形たち』で第7回川端康成文学賞に選ばれたが、「賞を得ることは殺生の罪を犯すこと」を理由に受賞辞退。しかし、1981年(昭和56年)に同作品で谷崎潤一郎賞を受けた。1987年(昭和62年)8月18日早朝、ラブミー農場のリビングルームにあった愛用の床屋椅子に座って昼寝をしていた。付き人が用を足しにほんの数分離れ、戻ってきたときには心不全のため亡くなっていた。享年73。告別式では、出棺の直前に「お暑い中をありがとう。お別れに歌を聴いてください」という深沢の声が流れ、遺言に従いフランツ・リストの『ハンガリー狂詩曲』やエルヴィス・プレスリー、ローリングストーンズなどをBGMに自ら般若心経を読経したテープや、自ら作詞した『楢山節』の弾き語りのテープが流された。


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ベストセラー『楢山節考』で一躍時の人となった深沢七郎。民間伝承の棄老伝説を題材とし、当時42歳の処女作でありながら、当時の人気作家や辛口批評家たちに衝撃を与えるとともに大絶賛を受けた。同作は2度にわたって映画化もされ、今村昌平監督作品では第36回カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝き、日本文学史に大きく名を残す作品となった。一方、当の本人は作家のみならず、ギタリスト、農場経営、今川焼き屋経営とあらゆる顔を持ち、その時そのときを飄々と生きてきた。生涯独身で、いつ死んでもいいようにと墓も仏壇も遺影も自分で用意。エルヴィス・プレスリー、ローリングストーンズなどをBGMに自ら般若心経を読経したテープを葬儀で流すよう遺言するなど、作風からは感じ得ない独特な感性を持つ作家であった。深沢七郎の墓は、埼玉県秩父市の秩父聖地霊園にある。洋型の墓には「深沢家」とあり、墓誌はないが建立者として深沢七郎の名が刻む。

# by oku-taka | 2024-08-11 23:26 | 文学者 | Comments(0)