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角替和枝(1954~2018)

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角替 和枝(つのがえ かずえ)

女優
1954年(昭和29年)〜2018年(平成30年)

1954年(昭和29年)、静岡県庵原郡富士川町(現在の富士市)に生まれる。静岡県立吉原高等学校在学中、演劇部に所属。卒業後、内田栄一と金子正次の劇団東京ザットマンの立ち上げに参加。芝居を始めた後、駒澤大学入学と同時につかこうへい事務所に所属し、劇団「暫」に参加。その後、柄本明が立ち上げた劇団「東京乾電池」に客演を依頼されて出演。このとき、柄本が角替に一目惚れして交際をスタート。大学卒業の年に東京乾電池へと移籍し、1981年(昭和56年)には柄本と結婚した。その前年の1980年(昭和55年)、映画『ヒポクラテスたち』で本格的に女優デビュー。1982年(昭和57年)、NHK連続テレビ小説『ハイカラさん』に出演。1986年(昭和61年)12月16日、長男・佑を出産。1987年(昭和62年)にフジテレビの昼ドラ『いまどきの姑』に出演したが、1989年(平成元年)10月17日には次男・時生を出産した。その後、『腕まくり看護師』シリーズ、『救急指定病院』シリーズ、『コメディー 道中でござる』等の番組に出演し、認知度を上げる。しかし、2010年(平成22年)頃に鬱病を発症。投薬治療を受けて2年で完治した。その間にも、NHK朝の連続テレビ小説『おひさま』に出演し、その後も名バイプレーヤーとして人気を博した。また、2016年(平成28年)よりシニア向けの演劇ワークショップ「和枝さんのお芝居入門」を主宰。その1期生を中心に、「劇団下北あるじょん」を結成した。2017年(平成29年)8月、人間ドックで診断した際にステージ4の癌が発覚。2018年(平成30年)10月27日午前6時27分、原発不明癌のため東京都内の自宅で死去。享年64。


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時代劇・現代劇問わず、口やかましいおばさん役に定評があった角替和枝。本格的にメディアデビューを果たしたのは1980年代に入ってからであるが、程なくして長女、そして現在俳優として活躍する柄本佑・時生兄弟を出産したことから、おばさん女優として地位を確立するのは平成に入ってからであった。そんな彼女の有名な子育てエピソードとして、息子たちが小学生の頃「あんたはマリオやゼルダから何を学んだんだ!諦めない心だろ!!」と本気で叱ったという微笑ましいものがある。名脇役として、まだまだこれからという矢先で癌に倒れた角替和枝の墓は、東京都文京区の十方寺にある。三回忌を経て納骨された墓には「柄本家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「和誉慈演優光大姉」。

# by oku-taka | 2023-01-14 00:38 | 俳優・女優 | Comments(0)

大塚道子(1930~2013)

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大塚 道子(おおつか みちこ)

女優
1930年(昭和5年)〜2013年(平成25年)

1930年(昭和5年)、高知県に生まれる。芝居好きの兄の影響を受け、1946年(昭和21年)に東京女子高等師範学校付属高等女学校を中退し、舞台芸術アカデミー(後の俳優座養成所)に入る。1948年(昭和23年)、卒業と同時に劇団俳優座へ入団。翌年、真船豊作『孤雁』で初舞台を踏む。新劇界指折りの美人女優として注目を浴び、持ち前の研究熱心も手伝って頭角を現し、1956年(昭和31年)『三人姉妹』でのイリーナ役が評価され、第11回芸術祭賞奨励賞を受賞。翌年には『京都の虹』『蟹の町』で新劇新人賞を受賞し、緻密な演技を特色とした実力派として俳優座の看板女優となる。1964年(昭和39年)には『四谷怪談』のお岩役が好評を得る。以後、『桜の園』『頭痛肩こり樋口一葉』などに出演。一方、映画やテレビでも脇役として活躍し、特に姑役には定評があった。また、ローレン・バコールの吹き替えなど声優としても活躍した。2002年(平成14年)、舞台『放浪記』と『いのち燃ゆるとき』の演技が高く評価され、第27回菊田一夫演劇賞を受賞。2010年(平成22年)、劇団俳優座の代表に就任。2011年(平成23年)、『樫の木坂四姉妹』で紀伊国屋演劇賞を受賞。2013年(平成25年)2月26日、虚血性心疾患のため東京都内の自宅で死去。享年82。


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劇団俳優座の重鎮・大塚道子。晩年は舞台の活動を主としていたが、1970年代にはテレビドラマ界において名いびり役として存在感を発揮した。特に、火曜日の女『木の葉の家』『喪服の訪問者』で見せた怪演は今でも話題に上がるほどである。そんな大塚道子の墓は、東京都文京区の十方寺にある。墓には「大塚家之墓」とあるのみで、墓誌はない。

# by oku-taka | 2023-01-14 00:25 | 俳優・女優 | Comments(0)

都家かつ江(1909~1983)

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都家 かつ江(みやこや かつえ)

三味線漫談家
1909年(明治42年)〜1983年(昭和58年)

1909年(明治42年)、演芸一座の座長だった都家四郎の娘として東京府東京市浅草区日本堤に生まれる。本名は、利根谷 タキ(とねや たき)。1912年(明治45年)、父が主催の演芸団で初舞台。その後、玉姫小学校に入学。母の意向で、堅気の娘として育てられたが、芸人への夢が断ち切れず、父の知人の一座等で役者として舞台に出演し、「娘手踊り」や「子供手踊り」を演じる。13歳のとき、芸名を都家勝代とし、芝居や歌、三味線の修行に身を入れ始める。1927年(昭和2年)、俳優の清川滝三郎と結婚。その後も夫婦で役者として活動していたが、ある劇場で漫才コンビが出演できなくなり、興行主から依頼されて即興の夫婦漫才をしたところ評判となり、夫婦漫才『都家福丸・香津代』を結成。1931年(昭和6年)には日本演芸協会に入会し、その後、落語協会に移籍。落語の勢力が強かった当時の寄席において、三味線片手の妻が夫をやり込めるという女性優位スタイルの音曲漫才で活躍した。1947年(昭和22年)、夫の都家福丸が急性肺炎のため死去。一人娘が2代目福丸を襲名し、親子漫才に転換。この頃に芸名を都家かつ江と改めたが、1950年(昭和25年)に芸の不振のためコンビを解消。作家・玉川一郎の薦めで『一人トーキー』と称してピン芸人となるが、まもなく三味線漫談家に転身。三味線を用いた世相漫談や都々逸などが評判になり、数多くのテレビやラジオに出演。女優としても積極的に活躍し、テレビドラマ『新五捕物帳』の「とよ」役と、『3年B組金八先生』第1シリーズ「池内シカ」役は当たり役となった。また、ラジオ番組『大沢悠里ののんびりワイド』(TBSラジオ)では、大沢悠里との名コンビで知られ、看板コーナーお色気大賞では初代の相方を務めた。1983年(昭和58年)9月29日、脳軟化症のため死去。享年74。


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スケールの大きい芸風と毒舌で世相と身近な話題を斬りまくるところから、『女三亀松』の異名を取った都家かつ江。その話芸で、テレビやラジオにひっぱりだことなったが、彼女は終生寄席にこだわり、それを全うした芸人人生であった。個人的には、『3年B組金八先生』第1シリーズの粋なおばあちゃん、池内シカ役が大変印象に残っている。都家かつ江の墓は、東京都文京区の海蔵寺にある。墓には「利根谷家之墓」とあり、墓誌はないが「都家かつ江」の碑が建つ。なお、墓所入口には、一周忌を期して建立された「都家かつ江之碑」がある。こちらを彼女の墓として紹介されてるサイトがあるが、墓ではなくモニュメントである。このモニュメントには、愛用の三味線撥が納められ、左側面に夫の福丸がかつ江に捧げた句、右側面には森繁久彌による献句が刻まれている。戒名は、「芸照院真徹妙薫大姉」。

# by oku-taka | 2023-01-09 19:10 | 演芸人 | Comments(0)

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長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん)

ジャーナリスト
1875年(明治8年)〜1969年(昭和44年)

1875年(明治8年)、東京府深川区深川扇町(現在の東京都江東区木場)に生まれる。本名は、山本 萬次郎。生家は材木商で、1881年(明治14年)に深川区万年町公立明治小学校(現在の江東区立明治小学校)へ入学。しかし、翌年に父が材木商をやめて浅草に花屋敷を開業したことから、下谷区御徒町私立島本小学校へ転校。幼年時代は浅草で育つ。1884年(明治17年)、曾祖母の養子となり長谷川に改姓。1885年(明治18年)、本郷区本郷真砂町(現在の文京区本郷)にあった坪内逍遥の塾に通い、続いて1886年(明治19年)小石川区小日向にあった中村正直の同人社にも通ったが落第している。その後、神田淡路町の共立学校に一時期在籍し、1889年(明治22年)明治法律学校(現在の明治大学)予科に転校。同じ頃、東京英語学校にも入学している。1890年(明治23年)、東京法学院予科(英吉利法律学校予科から改称、後の中央大学予科)に転校したが、入学後まもなく同科は廃止となる。当時、東京英語学校の教師には杉浦重剛や志賀重昂がおり、その影響もあって陸羯南が経営と論陣を仕切る新聞『日本』を熱読するようになった。1892年(明治25年)、神田で起きた大火で東京英語学校校舎が類焼して休校となり、国民英学会に転学。1893年(明治26年)、東京法学院(中央大学の前身)英語法学科に入学。1896年(明治29年)、邦語法学科へ再入学し、1898年(明治31年)同校を卒業した。1903年(明治36年)、陸羯南の経営する日本新聞社に入社。1906年(明治39年)、陸羯南が隠退し、新社長となった伊藤欽亮が三宅雪嶺および古島一雄の退社を命じ、如是閑ら十数人もこれに抗議して日本新聞社を退社。1907年(明治40年)、雪嶺のもとで『日本及日本人』の創刊に参加した。この頃から「如是閑叟」と号し、非常に多忙であった彼に対し、ある支配人が「せめてペンネームくらいは閑そうな名前を」ということで名付けてくれたものである。その後、鳥居素川の勧めで、1908年(明治41年)に大阪朝日新聞社へ入社。最初は小説を書いていたが、1910年(明治43年)4月から8月にかけてロンドンでひらかれた日英博覧会の取材特派員となって連載記事も手がけるようになった。1912年(大正元年)頃からコラム「天声人語」を担当。1915年(大正4年)、「夏の甲子園」の前身である全国中等学校優勝野球大会を社会部長として企画創設。1916年(大正5年)、社会部長となり、米価高騰の裏に横行していて米穀商の米の買い占めをスクープ。これが引き金の一つになって1918年(大正7年)の米騒動にまで発展した。8月25日、米騒動問題に関して関西新聞社通信大会が開かれ、これを報じた翌8月26日付夕刊(25日発行)の記事の一節に「食卓に就いた来会者の人々は肉の味酒の香に落ち着くことができなかった。金甌無欠の誇りを持った我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として肉叉を動かしている人々の頭に雷のように響く」と記した。文中の「白虹日を貫けり」という一句は、荊軻が秦王(後の始皇帝)暗殺を企てた時の自然現象を記録したもので、内乱が起こる兆候を指す故事成語であった。いつも原稿を点検していた社会部長の長谷川はたまたま所用で席を外していたので別のものが見たが「白虹」の故実を知らず、締め切り時間になったので意味がはっきりしないまま降版した。試し刷りを読んだ副部長が不穏当だと判断し、大阪朝日新聞編集幹部はすぐさま新聞の刷り直しを命じた。しかし、すでに刷り上がった3万部のうち1万部が出回った後だった。大阪府警察部新聞検閲係は、新聞紙法41条の「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル事項ヲ新聞紙ニ掲載シタルトキ」に当たるとして、筆者の大西利夫と編集人兼発行人の山口信雄2人を大阪区裁判所に告発し、検察当局は大阪朝日新聞を発行禁止(新聞紙法43条)に持ち込もうとした。関西では大阪朝日新聞の不買運動が起こり、さらに憤慨した玄洋社系の右翼団体「黒龍会」の構成員七人が通行中の大阪朝日新聞社の社長・村山龍平の人力車を襲撃し、村山を全裸にしたうえ電柱に縛りつけ、首に「国賊村山龍平」と書いた札をぶら下げる騒ぎまで発生した。また、後藤新平は右翼系の『新時代』誌に朝日攻撃のキャンペーンを張らせ、他誌も追従した。事態を重く見た大阪朝日新聞では10月15日、村山社長が退陣し、長谷川も朝日新聞社を退社。政治学者の大山郁夫らと、雑誌『我等』を創刊した。これは、日本における本格的なフリージャーナリストの始まりであった。東京帝大助教授であった森戸辰男が無政府主義者クロポトキンの研究によって起訴された1920年(大正9年)の森戸事件においては、学問の自由・研究の自由・大学の自治を主張して、同誌上で擁護の論陣を張った。また、吉野作造、大山郁夫とともに、大正デモクラシーを代表するジャーナリストとして、大正から昭和初期にかけて、進歩的、反権力的な論陣を張った。この時期のこの手の著作として、『現代国家批判』『現代社会批判』『日本ファシズム批判』などがあり、中でもファシズム初期の段階で、他者に先駆けてファシズム批判を行った。しかし、1929年(昭和4年)には日ソ文化協会の会長となっている。同年、雑誌『我等』を『批判』と改題。1934年(昭和9年)の廃刊後は自由主義の宣伝啓蒙に努め、また『古事記』『万葉集』、本居宣長などの研究を通じて、当時の軍国主義・皇道精神の高揚に対して、日本人は古来から平和愛好的な民族であったと主張した。1936年(昭和11年)の二・二六事件に際しては『老子』を著し、また『本居宣長集』を編集している。さらに翌年の日独伊防共協定の折には岩波書店より『日本的性格』を刊行した。1939年(昭和14年)4月には国民学術協会の発起人に中央公論社の嶋中雄作らと名を連ね、民間アカデミーの試みとして注目される。戦後は民主主義の徹底化、国際平和確立の重要性などを唱える一方、1946年(昭和21年)には最後の貴族院勅選議員となり、日本国憲法の制定に携わる。議員としては交友倶楽部に属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。同年、帝国芸術院会員に選出される。1948年(昭和23年)、文化勲章を受章。1951年(昭和26年)、文化功労者に選出。1954年(昭和29年)、80歳を記念して友人・知人より小田原の地に「八旬荘」の居宅を贈られる。1969年(昭和44年)11月4日、腹痛を訴えて小田原市立病院に入院。同月11日午前11時17分、死去。享年93。


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日本におけるジャーナリストの草分け的存在である長谷川如是閑。明治・大正・昭和と三代にわたって活躍し、新聞記事・評論・エッセイ等の作品約3000本を残した。そのジャーナリズムの精神は、幼少期に様々な学校を転々としたことで培われた。材木商の子として生まれ、浅草で育ったことから、現実主義、合理主義、庶民感覚、ユーモアなどを重んじる職人気質を身につけ、小学生時代にイギリス思想を日本に紹介した坪内逍遙の塾、そして英米仏系の学校で学び、日本の主体性を重んじつつも自由国民主義の立場を主張する思想形成の確立に至った。米騒動、大正デモクラシー、第二次世界大戦と日本史の転換点に身を置き、その最前線で活躍したこの大人物のインタビュー映像を、今でもNHKは残しているというのだから驚きである。生涯独身を通し、酒も飲まず、煙草もやらず、気ままな性格で93年の長寿を全うした長谷川如是閑の墓は、東京都文京区の清林寺にある。墓地の一番奥地に鎮座している黒い御影石の墓には「長谷川如是閑墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「高徳院殿彰誉硯香如是閑大居士」。

# by oku-taka | 2023-01-09 19:02 | 評論家・運動家 | Comments(0)

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六代目・一龍斎 貞水(いちりゅうさい ていすい)

講談師
1939年(昭和14年)〜2020年(令和2年)

1939年(昭和14年)、東京府東京市本郷区湯島天神町(現在の東京都文京区湯島)に生まれる。本名は、浅野 清太郎(あさの せいたろう)。役者志望であったが、小さい頃からラジオで演芸に親しみ、また画家であった父と親しくしていた講談組合頭取(会長)の四代目邑井貞吉と出会い、寄席本牧亭の楽屋に出入りするようになる。周囲に貞吉の孫と勘違いされて可愛がられ、五代目一龍斎貞丈から「ちょっと噺出来るか」と言われ、学生服姿で初舞台を踏んだところ喝采を浴び、講談の道に入るキッカケとなる。1955年(昭和30年)、都立城北高校入学と同時に、五代目一龍斎貞丈へ入門し「貞春」を名乗る。1960年(昭和35年)頃より、自作の大道具や照明などを駆使した「立体怪談」に取り掛かり、自身のスタイルを作り上げた。この怪談噺は評判が高く、「怪談の貞水」の異名をとる。また、『忠僕直助』『彰義隊始末記』などを得意とし、1966年(昭和41年)には真打に昇進。「六代目一龍斎貞水」を襲名した。その後、テレビやラジオなどでの多彩な活躍で、長く低迷していた講談界を牽引し続けた。また、低迷が続く講談界の活性化を目指し、自宅で若手の勉強会「講談・湯島道場」を開催。女性の声優たちが弟子となり、話題になった。1975年(昭和50年)、 『鉢の木』で芸術祭優秀賞を受賞。1976年(昭和51年)、放送演芸大賞講談部門賞を受賞。1998年(平成10年)、『赤穂義士本傳』の全編読み切りを講談で初CD化。2002年(平成14年)、講談界で初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。また、同年から2006年(平成18年)にかけて講談協会の会長を務め、その後、講談協会相談役に就いた。2003年(平成15年)、筋層非浸潤性膀胱癌を発症。2008年(平成20年)には初期の原発性肺癌を患い、以降は癌と闘病しながら高座を務めた。2004年(平成16年)、長講の『四谷怪談』を講談で初CD化。2009年(平成21年)、旭日小綬章を受章。2010年(平成22年)、再び講談協会会長に就任。一方で、両肺の癌で半分近く肺を切除し、その後に前立腺癌も患った。晩年は常に酸素吸入器を手放せず、楽屋で酸素吸入をした上で高座に上がっていた。2020年(令和2年)11月まで高座を務めていたが、 12月3日、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年81。没後、正五位が追贈された。


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「怪談の貞水」の異名をとった、六代目一龍斎貞水。代表作『四谷怪談』を筆頭に、照明と音響を使った「立体怪談」で地位を確立。また、落語に比べて低迷が続く講談界を憂い、女性声優の鈴木みえを一龍斎貞友として弟子にするなど、講談界の活性化を目指して後進の育成に力を注いだ。そうした功績が認められ、講談界では初の人間国宝に認定された。いま講談界では、テレビでも活躍している神田伯山が最もチケットが取りにくいと言われるほどの人気を博し、その師匠である神田松鯉も講談界では2人目となる人間国宝に認定された。かつて一龍斎貞水が憂いたその世界は、後輩たちの活躍で再び脚光を浴びるまでとなり、その様を見届けるかのように一龍斎貞水はこの世を去っていった。六代目一龍斎貞水の墓は、東京都豊島区の善養寺にある。墓には「浅野家之墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。また、生前、芸人として「しっかりお別れをする場を作りたい」とお別れの会の開催を望んでいたものの、コロナ禍のため実現が出来なかったことから、故人を偲ぶ場所として功績を記した顕彰の碑を墓の右横に建立。小松石を使用し、寄席文字で「六代目一龍斎貞水」と戒名が掘られ、左側面に直筆で座右の銘「言葉は心、芸は人」、釈台と張り扇を模したものが置かれ、さらにその右横には、演芸評論家・長井好弘による弔文が刻まれた碑が建つ。戒名は、「講龍院清卓貞水居士」。

# by oku-taka | 2023-01-02 23:42 | 演芸人 | Comments(0)