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山手樹一郎(1899~1978)

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山手 樹一郎(やまて きいちろう)

作家
1899年(明治32年)〜1978年(昭和53年)

1899年(明治32年)、栃木県那須郡黒磯町に生まれる。本名は、井口 長次(いぐち ちょうじ)。1917年(大正6年)、旧制明治中学校を卒業し、小学新報社に入社。『少女号』の編集者となる。同年10月、井口長ニの筆名で『幼年世界』に「鸚鵡の声」を発表。その後、『少女文芸』『小学画報』『少年世界』などの少年少女向けの雑誌にも作品を発表した。1932年(昭和7年)、小学新報社を退社し、博文館に入社。『講談雑誌』編集長を経て、『少年少女譚海』の編集長を務め、山本周五郎などの作家を数多く育てる。一方、作家としては、『新青年』や『サンデー毎日』『婦人画報』など青年や婦人層などが読者の雑誌へも作品を発表。しかし、編集者名であった「井口長ニ」では会社の規定で原稿料が支払われない事から、原稿料をもらう為に1933年(昭和8年)の『空撃三勇士』から筆名「山手樹一郎」を名乗るようになる。同年、大林清・梶野千万騎らと同人誌『大衆文学』を創刊。また、肥前藩と薩摩藩の争いを取り成した若侍を描いた「一年余日」を『サンデー毎日』に発表。同作を第1回サンデー毎日大衆小説懸賞に応募し、選外佳作となる。1937年(昭和12年)には、うぐいす取りを内職にする軽輩の又六と亀山藩を巡る騒動を描いた「うぐいす侍」(『サンデー毎日』)を発表。本作は片岡千恵蔵の主演で映画化され、作品の反響を受けるうちに専業作家として独り立ちすることを決意し、1939年(昭和14年)に博文館を退社して専業作家になる。また、土師清二の紹介で長谷川伸の門下となった。同年、岡山の『合同新聞』の依頼を受け、イギリスのアンソニー・ホープの小説『ゼンダ城の虜』をモチーフとして、舞台設定を江戸時代の大名家のお家騒動に置き換えた「桃太郎侍」の連載を開始。それまでの時代小説と異なり、ユーモアと痛快さにあふれた作風は幅広い人気を集めた。1944年(昭和19年)、渡辺華山と高野長英の2人を描いた『獄中記』『檻送記』『蟄居記』の三部作(後に『崋山と長英』として出版)で第4回野間文芸奨励賞を受賞。戦後は1947年(昭和22年)に連載を開始した『夢介千両みやげ』を皮きりに数多くの時代小説を書き続け、明朗かつ壮快な作風は多くの読者に支持され、“貸本屋のベストセラー作家”の異名をとった。1961年(昭和36年)、第2代日本作家クラブ会長に就任。1977年(昭和52年)、勲三等瑞宝章を受章。1978年(昭和53年)3月16日、肺癌のため東京都板橋区の日本大学医学部附属板橋病院で死去。享年79。


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時代小説の分野で絶大な人気を誇った作家・山手樹一郎。それまでの時代小説とは異なり、登場人物の明朗性と勧善懲悪を特色とする作風は大衆から絶大な支持を受けた。1957年(昭和32年)の「大衆文学の読まれ方一貸本屋の調査一」(岩波書店)では「好きな作家」で夏目漱石、江戸川乱歩に次いでランクインし、1958年(昭和33年)には吉川英治を抜いて文壇所得番付の一位になるなど、その人気は凄まじいものであった。後年は寡作であったせいか、その存在は忘れられつつある「貸本界の帝王」の墓は、東京都世田谷区の宗福寺にある。墓には「井口家之墓」とあり、右横に墓誌、左側に「山手樹一郎之碑」と略歴が刻まれたモニュメントが建つ。

# by oku-taka | 2025-07-27 20:16 | 文学者 | Comments(0)

大蔵貢(1899~1978)

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大蔵 貢(おおくら みつぎ)

実業家
1899年(明治32年)〜1978年(昭和53年)

1899年(明治32年)、長野県西筑摩郡吾妻村南沢(現在の木曽郡南木曽町)に生まれる。父は栃の木材で椀などを削って売る木地師をしており、転住を繰り返す生活で、「将来、畳のある家に住めるとは思わなかった」と述懐するほど貧しかったという。その後、家族は東京に移転するが、家計は相変わらず苦しく、これを助けるため小学校に通いながら働いた。13歳のとき、活動写真の弁士となる。好色なトークや、チャールズ・チャップリンの映画をチャップリンそっくりのメイクと衣装で解説するなどの工夫が受け、頭角を現す。一方、貧しさの中で育った経験から、「金を貯めるにはまず使わないこと」、「女買いをしないこと、煙草を呑まぬこと、骨身を砕いて働き、一分の暇でも読書し勉強すること。生活に必要以外の金はすべて蓄えること、積んだら下ろさぬこと、芸の向上に魂を打ち込むこと」を座右の銘としており、肺結核の先輩弁士が食べ残した弁当を自分の昼食代わりにしたほどの倹約ぶりだった。その後、映画界が無声映画からトーキーへと移行するのを見越して収入を蓄財し、弁士の多くが漫談等に転向したのに対し、大蔵は映画館の買収並びに経営に乗り出して実業家の道を選ぶ。弁士で稼いだ金で目黒の目黒キネマを買収したことを皮切りに、下番線の三流映画館を次々に買収して財を成す。毎朝、チェーン館の支配人たちが前日の売上を麻袋に入れ、大蔵邸に集合するとソロバン片手に妻がピーナッツ袋一つの売上まで厳しくチェックしたという。その後、麻布の松竹の下番線館を買収したのを機に、大谷竹次郎の知遇を得る。弁士時代にハリウッド映画に通じた大蔵は、当初は高級なハリウッド映画を上映したが、これが全くの不評で、投資額の半分に及ぶ大赤字を出す。この経験から「郷に入れば郷に従え」と反省し、高級な洋画から庶民的な邦画に上映作品を変えたところ大成功をおさめ、東都随一の映画興行師となった。1936年(昭和11年)、経営難に喘ぐ日活から常務に迎えられる。大阪の森田佐吉と共に、東宝・松竹の両社から狙われた日活の自主再建のため中立的な存在として経営にあたったが、大谷と通じていたため利益相反行為で執行停止処分を受け、辞任を余儀なくされる。また、戦後には「日活常務」であったために公職追放となる。それでも、映画館を複数所有し、大手映画会社すべての有力株主となる。1955年(昭和30年)、新東宝の定期株主総会に株主として出席し、経営に関する意見を発したところ、同社社長の田邊宗英が同調。さらに、田邊から後任社長に迎えられ、同年12月29日に正式就任。大蔵は映画スターの人気にあやかる「スターシステム」を批判し、「名企画無くして興行の成功はあり得ない」と唱え、外部から有名監督やスターを招く同社の文芸大作路線を改め、中堅、若手の内部スタッフ、俳優を使った企画第一主義にシフト。また、題名を考案する際に「内容が理解されやすいこと」を留意し、『憲兵とバラバラ死美人』のような『○○と○○』の題名パターンを多用。『怪談バラバラ幽霊』、『花嫁吸血魔』といった猟奇的なもの、女子プロレスの映画に『相打つ肉体・赤いパンツ』というような「お色気」要素を加えた扇情的なタイトルをつけるなどの手法は、若い世代の観客を呼び込むのに大いに役に立った。映画題名を三段に分け、あたかも三本立てのように見せたり、白黒映画に部分カラーを挿入して「天然色/オークラ・カラー」と題した興行手法を展開。さらに、当時東映に移籍していた早撮りの巨匠・渡辺邦男を呼び戻し、「安く、早く、面白く」のスタイルを確立。「テスト1回、ハイ本番」というスローガン、「一にスピード、二にもスピード、三はすなわちタイムイズマネー」という標語のポスターが撮影所に貼られた。1956年(昭和31年)の『女真珠王の復讐』では、主演の前田通子が「日本初の(後ろ姿の)オール・ヌード」を披露して話題となった。一方、洋画の弁士だったこともあり、洋画や外国の知識に豊富だったことから海外の映画を積極的に輸入・公開した。ロシアの伝説上の英雄イリヤ・ムーロメッツを知っていたことから、映画『豪勇イリヤ 巨竜と魔王征服』(1956年、ソ連)を公開したほか、『原始怪獣ドラゴドン』(1956年、米)も大蔵が選んで公開した。1957年(昭和32年)からは低予算の猟奇怪談やお色気といった「エロ・グロ路線」を展開。また、「お盆はお化け」との方針から毎年夏には必ず『納涼お化け大会』として「怪談映画」を量産。中川信夫などのベテラン監督に活躍の場を与え、石井輝男や小森白などの監督を育てた。こうした経営によって新東宝創建当時の監督や俳優たちには去られたが、社長就任わずか半年後で新東宝の経営は黒字に転換。宇津井健、天知茂、吉田輝雄、菅原文太、三原葉子ら若手スター、前田通子、三原葉子、万里昌代といった肉感的グラマー女優たちが健闘し、音楽に渡辺宙明、撮影に西本正、そして卓越した技術を持つ美術陣など優秀なスタッフも擁した。さらに大蔵は、話題性を持つ作品づくりを目指すという名目で、当時最大のタブーだった天皇を主役とする映画にも挑戦。嵐寛寿郎に明治天皇を演じさせた渡辺邦男監督『明治天皇と日露大戦争』は日本映画史上最大のスキャンダルともてはやされ、興行配収7億円(当時)という大ヒットを記録する。1958年(昭和33年)、株式会社新東宝から新東宝株式会社に商号を変更。同年、弁士時代の盟友たちを顕彰するため、日本映画大手5社に呼びかけ、東京都台東区浅草の浅草寺わきに「弁士塚」を建立した。一方、『続若君漫遊記・金比羅利生剣』に出演した前田通子が、カメラが下からのぞく中、加戸野五郎監督から「2階の階段の上で裾をまくれ」と注文されるが、前田はこれを拒絶。押し問答の末、前田が大蔵に直訴すると、「監督の指示に逆らった」(契約違反)として役を降ろされ、6ヶ月の謹慎と会社への損害賠償として100万円(当時)の支払いを命令される。さらに、加戸野監督の指示を拒絶したいきさつとして、前田が志村敏夫監督と関係があったためといわれ、これを聞いた大蔵は「お前は女優だと思っているのか。裸になるから使えるのに何を言うか」と激怒し、前田と志村監督を解雇した。前田は人権擁護局に訴え、主張が認められて新東宝から謝罪と30万円の慰謝料が彼女に支払われた。しかし、「一女優になめられた」と怒り心頭に発した大蔵は五社協定を使い、映画界はおろかテレビ界にまで圧力をかけ、前田が女優の仕事を一切できないようにしたといわれる。こうした独善的なワンマン体制は拍車をかけ、黒塗りのキャデラックで部課長総出の出迎えを受けて出社、自社の女優を手当たり次第物色し、銀座のバーなどに女優を呼んで接待などをさせ、弟で歌手の近江俊郎に監督をさせる身内贔屓をしたり、月に二回は箱根と熱海に「監督会」として監督たちを集めて宴会を開催し、この会でポンと祝儀をはずみ「**踊れ」と芸者扱いするなどした。さらに、企画から撮影まで現場に事細かく足を運び、自らチェックを加えた。殊にナレーションの部分になると弁士時代の得意の文体で自ら赤鉛筆で修正を加え、現場介入の細かさに、小川欽也や石川義寛ら当時の監督たちは反発もしたという。同年9月19日には、1億円を横領した嫌疑で警察から一斉捜査を受ける。大蔵は連日警察の厳しい取り調べを受けたが、結局不起訴となっている。1959年(昭和34年)に日教組の勤務評定闘争をモチーフとする『闘争の広場』、1960年(昭和35年)には関東大震災の混乱下で起きた朝鮮人虐殺をモチーフとする『大虐殺』というシリアスな映画の公開にも踏み切ったが、業績は急激に悪化。さらに、自らスカウトして移籍させた高倉みゆきとの愛人関係が明るみとなり、大蔵は記者会見を行い、満座の席上で「『女優を妾にした。』と記事にあるが、女優を妾にしたのではない。妾を女優にしたのだ」と発言して物議を醸した。このスキャンダルが影響し、高倉は主役に予定されていた映画『女王蜂と大学の竜』(石井輝男監督)、ラジオ東京テレビの2本のテレビドラマへの出演が中止となり、やがて新東宝を退社。既に危うかった新東宝の経営は更に悪化し、大蔵は「ニュー東映」との資本合併を画策する。社名を「新東映」にするところまで話が進んでいたが、大川博の「会長・大蔵、社長・大川」との提案に対し、大蔵が社長の座に固執したこと、また東映との交渉と並行して日活にも合併を持ちかけていたことで、同年11月2日に交渉は決裂。この最中、大蔵が「第二撮影所」を新東宝の下請け会社で事実上大蔵の所有である「富士映画」に売却していたことが発覚。労組は「大蔵退陣」を掲げて24時間ストを2回決行し、11月30日に大蔵は社長を解任された。新東宝は再建をめざすが、後任社長もわずか4カ月で辞任するなど混迷が続き、1961年(昭和36年)6月に倒産となった。1962年(昭和37年)、大蔵は「富士映画」と「大和フィルム」を統合し、「大蔵映画株式会社」を設立。日本における2作目の70ミリ映画となった超大作『太平洋戦争と姫ゆり部隊』を、設立後の第1号作品として小森白を監督、南原宏治を主演に製作。同年4月7日に公開したが、配給網が弱く興行的には成功しなかった。一方、日本製ピンク映画の第1号作品とされる協立映画製作、小林悟監督の『肉体の市場』を配給して大ヒットさせる。以後しばらくは、大和フィルムの最終公開作品『ファイブ・ガン あらくれ5人拳銃』の監督であったロジャー・コーマンの製作・監督作品等、外国映画の小品の配給と、時折自社製作の一般向映画を発表する程度に活動を留める。特にAIPからコーマンのB級怪奇・SF映画を盛んに輸入し、それを短縮カットして自社作品と3本立てにし、『世界お化け大会』などと銘打ち、「見世物興行」の感覚で公開していた。さらに、数本の成人向作品を製作・配給したところ、好成績を収めるものも出てきたので、自社で製作・配給する作品の主力を、成人向映画に転換。同時に、当時の関東地区での自社直営館や、外部のピンク映画製作に関わる群小プロダクションなどを中心に、成人向映画の配給網「OPチェーン」を組織する。その後、自社製作から徐々に撤退し、代わりに外注作品を配給する形態に変えていく。それに伴い、大蔵映画撮影所を規模縮小し、レジャー施設へ転換し始める。1966年(昭和41年)、大蔵映画撮影所を一部閉鎖し、その跡地を総合アミューズメント施設「オークラランド」として再開発。一方、外国映画の配給業務から撤退。1974年(昭和49年)には残る撮影所部分も閉鎖された。1978年(昭和53年)9月15日、急性肺炎のため死去。享年78。死の床でも企画書や脚本を広げ、手を入れていた。


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日本映画黄金期に、キワモノかつディープな作品を量産し続けた新東宝。その陣頭指揮を社長として執っていたのが大蔵貢である。エログロ&怪談を売りにしたスタイルを確立し、さらに『憲兵とバラバラ死美人』『九十九本目の生娘』『女奴隷船』などの印象的なタイトルで客を惹きつけさせ、瀕死状態だった新東宝の経営を見事に立て直した。また、宇津井健、天知茂、菅原文太、池内淳子といった後の大スターたちを育て上げた。一方、「超」がつくほどのワンマン経営で、「女優を妾にしたのではない。妾を女優にしたのだ」のコメントは未だにネタにされるほど強烈なインパクトを残した。新東宝から排斥されてもなお映画への情熱を失わなかった大蔵貢の墓は、東京都世田谷区の存明寺にある。墓地の中でも一際大きな存在感を示しているこの墓には「大蔵家之墓」とあり、墓誌はないが建立者として大蔵貢の名が刻む。

# by oku-taka | 2025-07-21 00:41 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)

渡辺和博(1950~2007)

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渡辺 和博(わたなべ かずひろ)

イラストレーター
1950年(昭和25年)〜2007年(平成19年)

1950年(昭和25年)、広島県広島市に生まれる。運動神経は鈍かったものの、子供の頃からメカ好き、オートバイ好きであった。崇徳高等学校在学時に二輪免許を取得し、自動車雑誌の購読も始めた。1968年(昭和43年)、上京して東京綜合写真専門学校に入学。カメラマンを目指していたが中退し、1972年(昭和47年)に現代思潮社が開いた美学校(東京・四谷)へ入学し、赤瀬川原平に師事する。渡辺の渾名となる「ナベゾ」は、赤瀬川による講義の題材だった、宮武外骨による『滑稽新聞』のヘタウマな絵師「なべぞ」に由来している。1975年(昭和50年)、美学校の先輩である南伸坊の誘いで青林堂に入社。漫画誌『月刊漫画ガロ』の編集者となり、南とともに面白ければ漫画という表現に囚われぬという誌面作り(面白主義)を打ち出し、『ガロ』の傾向を変える。同年、南の薦めにより『ガロ』8月号掲載の「私の初体験」で漫画家としてデビュー。その後はエロ本や、自販機本『Jam』『HEAVEN』などでも漫画を執筆。1980年(昭和55年)の『ガロ』9月号には「毒電波」という電波攻撃の被害に苦しむ人を描いた漫画を発表し、創作における「電波系」の先駆けとなった。南の退社後は『月刊漫画ガロ』 の編集長を1年半務めたが、自らも青林堂を退社。フリーとなり、独得の「ヘタウマ」漫画と面白エッセイで、多くの雑誌にコラムの連載を持った。また、自らがオートバイ愛好家であることを活かし、1983年(昭和58年)にCBSソニー出版が日本語版を創刊することになったアメリカの老舗オートバイ雑誌「CYCLE WORLD」の中でも連載コラムとその挿絵を担当した。1984年(昭和59年)、コピーライター、イラストレーター、ミュージシャンなど“横文字職業”にある人々のライフスタイルを鋭く観察した『金魂巻』を発表。「一億総中流」と言われた当時、行動すべてがプラス方向に向かい高収入を得られる金持ち「○金」(まるきん)、行動がすべて裏目に出ていつまでも底辺にいる=貧乏な「○ビ」(まるび)を対比させ、その典型像を図解し、同じ職業の中に存在する階層差・所得格差を戯画化した同書はベストセラーとなり、「○金・○ビ」は同年の第1回流行語大賞を受賞した。1985年(昭和60年)、『笑っていいとも!』(フジテレビ)に1年間レギュラー出演。また、また、自動車雑誌「NAVI」には創刊から連載コラムを持ち、開始時のタイトルは「やっぱり自動車は面白い」で、その後、市井の車好きに話を聞く連載「みんな自動車が好き」になった。その連載3回目で、自動車趣味の人を表現する言葉「エンスー」(エンスージアストの略)を発明。1989年(平成元年)からはコラムが「エンスーへの道」となり、連載は1997年(平成9年)3月号まで続いた。1994年(平成6年)には書籍『エンスー養成講座』が刊行。これらの活動により、「エンスー」という言葉は世間に広まった。2003年(平成12年)、肝臓癌の診断を受ける。入院後も病室にノートパソコンを持ち込み、治療と仕事を両立。さらに、医者や看護師の実態から患者のおかしな生態までを独自の観察眼で綴った闘病記録「病院観察記録」として『キン・コン・ガン!―ガンの告知を受けてぼくは初期化された』を刊行した。2005年(平成17年)には妻から生体肝移植をうけるが、2006年(平成18年)に癌が再発。癌は後頭部まで転移し、右目は痺れて見えなくなっていた。それでも、友人である嵐山光三郎の原稿を読み、右手だけでイラストを描き続けた。2007年(平成19年)2月6日午前1時46分、肝臓癌のため東京都新宿区の病院にて死去。享年56。


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1980年代のサブカルチャー文化を牽引した「ナベゾ」こと渡辺和博。素朴で独特な「ヘタウマ」イラストと軽妙な文章で人気を博し、特に市井のさまざまな職業の人々を分析して評した「○金・○ビ」は流行語となった。しかし、「ユルい若者」「ガマン汁」といった造語や、雑誌の企画「スレスレ痴漢報」など、あの時代特有の「軽薄さ」「悪ふざけ」が溢れるものも多くあり、今の時代だったら炎上は避けられなかったであろう。そうした時代が到来する前に世を去り、今や知る人ぞ知る存在となってしまった渡辺和博の墓は、東京都国分寺市のメモリアルガーデン国分寺にある。洋型の墓には、渡辺のデザインと思しき絵と「ワタナベ」の文字が刻まれ、その下に車のモニュメント、下部に墓誌が刻む。戒名は「春光院乗雲和同居士」。

# by oku-taka | 2025-07-13 23:30 | 芸術家 | Comments(0)

蜷川幸雄(1935~2016)

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蜷川 幸雄(にながわ ゆきお)

演出家
1935年(昭和10年)〜2016年(平成28年)

1935年(昭和10年)、埼玉県川口市本町に生まれる。華やかなことが好きな母親の影響で、幼少期から歌舞伎、文楽、オペラ、バレエなどの観劇に出かけ、舞台に親しんできた。成績も優秀で、開成中学、高等学校へと進学。しかし、高校一年から二年への進級に失敗して留年。卒業後は画家を志して東京芸術大学美術学部を受験するが失敗。将来の進路に迷っていた時、偶然「劇団青俳」による安部公房『制服』の公演に接し、衝撃を受けて青俳に参加する。ここで、演出家による「芸術研究会」の講義を受け、演出の際にそれぞれの台詞の背後にどういう行動があるか分析する「サブテクスト」や戯曲分析を学び、以降映画を見たり撮影現場で監督と接するなどし、夜でも枕元にノートを置いて思いついたサブテクストを書き込むなど、独学で演出を身につけていく。1967年(昭和42年)、蟹江敬三ら青俳の若手俳優を集め、アトリエ公演『戸口の外で』で初の演出を担当。その後、友人で劇作家の清水邦夫に創作劇を依頼し、清水は『真情あふるる軽薄さ』を書き上げた。しかし、青俳は蜷川演出による同作の上演に難色を示し、これを機として1968年(昭和43年)に青俳の蟹江敬三、石橋蓮司、後に妻となる真山知子らと「劇団現代人劇場」を結成。1969年(昭和44年)、『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビューを果たした。当時はアングラ・小劇場運動盛んな時期であり、新宿文化劇場での現代人劇場の夜間公演は、若者層を中心に人気を集める。しかし、劇団員の中に70年代安保の街頭デモにのめりこむ者や配役を巡って不満を言う役者が現れたことで、1971年(昭和46年)11月に劇団現代人劇場を解散。しばらくは子育てに専念し、妻が女優として働く日々を送ったが、1972年(昭和47年)に清水、蟹江、石橋とともに劇結社「櫻社」を結成。同年秋の旗揚げ公演『ぼくらが非情の大河をくだる時』で、岸田戯曲賞(後の岸田国士戯曲賞)を受賞した。しかし、1974年(昭和49年)、5月に日生劇場で行われる『ロミオとジュリエット』の演出を東宝演劇部から申し入れされて快諾。大劇場を活かしたダイナミックな演出は好評となったが、商業演劇で演出したことで櫻社の劇団員から批判が集中。同年8月には、それまで櫻社の公演に関わった俳優・スタッフ30人ほどが集まって劇団総会が開かれ、蜷川の商業演劇の演出を巡って反対意見が噴出。全員が反対する中で蜷川は孤立し、櫻社は解散となった。そんな蜷川を見かねた劇作家の唐十郎から誘われ、1975年(昭和50年)に『唐版・滝の白糸』で演出を担当。以降は商業演劇に活動の場を移し、鮮烈なヴィジュアルイメージで観客を劇世界に惹き込む演出方法を展開。また、置いてあった立派な演出家の椅子は使わず、床に新聞紙を敷いて座り、怒鳴ったり罵声を浴びせたりしながら、稽古場を駆け回ってダメ出ししたりしていくスタイルは話題となり、「口よりも手よりも先に、物(靴や金属製の灰皿など)が飛んでくる」と言われる程であった。一方で躁うつ病を患っていた俳優には穏やかな表情で見守るなど、人情的で心優しく「他人に対しても同様に、自分に対しても厳しい」姿勢で仕事に取り組んでいたため、数多くの俳優やスタッフから慕われた。1976年(昭和51年)、『近代能楽集 卒塔婆小町』を演出。このときに主演を務めた平幹二朗は蜷川作品の常連となり、平を女形として起用した『王女メディア』、突然演歌を歌う「こまどり姉妹」が登場する『ハムレット』、舞台に仏壇を据えて設定を安土桃山時代にした『NINAGAWAマクベス』など、蜷川と平のコンビは演劇界で確固たる地位を築いた。また、ギリシャ悲劇やシェークスピアを日本人にも分かりやすいよう大胆に視覚化した演出は話題となり、いずれも人気を得た。1979年(昭和54年)には帝劇で初演された秋元松代作『近松心中物語』が大ヒットし、同作で菊田一夫演劇賞を受賞した。このとき、梅川役を務めた太地喜和子から「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優をやめてちょうだい」と言われたことから、俳優業をセーブして演出家一本に絞る。1980年(昭和55年)、『海よ、お前が - 帆船日本丸の青春』で映画監督デビュー。1983年(昭和58年)、『王女メディア』でローマやアテネなどを巡演する初の海外公演を行い、成功を収める。以降、毎年のように海外公演を重ね、「世界のニナガワ」と高く評価されるようになった。1984年(昭和59年)、「GEKISHA NINAGAWA STUDIO(現在のニナガワ・スタジオ)」を結成。1987年(昭和62年)、イギリス・ロンドンのナショナル・シアターで上演した『NINAGAWA・マクベス』が大評判となる。同年、英国ローレンス・オリヴィエ賞演出部門にノミネートされる。1988年(昭和63年)、『テンペスト』と『NINAGAWA・マクベス』で第38回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。1991年(平成3年)、『タンゴ・冬の終わりに』をイギリス人キャストによって送る『Tango at the End of Winter』で演出を担当。ロンドンで2ヶ月間の公演を行い、英国俳優と日本人スタッフによる日本の現代劇が、商業演劇街であるウェストエンドで長期公演されたことは画期的な出来事として話題を呼んだ。1992年(平成4年)、ロンドン・グローブ座芸術監督陣の一員となる。また、エディンバラ大学の名誉博士号を授与された。同年、小澤征爾の指揮によるリヒャルト・ワーグナー作曲の歌劇『さまよえるオランダ人』で演出を担当。1993年(平成5年)、桐朋学園大学短期大学部(現在の桐朋学園芸術短期大学)芸術科演劇専攻の教授に就任。1996年(平成8年)、読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞。1998年(平成10年)、彩の国さいたま芸術劇場のシェイクスピアの全作品を上演するプロジェクト「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の芸術監督に就任。1999年(平成11年)、東京のシアター・コクーンの芸術監督に就任。 同年、松尾芸能賞の大賞と毎日芸術賞を受賞。また、『青の炎』で19年ぶりに映画監督を務める。2000年(平成12年)、『リチャード三世』と『リア王』の演出で第41回毎日芸術賞を受賞。同年、紀伊國屋演劇賞の個人賞、二度目の読売演劇大賞最優秀演出家賞、第70回朝日賞を受賞。2001年(平成13年)、紫綬褒章を受章。2004年(平成16年)、文化功労者に選出。2005年(平成17年)、五代目尾上菊之助(現在の八代目尾上菊五郎)の依頼を受け、菊五郎劇団と組んだ『NINAGAWA十二夜』を演出。シェイクスピアと歌舞伎を見事に融合させた画期的な舞台を創造し、歌舞伎の可能性を飛躍させた演出が認められ、第53回菊池寛賞を受賞した。同年、三度目の読売演劇大賞最優秀演出家賞と大賞を受賞。2006年(平成18年)、彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督に就任。就任後第一に取り組むべき事業として、高齢者劇団「さいたまゴールド・シアター」を旗揚げ。55歳以上の高齢者を対象とし、演劇経験の有無を問わず新たな表現を模索し、個人史をベースにした演劇活動を行った。2010年(平成22年)、文化勲章を受章。2012年(平成24年)、四度目の読売演劇大賞最優秀演出家賞と、二度目の読売演劇大賞の大賞を受賞。2013年(平成25年)、狭心症により心臓バイパス手術を受ける。その後は肝臓などの不調が続いた。2014年(平成26年)、五度目の読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞。同年11月、さいたまゴールド・シアター香港公演の際、滞在先のホテルで下血し緊急入院。チャーター機で帰国する事態となった。長年の喫煙習慣による肺疾患もあり、帰国後は車椅子と酸素吸入器を手放せなくなったが、現場での演出活動は続けた。しかし、2015年(平成27年)12月半ばに軽い肺炎で入院。その後はリハビリに励んでいたが、2016年(平成26年)2月頃から何度も容体が急変。同年5月12日午後1時25分、肺炎による多臓器不全のため都内の病院で死去。享年80。没後、日本政府は生前の蜷川が演劇文化の発展に尽くした功績を讃え、従三位に叙することを閣議決定した。


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「世界のニナガワ」と評された演出家・蜷川幸雄。斬新かつビジュアル的な演出で、盟友の清水邦夫作品をはじめとした現代劇から、ギリシャ悲劇、シェイクスピア、チェーホフなど海外の古典・近代劇に至るまで、手がけた作品は多岐にわたる。特に、2歳違いの平幹二朗とコンビを組んだ作品の数々は世界的にも高く評価され、日本の演劇史に大きな金字塔を打ち立てた。また、鬼の演技指導でも知られ、怒りのあまり靴や金属製の灰皿といった物を投げることでも有名だった。しかし、その怒りの根源には演劇に対する熱情があり、そうした思いが通じていたのか、俳優やスタッフたちからは随分と慕われていた。かつて商業演劇を初めて演出した際、稽古初日までにセリフを覚えてくるように伝えていたが主役以外誰も覚えていない、立ち稽古にサングラスをしていたりサンダルをはいていたりする、乱闘シーンは軽めにやる、本番で声が嗄れるからと小さな声の俳優がいる、など本気で稽古しない俳優たちに激昂し、「そんないい加減な演技をやってるから、商業演劇はなめられるんだよ」と怒鳴ったという。この体験を機として、蜷川の代名詞ともいえる厳しい稽古が確立されたわけだが、これにより藤原竜也や小栗旬といった若い俳優の才能を開花させることにも繋がった。良いものを作るために妥協を許さず、大物俳優であろうが人気スターであろうが関係なく叱り飛ばし続けた蜷川幸雄の墓は、東京都西東京市の本願寺ひばりが丘墓地にある。墓には「蜷川家」とあり、下部に墓誌が刻む。

# by oku-taka | 2025-07-06 22:02 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)

森康二(1925~1992)

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森 康二(もり やすじ)

アニメーター
1925年(大正14年)〜1992年(平成4年)

1925年(大正14年)、鳥取県鳥取市に生まれる。幼少期は日本統治下の台湾で育ったが、中学時代にミケランジェロの伝記を愛読して建築家を志すようになり、1942年(昭和17年)に帰国して東京美術学校(現在の東京芸術大学)を受験。1度目の受験は失敗したが、浪人を経て、2度目の受験で同校の建築科に合格する。しかし、1945年(昭和20年)に召集令状を受けて千葉県の鉄道隊に入隊。戦時中に政岡憲三が演出を手がけたアニメ『くもとちゅうりっぷ』を観て感銘を受ける。その後、九州で終戦を迎え、1946年(昭和21年)に復学。卒業間際に、浅草の映画館でポール・アリーの短編アニメ『マイティマウス』シリーズの『グリーンライン』を観て衝撃を受け、アニメの道へ進むことを決意した。1948年(昭和23年)、政岡憲三に師事し、アニメ映画制作会社「日本動画」に入社。入社後、政岡の『トラちゃんと花嫁』で彩色を担当。次に熊川正雄の『ポッポやさんののんき駅長』で動画を務めた。しかし、日本動画は経営不振が続いており、1949年(昭和24年)に政岡が退社、1950年(昭和25年)には社員は全員解雇となる。25歳にして失業してしまった森は、小学館の学年誌から挿絵の仕事を請け負ったり、家具設計事務所や西武百貨店の宣伝部に勤務するなどして生活費を稼ぎながら、イラストの持ち込みなどをした。1953年(昭和28年)から「日本動画」を再建した「日動映画」のアニメ映画を手がけるようになり、1956年(昭和31年)に正式入社する。同年8月、「日動映画」は東映の傘下に入り、「東映動画(後の東映アニメーション)」が設立。1957年(昭和32年)、東映動画の第1作となる『こねこのらくがき』にメインアニメーターとして参加。非常に丁寧な作画でキャラクターの愛らしさとアニメーションの動きの魅力を存分に魅せつける作風で、その後の数々の動物擬人化アニメの原点とも言える作品となった。同年6月、香港からの持ち込み企画であった『白蛇伝』の制作が発表されると、森は大工原章とともに原画を担当。また、美術大学などにアニメーターとなる人材を求め採用した東映動画一期生達を指導し、後に『ルパン三世』や『未来少年コナン』の作画監督を務めた大塚康生や、『銀河鉄道の夜』を手掛けたアニメーション監督の杉井ギサブローなど日本アニメの基礎を担う人材を育てた。『白蛇伝』の成功後、長編アニメ『こねこのトランペット』を制作する予定だったが、上層部からの横やりが入り、『こねこのスタジオ』へと変更される。さらに、1961年(昭和36年)の『安寿と厨子王丸』では原画を務める会社からリアリティーのある絵を求められ、デフォルメされた絵を得意とする森はストレスで十二指腸潰瘍となり入院。軽度であったが森自身が早期復帰を強く望んだため、手術が行われた。1963年(昭和38年)、東映動画の長編アニメ第6作『わんぱく王子の大蛇退治』において、これまで東映長編の監督を担当してきた藪下泰司に代わり、新東宝出身の新人の芹川有吾が監督に初登板。従来、東映動画内では演出家はコーディネーター的立場だったが、アニメーター出身でない芹川は東映動画に本格的な演出を持ち込み、監督という職制を確立。さらに本作では、作画の絵柄統一を図る日本独特の原画監督(後の作画監督)制度が初めて採用され、森が日本初の作画監督となった。1964年(昭和39年)、十二指腸潰瘍の手術が原因で腸閉塞となる。以降、身体の不調と闘いながらのアニメ制作となる。1968年(昭和43年)、長編アニメ『太陽の王子 ホルスの大冒険』で原画を担当。このとき手がけたヒロイン「ヒルダ」は絶賛され、宮崎駿や奥山玲子といった関係者からも高く評価された。1969年(昭和44年)、『長靴をはいた猫』で2度目の作画監督を担当。同作は高評価となり、このとき描いた主人公の猫「ペロ」は、後に東映動画(東映アニメーション)のシンボルマークとなった。1971年(昭和46年)、東映創立20周年記念作品『どうぶつ宝島』で3度目の作画監督を担当。同年8月、東映社長の大川博が死去。後任として社長に就任した岡田茂は躊躇なく赤字噴出の東映動画の経営改善に踏み切り、激しいリストラを敢行。従業員320名(うち契約者104人)のうち約半数の150人の希望退職を募集。労組は激しく反発し、東映東京撮影所に機動隊が導入されるなど東制労闘争は激化、労使の間で団交が繰り返されたが、希望退職の募集は何度も延期され、のち5カ月間に及ぶロックアウトが敢行され、約120名が退職。その後も訴訟紛争は続き、労使紛争は二年に及んだ。森も会社の理不尽さに腹を立て、長編アニメ作品の仕事を断っていたことから目をつけられ、1973年(昭和48年)に岡田から退社を勧告された。その後、招かれる形でズイヨー映像(後の日本アニメーション)に入社し、テレビアニメ『山ねずみロッキーチャック』の中盤以降の作画監督を担当。しかし、激務の影響で視力が低下。治療法は無く、5年で失明すると診断され、アニメーターとしての余命宣告を受けてしまう。幸い失明は免れたが、激務に耐えられるほどの視力は回復しなかった。1975年(昭和50年)、ズイヨー映像の代表取締役だった本橋浩一が設立した日本アニメーションに移籍。同年、『フランダースの犬』でキャラクターデザインを担当。1978年(昭和53年)には宮崎駿の依頼で『未来少年コナン』に原画担当として参加したが、視力低下に悩まされほとんど描けなかった。1981年(昭和56年)、藪下泰司に招かれ、東京デザイナー学院アニメーション科の講師に就任。1985年(昭和60年)には小田部羊一・奥山玲子夫婦を同校の講師に招き入れた。1989年(平成元年)に3度目の手術を受けて自宅療養に入るが、病身を押して1990年(平成2年)にアニメ『ちびまる子ちゃん』のパイロット版の原画を手がけた。1991年(平成3年)、『おおかみと7ひきのこやぎ』の監督とキャラクターデザインを担当。この頃には癌を患っていたが本人には告知されておらず、その後も次回作に向けて打ち合わせを行っていた1992年(平成4年)9月4日、肝臓癌のため死去。享年67。


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東映動画の草創期から活躍し、「アニメーションの神様」と称えられた森康二。『白蛇伝』や『長靴をはいた猫』といった東映動画を代表する長編漫画映画を多く手がけ、特に『太陽の王子 ホルスの大冒険』のヒロイン・ヒルダと、『長靴をはいた猫』の主人公・ペロは高い評価を得た。また、大塚康生や小田部羊一といった次世代を担うアニメーターを数多く育てるなど、日本のアニメ史に残した功績は非常に大きい。後年は視力の低下と体調不良に加え、デフォルメされた絵を細部まで作り込むことを得意とする森と時代のギャップさが浮き彫りとなり、パイロット版として手がけた『ちびまる子ちゃん』では、それを観た原作者からアニメ化の話を断られてしまうという事態になってしまった。リアルさを追求せず、己の持つ美意識だけを信じ続けた森康二の墓は、東京都東大和市の三光院にある。洋型の墓には「森家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は、「温恭康徳居士」。

# by oku-taka | 2025-06-30 15:14 | アニメーション関係 | Comments(0)