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押阪忍(1935~2024)

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押阪 忍(おしざか しのぶ)

フリーアナウンサー
1935年(昭和10年)〜2024年(令和6年)

1935年(昭和10年)、岡山県津山市に生まれる。5人兄弟の末っ子だったが、上の4人をすべて結核で失い、母親も早くに亡くしたことから、小学校3年生の頃より父と二人の生活を送る。岡山県立津山高等学校を卒業後、立教大学経済学部に入学。在学中は父の知人であった出羽海親方(元横綱・常ノ花)の伝手で出羽海部屋の書生を務めていたが、次第に学業がおぼつかなくなり、出羽海部屋を出て住み込みの家庭教師をしたり、夜警(ガードマン)や教会に住み込んだり、靴磨きのまねごとをするなど、色々な仕事を体験した。一方、話す言葉に中国地方の“なまり”があり、時に友人から「かっぺ」と言われていたことから、それを直そうと放送研究会に入部。就職活動は新聞社か放送局を受けてみようと決めた矢先に結核を発症。そのため1年留年し、1958年(昭和33年)4月に開局を翌年に控えた『日本教育テレビ』(後のNETテレビ、現在のテレビ朝日)にアナウンサーとして入社した。1963年(昭和38年)、タレントの栗原アヤ子と結婚。1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは、「東洋の魔女」と呼ばれ金メダルを獲得した全日本女子バレーのベンチリポートなどを担当した。1965年(昭和40年)、日本教育テレビを退社し、民放出身で初のフリーアナウンサーとなる。同年より、TBS「日曜劇場」のタイトルクレジットコールを担当。同番組内では東芝の家電製品のインフォマーシャルも担当し、1970年(昭和45年)からは日本テレビ製作のクイズ番組形式のトーク番組『東芝ファミリーホール特ダネ登場!?』の司会を務めるなど、松下電器(現在のパナソニック)の泉大助、日立の高橋圭三と共に“家電CMの顔”として親しまれた。1971年(昭和46年)、個人タレント事務所「エス・オー・プロモーション」を設立。1972年(昭和47年)5月、TBSのクイズ番組『ベルトクイズQ&Q」の3代目司会者に就任。視聴者との絶妙な掛け合いが好評となり、約10年半にわたって司会を務めた。その後も、司会者として『マチャアキ!するぞー びっくり大喜劇』(フジテレビ) 、『メロディアタック』(朝日放送) 、『謎のカーテン!?』(日本テレビ)、『いい旅、ときめき本線~チャレンジ20000km~』(フジテレビ)、『日本全国ひる休み』(フジテレビ) 、『一発逆転!!げんてんクイズ』(読売テレビ) に出演。また、ユニリーバ・ジャパンのマーガリン「ラーマ」のCM『奥様インタビュー』にインタビュアーとして出演。押阪が街頭の主婦に「ラーマ」を試食してもらい感想を聞くCMが、押坂の上品な語り口と一般の主婦の感想を放送する斬新さで話題となり、長きにわたってインタビュアーを担当した。1993年(平成5年)、妻が難病「肺スエヒロタケ感染症」を発症。献身的に看病し、1994年(平成6年)には闘病生活を綴ったエッセイ『ときには翼を休めて』を出版した。同年、「押阪忍のトークアカデミー」を開設。後年は同校の校長としてアナウンサーや司会者の養成を行うなど、後進の指導に力を注いだ。2009年(平成21年)に大腸癌、2017年(平成29年)に腹部大動脈瘤の手術を受けたが、活動は継続。しかし、2023年(令和5年)頃から病床につくようになり、東京都内の老人ホームに入所。晩年は誤嚥性肺炎のため、胃ろうでの栄養摂取を行っていた。2024年(令和6年)6月29日、老衰のため死去。享年89。


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民放出身のフリーアナウンサー第1号として知られる押阪忍。正統派ながらにソフトで軽妙な語り口がお茶の間にウケて、1970年代はあらゆる番組で司会を務めた。特に『ベルトクイズQ&Q」では、視聴者との絶妙な掛け合いから約10年半も司会を担当するほど好評を博し、後にアニメ『ちびまる子ちゃん』や朝ドラ『ひよっこ』でパロディーとして取り上げられ、自らもゲスト出演するほど大きな印象を残した。個人的には、「ラーマ」のCMにおける落ち着いた紳士的な姿が忘れられない。押阪忍の墓は、東京都八王子市の富士見台霊園にある。墓には「押阪家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は、「久遠院法音日忍居士」。

# by oku-taka | 2025-10-05 16:42 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(0)

武見太郎(1904~1983)

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武見 太郎(たけみ たろう)

医師
1904年(明治37年)〜1983年(昭和58年)

1904年(明治37年)、京都府に生まれる。生後まもなく東京府下谷区上野桜木町に転居。谷中小学校を優秀な成績で卒業し、旧制開成中学校に進学。在学中に腎臓結核に罹患し、療養中に叔父の影響もあって「法華経」などに親しんだ。その後、開成には復学せず旧制慶應義塾普通部に転学し、1922年(大正11年)に旧制慶應義塾大学医学部へ入学した。在学中に教授・柴田一能の「日蓮聖人讃迎会」に入り、大学に仏教青年会を創設した。1930年(昭和5年)、医学部を卒業。内科学教室に入ったものの、経験医学に固執する保守的な体質を嫌い、科学・物理学を導入した医学を構築しようとしたが、指導教授との折り合いも悪かった。1936年(昭和11年)、科学者の中谷宇吉郎が体調を崩し、入退院を繰り返すも診断不明のまま段々とやせ衰えてしまっている病状について、慶応義塾大学医学部寄生虫学教室の小泉丹から相談される。学生時代に小泉の寄生虫学教室に出入りし、夏休みには教室員と一緒に日本各地で寄生虫が引き起こす病のフィールドワークも行っていた武見は、中谷の病気が肝臓ジストマ症であることを突き止めた。これを機として、中谷から理化学研究所の所長だった物理学者の仁科芳雄を紹介され、1938年(昭和13年)に理化学研究所へ入所。仁科の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究し、原子物理学の医学的応用、初期の国産心電計の開発に従った。1938年(昭和13年)、研究活動の傍ら東京・銀座の教文館ビルに武見診療所を開業。当初から待合室に「現役の大将、大臣と老人、急患優先」を掲げたことから、科学者や文人、政財界の重鎮が集うようになり、開業医として生計を立てながら政財界の要人とも交わるようになる。1941年(昭和16年)、当時の内大臣であった牧野伸顕の孫娘と結婚。牧野の長女は吉田茂夫人という関係から吉田の主治医を務め、政界とのパイプを築いた。戦後、新生医師会の発足に伴い、中央区医師会を経て日本医師会の代議員となる。1950年(昭和25年)3月には、田宮猛雄の日本医師会長就任と併せて副会長に選出。1957年(昭和32年)4月、同会長に就任。同じ頃、厚生省は医療保障を完遂する構想を発表しており、当時の石橋内閣において国民皆保険の実現を閣議決定していた。厚生省は「国民健康保険全国普及4ヵ年計画」を策定し、1960年度までに医療保険の未加入者のすべてを国民健康保険に加入させることとした為、日本医師会は1960年(昭和35年)8月8日に4項目の要望(制限診療の撤廃、1点単価の引き上げ、事務の繁雑化是正、甲乙2表の一本化と地域差の撤廃)を提出。しかし、1957年(昭和32年)初めの新年度予算案編成で診療報酬の引き上げはわずか10 %にとどまり,4項目要求の「診療報酬単価の引き上げ」や「制限診療の撤廃」は顧慮されなかった。これに対し、日本医師会は2 月19日に全国一斉休診を敢行し、国民に対し「医療の事情を訴える会」を各地で催す。また、定期検診・予防注射・予防接種は一切協力しない、健保と国保の保険医の総辞退届を都道府県医師会長のもとに2月25日までに取りまとめる、との方針を決めた。続く2月21日の全理事会では、「自民党が具体的な回答を出さない限り、4月1日からの国民皆保険には一切協力しない」と決定し、3月5日の日曜日に再び全国一斉休診を行うと決めた。こうした事態を収拾すべく、自民党三役は武見と河村弘歯科医師会長との会談を求めた。その結果、「学会が緊急必要と認める医薬品については、指針関係といえども簡素な手続きで保険に採用する」「指針は根本方針であるから患者の個性を尊重するようにする」「手術に使用する機器、器具、検査の種類、回数は実情に即して認める」「歯科における補てつ、ならびに施術、方法、資材の制限等も実情に即するように措置する」という4項目がなされ、日本医師会は保険医総辞退届の提出を延期した。会談は3月3日も開かれ、診療報酬引き上げ問題で「差し当たりの措置として7月から単価で1円を相当上回る額を引き上げる」「入院料、往診料、歯科の補てつの関係についてもすみやかに措置する」「残余の問題は引き続き検討する」と合意した。これを受け、日本医師会は保険医総辞退届の提出を取り止め、3月5日に予定していた全国一斉休診も中止した。6月28日、古井喜実厚相は中央社会保険医療協議会(中医協)に診療報酬引き上げを問したところ、政府案には従わず、「計算単位の1点10円はそのままとして点数を改定する。薬価と材料費を据え置き、そのほかの部分で平均1円20銭分引き上げる。入院料や往診料は18%,歯科補てつ料の一部を5%引き上げる。全体として12.5%の引き上げにする」答申を7月7日に厚相へと提出した。古井厚相は答中どおりに診療報酬改定を告示したが、日本医師会は「厚相告示の即時取り消し」を要求。さらに、7月19日に歯科医師会と合同会議を開き、「8月1日を期して保険医総辞退を行う。辞退届は医師、歯科医師とも同時に出す」と決めた。その後、池田内閣の改造で灘尾弘吉が厚相が就任したばかりであったことから、田中角栄政調会長が中心になって武見と会談を繰り返し、7月31日に自民党三役と灘尾厚相、武見、河村が出席して、「医療保険制度の抜本的改正」「医学研究と教育の向上と国民福祉の結合」「医師と患者の人間関係に基づく自由の確保」「自由経済社会における診療報酬制度の確立」という4項目合意が調印された。日本医師会はこの合意を評価し、総辞退を中止した。8月3日、医療保険問題を話し合うために、関係者10人、学識経験者10人による医療懇談会が設けられ、「医療の水準を向上させるために新薬、新療法をできるだけすみやかに保険に採用し、制限診療を緩和する」「医療保険の制度間の不均衡を改めて、総合調整などの制度改革を検討する。特に国民健康保険は国からの財政負担を増やし、給付の改善をする」「診療報酬の適正をはかることとし、さしあたり緊急に是正すべき事項については、とり急ぎ十分な検討を加えて実施する。地域差をなくし、甲乙2表の一本化の検討を進める」の事項が合意。これを基に、灘尾厚相は中医協に「高血圧治療指針を改正して血圧降下剤を新たに保険診療に採用する。精神科の治療指針を改正して新葉を採用して、1日使用量を増やす。歯槽膿漏治療指針を新設する」という制限診療の緩和と、診療報酬引き上げを諮問。緩和は11月1日から実施され、診療報酬は「乳幼児初診料を引き上げる」「深夜診療を加算する」とする中医協の答申を受け、平均2.3%の診療報酬引き上げを告示し,12月1日から実施された。7月に平均12.5%引き上げられたのと合わせ、年2回で合わせて14.8ポイントの引き上げとなった。また、日本医師会がかねてより主張していた中医協の見直しも行われ、従来の保険者代表,被保険者・事業主代表,診療側代表、公益代表の四者構成を、支払い側代表と診療側代表,公益代表との三者構成に変え、各側委員は8人(武見の要望で公益委員は4人)とする中医協改組法案が9月末に招集された臨時国会において提出。中医協改組法は10月末に成立し、11月16日に公布、施行された。こうした一連の運動を率い、勝利をおさめた武見は日本医師会内部で高く評価され、その強気の姿勢と発言力から「喧嘩(ケンカ)太郎」の異名をとった。1967年(昭和42年)、武見は当時の日本で使用される薬剤の7割以上が欧米からの輸入であることを嘆き、日本独自の医薬品でかつ自らも愛用してた漢方医療を将来的に海外に輸出できるよう保険診療に組み込むことを厚生省に働きかけ、同年7月に初の漢方製剤の薬価基準収載が行われ、4処方に保険適応が認められた。また、日本初となる東洋医学の総合的な研究機関開設の世話人を務め、北里研究所附属東洋医学総合研究所の開設に尽力した。1971年(昭和46年)1月4日、内田常雄厚相が社会保障制度審議会と社会保険審議会に、当面の赤字対策のための健保法改正案(「再診時自己負担100円を新設(初診から6か月間)し、入院時一部負担を1日60円から150円に引き上げる」「標準報酬の下限と上限を、従来の『3,000円から10万4,000円までの36等級』から、『1万2,000円から20万円までの39等級』に改める」「新たにボーナスの1/12も、保険料の算定基準となる標準報酬の範囲に加える」「退職者継続医療給付制度を創設し、健保被保険者は55歳以上で退職の場合、5年間は退職前の健保の被保険者となれることにする」「健康保険で、70歳以上の被扶養者の家族給付率を5割から7割に引き上げる」)を諮問。日本医師会は1月5日の常任理事会で「今回の健保法改正案は保険財政の赤字対策にすぎない」として反対することを決定し、都道府県医師会に通知した。1月8日、日本医師会は中医協全員懇談会において、スライド制の審議促進を要求。中医協の円城寺次郎会長は、公益委員が論点を整理したメモを出し,それをもとに診療報酬の適正化について審議を進めたいと提案して、了承を得た。続く2月18日の中医協全員懇談会で、「診療報酬体系の適正化について」と題する審議用メモが提出された。審議用メモには、「医師の技術を正当に評価するため,薬剤の多用等による潜在的な技術料といわれる部分の整理を行うとともに、医師の技術による部分のウエイトの高い診療行為を重点的に再評価する」「容易に行うことのできる診療行為は、個別的に点数を設定しないで、診察料に包括する」「同一目的のために行う同一系統の多種目の診療行為については、包括して評価し、または逓減方式を導入する」「外来患者の多少に応じて診察料に格差をつける。つまり、患者が多いところは点数を下げ、少ないところは上げる」「疾病別に定額とするとか、月別に定額とするなど件数定額制を導入する。あるいは1診療日当たりの定額とする日数定額制を導入する」など、かなり大胆に包括制や薬剤費の削減を打ち出している部分があった。中医協の報告を受けた武見は、審議用メモの「反社会保障的性格」を看破し、翌日には審議用メモの各項目に1つ1つ反論する文書を発表し、内田厚相と自民党の医系議員にも発送した。2月23日、日本医師会は常任理事会で、「審議用メモを撤回しなければ厚生行政には協力できない」として、厚生行政全般にわたって包括的抵抗体制をとることを決定。また、厚生省関係の審議会、協議会の全医師会推薦委員の引き揚げを厚生省に通告した。4月28日、武見は都道府県医師会長あてに「5月20日までに会員の保険医辞退届をまとめるように」という指令を出した。5月15日の常任理事会は「保険医辞退届を5月31日に提出すること」を決定し、都道府県医師会に電報を打った。これを受けて厚生省は、5月7日に「保険医総辞退は国民に大きな迷惑をかける」として、都道府県知事宛に「医師に自粛を呼びかけ、公立病院の医師は辞退届を出さないように働きかけるように」と求める通知を出した。健保法改正案は3月19日に衆院本会議で趣旨説明が行われて審議入りしたが、5月24日の通常国会閉幕で健保法改正案は審議未了、廃案となった。同じ日、内田厚相は医師会や個々の医師に向けて「慎重な行動を期待する」との談話を発表した。また、記者会見で「物価、人件費の上昇があるから、医療料金の緊急是正は当然取り上げるべき課題だ」と述べて、診療報酬の緊急引き上げに応じる用意があることも示唆した。内田厚相は武見との会談を申し入れたが、武見はこれを拒否。5月31日、日本医師会は各都道府県(山口県を除く45都道府県、沖縄は本土復帰前)ごとに会員の保険医辞退届を一斉に知事へ提出した。山口県は執行部に対する批判があったため、執行部の指令した期日を意識的にはずして6月11日に1,155通の辞退届を出した。辞退届は7万2,000人となり、開業医のほとんど100%が辞退届を出した。診療に従事している医師は勤務医も含めて11万8,000人であったが、それに対しても61%に達した。6月18日、日経連は「政府与党は安易な妥協をすべきではない。領収書をもらえば医療機関の乱診乱療が明らかになる」との見解を公表した。6月22日には社会保障制度審議会が「総辞退となれば、保険医は税制、金融などでかえって不利になる。政府の医師会説得は、無条件の総辞退撤回と審議会復帰でなければならない」との意見を発表した。厚生省は6月23日に全国都道府県保険課長会議を招集して、都道府県レベルでの総辞退回避への努力を促し、総辞退突入の場合は患者が医療費全額を一旦医療機関に払う療養費払いになるから医療機関の診療内容がチェックできるとして世論操作も行った。厚生省はこの段階で、総辞退突入は10都道府県程度とみていて、影響は少ないとの見方を示した。健保連も6月24日に「政府・与党は医師会と闇取引するな。総辞退突入となれば受けて立つ」との安田彦四郎会長の談話を発表した。7月1日、保険医総辞退に突入。厚生省の楽観的な予想に反し、42都道府県で6万6,000人が参加した。しかし、山口、愛知(16日から参加)、岡山、島根の4県は突入しなかった。このほか京都府と滋賀県で、窓口で患者が現金を支払わないで済むように医療機関が代わりに保険者に医療費を請求する受領委任方式を採用し、名目的な参加にとどまった。三重県や広島県でも部分的にこの方式を採用した。7月5日、佐藤内閣改造で斎藤昇が厚相に就任。事態収拾のため、武見と斎藤厚相の間で公開会談を開くことが合意され、7月13日に第1回会談が厚生省大臣室で報道関係者に公開して行われた。第2回は7月20日に神田駿河台の日本医師会館で公開にて行われ、第3回は7月23日にフジテレビでビジョン討論会の形をとって行われ、放映された。このときは、竹下登官房長官と中山伊知郎一橋大学名誉教授も同席した。第4回は7月27日に厚生省大臣室で開かれ、その翌日の午後には首相官邸で佐藤首相も交えて斎藤厚相と武見の会談がもたれ、厚相と武見が合意した4項目(「厚生省の医療行政に関する姿勢を正す」「医療保険制度の抜本改正案を次期通常国会に提出する」「医療基本法を制定する」「診療報酬において物価、人件費へのスライド制を確立する」)と、佐藤首相が加わって合意した8項目(「国民の連帯意識を高揚する」「国民の医療は生存期間を通して一貫して保障する」「労務管理と社会保障を分離する」「各種保険の負担と給付を公平化する」「低所得層の有病率は高所得層の有病率に比べて6対1の比率であることを考慮する」「医療従事者の質的向上を図る」「大学研究費の公費をふやす」「保険請求事務を簡素化」)の計12項目が合意され、武見は総辞退を7月いっぱいで打ち切ることを約束した。1973年(昭和48年)、防衛庁長官の中曽根康弘、文部大臣の坂田道太から相談を受け、防衛医科大学校の設立に尽力。自衛隊の医官不足解消に貢献した。また、「人間存在の根源にかかわる医学は、高度な科学の成果と人間への愛を融合することによってなし得る領域であり、総合大学において真価を発揮し得る」と考えた松前重義から依頼を受け、東海大学医学部設置懇談会の座長に就任。武見の下で設置計画案が練られ、1974年(昭和49年)4月に医学部が開設された。1975年(昭和50年)、アジア人としては初の世界医師会会長に就任。同年、秋の叙勲で勲一等に叙され、旭日大綬章を受章した。これまで自分の健康管理には自信を持ち、ほとんど健康診断は受けなかった武見だったが、1980年(昭和55年)5月22日に腰痛など体の不調を訴え、東京・青山の前田外科病院に入院。検査の結果、胃に癌が見つかり、5月27日に5時間半にわたる手術が行われた。7月17日に退院となったが、秋になると再び体調の悪さを訴え、10月17日に国立がんセンターに入院。今度は胆管癌が判明した。10月27日に手術が行われ、胃からの転移ではなく原発性だとされた。手術後は年末年始の数日間だけ自宅に帰宅し、1981年(昭和56年)1月25日まで入院した。同年4月1日、定例代議員会の冒頭挨拶で「少し異例の挨拶をお許し願いたい。私が過去に経験したことを伝えるのが義務と考える」と断って、過去の政府、自民党や厚生省との攻防の歴史のあらましを語った。そして最後に「私の最後の代議員会になる」と述べ、会長職を退くとの意向を表明した。代議員会後の懇談会では「最後の代議員会といわれたが、来年の役員改選には出ないということか」と念を押され、「はっきり、そうとっていただきたい」と答えた。1982年(昭和57年)4月、日本医師会会長を引退。在職期間は連続13期25年にわたった。会長退陣後は元気に過ごしていたが、1983年(昭和58年)5月に歯茎から出血して国立がんセンターに入院。いったん退院したあと7月に再入院した。8月には退院して自宅で療養していたが、10月には再び入院。11月末には「老人には在宅医療がいちばんだ」と在宅療養を望んで退院した。12月18日に容態が急変。12月20日午前0時50分、総胆管癌とがん性助膜炎のため死去。享年79。没後、特旨を以て位記を追賜され、死没日付をもって正三位に叙された。


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日本医師会の会長を25年にもわたって務め、その剛腕な手腕と強気な発言から「ケンカ太郎」と呼ばれた武見太郎。官僚や時の政府を相手に保険医総辞退を突きつけ、健康保険診療における制限の撤廃と医療報酬の改定を実現させるなど、医療保健行政における医師会の主導性を確立させた。その一方、「国民がわからなくても結構」「日曜日に病気になる奴が悪い」といった暴言を平気で放ち、田丸美寿々がリポーターとして「薬漬けの医療」を問われて逆上し、一方的にインタビューの打ち切るなど、患者に寄り添うはずの医師とは思えないほど尊大な人柄が目についた。しかし、日本各地に医師会立病院を設立し、医院と病院で一大治療ネットワークをつくる「地域医療構想」の実現に奔走したり、酒・煙草は好まず、女性・金銭などのスキャンダルも一切ないなど、公人として立派な面もあった。良くも悪くも戦後の医療界において多大な功績を残した武見太郎の墓は、東京都杉並区の妙法寺にある。墓には「武見家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は、「太清院醫王顯壽日朗大居士」。

# by oku-taka | 2025-09-29 00:02 | 医師 | Comments(0)

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三代目・三遊亭 圓右(さんゆうてい えんう)

落語家
1923年(大正12年)〜2006年(平成18年)

1923年(大正12年)、浪曲師の木村重丸、常磐津の常磐津文字綱の長男として東京都杉並区に生まれる。本名は、粕谷 泰三(かすや たいぞう)。父のもとに演芸界の人々が頻繁に出入りしていたことから、幼い頃より落語家の様を真似て育つ。1934年(昭和9年)、ある寄席の楽屋へ遊びに行っていたところ、出番予定の出演者が急病で来られなくなり、急遽代演して落語『越後屋』を披露。これが喝采を浴び、その後も話芸を磨くようになる。1941年(昭和16年)、(亭号不明)小圓治に入門し、橘小圓左で初高座を踏む。しかし、定席には出演できず、主に小規模な端席回りや地方の営業を行う。その後、大東亜戦争の開戦に伴い、砲兵として、南方戦線、タイ・ベトナム、そしてインドネシアのスマトラ島を転戦した。1946年(昭和21年)、復員。1948年(昭和23年)3月、5代目古今亭今輔に再入門し、古今亭壽輔を名乗る。1949年(昭和24年)10月、過去の芸歴を加味され、同名で二ツ目に昇進。二ツ目時代までは背広姿での立ち高座であったが、思うところあって高座への着座に改めた。1955年(昭和30年)4月、真打に昇進し、師匠・今輔の最初の師である三遊亭圓右の三代目を襲名した。以降、つるつるの頭と自在に動く顔の表情をトレードマークに、柔らかで上品ながら生気にあふれた語り口は多くのファンを持った。高座では新作落語一筋で、『銀婚式』『日蓮記』『青い鳥』『酒の素』『天皇陛下とモリアオガエル』といった得意ネタのみならず、今輔譲りの“おばあさん落語”を受け継いで発展させ、「七夕おばあさん」「温泉おばさん」といった色気と茶目っ気のあるおばあさんを演じた。1970年代から1990年代にかけては、ピカピカに光った頭を活かした「太陽からの使者」のフレーズでレギュラー出演した『お好み演芸会』(NHKテレビ)の「噺家横丁」(大喜利)コーナー、マッハ文朱や木ノ葉のことのコンビでの『マッハ・円右の音楽亭』『のこと円右の音楽亭』『のこと円右のラブリー10』(NETテレビ→テレビ朝日)、『ドバドバ大爆弾』(テレビ東京)の審査員役など、様々なテレビバラエティ番組で活躍。さらにテレビCMにも出演し、ライオンの「エメロン石鹸」(つるつる頭を磨き上げるシリーズ)では約10年間、P&Gの成人向け紙おむつ「アテント」(「ゲンさん」シリーズ)では約15年間にわたってCMキャラクターを務めた。2006年(平成18年)3月22日、前立腺癌のため死去。享年82。


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師匠譲りの「おばあさん落語」で知られた三代目の三遊亭圓右。それにも増して彼を有名にしたのは、出演したCMの数々であろう。ライオンの「エメロン石鹸」には約10年、紙おむつ「アテント」のゲンさんシリーズでは約15年間にわたってCMキャラクターを務め、さらには岡山の「小林朱雲堂」という地方CMにまで出演していた。テレビタレントとしても華々しく活躍。それだけに訃報の小ささには大変驚いたものだった。つるつる頭をトレードマークに、自らを「太陽からの使者」と名乗った三遊亭圓右の墓は、東京都杉並区の妙法寺にある。墓には「粕谷 柴崎家之墓」とあり、墓誌はないが建立者として本名の粕谷泰三の名が刻む。

# by oku-taka | 2025-09-21 22:55 | 演芸人 | Comments(0)

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八代目・雷門 助六(かみなりもん すけろく)

落語家
1907年(明治40年)〜1991年(平成3年)

1907年(明治40年)、六代目雷門助六の次男として東京府東京市本郷区壱岐殿坂に生まれる。本名は、岩田 喜多二。旧姓は、青木。1912年(明治45年)、5歳で父に入門し、“雷門小助六”と名乗る。人形町末廣で初舞台を踏み、このとき小噺のあとに「かっぽれ」を踊って大喝采を浴びる。小学校へ入ると、踊りのほかに清元、長唄、常磐津、そして鳴物と稽古に励む。1917年(大正6年)には五代目柳亭左楽の門人となった。その後、一時中断していた時期もあったが、1921年(大正10年)10月に16歳の若さながら“睦の五郎”の名で真打に昇進。このとき、睦ノ太郎、睦の三郎と若手三羽烏として売り出される。1928年(昭和3年)、父が睦会を脱退して「日本技芸士研成協会」の会長に就任。自身も睦の五郎を返上し、“雷門五郎”に改名するが、日本技芸士研成協会は1930年(昭和5年)9月に解散したことから、再び睦会に加入。また、初代三遊亭歌奴、柳亭芝楽、六代目橘家圓蔵ら若手真打5人を集めて「五大力の会」を結成した。しかし、1934年(昭和9年)に父が亡くなったことを機に落語を離れ、「五郎ショウ」を結成して軽演劇に傾倒。浅草などの劇場に進出した。その後、評判を聞いた大阪の松竹傘下新興演芸部に誘いを受け、1937年(昭和12年)頃に雷門五郎劇団を結成して大阪に進出。大阪では新興キネマ演芸部に所属した。戦中戦後は一座を率いて全国を巡業。浅草松竹演芸場などを中心に喜劇役者として活躍した。一方、1944年(昭和19年)に応召されるが、1946年(昭和21年)に復員。1955年(昭和30年)、劇団を解散。1956年(昭和31年)7月には八代目桂文楽の斡旋で落語に復帰し、日本芸術協会(現在の落語芸術協会)に加入して寄席に復帰した。1959年(昭和34年)、短期間ながら吉本新喜劇の座長として出演。1962年(昭和37年)10月、八代目雷門助六を襲名。以後、落語に専念し、「あやつり踊り」をはじめとする“寄席の踊り”と、踊りの振りを生かした噺で活躍。後に、三代目古今亭志ん朝らの強い要望で、絶えそうになっていた「住吉踊り」を後世に伝え、現在寄席の夏の風物詩として定着させるなどの功績を残した。また、東京・名古屋・岡山にまたがる雷門一門の惣領として活躍した。1981年(昭和56年)、勲五等双光旭日章を受章。1986年(昭和61年)、文化庁芸術祭賞を受賞。晩年は膝を悪くして正座が出来なくなったため、前に釈台を置き、胡坐で演じていた。また、四代目古今亭志ん好は健在だったが高座は引退していた為、明治生まれの現役最後の落語家だった。1991年(平成3年)10月11日、大腸癌のため死去。享年84。


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落語家ながらに「踊り」を得意とし、あやつり踊り、かっぽれ、住吉踊り等の寄席芸を確立した八代目雷門助六。特に「住吉踊り」に関しては、三代目古今亭志ん朝をはじめとする後輩落語家たちから請われ、その技を承継。今や夏の寄席で披露される伝統芸となった。噺の方では、飄々とした語りが味わい深く、特に立川談志が絶賛した「凝り相撲」は、何度も観たくなるクオリティーの高いネタであった。晩年は膝を悪くし、得意な踊りを活かしたネタが出来なくなったものの、上半身だけで動きを見せる形へと見事にシフトチェンジしていった八代目。「かわるがわる色々な顔をご覧にいれまして、さぞお力おとしもございましょうが、これもなにかの因縁とあきらめて、しばらくの間ご辛抱のほど願っておきます」の挨拶が懐かしく偲ばれる、落語芸術協会の大看板の墓は、東京都杉並区の立法寺にある。2基ある墓のうち、本名の岩田 喜多二で建立された墓には「岩田家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻まれているものの、八代目の名は刻まれていない。

# by oku-taka | 2025-09-15 02:34 | 演芸人 | Comments(0)

藤田淑子(1950~2018)

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藤田 淑子(ふじた としこ)

声優
1950年(昭和25年)〜2018年(平成30年)

1950年(昭和25年)、中国・遼寧省大連市に生まれる。父は電話技師で戦後9年間は中国で電話技術の指導者を務めていたが、帰国後は日本電信電話公社に就職した。小学1年生の時、芝居の仕事が好きだったものの自分ではできなかった一番年上の姉が、児童劇団の募集広告を見て、淑子に「やらせよう」と思い立ち、父の反対を押し切って内緒で児童劇団に申し込んだ。これがきっかけで芸能界に入ることになるが、本人は人前で何かをやることが嫌いであった。一方、体が虚弱で小児リウマチになっており、幼い頃から鍼や湯治に行っていたが、芸能の仕事をしてからは元気になったという。初めての声の仕事は、小学4年生の時の『ビル船長』で、最初のアニメは中学生頃のTBS版『トムとジェリー』のジェリー役。その後、精華学園女子高等学校(現在の東海大学付属市原望洋高等学校)に進学。このとき初めて自分の将来について真剣に考え、これまでは女優になろうと思って放送の仕事をしてきたわけではなく、姉に連れられて児童劇団に入団し、なんとなく楽しいことばかりで、遊び半分に仕事を続けてきたにすぎない、といい加減さに気がついたという。そこで、改めて「女優を自分の一生の仕事にしよう」と決意し、在学中に早野寿郎の私塾「面壁塾」に通い、芝居の基礎を学ぶ。1968年(昭和43年)、テレビドラマ『夏のわかれ』に主演し、42年後に広瀬アリスが更新するまで昼ドラ主演最年少記録となった。また、『アンデルセン物語』、1969年(昭和44年)には『長靴をはいた猫』といった東映動画のアニメ映画作品にも声優として出演。さらに、作曲家の宇野誠一郎が、初めから藤田が歌うことを想定して書いたということから、アニメ『ムーミン』の主題歌「ねぇ!ムーミン」を歌い、これが大好評となった。しかし、子役時代から活動してきたために子役のイメージが抜けず、「いっそしばらくやめちゃったほうがいいかな」と思い、女優の活動を「5年間やめよう」と決心。『ムーミン』のテーマソングで歌手の話が来たことから、19歳で歌手デビュー。デビュー曲『もしもなれたら』はフォークソングで、その後シャンソンやジャズを勉強して歌っていたが、続かなかったという。歌の世界で5年ほど仕事していた頃に長門裕之と出会い、「役者の仕事に戻るのなら、今だよ」と声をかけてもらい、再び女優に専念することを決意。1975年(昭和50年) 、先述の東映動画のアニメ映画作品と同じスタッフで『一休さん』の話が来たため、一休役を快諾。ワンクールくらいのつもりで引き受けたところ、7年間も続く長寿番組となり、『一休さん』が終わったらアメリカへ留学しようと思っていたが叶わなかった。また、並行して歌とテレビドラマをしていたため、アニメの仕事は1本するのが限度だった。それまでは「早くやめたい、他に何か私に向いてる仕事があるだろう」と信じ込んでいたが、留学できなかった時には「もうこれしか残ってないな」と思ったという。1980年(昭和55年)、アニメ『がんばれ元気』に出演。 同作で5歳から15歳までを演じられるところが意欲をそそり、当時レギュラー1本主義だった淑子にとって初の週2本のアニメ出演経験となった。以降、『キャッツ・アイ』の来生泪、『キテレツ大百科』のキテレツ、『ガラスの仮面』の月影千草、『デジモンアドベンチャー』の八神太一など、多くのアニメの主要キャラクターを担当。また、キャスリーン・ターナーやグレン・クローズなどの洋画吹き替えも務めた。1984年(昭和59年)、第1回日本アニメ大賞声優部門最優秀賞を受賞。晩年は健康状態が悪化し、体調不良により持ち役を降板するなど活動を縮小していたが、散発的なナレーションは続け、没後に発売されたゲーム『JUMP FORCE』にも『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』のダイ役で収録に参加していた。2018年(平成30年)12月28日、浸潤性乳癌のため死去。享年68。


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明るい声の少年役が印象的だった声優・藤田淑子。一休さんを皮きりに、キテレツ、『ロミオの青い空』のアルフレド・マルティーニ、『デジモンアドベンチャー』の八神太一など、多くの主要キャラクターの声を務め、当時の子供たちに夢を与え続けた。また、堀江美都子と並ぶ「歌う声優」の走りでもあり、自らが出演した作品はもちろんのこと、『ムーミン』の主題歌も担当して好評を博した。晩年は病のために活動を大幅に縮小。68歳でのあまりに早すぎる旅立ちは、『キテレツ大百科』のファンとして胸が張り裂けるほどの悲しみであった。藤田淑子の墓は、東京都杉並区の宗泰院にある。墓には「藤田家之墓」とあり、左横に墓誌が建つ。戒名は「妙聲院浄明淑婉大姉」。

# by oku-taka | 2025-09-08 02:11 | アニメーション関係 | Comments(0)