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石原慎太郎(1932~2022)

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石原 慎太郎(いしはら しんたろう)

作家・政治家
1932年(昭和7年)〜2022年(令和4年)

1932年(昭和7年)、兵庫県神戸市須磨区に生まれる。1936年(昭和11年)、海運会社に勤める父の転勤に伴い、北海道小樽市に転居。1943年(昭和18年)2月、再び父の転勤に伴い、神奈川県逗子市に転居。1945年(昭和20年)4月、神奈川県立湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)へ進学する。在学中はサッカー部に属し、レギュラーで試合に出場している。1948年(昭和23年)、立身出世主義的な校風に反撥し、胃腸の病を口実に1年間休学。休学中は文学・美術・演劇・音楽・映画に耽溺し、フランス語を学習。1951年(昭和26年)10月、父が脳溢血で急死。父の勤め先である山下近海汽船社長から一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめられる。1952年(昭和27年)4月、一橋大学法学部に入学。ここでは、柔道部とサッカー部に入部する。一方、社会心理学の南博ゼミに所属。簿記や会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いていないと悟り公認会計士になることを断念する。その後、休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力。ある日、神田の一橋講堂で「如水会」(一橋大学のOB会)主催の公開講座にOBの伊藤整が来た際、受付にいた慎太郎は伊藤の講演記録をとり、それを『一橋文藝』に掲載してもよいか伊藤に訊ねた。1954年(昭和29年)、同人誌は刷れたが金が足りずに困り、慎太郎は友人と久我山に住む伊藤に資金援助を頼みに行った。慎太郎はこの同人誌に処女作である『灰色の教室』を発表し、文芸評論家の浅見淵に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『太陽の季節』を執筆することになる。1955年(昭和30年)12月、当時18歳だった石田由美子(後に典子と改名)と結婚。同年、『太陽の季節』が『文學界』に掲載され、第1回文學界新人賞を受賞。また、東宝の入社試験に合格し、助監督としての内定を得る。1956年(昭和31年)1月、『太陽の季節』で第34回芥川賞を受賞。当時史上最年少で、昭和生まれとしては初の芥川賞であった。作品にみなぎる若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こし、同作はベストセラーとなる。一橋大学法学部を卒業後、東宝に入社するもまもなく退社し、嘱託となる。一方、『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活の映画俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行となった。 映画が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊などを行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、映画倫理委員会(通称、映倫)が作られる契機となった。1957年(昭和32年)4月19日、長男・伸晃が誕生。同年10月、『新潮』に発表した『完全な遊戯』について、高見順宅へ行った際、『群像』編集長の大久保房男と口論になり、以来『群像』には一度も執筆していない。1958年(昭和33年)、東宝で映画『若い獣』の監督を務める。また、大江健三郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。1959年(昭和34年)、文芸雑誌『文學界』8月号に発表した実験的ジャズ短編小説『ファンキー・ジャンプ』を発表。三島由紀夫から「現実の脱落してゆくありさまを、言葉のこのやうな脱落でとらへようとする(石原)氏の態度には、小説家といふよりは一人の逆説的な詩人があらはれてゐる」として、見事な傑作と評された。1960年(昭和35年)、隊長として、南米横断1万キロ・ラリーにラビットスクーターで参加。1962年(昭和37年)1月15日、二男・良純が誕生。その後、1964年(昭和39年)6月19日に三男・宏高、1966年(昭和41年)8月22日に四男・延啓が誕生する。1967年(昭和42年)、読売新聞社の依頼で、ベトナム戦争を取材。このとき、危険な前線に武器を携帯しなかったのは日本人だけという状態を目の当たりにし、政界入りの原点となった。1968年(昭和43年)、第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補。藤原あきの選挙参謀だった飯島清、国際政治学者の若泉敬らをブレーンに引き入れ、史上最高の301万票を集めて初当選。田中角栄の金権選挙を批判した。1969年(昭和44年)11月 、『スパルタ教育』を出版。70万部を売り上げるベストセラーとなる。また、『日本について語ろう』(小田実と共著)で文藝春秋読者賞を受賞。1970年(昭和45年)、書き下ろし長編小説『化石の森』で、第21回芸術選奨文部大臣賞を受賞。1972年(昭和47年)11月25日、参議院議員を辞職。12月10日、衆議院選挙に旧東京2区から無所属で立候補して当選。衆議院に鞍替えした。1973年(昭和48年)、田中角栄による中華民国と国交断絶し、中華人民共和国と国交を結ぶ『日中国交正常化』に反対。7月、反共を旗印に政策集団「青嵐会」を結成する。1975年(昭和50年)3月18日、衆議院議員を辞職。4月の東京都知事選挙に立候補し、美濃部亮吉の革新都政に挑戦するも、次点(233万票)で敗れる。1976年(昭和51年)12月、第34回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し、国政復帰。選挙後に発足した福田赳夫内閣で環境庁長官として初入閣。在任中は水俣病補償問題に取り組み、日本政府として謝意を表明し話題になった一方で、「ニセ患者もいる」「患者団体が政治組織に利用されている」と発言を行い、胎児性水俣病患者の上村智子に土下座して陳謝する一幕もあった。1979年(昭和54年)、青嵐会の後継団体として自由革新同友会を結成。1981年(昭和56年)、弟・裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。1983年(昭和58年)、第37回衆議院議員総選挙が公示される前に何者かによって新井将敬の政治広報版に掲載された選挙ポスターに「1966年に北朝鮮から帰化」というシールが貼られるという事件が発生し、それを石原の公設第一秘書が関与していたことが判明した。石原陣営が対立候補に対する刑事事件として、世間に知れ渡ることとなり、民族派右翼の大物として知られた野村秋介も、この件で石原の事務所に乗り込み抗議した。石原は「秘書が勝手にやった事」とした上で正当性を主張したが、保守系メディアも『週刊新潮』を別にして、器物損壊罪という犯罪であることもあり、明確な擁護論を展開しなかった。また、当時石原が派閥の領袖であったことから党内の信用も失墜するなど社会的非難を浴びたため、石原は在日朝鮮人から「在日朝鮮人排撃主義者」として非難されることとなり、憎悪の対象となった。石原の関与も問われたが、第一秘書が立件されたものの、石原自身に捜査が及ぶことはなかった。同年、自由革新同友会の代表となるが、勢いが振るわず、1984年(昭和59年)に清和政策研究会へ合流する。1987年(昭和62年)11月6日、竹下内閣で運輸大臣に就任。12月に宮崎県のリニア実験線に試乗した際、「鶏小屋と豚小屋の間を走っている格調の低い実験線では十分なことはできない。」とこき下ろし、新しい実験線を山梨県に移転新設させた。1988年(昭和63年)、『生還』で平林たい子文学賞を受賞。5月、新東京国際空港(現在の成田国際空港)を視察。その際、成田新幹線の成田空港駅として造られたものの放置状態になっている施設を見学。成田新幹線は、沿線住民の建設反対運動や日本国有鉄道財政悪化の影響により、建設工事がほとんど進まず、前年の国鉄分割民営化で事業はJRに引き継がれず、工事計画そのものが失効したが、成田線と交差する位置から成田空港駅までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅構内を見学した石原は、法規制に縛られている新東京国際空港公団関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には上下分離方式の成田空港高速鉄道が設立され、2年半後にはJR東日本と京成電鉄が成田空港駅に乗り入れを開始した。1989年(平成元年)、亀井静香・平沼赳夫・園田博之らに推される形で、総裁選挙に出馬。しかし、経世会が推す河本派の海部俊樹に敗れる。同年、『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版し、125万部を売り上げるベストセラーとなる。1990年(平成2年)、第39回衆議院議員総選挙で、旧東京4区にて長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。また、1992年(平成4年)から7年間、三島由紀夫賞選考委員を務めた。1995年(平成7年)4月14日、議員在職25年表彰を受けての衆議院本会議場での演説中、「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行い、衆議院議員を辞職した。また、同年から芥川賞の選考委員も務め、辛口の批評も多かったが、又吉栄喜、辻仁成、花村萬月、町田康、青来有一、中村文則、青山七恵、西村賢太など強く推して受賞に至った作家もいる。1996年(平成8年)7月、弟・裕次郎をテーマにした『弟』を発表。120万部を売り上げるベストセラーとなり、同作で毎日出版文化賞特別賞を受賞した。1998年(平成10年)、『法華経を生きる』が33万部を売り上げるベストセラーとなる。1999年(平成11年)4月11日、東京都知事選挙に立候補。立候補表明の記者会見での第一声の「石原裕次郎の兄でございます」という挨拶が話題を呼ぶ。鳩山邦夫、舛添要一、明石康、柿澤弘治ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。当選後の会見では「都庁で会おうぜ」と発して再び話題を呼ぶ。以降、4期14年の長期政権を築き、ディーゼル車排ガス規制、東京マラソンの開催、新銀行東京の発足、首都大学東京の立ち上げ、などの様々な政策を推し進める。2000年(平成12年)7月には元公設秘書で側近の浜渦武生を副知事とした。2001年(平成13年)、『わが人生の時の人々』で文藝春秋読者賞を受賞。2002年(平成14年)、『老いてこそ人生』が82万部を売り上げるベストセラーとなる。。2007年(平成19年)5月、“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメと特攻隊員の交流にスポットを当てた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。2010年(平成22年)4月10日、たちあがれ日本の応援団長に就任。2011年(平成23年)、『新・堕落論』が25万部を売り上げるベストセラーとなる。都知事4期目に入ったこの頃から国政の政権与党である民主党の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年(平成24年)10月25日、都庁にて緊急記者会見を行い「本日をもって(東京都知事を)辞任し、新党を結成する」と表明。会見後に都議会議長に辞表を提出した。11月13日、たちあがれ日本を改称する形で太陽の党を結党。共同代表に就任する。11月17日、太陽の党が日本維新の会に合流。代表に就任した。12月16日、第46回衆議院議員総選挙に比例東京ブロックで当選。衆議院議員として、17年ぶりに国政に復帰を果たした。衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して国会での質疑に立っている。国政復帰初の2013年(平成25年)2月12日の衆議院予算委員会での国会質疑を「国民への遺言」とした。この質疑では「暴走老人の石原です。私はこの名称を非常に気に入っている。せっかくの名付け親の田中真紀子さんが落選されて、彼女の言葉によると“老婆の休日”だそうでありますが、大変残念だ」とも述べた。また、「日本の国家の会計制度に懸念を持っている。これを合理化して企業並みにしないと、アベノミクスのバリアになる。この国には健全なバランスシート、財務諸表がない。国は何で外部監査を入れないのか。アベノミクスを成功させるためにも会計制度を一新させる必要がある。会計制度を変えると税金の使途がハッキリ分かる」と安倍総理および麻生副総理に、石原が都知事時代に東京都の会計に採用した複式簿記・発生主義会計制度を国家の会計制度にも導入するよう提言を行った。国政復帰後は、主に自主憲法の制定を強く訴え、現行憲法は、前文は極めて醜い日本語で、歴史的正当性がなくアメリカが日本の解体統治のために一方的に速成したものだとして、衆議院本会議で質問に立った際に変更を促した。その一方、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、3月28日に『週刊新潮』が「菅直人の周辺が石原の脳梗塞発症説を漏らしている」と報じた。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う記者会見において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた。2014年(平成26年)3月、石原が会長を務める党エネルギー調査会の初会合で講演中、当時会期中の第186回国会で採決予定だったトルコなどへの原発輸出を可能にする原子力協定について、党が前年12月の両院議員総会で多数決で原子力協定反対を決めたことを「ばかばかしい。高校の生徒会のやり方だ」と批判。その上で「私は採決のとき賛成する」と明言した。党の方針に背いて独自に行動することを宣言したことに反発した大阪系の浦野靖人衆院議員(当選1回)が「(党の決定に)反対なら党から出ていったらよろしい」と発言、他の複数の大阪系議員も同調した。さらに、結いの党との合併協議に際しては「結いの党は護憲政党だ」などとして否定的なスタンスを貫き、新党の綱領に自主憲法制定を目指すなどの文言を入れることに固執。あくまで意見の隔たりの大きい結いと合流し政界再編を目指す橋下共同代表や松野頼久国会議員団幹事長らとの決裂が決定的となった。日本維新の会では大阪系の議員らと政策や党運営で対立する局面がたびたびあったが、石原は5月28日付で日本維新の会からの分党を表明、6月5日付で「新党準備会」を発足した。石原グループの離党ではなく一度解散した上での分党(政党助成法上の分割)という手続きを取ることで、維新が受け取るはずだった政党助成金は議員数に比例して橋下グループの新党「日本維新の会」と石原グループ「次世代の党」の両者に按分され、7月30日までに、両者間で政党助成金の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日総務省への解散届出をもって正式に分党。8月1日に平沼赳夫を党首として新党「次世代の党」を発足・総務省へ届け出、石原は党最高顧問に就任した。11月、衆議院解散が確定的となると、石原は高齢を理由とした自らの体調不安から選挙前の引退を示唆した。しかし、党内からの強い希望もあり、比例単独候補(東京ブロック)として立候補を決断。石原本人の希望により「後輩を一人でも多く当選させたい」として比例順位は最下位に当たる9位だった。結果として次世代の党は石原が立候補した東京ブロックを含む全ての比例ブロックで議席を獲得するには至らず、石原は落選。12月16日に記者会見を開き、政界引退を表明した。2015年(平成27年)、旭日大綬章を受章。2016年(平成28年)、田中角栄を「俺」という一人称で記した自伝風小説『天才』を発表。92万部を売り上げるベストセラーとなった。9月、築地市場移転問題に際し、建設許可を与えた当時の都知事である石原の自宅前にワイドショーを含めた記者、リポーターが張り込む事が増え、10月7日、小池都知事は知事定例記者会見の場で石原に対して公開質問状を送付し、公開の場で意見開陳するよう求めた。しかし、石原は公開ヒアリングの内容を明かし、自身は小池と一対一での面談を求めていたが、小池からメディアを入れた公開ヒアリングを提示された事を難色を示し、特に過去に脳梗塞を発症し、回復はしているものの、この時点で半身に障害が残っており、記憶についても曖昧であると見解を示した。石原は小池に対して質問状の内容を返答し、25日に回答内容を公開した。しかし、小池が望む回答ではなく、用地交渉や土壌汚染対策などは部下に任せており「記憶にない」、「13年半の在任中に決裁した案件数は膨大であり、本書の回答以上の記憶はない」とした上で、石原が知事に就任する前からの資料を全て公開するよう小池に対して要望し、「無責任に聞こえるかもしれないが、記憶の問題ではなく、資料がすべてを物語ってくれる」と回答し、道義的責任については、「専門的な内容の事項について道義的責任をご質問いただくことに些か複雑な思いを感じざるを得ないが、市場関係者の皆さんを含め、東京都民の皆さんや国民の皆さんに対しては、結果としてこのような事態に立ち至っていることについてまことに申し訳なく思う」と陳謝し、謝罪の弁を述べている。当時市場長を務めていた比留間英人東京メトロ副会長は、当時の石原知事から、地下にコンクリートの箱を埋める案について、検討を指示されたと証言した。一方、石原元知事は、「専門委員から聞いて、私が逆にこんな話があると言った」との説明を行った。小池は石原の回答に対して非常に不満を抱き、再度ヒアリングを要請する事を求める見解を示し、2017年(平成29年)1月の都議会定例会開会以後、当該事象の石原に対する調査として、2月22日から都議会は豊洲市場移転問題に関する調査特別委員会において審議を行っており、都議会の全会一致にて石原と元副知事であった濱渦武生を参考人招致する事が決定した。3月20日、石原が招致され、特別委員会及び百条委員会設置前から主張していた、用地買収交渉は「部下に一任しており、都庁全体の流れで市場移転を豊洲に決定し、組織の長として移転を裁可した責任は認める」と証言し、政治問題化させた小池に対して、「科学者が安全と言うのに、なぜ移転しないのか不可解だし、不作為の責任が問われるべきだ。都民を第一に考えて移転しなければならない」と批判を展開した。2021年(令和3年)10月、病院で膵臓癌の再発と「余命3か月」程度との宣告を受ける。高齢で持病も抱えていたことから、抗癌剤治療はせずに少しでも痛みや辛さを和らげるための緩和ケアを選択。以来、自宅と介護施設を行き来する、闘病生活を送っていた。2022年(令和4年)2月1日午前10時20分、東京都大田区の自宅で死去。享年89。2月22日、政府は死没日付に遡り、正三位に叙した。なお、通夜には妻も車椅子姿で参列していたが、夫の死から約1か月後の3月8日に84歳で死去している。


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作家として、政治家として、常に話題を振り撒き続けた石原慎太郎。小説『太陽の季節』で颯爽と登場して以来、その歯に衣着せぬ発言で常に物議を醸す存在であった。国粋的な思想で、同調できる部分もいくつかあったが、自分とは反対の意見は絶対認めない独善的なその性格が個人的には合わない人であった。毀誉褒貶という言葉が見事に当てはまる石原慎太郎の墓は、神奈川県逗子市の海宝院にある。没後作り直された墓相学に基づく五輪塔の墓には「石原家先祖各霊菩堤」とあり、左側面に生前に希望していた「青嵐報国」が刻まれ、右側に墓誌が建つ。戒名は「海陽院文政慎栄居士」。

# by oku-taka | 2022-06-19 14:05 | 文学者 | Comments(0)

三井弘次(1910~1979)

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三井 弘次(みつい こうじ)

俳優
1910年(明治43年)〜1979年(昭和54年)

1910年(明治43年)、神奈川県横浜市西区西戸部町に生まれる。本名は、三井 日子秀(みつい ひこひで)。父親が松竹の特約映画館を経営していたことから、映画に小さい頃から親しんでいた。1922年(大正11年)、慶應義塾大学商工学校に入学。学校の行き帰りに通る松竹蒲田撮影所に見学として出入りするうちに、映画俳優になることを決意する。1924年(大正13年)、慶應義塾大学在学中に松竹蒲田撮影所へ俳優として入社。1925年(大正14年)、三井秀男の芸名で『懐かしの蒲田』でデビュー。その後は脇役として出演を続けるが、1931年(昭和6年)に磯野秋雄、阿部正三郎と共に与太者トリオとして、野村浩将監督の『令嬢と与太者』に出演。その後『与太者と芸者』『与太者と花嫁』などの与太者シリーズで一躍人気者となった。喜劇俳優としては別に、小津安二郎監督の『非常線の女』(1932年)、『浮草物語』『母を恋はずや』(1934年)に立て続けに起用される。1934年(昭和9年)、与太者トリオ揃って準幹部待遇となり、1935年(昭和10年)には正式に準幹部となるが、与太者シリーズ第10作『与太者と小町娘』完成後に松竹の監督だった重宗務の東京発声映画研究所の創立に参加し、松竹を離れる。トリオの一角を欠いた与太者シリーズ第11作『与太者と若夫婦』は三井の代役を立てて撮影された物のこれで打ち切りとなった。1938年(昭和13年)、阿部豊監督の北海道を舞台とした少年院物『太陽の子』の演技が評価され、その名を決定的なものとした。その後、東京発声映画研究所の解散から松竹に戻る。1948年(昭和23年)、小津監督の『風の中の牝雞』出演時に芸名を三井弘次に改名する。1957年(昭和32年)、黒澤明監督の『どん底』で遊び人の喜三郎役を演じ、第12回毎日映画コンクールと第8回ブルーリボン賞の助演男優賞を受賞。バイプレイヤーとしてその地位を決定付ける。以後も黒澤作品には度々起用され、絶妙な演技を見せた。 1960年(昭和35年)にフリーとなってからは映画のみならずテレビドラマ、舞台と活躍するが、1971年(昭和46年)に胃潰瘍の手術を受けてからは体調を崩し、俳優活動を縮小した。1979年(昭和54年)4月20日午後8時45分、心不全のため鎌倉市内の病院で死去。享年69。


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日本映画黄金期を代表する名バイプレイヤーの一人であった三井弘次。小津安二郎、黒澤明、木下惠介といった名匠に愛され、主役を張らないながらも松竹から絶大な信頼を寄せられていたと、なべおさみが証言するほどの名優であった。『どん底』での遊び人・喜三郎、『悪い奴ほどよく眠る』の新聞記者、『浮草』の旅芸人、『早春』のツーレロ節を熱唱する酔っ払いの戦友など、日本映画を彩った名作で脇役ながらも印象に残る演技を残し、個性派としての地位を不動のものとした。その目付きの鋭さ、しゃがれた高音で映画ファンから愛された三井弘次の墓は、神奈川県鎌倉市の光則寺にある。洋型の墓には「妙法 三井家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は、「慈秀院法弘日正居士」。

# by oku-taka | 2022-06-19 13:39 | 俳優・女優 | Comments(0)

杉原千畝(1900~1986)

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杉原 千畝(すぎはら ちうね)

外交官
1900年(明治33年)〜1986年(昭和61年)

1900年(明治33年)、岐阜県武儀郡上有知町(現在の美濃市)に生まれる。幼少期は、福井県、三重県、岐阜県、愛知県と転居を繰り返し、旧制愛知県立第五中学(現在の愛知県立瑞陵高等学校)卒業後、1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現在の早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。医師になることを願っていた父の意に反した進学だったため仕送りもなく、早朝の牛乳配達など複数のアルバイトを掛け持ちしていたが、米騒動によってアルバイト先が次々と倒産していき、学費と生活費をまかなうことはできなかった。ある日、図書館で偶然目にした地方紙の掲示(大正8年5月23日付の「官報」第2039号)により、外務省留学生試験の存在を知る。千畝は大学の図書館にこもり、連日ロンドンタイムズ、デイリーメールの両紙を初め、米国発行の数雑誌を片端から全速力で閲覧するなどの猛勉強の末、「日支両国の将来」に関する論述や「英国下院に於ける外務次官ハームウォーズの独軍撤退に関する演説」の英文和訳などの難問を制して合格した。1919年(大正8年)11月、早稲田大学を中途退学し、外務省の官費留学生となった。この官費留学生の募集では、英独仏語の講習生募集は行われず、英語で受験した千畝は当初スペイン語の講習を希望していたが、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めでロシア語講習生となった。その後、官費留学生として中華民国のハルピンに派遣され、ハルピン学院で聴講生としてロシア語を学んだ。1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営(一年志願兵)し、最終階級は陸軍少尉。1923年(大正12年)3月、満州里(領事館)へ転学命令。「一、二年前の卒業任官の留学生と比較するも遜色なし。むしろ正確優秀」という折り紙つきの評価を受け、生徒から教員として教える方に転じ、外務書記生の身分のまま母校のハルビン学院でロシア語講師を務めることになった。1924年(大正13年)、外務省書記生として採用され、ハルビン総領事館などを経て、1932年(昭和7年)に満洲国外交部事務官に転じた。その間の1926年(大正15年)には、600ページあまりにわたる報告書『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。1932年(昭和7年)3月、上司の大橋忠一総領事の要請で満洲国政府の外交部に出向。1933年(昭和8年)、書記官としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当。鉄道および付帯施設の周到な調査をソ連側に提示し、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。ソ連側の提示額は当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。ところが、1935年(昭和10年)に満洲国外交部を退官。このハルビン在職期に、ユダヤ人や中国人の富豪の誘拐・殺害事件を身近で体験し、また、破格の金銭的条件で関東軍の橋本欣五郎から間諜(スパイ)になるよう強要されるなど、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した。かつてリットン調査団へのフランス語の反駁文を起草し、日本の大陸進出に疑問を持っていなかった千畝は、この頃から「大日本帝国の軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。千畝の拒絶に対し、関東軍は当時の妻であったクラウディアを「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由となった。満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったため、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だった。満洲時代の蓄えは離婚の際にクラウディアとその一族に渡したため、ハルビンに渡ったときと同じように、千畝はまた無一文になった。そこで、弟が協力して池袋に安い下宿先を見つけ、千畝は知人の妹である菊池幸子と結婚。日本の外務省に復帰する。1937年(昭和12年)、ヘルシンキの在フィンランド日本公使館に赴任。当初は念願であったモスクワの在ソビエト連邦日本大使館に赴任する予定であったが、ソビエト連邦側が反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、ペルソナ・ノン・グラータを発動して千畝の赴任を拒絶した。日本の外務省はソ連政府への抗議を続けるとともに、千畝に対する事情聴取も行い、それは『杉原通訳官ノ白系露人接触事情』という調書にまとめられた。日本政府は、ライビット駐日ソ連臨時大使を呼び出して、千畝の入国拒否の理由を再三尋ね、ソ連に敵愾心を持っていた白系ロシア人との親密な関係を指摘されたが、それは具体的な証拠のないものだった。1939年(昭和14年)、リトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となり、8月28日カウナスに着任する。着任直後の9月1日にドイツがポーランド西部に侵攻し、第二次世界大戦が始まる。独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づき、9月17日にソ連がポーランド東部への侵攻を開始する。10月10日、リトアニア政府は、軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒を受諾する。1940年(昭和15年)6月15日、ソビエト軍がリトアニアに進駐する。ポーランドとリトアニアには、ミルやテルズなどユダヤ人社会に知られたユダヤ教の神学校があり、ヨーロッパ中から留学生が集まっていた。そのなかに祖国がドイツに降伏したため無国籍になった、オランダ出身のナタン・グットヴィルトとレオ・ステルンハイムがおり、グットヴィルトはオランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクに出国の協力を求めた。ズヴァルテンディクは、1940年(昭和15年)5月にバルト諸国担当のオランダ大使 L・P・デ・デッケルの要請を受けてカウナス領事に就任していた。祖国を蹂躙したナチスを強く憎んでいたズヴァルテンディクは、グットヴィルトらの国外脱出に協力を約束。6月末にグットヴィルトは、ワルシャワ大学出身の弁護士でユダヤ難民たちのリーダー格だった、ゾラフ・バルハフティクにこの件のことを相談した。ズヴァルテンディク領事は、「在カウナス・オランダ領事は、本状によって、南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせずと認む」とフランス語で書き込んだ。ズヴァルテンディクによる手書きのビザは途中でタイプに替わり、難民全員の数を調達できないと考えたバルハフティクらはオランダ領事印と領事のサインのついたタイプ文書のスタンプを作り、その「偽キュラソー・ビザ」を日本公使館に持ち込んだ。そして、今度はトルコ政府がビザ発給を拒否するようになった。こうして、トルコ領から直接パレスチナに向かうルートも閉ざされた。もはや逃げ道は、シベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。難民たちがカウナスの日本領事館に殺到したのには、こうした背景があった。7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」と回想する千畝は、その手記のなかで、あの運命の日の光景をこう描いている。「6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」。カウナスに領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定にあったため、難民の殺到は想定外の出来事であった。千畝は情報収集の必要上、亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。本省と千畝との間のビザ発給をめぐる齟齬は、間近に日独伊三国軍事同盟の締結を控えて、カウナスからの電信を重要視していない本省と、生命の危機が迫る難民たちの切迫した状況を把握していた出先の千畝による理解との温度差に由来している。ユダヤ人迫害の惨状を熟知する千畝は、「発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、彼らが提示するもののうち、領事が最適当と認めたもの」を代替案とし、さらに「ソ連横断の日数を二〇日、日本滞在三〇日、計五〇日」を算出し、「何が何でも第三国行きのビザも間に合う」だろうと情状酌量を求める請訓電報を打った。しかし本省からは、「行先国の入国許可手続を完了し、旅費および本邦滞在費などの携帯金を有する者にのみに査証を発給せよ」との発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてきた。そこで千畝は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。日本では神戸などの市当局が困っているためこれ以上ビザを発給しないように本省が求めてきたが、「外務省から罷免されるのは避けられないと予期していましたが、自分の人道的感情と人間への愛から、1940年8月31日に列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました」とし、避難民たちの写真を同封したこの報告書のなかで、千畝はビザ発給の理由を説明している。東京の本省は条件不備の難民やユダヤ人の問題などまるで眼中になかった。それどころか、日独伊三国軍事同盟を締結も間近な時期に、条件不備の大量難民を日本に送り込んできたことに関して、「貴殿ノ如キ取扱ヲ爲シタル避難民ノ後始末ニ窮シオル實情ナルニ付」(昭和15年9月3日付)と本省は怒りも露わにし、さらに翌年も「『カウナス』本邦領事ノ査證」(2月25日付)と、千畝は名指しで厳しく叱責された。窮状にある避難民たちを救済するために、千畝は外務省を相手に芝居を打った。もし本省からの譴責に真っ向から反論する返電を送れば、本省からの指示を無視したとして、通行査証が無効になるおそれがある。そこで千畝は、本省からビザ発給に関しての条件厳守を指示する返信などまるでなかったかのように、「当國避難中波蘭出身猶太系工業家『レオン、ポラク』五十四歳」(昭和15年8月24日後發)に対するビザ発給の可否を問い合わせる。つまり、米国への入国許可が確実で、十分な携帯金も所持しており、従って本省から受け入られやすい「猶太系工業家」をあえて採り上げるためである。そして千畝は、わざと返信を遅らせてビザ発給条件に関する本省との論争を避け、公使館を閉鎖したあとになって電信第67号(8月1日後發)を本省に送り、行先国の許可や必要な携帯金のない多くの避難民に関しては、必要な手続きは納得させたうえで当方はビザを発給しているとして強弁して、表面上は遵法を装いながら、「外國人入國令」(昭和14年内務省令第6号)の拡大解釈を既成事実化した。一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わりぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む状態になり、さらに痛くなって動かなくなった腕を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った。手を痛めた千畝を気遣い、千畝がソ連情報を入手していた、亡命ポーランド政府の情報将校「ペシュ」ことダシュキェヴィチ大尉は、「ゴム印を作って、一部だけを手で書くようにしたらどうです」と提案。オランダ領事館用よりは、やや簡略化された形のゴム印が作られた。ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら、一か月あまり寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族とともに老舗ホテル「メトロポリス」に移った。千畝は領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行した。9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、千畝は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがった。そして列車と並んで泣きながら走っている人が、千畝たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていた。カウナス領事館が閉鎖されてから、千畝はプラハ、さらにケーニヒスベルクに赴任。これは、名目上の上司だった大鷹正次郎・ラトビア大使から松岡外相への進言によるもので、カウナス領事館の千畝のみをそのままケーニヒスベルクに移転させ、対ソ諜報活動に従事させることは、ドイツ側の納得を得られないだけでなく、ソ連側からもドイツに抗議がないとはいえない。したがって同地に正式の総領事、または領事を任命し、千畝をその下に置いて、対ソ関係事務を担当させた方がよいと思われるというものである。1941年(昭和16年)8月7日、ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは、外相リッベントロップに対して、「ドイツ帝国における日本人スパイについて」の報告書(1941年8月7日付)を提出し、そこにはドイツの「軍事情報に並々ならぬ関心を示していた」として、「日本領事杉原」の名前が筆頭に挙げられ、「ポーランド及び英国に親しい人物」として名指しで非難されていた。北満鉄道買収交渉のハルビン時代からソ連にマークされていた千畝は、またドイツ諜報機関の最大の標的の一つでもあった。亡命ポーランド政府の情報将校たちが、カウナスの日本公使館の手引きにより在欧日本大公使館やバチカンの後援を受け、さらにスウェーデンを経由してロンドンのポーランド亡命政府へ情報を送る、全欧規模の諜報網をドイツ国家保安局が知るところになり、それゆえ千畝はケーニヒスベルクからの即刻退去を求められたのである。千畝を忌避したのは東プロイセンの大管区長官、エーリヒ・コッホである。のちに美術品略奪者、ウクライナのユダヤ人虐殺者として悪名を馳せるコッホは、大量のユダヤ人逃亡を助けた千畝に当初から強い反感を持っており、ケーニヒスベルク着任から一か月後にやっと千畝を引見した。ほどなくベルリン大使館から千畝の東プロイセン在勤をコッホが忌避した旨を伝えられ、千畝は最後の任地であるルーマニアのブカレストに向かうことになる。その後、ヨーロッパ各地の友好国を転々とし、各職を歴任。第二次世界大戦の終結後、ブカレストの日本公使館でソ連軍に身柄を拘束された杉原一家は、1946年(昭和21年)11月16日、来訪したソ連軍将校に帰国するため直ちに出発するように告げられ、オデッサ、モスクワ、ナホトカ、ウラジオストックと厳寒の旅を続け、1947年(昭和22年)4月5日に「恵山丸」で博多湾に入港した。この間、岡崎勝男外務次官から退職通告書が送付される。この通告書は、日付と宛名だけが手書きで書き込めるようになっているガリ版刷りのもので、退職を自明の前提としたものである。外務省退官からしばらくは鵠沼で雑貨商を営み、糊口をしのいだ。その後は、連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院講師、科学技術庁、NHK国際局などの職を転々とする。一方、1949年(昭和24年)2~10月まで参議院資料課主事を務める。ロシア語が堪能であったことから、1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ駐在員となる。1968年(昭和43年)夏、「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリ(Yehoshua Nishri)と28年ぶりに在日イスラエル大使館で再会。1969年(昭和44年)、蝶理へ勤務。12月には、イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会。このとき初めて、本省との電信のやりとりが明かされ、失職覚悟での千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクが驚愕する。1971年(昭和46年)、国際交易モスクワ事務所長となる。1978年(昭和53年)、国際交易モスクワ支店を退職。日本に帰国した。「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷から、ニシュリによる千畝の名前の照会時の杓子定規の対応まで、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは一貫していた。こうした外務省の姿勢に、西ドイツ(当時)のテレビ協会の東アジア支局長を務めていたドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンが真っ先に抗議し、1981年(昭和56年)に出版した『孤立する大国ニッポン』のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか(このような例は決して他にないというのに)、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」と記した。 1983年(昭和58年)9月29日、フジテレビが深夜放送で「運命をわけた1枚のビザ——4,500のユダヤ人を救った日本人」を放映。千畝本人も老齢ながら出演し、レポーターの木元教子からのインタビューに答えた。1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになった。11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢のため千畝の海外渡航を許さず、千畝に代わって四男が出席した。1986年(昭和61年)7月31日、入院先の鎌倉市内の病院で死去。享年86。千畝の死を知るや、駐日イスラエル大使のヤーコブ・コーヘンが駆けつけ、葬儀には、かつての日露協会学校(後のルビン学院の)教え子やモスクワ駐在員時代の同僚など、生前の千畝を知る300人余あまりが参列。杉原の発給したビザに救われ、カウナスを通ってアメリカに渡ったゼルは、千畝が外務省を辞めるに至った経緯を知って憤慨し、病躯をおして長文の手紙を夫人に送り、「日本に行って外務省に抗議する」旨を伝えた。日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは、2000年(平成12年)10月10日になってのことだった。


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第二次世界大戦中、多くのユダヤ系難民を「命のビザ」で救い、「日本のシンドラー」として広く世界にその名を知られることとなった杉原千畝。「行先国の入国手続を完了し、旅費及び日本滞在費等の携帯金を有する者にのみ発給せよ」という外務省の非礼な通達を、「人道上、どうしても拒否できない」として訓令に背き、実に約6,000人の国外脱出を助けた。戦後、こうした行動を「独断行為」と咎めた日本政府からの解雇通告、心ない人間から「国賊」と蔑まれる日々を送ったが、「杉原ビザ」によって救われた人々が立ち上がり、没後14年にしてようやく日本政府からの謝罪と名誉回復にこぎつけた。筆者自身も、フジテレビで放送された加藤剛主演の『命のビザ』で杉原千畝の存在を知ったが、その貫いた信念と凛とした姿勢に感動したものだった。日本が誇る人道主義者、杉原千畝の墓は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある。長らく、墓の場所は秘匿とされていたが、夫人亡き後に情報が解禁された。洋型の墓には「杉原家」とあり、背面に墓誌が刻む。

# by oku-taka | 2022-06-19 13:11 | 政治家・外交官 | Comments(0)

井口小夜子(1914~2003)

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井口 小夜子(いぐち さよこ)

歌手
1914年(大正3年)〜2003年(平成15年)

1914年(大正3年)、東京市神田区(現在の東京都中央区)に生まれる。本名は、田沼(旧姓:井口)とみ子。東京市立忍岡高等女学校1年生のとき、声楽家の四家文子に音楽を学ぶ。その後、武蔵野音楽学校に進学。在学中に大日本雄弁会講談社のレコード部(後のキングレコード)の歌手募集に応募し、『赤城の子守唄』を歌って合格。専属歌手第1号となった。1935年(昭和10年)、童謡歌手として『ベゴニアの花』でデビュー。1939年(昭和14年)、武蔵野音楽学校本科声楽部を首席で卒業。その後、キングレコードより『乙女十八』で流行歌の歌手としてデビュー。10月発売の『出征兵士を送る歌』の吹き込みに参加。以降、流行歌や軍国歌謡を吹き込み、三門順子と「キングの名花2輪」とも称された。一方、本名でクラシック歌曲(ソプラノ)の舞台にも立った。また、キングレコードの音楽監督の助言により、ベルトラメリ能子の指導を受けた。1947年(昭和22年)、『みかんの花咲く丘』を発売。戦後を代表する童謡となった。同年、自宅に「井口小夜子音楽研究所」を開設。クラシックから歌謡曲まで幅広いジャンルで後進を指導した。戦後はラジオの幼児向け番組で歌のお姉さんを務めたほか、ラジオ体操の主題歌やラジオ歌謡の数々などを吹き込み、NHKラジオとSPレコード全盛時代を代表する歌手として、民放テレビの開局段階まで第一線で活躍した。また、子どもたちの音楽教室「キングさゆり会」では童謡の普及にも努めた。1954年(昭和29年)、NHKラジオ第1放送の連続放送劇『新諸国物語 紅孔雀』の主題歌『紅孔雀の歌』がヒット。1992年(平成4年)、戦時下に転居した藤沢市の芸術文化振興財団(現在の公益財団法人藤沢市みらい創造財団)の評議員を務め、地元の芸術文化の振興にも終生貢献した。2003年(平成15年)11月9日、急性心不全のため神奈川県鎌倉市の病院で死去。享年89。


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キングレコードの専属第一号歌手として抒情歌・童謡・戦時歌謡を吹き込んだ井口小夜子。特に当時の子供に大人気となった、NHKラジオの連続放送劇『新諸国物語 紅孔雀』の主題歌『紅孔雀の歌』で知られ、「紅孔雀のおばさん」と呼ばれた。テレビ時代到来とともに第一線から退き、その後は後進の育成と童謡の普及に取り組んだ。昭和40年代に巻き起こった懐メロブームの折も、テレビ出演はほとんど行わず、歌の指導に力を注ぎ続けた井口小夜子の墓は、神奈川県藤沢市の市営西富墓地にある。墓には「田沼家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「歌聖院淑弌美妙大姉」。

# by oku-taka | 2022-05-25 00:29 | 音楽家 | Comments(0)

真樹日佐夫(1940~2012)

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真樹 日佐夫(まき ひさお)

空手家・漫画原作者
1940年(昭和15年)〜2012年(平成24年)

1940年(昭和15年)、東京市渋谷区隠田に生まれる。本名は、高森 真土(たかもり まつち)。東京都立小山台高等学校在学中、都内で空き巣狙いを繰り返し、警察に逮捕されて1か月余りを保土ヶ谷鑑別所で過ごした。これとは別に、傷害・器物損壊・恐喝・窃盗・暴力行為などの容疑で警視庁蒲田署に逮捕され、東京少年鑑別所から八街中等少年院に送られたこともある。保土ヶ谷鑑別所に送られた段階で小山台高等学校は放校になったが、八街中等少年院で勉学に励み、2度目の受検で大検に合格。早稲田大学第一文学部英文科を中退したと自称していたが、弟の高森日佐志が書いた『昭和兄弟模様』には、真樹が早稲田大学 に入学したとは書かれていない。その後、兄で漫画原作者の梶原一騎の紹介で極真会館に入門し、大山倍達と義兄弟の契りを結ぶ。空手と同時に、劇作家・漫画原作者としても活躍。ペンネーム「高森真士(たかもり しんじ)」で書いた「凶器」にて、1968年(昭和43年)のオール讀物新人賞受賞。1970年(昭和45年)、真樹日佐夫の名で『週刊少年マガジン』に「ワル」の連載をスタート。ペンネームは、梶原一騎の本名「朝樹」と「真土」の部分を半分にして「真樹」、「日佐夫」は三男「日佐志」の名を「日佐夫」とゴロよく「志」を「夫」として、高森3兄弟の本名の名前の部分を梶原のアイデアで作った合成名である。その後、極真会館東京渋谷支部長や通信教育部門「マス大山カラテスクール」での指導を経て、弐段位にあった1977年(昭和52年)より総本部第3代師範代になった。大山倍達から機関誌『近代カラテ』の発行を移管され、誌名を『現代カラテマガジン』に変えて刊行。1978年(昭和53年)には東映映画『カラテ大戦争』に主演したが、声は別人が吹き替えた。1980年(昭和55年)、独自の門派「真樹道場」を設立。世界空手道連盟士道館の添野義二館長より、士道館名誉伍段を与えられている。2000年(平成12年)、『兄貴』を刊行。同作でJLNA文学賞特別賞を受賞した。晩年は、コアマガジンの『実話マッドマックス』の誌面に度々登場し、『ブブカ』では連載も担当。『タイガーマスク・ザ・スター』『新☆四角いジャングル』『新空手バカ一代―格闘者』など兄の梶原のヒット作をリバイバルした作品も多々発表した。しかし、2011年(平成23年)末から風邪で体調を崩し、2012年(平成24年)1月2日、趣味であるヨットセーリングを楽しむべく、神奈川県の逗子マリーナにある自身所有のヨットへ乗船しようとした際に倒れ、病院に救急搬送されたものの、急性肺炎のため死去。享年71。


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漫画『ワル』で知られる真樹日佐夫。兄・梶原一騎譲りのガラの悪さでありながら、漫画原作者・空手の師範代・格闘技のプロデューサーと多彩な顔を見せた。晩年は『サンデージャポン』にも度々VTR出演し、「ジョークだよ」の一言で笑いを取っていた。クレーバーなワルを貫き通した、男・真樹日佐夫の墓は、神奈川県横浜市の久保山墓地にある。墓には「高森家之墓」とあり、右後ろに墓誌が刻む。また、同墓には兄・梶原一騎も分骨されている。

# by oku-taka | 2022-05-25 00:19 | 漫画家 | Comments(0)