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猪熊弦一郎(1902~1993)

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猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう)

画家
1902年(明治35年)〜1993年(平成5年)

1902年(明治35年)、香川県高松市に生まれる。その後、丸亀市に転居し、丸亀東幼稚園、城北小学校と進学。小学生の時から絵が上手く、学校の美術の授業で教師の代わりをする事もあった。1921年(大正10年) 、旧制丸亀中学校(現在の香川県立丸亀高等学校)を卒業。上京して本郷洋画研究所に通い、1922年(大正11年) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)洋画科に入学。一時病のため休学したが、1925年(大正14年)から藤島武二教室で学ぶ。1926年(大正15年) 、『婦人像』で帝展初入選を果たす。同年、再び健康を害したため東京美術学校は中退した。1927年(昭和2年)、美校の同期生だった岡田謙三、荻須高徳らと上杜会を結成。また、帝展、光風会展に制作発表を行い、1929年(昭和4年)には第16回光風会展で光風賞を、第10回帝展に『座像』で特選をそれぞれ受けた。1931年(昭和6年)、光風会の会員となる。1933年(昭和8年)、『画家』で第14回帝展の特選を受ける。1935年(昭和10年)、新文展発足に反対する有志と第二部会を組織し、第1回展に『海と女』を発表したが、翌年、第二部会の新文展参加に反対し同会を脱退。光風会も退会し、伊勢正義、内田巖、小磯良平、佐藤敬、三田康、中西利雄、脇田和、鈴木誠と新制作派協会(現在の新制作協会)を結成。以後、発表の舞台とする。1938年(昭和13年)、フランスに遊学。アンリ・マティスの指導を受けるが、マティスに自分の絵の批評を請うと「お前の絵はうますぎる」と言われ、これを自分の画風が出来ていないと捉えて愕然とする。以来、自らの画風を模索する歳月を過ごすが、マティスの影響からなかなか抜け出せなかった。しかし、第二次世界大戦勃発に伴い、1940年(昭和15年) に最後の避難船となった白山丸で帰国。以後、半具象によるモダニズム絵画の旗手として画壇をリードするに至るが、1940年(昭和15年)には中国文化親善のため佐藤敬と南京方面に派遣される。1942年(昭和17年)には陸軍省派遣画家となり、フィリピン、ビルマ(1943年)に従軍画家として戦地へ赴いた。1944年(昭和19年) 、陸軍美術展で戦争画『◯◯方面鉄道建設』を発表。終戦後、田園調布純粋美術研究室を発足し、後進の指導にあたる。一方、1946年(昭和21年)の第10回展から新制作派協会展に出品し、このほか美術団体連合展に毎回出品、日本国際美術展、現代日本美術展などに出品した。1948年(昭和23年)、『小説新潮』の表紙絵を描く。以降、39年にわたり表紙絵を担当した。1950年(昭和25年)、白地に赤で有名な三越の包装紙「華ひらく」のデザインを行い、当時としては破格の報酬でも話題となった。1951年(昭和26年)、上野駅の壁画『自由』を制作。また、慶應義塾大学大学ホールの壁画『デモクラシー』と名古屋丸栄ホテルホール壁画『愛の誕生』で、第2回毎日美術賞を受賞する。また、同年の第1回サンパウロ・ビエンナーレ展、翌年の米国ピッツバーグ市カーネギー美術館における国際美術展に出品したのをはじめ、以後しばしば海外の国際展に参加した。1955年(昭和30年) 、再度パリでの勉学を目指し日本を発つが、途中滞在したニューヨークに惹かれ、活動の拠点をニューヨークに移す。1956年(昭和31年)、ニューヨーク・ウィラード画廊の所属画家となる。以後20年間ニューヨークを足場に制作活動を展開。この間に半具象のモダニズム絵画から幾何学的構成による抽象へと転じ、明るい色彩と単純な点や線による明快な構成に独自の作風をうち立てた。またこの時期に、マーク・ロスコ、イサム・ノグチ、ジョン・ケージ、ジャスパー・ジョーンズなどさまざまな著名人と交友関係を深めた。1973年(昭和48年) 、日本に一時帰国中、ニューヨークへ戻る際に開かれた送別会の席上で脳血栓に倒れる。そのため、1975年(昭和50年)にニューヨークのアトリエを閉じ、温暖なハワイで毎年冬をすごしながら創作活動を続けた。1980年(昭和55年) 、勲三等瑞宝章を受章。晩年は、妻の死を機に「顔」シリーズの制作に意欲を燃やし、人間の表情を曼陀羅風の構成で描いた。1991年(平成3年)、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館が開館。1993年 (平成5年)1月、「祝90祭猪熊弦一郎展」で第34回毎日芸術賞を受賞。同年5月17日、動脈瘤破裂のため東京都中央区の病院で死去。享年90。


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昭和の画壇を代表する世界的な洋画家・猪熊弦一郎。具象から抽象、そして人間の顔に至るまで、スタイルを変えながらも常に新しいものへと挑戦し続けた。「絵には勇気がいる」「どんなことをしても僕なんだ」をよく口にし、絶えず新しいことに挑戦し続けた猪熊弦一郎の墓は、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園にある。墓には十字架と直筆による「猪熊」、背面に墓誌が刻む。

# by oku-taka | 2024-09-30 21:25 | 芸術家 | Comments(0)

安野光雅(1926~2020)

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安野 光雅(あんの みつまさ)

画家
1926年(大正15年)〜2020年(令和2年)

1926年(大正15年)、島根県津和野町に生まれる。自然あふれる土地でさまざまな空想をめぐらせ、絵描きになることを夢見て少年時代を過ごす。1940年(昭和15年)、山口県立宇部工業学校(現在の山口県立宇部工業高等学校)採鉱科に入学。1944年(昭和19年)1月、同校を繰り上げ卒業し、住友鉱山に就職して忠隈鉱業所(飯塚市)に務める。1945年(昭和20年)4月に応召し、香川県王越村(現在の坂出市)にて上陸用舟艇の秘匿場建設に従事する。復員後の1946年(昭和21年)、敗戦直後の混乱期に無資格のまま山口県徳山市(現在の周南市)で小学校の教員を務める。その後、山口師範学校(現在の山口大学教育学部)研究科を修了し、1949年(昭和24年)に美術教員として上京する。約10年間三鷹市の三鷹市立第五小学校や明星学園や武蔵野市立第四小学校で教師を務めるかたわら、玉川学園出版部で本の装幀、イラストなどを手がけた。明星学園・国語部、教育科学研究会・国語部会などによる日本語指導(言語の教育)のテキスト『にっぽんご』シリーズの装幀も手がけたのもこの頃である。この小学校教諭時代の教え子に後の筑摩書房取締役の編集者・松田哲夫がおり、そのつながりで同社の多数の本の装丁をしている。一方、二紀会に所属していたが、食べるための仕事のために出品できなくなり、1960年代に退会した。しかし、35歳のときに教師を辞し、絵描きとして自立する。1961年(昭和36年)、フランスを旅したときに目にしたエッシャーの絵に大きな影響を受ける。そこから、たくさんの小人を登場させた「だまし絵」手法で、不可能図形の不思議な世界を描いた『ふしぎなえ』を1968年(昭和43年)に刊行し、絵本作家としてのデビューを果たす。その後、次第に世界的評価が高まり、絵本は世界各国で翻訳された。1974年(昭和49年)、アルファベットの文字の形が不思議な図を描く『ABCの本――へそまがりのアルファベット』などで芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。この他、講談社出版文化賞、小学館絵画賞、イギリスのケイト・グリナウェイ賞特別賞、アメリカのブルックリン美術館賞、ホーンブック賞、最も美しい50冊の本賞などを受賞し、国際的にも高く評価された。1976年(昭和51年)、『あいうえおの本』でチェコスロバキア(当時)のブラチスラバ国際絵本原画展(BIB)金のリンゴ賞を受賞。その後も絵本にとどまらず風景画、装画、装丁、エッセイなど幅広い分野で活躍。劇作家の井上ひさしが主宰する劇団こまつ座の宣伝美術や大阪府立国際児童文学館のシンボルマークを手がけた。1977年(昭和52年)には『旅の絵本』を刊行し、以後9冊も続く人気シリーズとなった。1978年(昭和53年)、ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞を受賞。1979年(昭和54年)、『天動説の絵本』で絵本にっぽん賞(現在の日本絵本賞)を受賞。1980年(昭和55年)、二度目のボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞を受賞。1984年(昭和59年)にはその業績が評価され、日本人としては2人目となる国際アンデルセン賞画家賞を受賞した。1988年(昭和63年)、紫綬褒章を受章。1991年(平成3年)から司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の装画を担当し、司馬の死去まで続いた。1996年(平成8年)からちくま文庫で刊行されたシェイクスピア戯曲の松岡和子による新訳シリーズでは、全巻の表紙画を担当した。1997年(平成9年)、勲四等旭日小綬章を受章。2001年(平成13年)春、故郷の津和野町に多くの作品を常時展覧する「安野光雅美術館」が開館した。2005年(平成17年)、肺癌の告知を受けるも、放射線治療によって完治する。2008年(平成20年)、絵画、デザイン、装幀、文筆など多方面にわたるすぐれた業績と、その結晶ともいうべき「繪本平家物語」「繪本三國志」の刊行に対して菊池寛賞を受賞。2010年(平成22年)、森鴎外による文語翻訳文を口語に訳した『口語訳 即興詩人』(原作ハンス・クリスチャン・アンデルセン)を発表。2012年(平成24年)、文化功労者に選出。2017年(平成29年)、京丹後市に常設の美術館「森の中の家 安野光雅館」が開館。2020年(令和2年)12月24日、肝硬変のため死去。享年94。


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ユニークな絵本で国際的に高く評価された安野光雅。教員生活を経ての遅咲きデビューとなったが、やわらかで淡い色彩と繊細かつ独創性あふれるタッチが人々に支持され、特にデビュー作『ふしぎなえ』は、目の錯覚を利用して現実ではあり得ない世界を描き、独自の地位を確立した。また博学でも知られ、季節や最近の流行・話題などのトークを展開するNHKのラジオ番組『日曜喫茶室』の常連客として長年出演し続けた。児童文学のノーベル賞ともいわれる国際アンデルセン賞を受賞するなど、海外でも高い評価を受けた安野光雅の墓は、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園にある。墓には直筆で「野ノ墓」とあり、右横に墓誌が建つ。

# by oku-taka | 2024-09-23 10:02 | 芸術家 | Comments(0)

高畑勲(1935~2018)

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高畑 勲(たかはた いさお)

アニメーション映画監督・演出家
1935年(昭和10年)〜2018年(平成30年)

1935年(昭和10年)、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)に生まれる。父は当時中学校の校長であり、1943年(昭和18年)には岡山一中の校長となったことから岡山市へ転居。岡山県立師範学校男子部附属国民学校(現在の岡山大学教育学部附属小学校)に転校した。1951年(昭和26年)、岡山大学附属中学校を卒業し、岡山県立朝日高校に入学。1954年(昭和29年)に同校を卒業し、東京大学教養学部文科二類(東大文二、現在の東京大学文科三類)に入学して上京する。1955年(昭和30年)、ポール・グリモーの映画『やぶにらみの暴君』(のちに改作され『王と鳥』となる)が日本公開され、これに衝撃を受けて映画館に通うようになる。これが、フランスの詩人・脚本家であるジャック・プレヴェールの作品との出会いであり、強い影響を受けた高畑は、フランスの長編アニメーション映画でプレヴェールが脚本を執筆した『王と鳥』の字幕翻訳を手がけ、後に彼の名詩集《Paroles》(邦訳題名『ことばたち』)の日本初完訳(2004年)という仕事を行う。また、『枯葉』や『バルバラ』、『美しい星へ』といったシャンソンの曲群にも多大な影響を受け、『紅の豚』の劇場用パンフレットではさくらんぼの実る頃(原題: Le Temps des cerises)の訳詞を載せている。1959年(昭和34年)、東京大学文学部仏文科を卒業。長編漫画映画『やぶにらみの暴君』(『王と鳥』の原型)に感銘を受け、アニメーション映画を作る事を決意して東映動画に入社。東映動画による演出助手公募の第一期生として、映画『安寿と厨子王丸』『わんぱく王子の大蛇退治』で演出助手になり、テレビアニメ『狼少年ケン』で演出デビュー。その仕事ぶりを認められ、大塚康生の推薦により、長編漫画映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』の演出(監督)に抜擢される。同作でタシケント国際映画祭監督賞を受賞し、後に高い評価を得たが、制作当時は予算やスケジュールの大幅な超過から高畑をはじめとするメインスタッフはその責任を負う形で他と待遇に差を付けられ、興行面でもターゲットと宣伝の不一致から不振だった。同作の制作遅延や組合活動によって、高畑は東映動画で長編劇場作品の演出や「やりたい企画」のテレビアニメを任される可能性はほぼないと考えていた。そんな折、Aプロダクションに移っていた楠部大吉郎と大塚康生から『長くつ下のピッピ』のアニメ化(企画は東京ムービー)のために移籍を勧誘される。大塚が手がけていた『ムーミン』にテレビアニメの可能性を感じていたことから、東映動画のテレビアニメにはないチーフディレクターによって作品全般を統括できる点にも魅力を感じて誘いに応じるも、宮崎駿・小田部羊一の2人が不可欠と考え、両者に移籍を説得。高畑は「将来のある2人を巻き添えにする」ことに悩んだが、宮崎はすぐに決断し、小田部は悩んだものの妻の奥山玲子が残ることで周囲から容認された。その後、原作者であるアストリッド・リンドグレーンとの交渉に向かう藤岡豊(東京ムービー社長)に同行する形で宮崎がスウェーデンにロケハンに赴き、その経験を生かして大量のイメージボードを描く一方、高畑は「覚え書き」や「字コンテ」を作って作品の方向性を固めようとしたが、原作者の許可が下りず、企画は頓挫した。移籍の理由が消失した高畑らはAプロダクションの様々なテレビアニメの企画や制作への参加を余儀なくされ、『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』後半パートの演出を宮崎と共に担当した。1972年(昭和47年)、映画『パンダコパンダ』の演出を務める。この年、日中友好の一環として中国からジャイアントパンダが上野動物園に贈られたことをきっかけに日本でパンダブームが起こり、東宝から「パンダもの」制作の指令がなされ、宮崎は『長くつ下のピッピ』用のキャラクターを作り変えるとともにその世界観や設定(少女の一人暮らし、三つ編みでそばかすのある主人公、オーブンのある台所など)を活用。本作品の好評を受け、翌年には『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』が制作され、こちらでも高畑は演出を務めた。1973年(昭和48年)、ズイヨー映像(後に日本アニメーションに改組)に移籍。『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』の演出・監督を担当し、海外ロケハンや徹底的に調べ上げた資料を元に生活芝居を中心としたリアリズムあふれるアニメを構築した。また、『未来少年コナン』では数話のコンテ・演出を担当し、初監督で苦しむ宮崎をアシストした。1977年(昭和52年)、Aプロダクション時代に面識のあった楠部三吉郎がシンエイ動画での『ドラえもん』の再アニメ化を原作者の藤本弘(藤子・F・不二雄)に持ち込み、藤本から「どうやって『ドラえもん』を見せるのか、教えてもらえませんか」と問われた際に、楠部は高畑の自宅を訪れ『ドラえもん』の単行本を読ませた上で、企画書の執筆を依頼した。高畑は目にした『ドラえもん』を「子供の心をぐいっとつかまえる力がある」と絶賛した上で企画書を書き、数日後に楠部と二人で藤本を訪れると、企画書を読んだ藤本はアニメ化を承諾した。後に楠部は高畑を『ドラえもん』の「恩人のひとり」と記している。1980年(昭和55年)、漫画『じゃりン子チエ』の映画化の企画が持ち込まれる。高畑は原作を熟読した上で「やってみたい」と返事し、大阪の下町へのロケハンも敢行した。1981年(昭和56年)に公開された映画は、非常に制約の多い中で制作されたにもかかわらず、興行的にも成功。その後、TV版が制作されることになり、再び高畑の元へと依頼が来る。この時、高畑は引き受ける条件として、映画版で主役・竹本チエを務めた中山千夏、準主役・竹本テツを務めた西川のりおを起用すること、それ以外の声優に関しても、ナチュラルな大阪弁が話せる声優を起用すること、という条件を出したが、制作側がその条件を呑み、チーフディレクターを務めることとなった。高畑自身この作品を非常に気に入っており、本作で西川のりおが演じた竹本テツをもじった武元 哲(たけもと てつ)の別名を使ってコンテを切ったり演出をしている。1981年(昭和56年)、テレコム・アニメーションフィルムに移籍。同時期、オープロダクションが自主制作で手がけた『セロ弾きのゴーシュ』の監督も担当し、5年を費やして1982年(昭和57年)に公開。同作で毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞した。また、『じゃりン子チエ』に前後して、当時テレコム・アニメーションフィルム(および親会社である東京ムービー)が社運をかけて取り組んでいた日米合作の劇場大作『NEMO/ニモ』にも参加。いったんは日本側の監督にノミネートされたが、制作体制の問題から1983年(昭和58年)に降板し、テレコム・アニメーションフィルムを退社する。このとき、フレデリック・バックの作品『クラック!』に出合い感銘を受けている。その後、宮崎が監督する『風の谷のナウシカ』に参加。宮崎からプロデューサーにされるが、当初自分はプロデューサー向きではないと渋り、アニメージュの鈴木敏夫副編集長の説得により受諾するに至った。この『風の谷のナウシカ』が成功を収めたことから、宮崎はこの映画で得た資金を有意義に使いたいと考え、今度は高畑が監督する映画を製作しようと提案。その結果、水の都として知られる福岡県柳川市の風情をとらえた映画『柳川堀割物語』を撮影することになり、高畑が脚本・監督を務め、宮崎の個人事務所「二馬力」が製作を担当した。同作で第42回毎日映画コンクール教育文化映画賞を受賞したが、高畑があまりにも巨額な製作費を費やしたため、宮崎が用意した資金を全て使い果たした挙句、宮崎の自宅を抵当に入れざるを得ない事態となった。困惑した宮崎は徳間書店の鈴木敏夫に相談し、『柳川堀割物語』の製作費を回収するには、新作アニメーション映画を製作しその収入で賄うしかないとの結論に至る。その後、宮崎と鈴木は新作映画『天空の城ラピュタ』の製作を目指し奔走することになる。『風の谷のナウシカ』を制作したトップクラフトは既に解散していた為、宮崎と鈴木は『天空の城ラピュタ』を制作してくれるアニメーションスタジオを探していた。しかし、宮崎・高畑コンビが在籍した会社はそのあとダメになるという通説があり、制作拠点探しは難航。そのとき、高畑が「なら、いっその事、スタジオを作ってしまいませんか」と宮崎、鈴木等に提案。これを受け、1985年(昭和60年)に徳間書店が宮崎等の映画製作の為、スタジオジブリを設立した。高畑も宮崎に請われてスタジオジブリに参加したが、高畑は「作り手は経営の責任を背負うべきではない」と主張し、役員への就任を辞退した。また、ジブリとは別に高畑個人の様々な窓口的事務を行う「畑事務所」を持った。1988年(昭和63年)、『火垂るの墓』の監督を担当。同時上映となった『となりのトトロ』は、当初60分程度の中編映画として企画されており、単独での全国公開は難しかった。そこで鈴木の発案として同時上映作品として『火垂るの墓』の企画が決定したという経緯が伝えられている。両映画の制作はスタジオジブリで同時に進行。高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった。特に揉めたのが作画監督の近藤喜文の処遇であったが、結果として宮崎側が新しく参入したスタッフを中心に制作したのに対し、高畑側は近藤や美術監督の山本二三など旧知のベテランを集めた。当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『となりのトトロ』の時間も延び、結果的に長編2本の同時進行となった。しかし、彩色の作業がどうしても公開までに完了しないことが判明。高畑は、大幅なカットで破綻させることなく観客の鑑賞に堪える方法を百瀬義行とともに検討し、「『演出意図』としての必然性が感じられれば、見る人に受け入れてもらえるのではないか」という「苦肉の策」で、公開時点では清太が野菜泥棒をして捕まる場面などを色の付かない白味・線撮りの状態で上映することとなった。これらの箇所は公開後も制作を続け、後に差し替えられている。鈴木によると、公開が間に合わないという話になった際、高畑は同様に未完成版を公開したポール・グリモーの『王と鳥』(『やぶにらみの暴君』)のように未完成になった経緯の説明を冒頭に付けて公開する提案をして、鈴木がそれを断ると、2箇所彩色が抜けることを明かし、鈴木はその状態での公開を承諾したという。最終的に両作とも上映時間は90分近くなり、長編2本体制で4月に公開された。同作で、日本カトリック映画大賞、国際児童青少年映画センター賞、シカゴ国際児童映画祭最優秀アニメーション映画賞、モスクワ児童青少年国際映画祭グランプリに輝いたが、当時としてみれば地味な素材であった上、東宝宣伝部が消極的だったことや、高畑・宮崎両監督の一般的な知名度も現在ほどではなく、公開日が春休み後の中途半端な時期でもあったため、配給収入は5.9億円と伸び悩んだ。一方、わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑はいったんアニメ演出家の廃業を決意。しかたしん原作の『国境』を元に、満州国と朝鮮半島における人々の日常生活を淡々と描く中で、日本人の現地人差別の実態を詳らかにする企画を進めていたが、結局は1989年(平成元年)に起きた天安門事件の影響で企画が流れた。その後、オムニバスプロモーションの斯波重治から企画を受けた宮崎は、「アニメ化するには難解な原作で、高畑勲しか監督できない」と高畑を後押しし、1991年(平成3年)に『おもひでぽろぽろ』で高畑は監督に復帰する。一方、鈴木敏夫は高畑没後のインタビューにおいて、『火垂るの墓』を未完成なまま公開した高畑に再度監督できる機会を与えるとしたら「ジブリとしてこの作品を高畑さんでやると発表することだ」と宮崎が言ったと述べている。同作では、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1994年(平成6年)、自ら原作を手がけた『平成狸合戦ぽんぽこ』を公開。高畑が原作・脚本・監督の3役を務めた初のオリジナル作品となったが、当初『平家物語』を映像化しようと試みたがなかなか実現せず、狸映画を作ろうと考えていた宮崎と鈴木の案をもとに狸の平家物語のオリジナルシナリオを執筆。開発が進む多摩ニュータウン(多摩市)を舞台に、その一帯の狸が「化学」(ばけがく)を駆使して人間に対し抵抗を試みる様子を描く物語を完成させ、同作は第49回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、第12回ゴールデングロス賞予告編コンクール賞及びマネーメイキング監督賞、アヌシー国際アニメーション映画祭長編部門グランプリを受賞。配給収入では26億円を得て、高畑監督作品で最高の成績となった。1998年(平成10年)、紫綬褒章を受章。1999年(平成11年)、およそ20億円の制作費用をかけ鳴り物入りで封切られた『ホーホケキョ となりの山田くん』で第3回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞。しかし、全体の売り上げを示す興行収入は15.6億円、映画館などの取り分を差し引いた配給収入は目標の60億円を大きく下回る7.9億円に留まった。高畑の意向で、デジタル彩色でありながら水彩画のような手描き調の画面となっており、これを実現するために通常の3倍もの作画(1コマにつき、実線、塗り、マスク処理用の線の合計3枚が必要となる)17万枚が動員され、製作途中の画風模索もあって制作費が膨れ上がったのが原因となった。また、ジブリの親会社である徳間書店社長だった徳間康快が東宝側と「ケンカ」してしまったため、松竹でやらざるを得なくなり、その松竹もシネマジャパネスク戦略の迷走や、度重なる興行収入の不振から2000年2月期決算において21億円の特別損失を計上した。2000年代初頭、次回作と目されたのは『平家物語』のアニメ化であったが、メインアニメーターが同意しなかった事などにより断念。鈴木の発案により、日本の古典『竹取物語』を原作としたアニメ映画が次の企画となるも、進捗の不調から山本周五郎の『柳橋物語』や赤坂憲雄の『子守り唄の誕生』を原作やベースとした企画に変更される曲折を経る。2009年(平成21年)、ロカルノ国際映画祭名誉豹賞を受賞。同年10月、新作が『竹取物語』を原作に『鳥獣戯画』の様なタッチで描いた作品である事が報じられた。制作には時間を要し、2012年(平成24年)12月にスタジオジブリは『かぐや姫の物語』のタイトルで2013年(平成25年)夏に公開予定である事を正式に発表した。しかし、同年2月になって制作の遅れから公開予定が秋に延期される事が発表され、同年11月23日に公開された。同作では、第68回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、第37回日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞、第23回日本映画批評家大賞アニメーション作品賞及びアニメーション監督賞、東京アニメアワード監督賞を受けた。海外においても、ファンタスティック・フェスト観客賞、第36回ミルバレー映画祭アニメーション映画観客賞、第35回ボストン映画批評家協会賞アニメーション映画賞、第40回ロサンゼルス映画批評家協会賞アニメーション映画賞、第18回トロント映画批評家協会賞アニメーション映画賞、第12回国際シネフィル協会賞アニメーション映画賞、第16回リスボン・アニメーション映画祭長編アニメ映画グランプリに輝いた。2014年(平成26年)、アヌシー国際アニメーション映画祭名誉賞を受賞。2015年(平成27年)6月、アメリカの映画芸術科学アカデミー会員候補に選出。同年、フランス芸術文化勲章オフィシエを受けた。晩年にはフランスのミッシェル・オスロ監督の長編アニメーション映画の日本語版字幕翻訳や演出、原作本の翻訳も手がけた。また、西村義明と共に年来の夢であった『平家物語』の短編映画の制作に取りかかったが、2017年(平成29年)4月に肺癌の手術を受けて以降は体調不良(発熱、せき、味覚障害)に苦しめられ、2018年(平成30年)に制作を断念。同年2月までは講演等もこなしていたが、3月末に入院したときには呼吸困難から会話も出来なくなった。同年4月5日午前1時19分、肺癌のため帝京大学医学部附属病院で死去。享年84。


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日本を代表するアニメーション監督の一人である高畑勲。かつて鈴木敏夫が「いい作品を作ることがすべてであってその他のことにはまったく配慮しない人」「よくいえば作品至上主義」と彼を評したように、一連の「世界名作劇場」シリーズで見せた忠実な設定と視聴者を惹きつける描写は、テレビアニメ史に大きな足跡を残した。テレビアニメを経てスタジオジブリを設立した後も、一貫して「リアル」と「自然」にこだわり、ファンタジー性あふれる宮崎作品とは一線を画した。それ故に、興行成績では桁違いの差を付けられ、高畑作品の制作費や損失を宮崎作品で埋めるというのが常態化していた。それでも宮崎は高畑の才能を高く買い、彼のために奔走し、時に励まし、二人で日本のアニメーション界の先頭を走り続けた。『かぐや姫の物語』制作時、高畑が若手アニメーターの絵にダメ出しする場面を宮崎がこっそり盗み見し、自身も『風立ちぬ』で多忙ながら、高畑が望む絵を自ら描き、若手アニメーターに「こういう絵を描くんだ!」と教えたという微笑ましいエピソードが残されている。東映動画時代によく遅刻し、朝食として菓子パンをパクパク食べていたことから「パクさん」の愛称で親しまれていた高畑勲の墓は、埼玉県所沢市の狭山湖畔霊園にある。洋型の墓には、男の子と女の子と小動物の絵とともに、直筆による「高畑家」、背面に墓誌が刻まれている。また、左隣には高畑が信頼を寄せていたアニメーター・近藤喜文の墓が建立されている。

# by oku-taka | 2024-09-15 01:30 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)

近藤喜文(1950~1998)

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近藤 喜文(こんどう よしふみ)

アニメーター
1950年(昭和25年)〜1998年(平成10年)

1950年(昭和25年)、新潟県五泉市に生まれる。幼少期から絵を描いたり、畳んだ新聞を切り抜いて作る細工物などに熱中。小学生の頃には絵が上手なことに定評があり、卒業文集の表紙を手がけた。1965年(昭和40年)4月、新潟県立村松高等学校に入学。美術部に所属し、同人誌「ぺんだこ」を制作する。1968年(昭和43年)3月、高校を卒業し、同年4月に新橋の東京デザインカレッジ・アニメーション科に入学。熊川正雄、大塚康生らの講義を受ける。東映長編に憧れ、東映動画志望だったが入れてもらえず、Aプロダクション(現在のシンエイ動画)を紹介され、同年10月1日に入社。早くから才能を認められ、『巨人の星』、『ルパン三世』、『ど根性ガエル』などに参加した。1976年(昭和51年)、日本共産党に入党し、居住地の住民運動に尽力する。1978年(昭和53年)6月20日、シンエイ動画を退社。同年、日本アニメーションに契約入社。『未来少年コナン』、『赤毛のアン』などに参加し、高畑勲や宮崎駿らと出会う。同年、新人養成テキストブック『アニメーションの本―動く絵を描く基礎知識と作画の実際』を共著で出版。1980年(昭和55年)、日本アニメーションを退社。同年12月16日、テレコム・アニメーションフィルムへ移籍。『名探偵ホームズ』などを担当した。1984年(昭和59年)9月より日米合作劇場用アニメーション『NEMO/ニモ』のパイロット・フィルムを友永和秀と共同で監督にあたり、12月に完成させる。1985年(昭和60年)3月16日、テレコム・アニメーションフィルムを退社。フリーとなったが、同年6月から8月まで自然気胸で入院した。1986年(昭和61年)1月頃、日本アニメーションに契約入社。1987年(昭和62年)1月、日本アニメーションを退社。同年2月1日、『火垂るの墓』準備のためスタジオジブリに入る。しかし、高畑が『火垂るの墓』、宮崎が『となりのトトロ』をそれぞれ同時に制作しており、両者の間で近藤の争奪戦が起こった。高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と発言し、仲裁に入った鈴木敏夫の「宮崎は自分で絵が描けるから」という助言で、近藤は『火垂るの墓』の制作に携わった。1989年(平成元年)9月11日にはスタジオジブリへ正式に入社し、『魔女の宅急便』や『おもひでぽろぽろ』など、宮崎や高畑の監督作品で作画スタッフとして活動する。1995年(平成7年)、かねてより近藤が演出をするという宮崎との約束があったため、宮崎が企画を持ってきた『耳をすませば』の監督を任される。同作の製作中、近藤と宮崎の間では何度も衝突があり、時には宮崎が演出の変更を求めたり脅すようなこともあったという。同作で監督デビューを果たすが、結果的に生涯唯一の監督作となった。1997年(平成9年)、作画監督を務めた『もののけ姫』が最後の参加作品となった。同年12月中旬に解離性大動脈瘤で倒れ、東京都立川市の病院に入院。手術をして一命を取り留めたが、1998年(平成10年)1月21日午前4時25分に死去。享年47。


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スタジオジブリを支えた伝説のアニメーター・近藤喜文。メリハリある描写から細やかな箇所まで手がける高い技術は、多くのアニメーターに影響を与えた。特に高畑勲と宮崎駿からは、2人の間で近藤を取り合う事態に発展するほどの信頼を寄せられた。ジブリの二大巨頭が求める高クオリティーに応えるべく格闘し、難産の末に作品を完成させる日々が続いたせいか、47歳という若さで亡くなってしまった。葬儀の際、とあるベテランアニメーターが「近ちゃんを殺したのはパクさん(高畑勲)よね」とつぶやくと、高畑は無言でうなずいた、という話は知る人ぞ知るエピソードである。アニメーションを愛し、そのアニメーションに命を削られた近藤喜文の墓は、埼玉県所沢市の狭山湖畔霊園にある。洋型の墓には、花を持って駈ける少女の絵と「近藤」が、背面には墓誌が刻む。そして、右隣には共に作品を創り出した高畑勲の墓が建立されている。

# by oku-taka | 2024-09-15 01:11 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)

滝田ゆう(1931~1990)

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滝田 ゆう(たきた ゆう)

漫画家
1931年(昭和6年)〜1990年(平成2年)

1931年(昭和6年)、東京市下谷区坂本町(現在の東京都台東区下谷)に生まれる。本名は、滝田 祐作。出生の翌日に実母が亡くなり、家庭の事情で叔父の家に養子に行き、東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島)で、義理の両親と義兄1人義姉2人の6人家族で育つ。東京都立墨田川高等学校を卒業後、國學院大學文学部に進学。しかし、ほとんど通わずに中退する。1949年(昭和24年)〜1950年(昭和25年)頃、漫画家・田河水泡の内弟子となる。1952年(昭和27年)、『漫画少年』(学童社)掲載『クイズ漫画』でデビュー。しかし、漫画一本では生活できず、キャバレーの美術部に所属し、看板を書いて収入を得る。1956年(昭和31年)から田河の紹介で東京漫画出版社の貸本漫画を中心に執筆を開始。注文のあるままに『なみだの花言葉』等の少女漫画を書き、作風を模索しながら1959年(昭和34年)に家庭漫画『カックン親父』(東京漫画出版社)を発表し、これが初のヒット作となった。続いて『ダンマリ貫太』(東京トップ社)シリーズを発表。そして貸本漫画の東考社社長桜井昌一の紹介で、1967年(昭和42年)4月『月刊漫画ガロ』(青林堂)に組織の都合に振り回される男を描いた『あしがる』を発表し、つげ義春、林静一ら同誌の掲載陣の仲間入りを果たす。死刑囚が主人公のブラックユーモア『しずく』、周囲に何が起ころうと全く無関係に振る舞う二人を描いた『ラララの恋人』等、様々な作品が立て続けに掲載され、『ガロ』の人気漫画家になる。次から次に原稿を持ち込むため一度に3本の作品が掲載されることもあった。この頃から少しずつ、漫画で通常は登場人物の台詞を書き込むスペースであるふきだしにその人物の心境や状況を表す挿絵を描き始める。1968年(昭和43年)12月、自身の少年時代をモチーフとした半自伝的作品である『寺島町奇譚』を『ガロ』に連載開始。つげ義春の画風に影響を受けた綿密な作画で作者の内面を表現し、私小説ならぬ私漫画とも呼ばれて代表作となった。1972年(昭和47年)には掲載誌を『別冊小説新潮』(新潮社)に移して4本を発表したが、以降活動の場を漫画誌から徐々に文芸誌(中間小説誌)等に移していく。これは、元々はシンプルな画風だったが、『寺島町奇譚』以降は陰影を強調して画面全体に細々と描きこむ「手仕事」といえる画風になり、現在の漫画製作の手法では一般的になっているアシスタントを使っての作品の大量生産には不向きで、週刊化して大量消費されるようになった漫画誌のマーケティングには馴染みにくかった。作風も「子供受けするわかりやすい漫画」とは言い難く、むしろ青年以上の大人にニーズがあった。 滝田の作品はその文学性を極めて高く評価され、文芸誌、グラフ誌等では得難い存在で引っ張り凧であった。1974年(昭和49年)、『怨歌橋百景』とその他の作品で第20回文藝春秋漫画賞を受賞。この頃から漫画に合わせて画集、エッセイ等の発表が増えてくる。また、昭和を振り返る雑誌、書籍等の企画でエッセイ+イラストの形式が多かった。一方、坊主刈りで着流しに下駄履き姿が親しまれ、テレビ番組や週刊誌のグラビアページへ頻繁に出演。親しみやすい風貌と人柄だったが、突然不機嫌になって癇癪を起こすことも多く、眼鏡を床に叩きつけたり、長く居住した東京都国立市の谷保天満宮で行われた自身の文藝春秋漫画賞受賞を祝う会への出席を直前になって渋り始めて担当編集者の手を煩わせるなど、家族や周囲に当たり散らす事もあり、気安い面と気難しさが共存していた。大の飲み屋好きでも知られ、地元国立市近辺の居酒屋やバー、新宿ゴールデン街によく出没。必ずといって良いほど梯子酒をしていたという。その後も昭和の東京を舞台にした漫画、イラスト、エッセイを多数執筆し、昭和の情緒あふれる作品はテレビや映画などでも取り上げられ、多くの人たちに親しまれたが、1982年(昭和57年)10月9日、自宅で脳血栓のため倒れる。休養を経て復帰し、好きな酒も絶ってエッセイ、イラスト、画文集等を発表するが、左半身に麻痺が残り、以降コマ漫画は手掛けなかった。1987年(昭和62年)、『裏町セレナーデ』で第16回日本漫画家協会賞大賞を受賞。1990年(平成3年)、小説『さらばぼく東夢明かり-私版 ぼく東奇譚』を発表。同作のあとがきにおいて「自身の玉の井へのこだわりはこの作品で総括とする」旨記しているが、以降エッセイや漫画、小説を手掛けることは無かった。同年8月25日午前8時17ふん、肝不全のため死去。享年58。


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独特なタッチで昭和の下町を描いた滝田ゆう。戦前の故郷・玉の井をこよなく愛し、失われてしまったその世界を独自の筆致で追い求め続けた。そのノスタルジーな人間模様と風景は大衆の支持を集め、人気雑誌『ガロ』を代表する漫画家にまで上り詰めた。また、愛嬌のある風貌からテレビのクイズ番組やCMなどにも起用され、お茶の間の人気者ともなった。しかし、これまたこよなく愛した酒によって体を壊し、58年の早すぎる生涯に幕を閉じた。古き良き昭和の幻影を作品として描き続けた滝田ゆうの墓は、埼玉県所沢市の狭山湖畔霊園にある。おにぎり型の墓には直筆による「滝田ゆう」が刻まれ、カロート部分には下駄の絵が描かれている。

# by oku-taka | 2024-09-09 09:24 | 漫画家 | Comments(0)