人気ブログランキング | 話題のタグを見る

巖金四郎(1911~1994)

巖金四郎(1911~1994)_f0368298_00102500.jpg

巖 金四郎(いわお きんしろう)

俳優・声優
1911年(明治44年)〜1994年(平成6年)

1911年(明治44年)、東京府東京市(現在の東京都文京区)に生まれる。中学在学中から映画と演劇を好み、学校を休んで浅草の劇場に通っていたとされる。その後、明治大学商学部に入学し、演劇部に所属したが、中退して1936年(昭和11年)に上二証券へ入社。1941年(昭和16年)、ラジオドラマ専門の俳優を養成するために募集されたNHK東京放送劇団に第1期研究生として入団。1947年(昭和22年)、NHKラジオ『向う三軒両隣り』の坂東亀造役で一躍その名を知られるようになり、同劇団の看板俳優となった。以来、俳優・声優として、ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』、テレビドラマ『赤穂浪士』『竜馬がゆく』『樅ノ木は残った』などに出演し、ドラマ草創期とラジオ黎明期を支える存在となった。1959年(昭和34年)、優れた朗読家に贈られる和田賞を受賞。その後、テレビアニメにも進出し、『ペリーヌ物語』のビルフラン役、『アルプス物語 わたしのアンネット』のペギン爺さん役などを務めた。1980年(昭和55年)に紫綬褒章、1986年(昭和61年)には勲四等旭日小綬章を受章した。1994年(平成6年)12月30日午後2時25ふん、肺炎のため埼玉県川越市の病院で死去。享年83。


巖金四郎(1911~1994)_f0368298_00102539.jpg

巖金四郎(1911~1994)_f0368298_00102664.jpg

今や人気の職業となった声優。その草分け的存在として、黎明期のラジオを支えた一人が巖金四郎である。『向う三軒両隣り』、『鐘の鳴る丘』とラジオドラマに次々と出演し、番組の人気に貢献した。アニメ『ペリーヌ物語』では、気難しい性格の経営者・ビルフランを演じ、聡明かつ働き者で優しいペリーヌとの触れあいで心を開き、やがて本当の孫と祖父として再会を果たすという感動のストーリーを、新人・鶴ひろみを相手に見事演じた。一方、NHK放送劇団五期生の講師となり、「蹴落とさねぇ奴は、蹴落とされるんだ!」と発言したことを、黒柳徹子が自著『トットチャンネル』の中で明らかにしており、それまで「みんなで一緒にやるんだよ。何をするのも一緒だよ。助け合ってね」と育てられてきた徹子は、巌の言葉にとても悲しくなったと書いていたことも印象深く残っている。巖金四郎の墓は、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園にある。墓には「巌家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「金照院放光日眞居士」。

# by oku-taka | 2024-11-04 00:12 | 俳優・女優 | Comments(0)

筑紫哲也(1935~2008)

筑紫哲也(1935~2008)_f0368298_00013185.jpg

筑紫 哲也(ちくし てつや)

ジャーナリスト
1935年(昭和10年)〜2008年(平成20年)

1935年(昭和10年)、大分県日田郡小野村(現在の日田市)に生まれる。静岡県立沼津東高等学校、東京都立小山台高等学校を経て、早稲田大学第一政治経済学部経済学科を卒業し、1959年(昭和34年)に朝日新聞へ入社。この年の朝日新聞社の入社試験は英語と論文と面接だけで一般常識などの筆記試験がなく、「常識なしの(昭和)34年組」と社内で皮肉られたという。面接の身上調書では愛読書を1冊書けとあり、一世を風靡した丸山眞男『現代政治の思想と行動』にしようとしたものの、面接で論争したら負けると思い、「鉄道時刻表」と書いて出した。面接では無銭旅行の話で大ウケであったが、論説主幹であった笠信太郎に(大学でやったはずの)景気循環論の話題を振られると、まったく歯が立たなかった。新人記者としての赴任先は宇都宮、次いで盛岡であった。支局で計4年を過ごし、政治部に異動。その後、政治記者として内閣総理大臣・池田勇人番を務める。1968年(昭和43年)5月から1970年(昭和45年)まで、アメリカ統治下の沖縄に政治部の「特派員」として赴任し、返還前の沖縄を精力的に取材。沖縄返還を翌年に控え、朝日新聞の130回にわたる長期大型連載企画「日本とアメリカ」において、キャップの松山幸雄から各章のまとめと次章へのつなぎの執筆をすべて任された。次いで、1971年(昭和46年)7月から1974年(昭和49年)まではワシントン特派員となり、1972年(昭和47年)に起こったウォーターゲート事件について、発端から終末まで現地で取材した唯一の日本人記者となった。1976年(昭和51年)1月から「朝日ジャーナル」副編集長を務め、1977年(昭和52年)6月に外報部次長となる。1978年(昭和53年)4月、テレビ朝日『日曜夕刊!こちらデスク』にメインキャスターとして出演。1979年(昭和54年)、番組として第16回ギャラクシー賞を受賞した。1983年(昭和58年)6月、第13回参議院議員通常選挙にあたって無党派市民連合の政見放送に出演し、停職3か月の処分を受ける。また、同年4月からキャスターを務めていたテレビ朝日系『TVスクープ』も降板となった。同年10月、TBSラジオ『筑紫哲也のハローワールド』にレギュラー出演。翌年4月から『筑紫哲也のニュースジョッキー』に出演した。1984年(昭和59年)1月、「朝日ジャーナル」編集長を務める。編集長自らインタビューを行う「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」「元気印の女たち」などの「軽チャー路線」が世間の目をひく一方で、1986年(昭和61年)12月5日号を皮切りにマスメディアとしてはじめて統一協会による霊感商法を徹底的に追及。「霊感商法」という言葉が世間に定着するきっかけをつくった。1987年(昭和62年)3月、編集長を伊藤正孝に譲り、ニューヨーク駐在の編集委員を務める。1989年(平成元年)夏、TBSからの打診を受けて朝日新聞社を退社。同年10月2日、『筑紫哲也ニュース23』の放送が開始。テレビ朝日系列『ニュースステーション』メインキャスターで大学の後輩でもある久米宏と並び、民放ニュースキャスターの顔として広く認知された。1992年(平成4年)、第21回ベストドレッサー賞学術・文化部門を受賞。1993年(平成5年)には『筑紫哲也ニュース23』のメインキャスターとしての業績に対して第30回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞した。同年に創刊された『週刊金曜日』の発刊を呼びかけ、朝日新聞同期入社の本多勝一らとともに手弁当で全国を行脚。創刊前から死去するまで15年にわたって同誌の編集委員を務め、コラム「自我作古」を連載した。1994年(平成6年)、出身地の大分県日田市に新たな地域文化を築くべく若者を中心に設立された市民大学「自由の森大学」の学長となり、2006年(平成18年)の閉校まで務めた。一方、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)に関する『筑紫哲也ニュース23』の報道において、ヘリコプターからの取材に臨んだ筑紫が、地震による火災で燃え上がる神戸市の様子を「まるで温泉街(おんせんまち)に来ているようです。そこらじゅうから煙が上がっています」と発言。これが「あまりに無思慮である」と視聴者から批判され、筑紫も非を認めた。1996年(平成8年)3月25日、坂本弁護士一家殺害事件の契機となったとされるTBSビデオ問題では、内部調査の結果として一貫して否定していたTBS側が、この日一転して事実を認めて謝罪したことを受け、筑紫が番組コーナー『多事争論』内でマスメディアが視聴者との信頼関係の上で存在していることに触れながら「TBSは今日、死んだに等しいと思います。……今日の午後まで私はこの番組を今日限りで辞める決心でおりました」と発言。この発言は大きな波紋を呼んだが、筑紫はその後10年以上にわたってメインキャスターを務めた。しかし、この問題が発覚して以降、『きょうの出来事』(日本テレビ)や『ニュースJAPAN』(フジテレビ)といった裏番組に視聴者が流れ、一時は視聴率が急速に低下した。1997年(平成9年)9月29日、『筑紫哲也ニュース23』から『TETSUYA CHIKUSHI NEWS23』にリニューアル。新聞表記も「ニュース23」から「NEWS23」となった。2004年(平成16年)、これまで国会議員の年金未納問題を批判していたが、自身の2年11か月分の年金未納が発覚。同年5月13日放送の『NEWS23』で謝罪し、翌日から一時期番組の出演を見合わせた。2007年(平成19年)5月14日、『NEWS23』で初期の肺癌であることを告白。治療のため、翌日から番組出演を休止した。入院中も音声メッセージによる出演を行い、同年10月には5か月ぶりにスタジオから出演。以後は不定期の出演となる。しかし、12月に全身への癌転移が判明。2008年(平成20年)3月28日をもって『NEWS23』を降板した。この日の多事争論では、「来週からの番組刷新で、タイトルから私(筑紫)の名前が消えます。ただ、体力が許される範囲・番組にプラスになると思える範囲内で番組には関わりたい」と、タイトル変更の話題にも触れつつ今後に対する意欲も示していた。同年4月、「わが国のテレビジャーナリズムの確立に多大な貢献をした」として、日本記者クラブ賞を受賞。この頃には肺や膵臓にも水がたまり、激しい痛みとの闘いを余儀なくされていた。同年7月7日、痛みをやわらげるペインクリニックの名医の治療を受けるため、鹿児島県内の病院に転院。10月15日、肺に水がたまり、呼吸困難で危篤状態に陥る。その後、同県内の別の病院に転院し、危機を脱したため、10月末には都内の病院に転院した。しかし、痰を切る力がなく、11月1日には再び危篤。喉を切開する手術を行い、2度目の危篤を脱したが、予断を許さない状態が続いた。11月7日午後1時50分、肺癌のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。享年74。


筑紫哲也(1935~2008)_f0368298_00013189.jpg

筑紫哲也(1935~2008)_f0368298_00013238.jpg

落ち着いた語り口と鋭い批評で知られたジャーナリズム・筑紫哲也。政治・外交はもとより、文化活動の発掘と紹介にも力を入れ、新しいジャーナリズムを確立した。特に、朝日ジャーナルの編集長時代には「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」などの企画が話題となり、「新人類」「元気印」の流行語を生んだ。平成に入ると『筑紫哲也NEWS23』でキャスターに転身し、フリップにタイトルを示して世相を評論する「多事争論」コーナーや各国の首脳をスタジオに招いて直接対話するなど、従来の枠にとらわれない斬新なニュース番組を作り上げた。それだけに、阪神・淡路大震災の報道における「まるで温泉街に来ているようです」、TBSビデオ問題での「TBSは今日、死んだに等しいと思います」など、彼の発言は度々注目を集めた。訃報が報じられた際、各界の著名人から惜しむ声が相次いだが、ネットでは罵倒のお祭り騒ぎだったことをよく覚えている。テレビ報道の第一人者でありながら功罪相半ばす筑紫哲也の墓は、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園にある。墓には「筑紫家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「無量院釋哲也」。

# by oku-taka | 2024-11-04 00:02 | 評論家・運動家 | Comments(0)

ちばあきお(1943~1984)

ちばあきお(1943~1984)_f0368298_23451261.jpeg

ちば あきお

漫画家
1943年(昭和18年)〜1984年(昭和59年)

1943年(昭和18年)、満洲国奉天省奉天市(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)に生まれる。本名は、千葉 亜喜生。4人兄弟の三男で、長兄は漫画家のちばてつや、次兄は千葉プロダクション社長の千葉研作、弟は漫画原作者の七三太朗。1946年(昭和21年)、終戦によって帰国し、幼少期を東京都墨田区で過ごす。少年時代は手先が器用でラジオの修理なども出来たほどだったことから、昼間は玩具製造工場に勤め、高校は夜間学校に通う。しかし、身体を壊して退社。自宅療養の傍らちばてつやのアシスタントとして漫画界に携わる。1967年(昭和42年)、読み切り漫画『サブとチビ』でデビュー。同年、初めての連載作品『リカちゃん』(講談社『少女フレンド』)を発表。その後、いくつかの短編を経て、1971年(昭和46年)に発表した『校舎うらのイレブン』や『半ちゃん』で注目を集める。1972年(昭和47年)、野球漫画『キャプテン』の連載を開始。それまで主流だった「魔球などの非現実的な技を活用する熱血野球漫画」と違い、「欠点を持ち合わせた等身大のキャラクターが、仲間と一緒に努力しながら成長していく過程」を描き、スポーツ漫画としての新たなスタイルを築き上げた。1973年(昭和48年)からは「週刊少年ジャンプ」にも、高校進学後の主人公・谷口を中心に描いたスピンオフ作品『プレイボール』が並行連載された。この2作品で、1977年(昭和52年)に第22回小学館漫画賞を受賞した。しかし、『プレイボール』と『キャプテン』の連載を同時に抱えたことで心身が疲労し、やがてアルコール依存症に陥る。医者に仕事量を減らし、療養するよう勧められたことから、1978年(昭和53年)に『プレイボール』を休載。翌年には『キャプテン』を完結させて休養に入った。しかし隠れて酒を求め、ついには漫画家をやめさせて花屋を営ませるという話が立ち上がるほど症状は深刻であった。1983年(昭和58年)、『ふしぎトーボくん』で復帰。1984年(昭和59年)には『チャンプ』の連載を開始したが、同年9月13日午後0時半頃、昼食時になっても降りてこないため、母が自宅2階の仕事場に入ったところ、電気コードで首を吊って死んでいるのを発見。机の上には『チャンプ』の書きかけの原稿が残されていた。享年41。


ちばあきお(1943~1984)_f0368298_23483602.jpg

ちばあきお(1943~1984)_f0368298_23483752.jpg


兄・ちばてつやのアシスタントを経て、人気野球漫画『キャプテン』を生み出したちばあきお。それまでの魔球や斬新なトレーニングといった非現実的な技を繰り広げる劇的な野球漫画ではなく、欠点を持つキャラクターが仲間と一緒に努力して成長するという青春ストーリーで、当時の野球漫画のみならずスポーツ漫画の世界に新たなスタイルを打ち出した。しかし、その実像は繊細かつ完璧主義な性格で、常にプレッシャーと闘いながら死に物狂いで漫画を描いていた。まさに命を削りながら漫画を描き、41歳で自ら人生に終止符を打ってしまったちばあきおの墓は、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園にある。墓には「千葉」とあり、右側に墓誌が建つ。

# by oku-taka | 2024-11-03 23:50 | 漫画家 | Comments(0)

田村泰次郎(1911~1983)

田村泰次郎(1911~1983)_f0368298_23312108.jpg

田村 泰次郎(たむら たいじろう)

作家
1911年(明治44年)〜1983年(昭和58年)

1911年(明治44年)、三重県三重郡富田村(現在の四日市市富田)に生まれる。母親は文章や歌を書くことが好きな人だった。また、11歳上の姉も文学好きだった。父親が校長を務めていた四日市の旧制富田中学(現在の三重県立四日市高等学校)在学中は剣道部の主将を務めた。1929年(昭和4年)、第二早稲田高等学院に入学。ここで後に詩人となる河田誠一と知り合い、文学活動に入るとともに早稲田演劇研究会へ所属する。1930年(昭和5年)、河田らと同人誌「東京派」を創刊し同人となる。1931年(昭和6年)、早稲田大学文学部仏文科に進学。同年、中河与一の「新科学的文芸」に井上友一郎とともに迎えられる。1933年(昭和8年)、坂口、井上、河田、菱山修三、真杉静枝、矢田津世子、北原武夫、大島博光、高見沢滴江らと同人誌「桜」を創刊し同人となる。また、三田文学に評論を書いたり、絵画愛好会のチャーチル会に所属して展覧会もしていた。同年5月、「をろち」が評価を受ける。1934年(昭和9年)、大学を卒業。卒業後は作家を目指し、小説のネタを探して当時住んでいた新宿を毎日歩き回った。また、「若草」「令女界」の読者大会に井上、丹羽文雄、大木惇夫、藤浦洸、鈴木信太郎、永島一朗、北村秀雄、横山隆らと講師として関西に行く。以後このメンバーで「ストーム会」を結成し、戦後に至るまで親交を深めた。4月、「新潮」に『選手』を発表し、文壇に登場する。1935年(昭和10年)、「三田文学」の時評担当となる。1936年(昭和11年)、井上、武田麟太郎、高見順、円地文子、田宮虎彦、金子光晴らの「人民文庫」に参加。長編『大学』を連載したが、12月に同グループで徳田秋声研究会を開き検挙される。1940年(昭和15年)、陸軍に応召。中国大陸を転戦し、軍曹で敗戦を迎えた。また、宣撫班として中国人民とも深く係わった。これらの経験が、後の戦争文学に生かされることとなる。1946年(昭和21年)に復員。一時期、四日市の実家に住むも間もなく上京。作家活動を再開するとともに、出版社「朝明書院」を設立した。同年9月、戦場で得た認識をもとに肉体の解放こそ人間の解放であると主張した『肉体の悪魔』 を発表。次いで1947年(昭和22年)『群像』3月号に『肉体の門』を発表。終戦直後の東京を舞台に、社会の混乱の中で生き抜こうとする女性たちの苦闘を描き、戦後日本最初のベストセラー小説となった。同年10月、同作が劇団空気座によって舞台化され、上演1000回を超えるロングラン公演となったことから一躍有名となり、翌年には東宝で映画化もされた。その後、『春婦伝』『今日われ欲情す』『東京の門』と話題作を書き、肉体文学の作家として目覚ましい活躍を見せる。一方、美術マニアでもあり、美術品の収集家としても知られ、1951年(昭和26年)には美術評論家連盟理事に就任した。1953年(昭和28年)、日本文芸家協会理事に就任。1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)頃まで画廊「現代画廊」を経営していたが、後に経営を友人であった洲之内徹に託している。1964年(昭和39年)、ドキュメント映画『新女・女・女物語』を監督。1966年(昭和41年)、日本ペンクラブ専務理事及び日本近代文学館理事に就任。1967年(昭和42年)7月11日、脳血栓で倒れ、日比谷病院に40日間入院。退院後は信州鹿教湯温泉にて半年ほどリハビリに努めて回復したものの、以後歩行には杖と足に歩行金具の着装とが必要となり、ほとんど執筆をしなくなる。1973年(昭和48年)、日本ペンクラプ副会長に就任。1981年(昭和56年)9月4日、軽井沢の別荘で再び脳血栓で倒れ、翌年には糖尿病を併発し、入退院を繰り返す。1983年(昭和58年)11月2日午後2時14分、心筋梗塞のため東京都千代田区富士見の警察病院で死去。享年71。


田村泰次郎(1911~1983)_f0368298_23312128.jpg

田村泰次郎(1911~1983)_f0368298_23312291.jpg

ベストセラー小説『肉体の門』で知られる田村泰次郎。戦後の文学界にエロティシズムを持ち込み、書き上げた一連の作品は社会的な反響を呼んだ。中国戦線を彷徨い、そこから得られた「肉体こそすべて」という信条は、やがて風俗小説家的な作風へと傾く結果に至り、そのためか今や語られることのない作家となってしまった。その昔、肉体派の作家として絶大な人気を得た田村泰次郎の墓は、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園にある。墓には「田村家先祖代々」とあり、右横には墓誌が建つ。戒名は「田村泰次郎大人命」。

# by oku-taka | 2024-11-03 23:33 | 文学者 | Comments(0)

初代・三波伸介(1930~1982)_f0368298_23115219.jpg

初代・三波 伸介(みなみ しんすけ)

コメディアン
1930年(昭和5年)〜1982年(昭和57年)

1930年(昭和5年)、東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)に生まれる。本名は、澤登 三郎(さわと さぶろう)。杉並第一尋常小学校(現在の杉並区立杉並第一小学校)に入学し、小学校4年生時であった1940年(昭和15年)に児童劇団「東童」へ加入。戦後、水の江瀧子のたんぽぽ劇団に参加。また、日本大学第二高等学校を卒業し、日本大学芸術学部映画学科に進学したが、1949年(昭和24年)に中退。有楽町・日本劇場の地下で映画の仕事を斡旋してもらい、いくつかの映画にエキストラとして出演した。1955年(昭和30年)、浅香光代一座に参加。剣さばきをはじめとして技芸を研鑽した他、座員だった戸塚睦夫や客演などで出入りしていた玉川良一らと知り合う。その後、新宿フランス座に移ってコメディアンとなる。ここでは人気トップ格の一人に石井均がおり、石井は座付専属だったが、外部からキャバレーの仕事を紹介され、戸塚を引き込み「石井・戸塚コンビ」として活躍。しかし、石井は自身の劇団「笑う仲間」を1958年(昭和33年)に立ち上げ、戸塚もこれに同行したが、座長職で多忙を極める石井には夜のキャバレー営業の継続は時間的な困難が生じ、幾度か助っ人を務めた三波が石井に代わって引き継いだ。「三波・戸塚コンビ」で夜はキャバレーステージ、昼間は劇場座付で舞台と活動をしていたが、突然出奔。フランス座に残って座長となっていた三波とはスケジュールが異なり、出演できないケースが度々発生。そのため、戸塚は仲介先には断らずに劇団員仲間の伊東四朗にこっそり代演を依頼していた。その後、三波は突然出奔し、大阪に滞在。玉川の誘いで東けんじと共に「おとぼけガイズ」というトリオコントを結成し、大阪劇場のレギュラーとなった。この大劇公演は毎日放送でテレビ中継され、東京でもネットされたが、東京でこの番組を見た戸塚と伊東は行方不明になったと思っていた三波がこんなところで活躍していたことに面食らったという。しかし、「おとぼけガイズ」は東京逆進出を巡る意見の対立に玉川と東の個人的な都合が重なり、先行きを懸念した三波が単身で帰京したことから解散状態になった。三波と戸塚は再会を果たしたが、このときには「(ニセ)三波」こと伊東とのコンビで好評を博しており、「(本物)三波」とのコンビ復帰によって評判の良い伊東を辞めさせた場合には営業先の人気低下や不評が予想された。そのため、仲介する芸能事務所に「(ニセ)三波」の伊東を「新加入の増員」という建前の理由で報告し、キャバレーの司会者には「本当は伊東四朗、本物の三波伸介、本人の戸塚睦夫」と自己紹介し、3人で営業活動をすることになった。三波個人としては、フランス座に復帰せずに太田プロダクションへ所属し、昼間は司会業など単独の営業を行い、夜間はトリオ営業に充てた。1961年(昭和36年)、石井均一座は解散し、それぞれにとって夜の副業だったこのトリオ営業が本業となる。また、あるきっかけから「ぐうたらトリオ」に改名した。1962年(昭和37年)、“脱線トリオ”にあやかって“てんぷくトリオ”に改名。以降、『九ちゃん!』「 『シャボン玉ホリデー』『てなもんや三度笠』などのテレビ番組に出演して人気を集め、一躍テレビ界の寵児となった。また、三波による「びっくりしたな、もう」のギャグは、テレビの生んだ流行語の一つとなった。1970年(昭和45年)、る黒澤明監督の指名により、映画『どですかでん』に単独で出演。そのきっかけは、同年2月8日、てんぷくトリオとして日本テレビ『笑点』にゲスト出演した札幌の地方収録の回で、飛行機の欠航により出演できなかった前田武彦の代役として司会を務める。当時はまだ司会経験が浅かったものの、元々落語に造詣が深かったこともあり、並み居る落語家達を相手に大喜利を取り仕切り、この時の司会が好評で、同年12月20日に3代目司会者へと就任。立川談志(初代司会者)時代のナンセンスなブラックユーモアを主体にした掛け合いから、落語家の丁々発止による掛け合いに代表されるような分かり易いドタバタ路線に変更し、家族で楽しめる笑いにこだわって番組自体の人気を上げたことはもちろん、自身がピン芸人としてブレイクするきっかけとなった。1973年(昭和48年)、戸塚が肝硬変のため42歳で死去。三波は戸塚の死去を知り、深い悲しみに陥る。その後、戸塚の遺志のために残った伊東と2人で「てんぷく集団」と改名し活動を続けた。しかし、その後は「てんぷく」の活動を抑え、個人でテレビや舞台で喜劇俳優・司会者として活動。NHK総合テレビ『お笑いオンステージ』の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでは、毎回ゲストの芸能人の似顔絵をゲストの家族の言う通りに描き上げ、自ら「阿佐谷のセザンヌ」と称した。また、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』の司会を1974年(昭和49年)4月から1976年(昭和51年)3月まで務めた他、同局『スターどっきり(秘)報告』や毎日放送・TBS『伸介のがっちりショッピング』、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)『三波伸介の凸凹大学校』などの司会を務めた。1982年(昭和57年)12月8日午後3時過ぎ、明かりが落ちた自宅の居間で倒れているのを、外出から戻って来た妻と付き人の波連太郎が発見。救急車で病院へ運ばれたが既に呼吸・心停止の意識不明状態で、意識が戻らないまま解離性大動脈瘤破裂のため急逝。享年52。


初代・三波伸介(1930~1982)_f0368298_23115288.jpg

初代・三波伸介(1930~1982)_f0368298_23115347.jpg

1970年代にお茶の間で絶大な人気を博した初代三波伸介。 『笑点』の司会を皮切りに、『お笑いオンステージ』『夜のヒットスタジオ』『スターどっきり㊙︎報告』など、出演した番組は軒並み高視聴率を記録。一時期の日曜日は、『君こそスターだ!』→ 『グリコがっちりショッピング』→『笑点』→『お笑いオンステージ』と、一日に4回も三波の顔がテレビから流れてくるという時代があった。特に『お笑いオンステージ』では、ゲストの子供たちの話を聞きながら似顔絵を描く「減点ファミリー」コーナーが人気となり、鉛筆でサラサラと一発で描き上げる器用さと、巧みな話術でゲストの意外な素顔や子供の素直な思いを引き出すなど、三波の器用さが堪能できる番組であった。多くのレギュラー番組を抱え、全盛期のまま突然世を去った三波伸介の墓は、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園にある。洋型の墓には「澤登家」とあり、右横には「喜劇とは笑わすだけにあらず 三波伸介」と刻まれた墓誌が建つ。戒名は「施明院太伸三省居士」。

# by oku-taka | 2024-10-08 23:15 | コメディアン | Comments(0)