人気ブログランキング | 話題のタグを見る

服部正(1908~2008)

服部正(1908~2008)_f0368298_23113641.jpg

服部 正(はっとり ただし)

作曲家
1908年(明治41年)〜2008年(平成20年)

1908年(明治41年)、東京市神田区(現在の東京都千代田区)に生まれる。青山学院中等部を経て慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。学生時代にはマンドリンクラブに所属していた。その後、三井生命保険に入社したが40日で退社。1930年(昭和5年)、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催のマンドリンオーケストラ作曲コンクールで『叙情的風景』が入選。その後、菅原明朗に師事した。1932年(昭和7年)、帝国音楽学校の講師に就任。1933年(昭和8年)、『管弦楽のための組曲』を山田耕筰指揮・日本交響楽団演奏にてNHKより放送。1935年(昭和10年)、初のオペラ『雁の渡る日』をNHKより発表。1936年(昭和11年)、時事新報主催の音楽コンクールで三部作『旗』の一曲『西風に飜える旗』が二等入賞。同年末には青年日本交響楽団を創設し、終戦直後まで指揮した。1939年(昭和14年)、東邦音楽学校(現在の東邦音楽大学)校歌『東邦の歌』制定時、在職教員であった植村敏夫が作詞を、服部が作曲を担当した。1940年(昭和15年)、ビクターの専属作曲家となり、『次郎物語』や黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』などの映画音楽や放送音楽を担当した。一方、1946年(昭和21年)にラジオ体操第1の作曲を担当。動きの難解さに加えて放送時は音声でその動きを伝えるのが困難な為、全国への巡回指導が始まったものの、普及せず短期間で放送が終了。そのため、1951年(昭和26年)に改めて作曲を担当。「老若男女を問わず誰でもできることにポイントを置いた体操」であったことから、小学校から工場などの職場まで広く使われた。1953年(昭和28年)、国立音楽大学教授に就任。1954年(昭和29年)日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じて歌った『ヤン坊ニン坊トン坊』(NHKラジオ第一)を作曲。1955年(昭和30年)、青少年のための国民オペラ『真間の手古奈』を作曲。同作は人気となり、公式記録だけでも200回の上演記録を誇る。1978年(昭和53年)、紫綬褒章を受章。1984年(昭和59年)には勲四等旭日小綬章を受章。2008年(平成20年)8月2日午前6時頃、老衰のため東京都渋谷区神宮前の自宅で死去。享年100。


服部正(1908~2008)_f0368298_23075199.jpg

服部正(1908~2008)_f0368298_23075208.jpg

ラジオ体操第1の作曲者として知られる服部正。クラシック音楽の大衆化に力を注いだ一方で、様々なジャンルの音楽に挑戦。『向こう三軒両隣』や『ヤン坊ニン坊トン坊』といったラジオドラマから、『虎の尾を踏む男達』や『わが青春に悔なし』などの黒澤明監督作品など、大衆芸能の世界においても大きな功績を残した。また、江口浩司や小林亜星といったヒットメーカーを育てたことも特筆すべき点であろう。100歳の大往生を遂げた服部正の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。自然石の墓には「服部家墓」とあり、右側に墓誌が建つ。

# by oku-taka | 2022-09-19 23:16 | 音楽家 | Comments(0)

馬場のぼる(1927~2001)

馬場のぼる(1927~2001)_f0368298_10184098.jpg

馬場 のぼる(ばば のぼる)

漫画家・絵本作家
1927年(昭和2年)〜2001年(平成13年)

1927年(昭和2年)、青森県三戸郡三戸町大字川守田字元木平に生まれる。本名は、馬場 登。幼少期は『のらくろ』『冒険ダン吉』などの児童漫画に親しんだ。旧制岩手県立福岡中学校4年修了後の1944年(昭和19年)、海軍予科練14期生として土浦海軍航空隊に入隊。練習機が不足していたため、秋田県北秋田郡上大野村の同隊グライダー訓練基地に転じ、特攻隊員として出撃を待つ間に敗戦をむかえる。除隊後実家に戻り、リンゴの行商人を経験するが半月で廃業。その後、開墾農民を志して兄とともに岩手県の山村に入るも、村有地の払い下げを得られず挫折。大工の見習いを経て、1947年(昭和22年)に故郷で小学校の代用教員の職を得たが、軍歴がGHQに問題視されて失職し(事実上の公職追放)、農業会の書記に転職。やがて代用教員として復職が認められる。これら職を転々とするかたわら絵の勉強を始め、劇団や映画館のポスター、看板を描いた。八戸市近くの米軍キャンプに出入りし、イベントのポスターを描く手伝いをする。そのうちに漫画家を志すようになり、疎開中の児童文学者白木茂と知り合い、白木から大阪の出版社を紹介され、1948年(昭和23年)秋、初の赤本漫画『怪盗カッポレ団』を出版する。1949年(昭和24年)5月5日、白木の勧めで共に上京。すぐに『小学一年生』(小学館)でイラストの仕事を得る。1950年(昭和25年)から『おもしろブック』で連載開始した野球漫画『ポストくん』で、児童漫画家としての人気を獲得する。1951年(昭和26年)、『冒険ダン吉』の作者・島田啓三を中心とした「東京児童漫画会(児漫長屋)」が結成され、後に「児童漫画界の三羽ガラス」と共に呼ばれる手塚治虫、福井英一と入会する。1955年(昭和30年)、『ブウタン』で第1回小学館漫画賞を受賞。その後、少年漫画が「活劇ものが主体となり」「私の体質に合わなくなった」として、1959年(昭和34年)1月、松下井知夫の紹介で大人漫画の作者を中心にしたグループ「漫画集団」に入団。しかし、「それもどうもしっくりこない」と感じ、「漫画と本質的に同じであるうえに絵をたっぷり見せることができる」と本人が語る絵本の世界に飛び込んでいった。1964年(昭和39年)、『きつね森の山男』で産経児童出版文化賞を受賞。1967年(昭和42年)、代表作『11ぴきのねこ』を刊行。11ぴきのねこたちが力を合わせ怪魚を捕まえる物語で。シリーズ全般に子ども向けでありながら、11ぴきいることによる集団心理、団結することによる効果、「とらねこたいしょう」によるリーダーシップなどが描かれている。1968年(昭和43年)には同作で産経児童出版文化賞を受賞した。1970年(昭和45年)、日本経済新聞で『バクさん』の連載をスタート。14年間にわたり連載した。1973年 (昭和48年)、『バクさん』『11ぴきのねことあほうどり』で第19回文藝春秋漫画賞を受賞。1974年(昭和49年)秋、同様のキャリアを経たやなせたかし、長新太ら10人の漫画家とともに、「漫画家の絵本の会」を結成。定期的に原画の展覧会を開催した。1985年(昭和60年)、『11ぴきのねこマラソン大会』でボローニャ国際児童図書展エルバ賞を受賞。1993年(平成5年)、第22回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。1994年(平成6年)、胃癌を発症。以降、入退院を繰り返しながら仕事を続ける日々を送る。1995年(平成7年)、紫綬褒章を受章。2001年(平成13年)4月7日午前6時、胃癌のため東京都練馬区小竹町の自宅で死去。享年73。没後、勲四等旭日小綬章を追贈された。


馬場のぼる(1927~2001)_f0368298_10184005.jpg

馬場のぼる(1927~2001)_f0368298_10184417.jpg

馬場のぼる(1927~2001)_f0368298_10184564.jpg

馬場のぼる(1927~2001)_f0368298_10184255.jpg

馬場のぼる(1927~2001)_f0368298_10184351.jpg

絵本『11ぴきのねこ』シリーズで知られる馬場のぼる。手塚治虫・福井英一とともに「児童漫画界の三羽ガラス」と呼ばれ、放送タレントやテレビドラマの俳優としても活動した。中でも、テレビドラマ『明日がござる』で見せた、凄まじい大根演技と独特の風貌は、作品に強烈なインパクトを残していた。『11ぴきのねこ』についても、「お腹を空かせた猫が魚を食べるために頑張る話を描きたい」という想いから創作をはじめ、ネコは、1匹が大将、あとの10匹が兵隊、「じゅう・いっ・ぴき!」という発音が元気良くて気に入った、などの独特な感性を持つ人であった。口髭と、目深にかぶったチューリップハットをトレードマークとしていた馬場のぼるの墓は、東京都府中市の多磨霊園と青森県三戸郡の法泉寺にある。前者の墓は、宝篋印塔で「走尾家先祖代々菩提」とあり、他に二基の墓、右横に墓誌、墓域入口に「11ぴきのねこ」の顕彰碑が建つ。戒名は、「登龍院徹心法性禅居士」。

# by oku-taka | 2022-09-19 10:22 | 漫画家 | Comments(0)

加藤芳郎(1925~2006)

加藤芳郎(1925~2006)_f0368298_20584761.jpg

加藤 芳郎(かとう よしろう)

漫画家
1925年(大正14年)〜2006年(平成18年)

1925年(大正14年)、東京府豊多摩郡代々幡町(後の東京都渋谷区)に生まれる。幼い頃から絵を描くのが好きで、父は加藤の描く絵を見ては「美術学校に入れてやろう」とほめるのが常だったという。また、『のらくろ』『冒険ダン吉』などの児童漫画作品に親しんだ。しかし、10歳の頃に父が定年を迎え、嘱託契約に切り替わって以降は、兄たちが家財を質入れして食料を調達するなど、生活が苦しくなり、美術学校入りの夢はいったん断念する。病院の給仕として昼間に働きながら、旧制東京府立第六中学校夜間部に通学。1939年(昭和14年)、雑誌『アサヒグラフ』の投稿欄に漫画が掲載され、賞金を受け取ったことをきっかけに、プロ漫画家の夢を抱く。その後、『週刊少国民』『オール讀物』『モダン日本』などで入選を重ね、近藤日出造主宰の『漫画』で一等入選するに至った。府立六中を卒業後、川端画学校で学んだ後、東京都防衛局職員となるが、ほどなくして「北支の歩兵部隊」の隊員として出征。古北口で敗戦を迎えた。1945年(昭和20年)12月に復員後、都庁に復職するが、所属していた防衛局が廃止されて消滅していたため、建設局公園緑地課に移籍し、案内看板の製作に従事する。また、『漫画』誌への投稿を再開し、主宰の近藤日出造から直接プロへの転向をすすめられる。1948年(昭和23年)、都庁を退職。専業漫画家として独立し、『オンボロ人生』『オレはオバケだぞ』『千匹の忍者』などの連載作品を通じ、庶民生活のペーソスをナンセンスに描いた作風で人気となり、横山泰三、荻原賢次とともに「戦後派三羽烏」と呼ばれた。1954年(昭和29年)、毎日新聞夕刊で『まっぴら君』の連載を開始。1957年(昭和32年)、『芳郎傑作漫画集』で第3回文藝春秋漫画賞を受賞。1975年(昭和50年)、『テレビ三面記事 ウィークエンダー』(日本テレビ)の司会を担当。全国ニュースで伝えられることがないB級事件について、リポーターがフリップボードや再現フィルムを使って解説したこの番組は、常に30%以上の視聴率を獲得する日本テレビの看板番組となり、加藤も人気タレントとなった。以降も、『テレフォン人生相談』(ニッポン放送)パーソナリティー、『連想ゲーム』(NHK総合テレビ)の白組・男性軍のキャプテンなどで親しまれた。特に『連想ゲーム』では、洒脱な話術とヒントの出し方で人気を博した。1981年(昭和56年)、日本漫画家協会の理事長に就任。1992年(平成4年)には会長となり、同協会の社団法人化に尽力した。1986年(昭和61年)、紫綬褒章を受章。1988年(昭和63年)、第36回菊池寛賞を受賞。1989年(平成元年)、NHK放送文化賞を受賞。1996年(平成8年)、勲四等旭日小綬章を受章。1999年(平成11年)、『まっぴら君』で第28回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。2000年(平成12年)、東京都文化賞を受賞。2001年(平成13年)、『まっぴら君』が連載1万3600回を超え、新聞連載漫画の最長記録を樹立。しかし体調不良が原因で6月23日掲載を最後に休載し、11月に終了を宣言した。同作は連載47年間で13615回に達し、全国紙では空前の連載記録となった。2005年(平成17年)1月に胃癌が発覚。3月から入退院を繰り返していたが、12月に風邪をこじらせて呼吸困難に陥る。2006年(平成18年)1月6日午後10時36分、呼吸不全のため東京都新宿区の病院で死去。享年80。


加藤芳郎(1925~2006)_f0368298_20584651.jpg

新聞連載漫画の第一人者である加藤芳郎。1954年から47年間続いた『まっぴら君』の連載は1万3600回を超え、全国紙の連載としては空前の記録となった。また、巻き癖の強い乱雑な髪型、小さく整えた口ひげ、洒脱な話術でタレントとしても活躍。特に、NHKの人気クイズ番組『連想ゲーム』では白組男性軍キャプテンを長らく務め、繰り出す秀逸なヒントに感心させられ、時に出される違反ヒントには笑わせてもらった。チャプリン似の穏やかな笑顔と持ち前のユーモアさで親しまれた加藤芳郎の墓は、東京都東村山市の小平霊園にある。洋型の墓には「加藤家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は、「妙筆院孤芳日泰居士」。

# by oku-taka | 2022-08-18 21:00 | 漫画家 | Comments(0)

ジャッキー吉川(1938~2020)_f0368298_19465300.png

ジャッキー吉川(ジャッキー よしかわ)

ミュージシャン
1938年(昭和13年)〜2020年(令和2年)

1938年(昭和13年)、東京都八王子市に生まれる。本名は、板岡公一(いたおか こういち)。法政大学第一中・高等学校(現在の法政大学中学高等学校)在学中は水泳の選手として全国大会で入賞したほどの運動神経の持ち主であったが、高校2年時に映画『グレンミラー物語』を観てジーン・クルーパに憧れ、独学でドラムを学ぶ。法政大学経済学部に入学後、先輩でブルー・コメッツのリーダーだった大橋道二の紹介で同バンドのバンドボーイとなる。しかし、程無くして一時的にバンドを離れ、「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」や新宿のキャバレー専属バンドに参加。ところが、相変わらずの貧乏生活に加え、バンドの女性歌手からドラミングを酷評されたことをきっかけにブルー・コメッツへ戻り、再びバンドボーイをこなしながらドラムの演奏技術を磨き続けた。1961年(昭和36年)、ブルー・コメッツの正式メンバーとなり、1963年(昭和38年)からはリーダーを務めた。1965年(昭和40年)、ザ・ピーナッツのバックとして、この年のNHK紅白歌合戦に出演。これに飽き足らなくなったヴォーカルの井上忠夫(後の井上大輔)が、「バックバンドは所詮裏方である。僕らは唄ってこそ本物のグループになれるんだ」とバンドの方向性を見直すよう進言し、ザ・ヒットパレードのディレクターであった椙山浩一(後の作曲家すぎやまこういち)に相談をもちかけた。1966年(昭和41年)、日本コロムビア(レーベルは洋楽部門のCBSコロムビア)から『Blue Eyes』を発売。10万枚以上のセールスを記録し、4ヶ月後の7月には、同じくCBSレーベルから同曲の日本語盤『青い瞳』が発売された。日本語盤は50万枚以上のセールスを記録し、グループ・サウンズ史の起源となった。同年、ザ・ドリフターズや内田裕也らとともにビートルズの日本公演の前座として出演。その後も、『青い渚』『何処へ』など順調にヒットを連ねていき、1967年(昭和42年)に発売された『ブルー・シャトウ』は150万枚の大ヒットを記録し、この年の第9回日本レコード大賞を受賞。名実ともに「日本一のグループ」になった。同年、美空ひばりの希望で『真赤な太陽』のレコーディングに参加。音楽的能力を高く評価され、その後たびたび共演する。1968年(昭和43年)にはエド・サリヴァン・ショーに出演のため渡米。このとき、欧米のロックやポップスに圧倒された井上忠夫は、帰国後すぐにグループの解散を打ち出すつもりだったが周囲の反対により断念、自らの活動を見直すことによって「脱GS宣言」を出す。同年発売されたムード歌謡的な傾向が強いシングル『さよならのあとで』がヒット。その後しばらくはムード歌謡路線が続くも、1971年(昭和46年)の『雨の賛美歌』から原点回帰を見せつつ、独自のサウンドを展開して曲を次々と発表した。また、この年に発売したカバーアルバム『G.S.R.』では、バート・バカラック風のアレンジの曲に挑戦するなどした。しかし、「グループサウンズ」として見られ続けたことが足を引っ張る形となり、レコードの売り上げと人気は徐々に下がり、他のGSバンドの解散が続く中でも活動を続けたが、巻き返しはならず、1972年(昭和47年)10月にコロムビアが契約を打ち切り。井上・高橋・三原の3人が脱退し、新メンバーが加入してビクターから再デビューした。1977年(昭和52年)にもメンバーチェンジしたが、1984年(昭和59年)には小田も脱退した。時代が平成に入ると「ジャッキー吉川とニューブルーコメッツ」に改称。一方、GS時代のメンバーと懐メロ番組に出演することが度々あったが、2000年(平成12年)に井上が自殺したことを機に、オリジナルメンバーが再集結。2002年(平成14年)、GS時代のメンバーで本格的に再結成した。バンドは全国ツアーを展開するなど精力的に活動を続けていたが、2010年(平成22年)に転倒が原因で頭を強打。脳出血を患ったが、リハビリを経て復帰。2017年(平成29年)にはメンバーと出演したテレビ番組で、くも膜下出血を患ったことを明かした。2020年(令和2年)4月20日午後3時頃、所属事務所の関係者が群馬県前橋市の自宅を訪問した際、ベッドで横たわった状態で亡くなっている姿を発見された。享年81。没後、第62回日本レコード大賞において特別功労賞を贈られた。


ジャッキー吉川(1938~2020)_f0368298_19500777.jpg

ジャッキー吉川(1938~2020)_f0368298_19465453.jpg

ジャッキー吉川(1938~2020)_f0368298_19465214.jpg

ジャッキー吉川(1938~2020)_f0368298_19465218.jpg

ジャッキー吉川(1938~2020)_f0368298_19465310.jpg

グループサウンズ黄金期を支えた「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のリーダー、ジャッキー吉川。力強い腕と、水泳選手として全国大会入賞の経験を持つほどの圧倒的な体力で、当時としては激しくドラマチックな奏法でグループに華を添えた。老いてもなおそのドラム捌きは健在で、それだけに突然の訃報は、メンバー含めて驚きをもって迎えられた。堺正章の「田邊昭知が久々にドラムを叩くにあたり、ドラム教室に通って肩慣らししようと思ったら、講師がジャッキー吉川だったので帰ってきた」という定番ネタが懐かしく偲ばれるジャッキー吉川の墓は、東京都八王子市の風の丘樹木葬墓地にある。公園のような明るく開放的な墓地には水が流れ、真ん中の通路に刻まれたネームプレートに、本名「板岡公一」の名がある。

# by oku-taka | 2022-08-18 20:46 | 音楽家 | Comments(0)

山野浩一(1939~2017)

山野浩一(1939~2017)_f0368298_16545449.png

山野 浩一(やまの こういち)

作家・競馬評論家
1939年(昭和14年)〜2017年(平成29年)

1939年(昭和14年)、大阪府大阪市港区に生まれる。市立昭和中学校、府立住吉高等学校を経て、1年浪人後の1959年(昭和34年)に関西学院大学法学部に入学。大学は阪神競馬場のすぐ近くにあったため競馬好きの学生が多く、山野も競馬好きになる。一方、「映画研究部」に入部し、1960年(昭和35年)に2年生で脚本・監督作『デルタ』を制作。『デルタ』はテレビ放映もされ、その際のゲストだった寺山修司と知り合う。1962年(昭和37年)、大学を中退。コマーシャル映画のプロダクションで1年間勤務した後、1963年(昭和38年)に上京。シナリオ学校に通うが、師事していた寺山修司から「映画を作る前に、戯曲や小説を書いたほうがいい」と勧められ、1964年(昭和39年)に処女戯曲『受付の靴下』と処女小説『X電車で行こう』を執筆。『受付の靴下』は寺山の紹介で『悲劇喜劇』誌に掲載された。『X電車で行こう』は「これはSFだ」といわれ、SFの同人雑誌『宇宙塵』に投稿して掲載されると、三島由紀夫、小林信彦らから高い評価を受け、『SFマガジン』に転載され、華々しく作家デビューとなった。その後は、『SFマガジン』誌等でSF小説、SF評論を執筆する傍ら、自身が原作を手掛けた『戦え!オスパー』や、『鉄腕アトム』、『ビッグX』、『快獣ブースカ』といったテレビアニメ、特撮の脚本家としても活動する。1965年(昭和40年)、『X電車で行こう』の出版記念パーティで日本中央競馬会の宇佐見恒夫と知り合い、『優駿』に原稿を執筆。これを契機に競馬関係の原稿も多数執筆した。1969年(昭和44年)、『SFマガジン』に掲載された評論「日本SFの原点と指向」で、日本の既成のSF作家たちを「アメリカSFのコピーに過ぎない」と痛烈に批判。これに対して荒巻義雄が反論し、日本SF史に残る論争となった。山野はその作家・評論家としての問題意識から、1960年代にイギリスで起きていたニュー・ウェーブSF運動に共鳴し、『季刊NW-SF』を自ら創刊。後に編集長をつとめる山田和子等とともに日本のニュー・ウェーブSF運動の旗手として活躍した。また「NW-SFワークショップ」も主宰。集まったメンバーには、鏡明、荒俣宏、川又千秋、森下一仁、亀和田武、新戸雅章、永田弘太郎、志賀隆生、高橋良平、山形浩生、大和田始、野口幸夫、増田まもるらがいた。1970年(昭和45年)、日本で最初のフリーハンデ(後に週刊競馬ブックと提携した「全日本合同フリーハンデ」となる)の作成に携わり、競走馬評価の体系の確立に寄与。また、競走馬の血統に関する書籍が希少だった1970年代初頭から『名馬の血統』などの血統本を著すなど、血統評論家の第一人者としても知られるようになり、1977年(昭和52年)に出版された『サラブレッド血統事典』は、10万部近い発行部数に達するなど、競馬関係書籍としては異例の売れ行きを見せた。1978年(昭和53年)、サンリオSF文庫の創刊に深く関わり、顧問として『フリッツ・ライバー『ビッグ・タイム(英語版)』 を出版。以降も海外の先鋭的なSF小説・前衛文学の紹介に寄与した。1990年代以降は、競馬評論家としての活動が主となり、1990年(平成2年)には『サラブレッドの誕生』でJRA賞馬事文化賞を受賞した。また、有識者としてダート競走格付け委員会、NARグランプリ選考委員会の委員も務めた。2007年(平成19年)、世界SF大会の「speculative japan」パネルに出席。翻訳家の増田まもるが創設したサイト「speculative japan」の理念に賛同したことから、2008年(平成20年)1月に日本SF作家クラブへ入会した。2013年(平成25年)、『NOVA 書き下ろし日本SFコレクション10』に30年ぶりとなるSF短編「地獄八景」を発表した。晩年は夫人の介護にあたっていたが、2017年(平成29年)2月の検査で食道癌が発覚。その後は妻の介護を行いながら闘病生活を送っていたが、7月には余命2か月半と診断された。7月20日、治療のため病院に行く予定だったが、時間になっても来なかったことから担当者が自宅を訪ねたところ、倒れている山野を発見。病院に搬送されたが、東京都八王子市の病院で死去。享年77。没後、第38回日本SF大賞功績賞、地方競馬における功績からNARグランプリ2017の特別賞を授与された。


山野浩一(1939~2017)_f0368298_17294659.jpg

山野浩一(1939~2017)_f0368298_17294702.jpg

SFと競馬という異世界において名を残した山野浩一。薦められるがまま書いた小説がSFと言われ、足を踏み入れたSFの世界。華やかにデビューした後、SF小説の評論、テレビアニメの脚本制作、「季刊NW-SF」を立ち上げるなど、日本におけるニューウェイブSFの旗手として多岐にわたる活躍を見せた。しかし、80年代に入るとSFの世界からは忽然と姿を消し、競馬の世界に。競馬の中でもほとんど見向きもされていなかった血統に注目し、想像力を刺激するかのような文学作品チックで血統の魅力を伝え、その分野の代表的な存在となった。異色すぎるが故に、今やあまり語られることのなくなった作家・山野浩一の墓は、東京都八王子市のメモリアルパーククラウド御殿山にある。洋型の墓には、名前とともに「Sanfte ruh!」と彫られ、カロート部分に墓誌が刻まれている。

# by oku-taka | 2022-08-18 19:12 | 文学者 | Comments(0)