2016年 08月 07日
横山大観(1868-1958)
横山大観(よこやま たいかん)
日本画家
1868(明治元年)~1958年(昭和33年)
1868年(明治元年)、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。本名は酒井(後に横山)秀麿。府立一中、および私立の東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。その後、東京美術学校の受験に向けて、結城正明や狩野芳崖などの教えを受ける。1888年(明治21年)母方の縁戚である横山家の養子となる。1889年(明治22年)、東京美術学校に第1期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいる。美術学校を卒業後、京都市立美術工芸学校予備科教員に就任、その一方で仏画の研究をはじめる。この頃より「大観」の雅号を使い始めるようになった。1896年(明治29年)同職を辞すと、母校である東京美術学校の助教授に就任。しかし、2年後に校長である岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年日本美術院創設に参加した。美術院の活動の中で、大観は菱田と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せはじめたため、大観は菱田と共に海外に渡り、カルカッタ、ニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。この欧米での高評価を受けて日本国内でもその画風が評価され始め、1907年(明治40年)にはこの年より始まった文部省美術展覧会の審査員を務め、1913年(大正2年)には守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った。以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となり、1937年(昭和12年)には第1回の文化勲章の受章者となった。同年、帝国芸術院会員となる。1951年(昭和26年)に日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。1958年(昭和33年)2月26日、東京都台東区にある自宅にて永眠。享年89。没後、永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。
墓所は東京都台東区の谷中霊園。正面には「横山大觀」と記された墓が建ち、右横に墓誌が建つ。戒名「横山大観居士」
2016年 08月 06日
色川武大(1929-1989)
色川 武大 (いろかわ たけひろ)
作家
1929年(昭和4年)~1989年(平成元年)
1929年(昭和4年)東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)矢来町生まれ。幼い頃から集団生活を苦手とし、小学生時代は学校をサボって浅草興行街に出入りし、映画・寄席・喜劇などに熱中した。1941年(昭和16年)旧制第三東京市立中学(現在の東京都立文京高等学校)に進学。1943年からは勤労動員として工場で働くが、ガリ版同人誌を密かに発行していたことが露見し、無期停学処分を受ける。1945年(昭和20年)に終戦を迎えるが、無期停学処分のままだったために進級も転校もできず、結果的に中学を中退。以後5年ほどかつぎ屋、闇屋、街頭の立ち売り、博徒などの職を転々とし、アウトローの生活へ身を投じる。この頃からギャンブルに没頭し、稼いだ時は上宿へ泊まり、文無しになった際は野宿をするという生活を送りながら、サイコロ博打や麻雀の腕を磨く。1950年(昭和25年)頃から各種業界紙を転々と渡り歩くようになり、1953年(昭和28年)には桃園書房に入社。アウトローの世界を事実上引退し、『小説倶楽部』誌の編集者として藤原審爾や山田風太郎のサロンに出入りをする。特に、藤原には「人生の師匠」とまで傾倒した。この頃からナルコレプシーの兆候が見られはじめ、山田宅や藤原宅で麻雀が催されると自分の番が来るまでに寝てしまい、その度に起こされていたという。1955年(昭和30年)に桃園書房をクビになり、以降、生活のために「井上志摩夫」名義での娯楽小説を書く。1961年(昭和36年)、父親のことを書き本名で応募した『黒い布』が伊藤整や武田泰淳や三島由紀夫の激賞を受け、第6回中央公論新人賞を受賞。しかし、その後はスランプに陥り、以降しばらく同人誌での活動を行う。1966年(昭和41年)『週刊大衆』に「雀風子」の筆名で『マージャン講座』というコラムを執筆したところ人気を博し、この連載はタイトルを変更しながら2年間続いた。この頃から原因不明の睡眠発作・脱力症状・幻視・幻聴・幻覚に悩まされるようになり、治療費が必要になる場合に備えて、さらに別の名前で執筆することを決めた。1968年(昭和43年)『週刊大衆』に「阿佐田哲也」名義で『天和の職人』を発表。1969年(昭和44年)『週刊大衆』に連載を開始した自伝的小説『麻雀放浪記』シリーズで若い読者の圧倒的人気を得て脚光を浴び、麻雀ブームを巻き起こす。以後、麻雀小説を多数執筆し、その影響で「麻雀専門誌」や「麻雀専門劇画誌」などが生まれ、その多くに執筆をした。麻雀技術書においては、麻雀に戦術があることを書き、五味康祐とともに「単なるギャンブル」とみなされていた麻雀を「知的なゲーム」として見直させた。1970年(昭和45年)からは『週刊ポスト』において作家や芸能人、スポーツ選手などが参加する「麻雀勝抜き戦」の「観戦記」を執筆。自らも選手として参加し、麻雀を通して交友範囲を大きく広げる。また、小島武夫や古川凱章といった若手の麻雀強豪を集めて麻雀エンターテインメントグループ「麻雀新撰組」を結成し、局長に就任。テレビ番組に出演して麻雀を打つなど積極的なメディア展開を図り、「第二次麻雀ブーム」を起こすことに大きく貢献するなど麻雀メディアに大きな影響を及ぼした。1974年(昭和49年)『話の特集』誌に色川武大の名義で「怪しい来客簿」の連載を開始。一方で、前述の精神病が難病のナルコレプシー(眠り病)と判明し、終生悩まされる事になる。1977年(昭和52年)『怪しい来客簿』が本名で刊行され、泉鏡花賞を受賞。1978年(昭和53年)には『離婚』で第79回直木賞を受賞する。以降は、本名と阿佐田哲也名義で執筆を続け、精通している博打、映画、芸能、ジャズや幅広い交友関係などを元にした著書を多数出版し続けた。1989年(平成元年)4月3日、前の月に引越したばかりの岩手県一関市において心筋梗塞で倒れて病院に運ばれる。適切な手当の結果、一命を取りとめたと思われたが、1週間後の10日、入院先の宮城県の病院にて心臓破裂で死去。享年60。
数々の文学賞を受賞した純文学作家・色川武大。またある時は、「麻雀放浪記」などの娯楽作を生むエンターティメント作家・阿佐田哲也。酒と麻雀をこよなく愛し、昼夜兼行で日々を生きた、まさに無頼派の作家であった。39歳の頃に発症した神経病の一種・ナルコレプシーによる幻視・幻覚・幻聴・脱力の不快さ・過食で苦しみながらも、60年の人生を懸命に駆け抜けた。作家として二面性の顔を使い分けた男の墓所は、東京都台東区の谷中霊園にある。正面には「色川家之墓」と記された墓が建ち、後ろに墓誌が彫られている。戒名「行雲院大徳哲章居士」
2016年 07月 24日
柏戸剛 (1938-1996)
力士
1938年(昭和13年)~1996年(平成8年)
1938年(昭和13年)山形県生まれ。本名は富樫剛。小学生の頃から相撲を始め、山形県立鶴岡南高等学校進学後に取り組んだ東田川郡大会で活躍したところ、噂を聞きつけた伊勢ノ海から熱心にスカウトされた。伊勢ノ海部屋に入門後の1954年(昭和29年)、蔵前国技館落成の場所にて初土俵を踏む。1957年(昭和32年)11月場所で新十両昇進を果たし、1958年(昭和33年)9月場所には新入幕を果たす。当時19歳での入幕はスピード出世であり、若秩父高明・豊ノ海義美と共に「ハイティーン・トリオ」と呼ばれた。1959年(昭和34年)3月場所から、伊勢ノ海部屋で伝統の四股名「(11代)柏戸」を襲名。この場所では、栃錦・若乃花の両横綱と終盤まで優勝を争って13勝2敗、敢闘賞と技能賞を初受賞した。翌5月場所は東前頭4枚目に進み、上位陣初挑戦の場所となったが、2日目から8連敗を喫し、最終的に5勝10敗で幕内で唯一の皆勤しての負け越しになる。9月場所で前頭3枚目まで番付を戻し再び上位に挑戦し、大関を狙った若羽黒と栃光の関脇ふたりを下すなど12勝3敗で2度目の敢闘賞、翌場所で新三役に昇進する。1960年(昭和35年)1月場所を東小結で迎えた柏戸は9勝6敗と勝ち越して、同年3月場所には関脇に昇進した。さらに、同年9月場所で大関に昇進すると、1961年(昭和36年)1月場所では13勝2敗で幕内初優勝を遂げた。同年9月場所では12勝3敗で優勝決定戦に進むが、後のライバルとなる大鵬幸喜に敗れて優勝を逃した。それでも、場所後には大鵬と共に横綱昇進が決定し、22歳9ヶ月での昇進で、照國萬藏の持つ最年少記録を大鵬幸喜と共に更新した。歴代の「柏戸」には大関まで昇進した力士がいるものの、横綱に昇進したのは初であった。その後も安定して二桁勝利を挙げていたが、1963年(昭和38年)1月場所で右手首関節捻挫・肝機能障害・蓄膿症により初の休場に追い込まれると、その後はケガや病気によって休場することが相次ぐ。4場所連続休場から再起をかけた1963年(昭和38年)9月場所には、大鵬との千秋楽全勝対決を制して全勝優勝を果たした。この復活劇に日本中が感動し、柏戸本人も支度部屋で号泣するほどだったが、この取組を見た石原慎太郎から八百長疑惑を新聞に投稿された。大鵬自身はビデオ映像を見て自分の驕りだったと感じたものの激怒し、時津風の問いに対して「絶対に(八百長は)やってない」と断言した。これを受けて協会は石原を告訴する準備をしたが、石原側から謝罪を受けて和解した。この騒動を二人で解決に持ち込んだことで、大鵬と柏戸の仲は改善された。このことから「柏鵬時代」と呼ばれ、高度経済成長期の相撲黄金時代を支えた。「巨人・大鵬・卵焼き」と言われ、子供以外に若い女性にも人気だった大鵬に対し、柏戸は男性ファンからの人気が高かったことから「大洋・柏戸・水割り」と評された。その後は病魔によって好不調の波が激しく、休場回数も徐々に増えたため優勝回数が伸びず連覇は無かった。その上、肝臓と腎臓を悪化させてしまい、成績不振も多くなっていった。1969年(昭和44年)7月場所の初日、高見山大五郎に押し込まれて土俵際から叩き込みで辛勝したが、2日目には麒麟児に吊り出しで敗れ、3日目には朝登俊光に左喉輪から一気の押し出しで連敗したことで体力の限界を感じ、現役引退を表明した。あと1勝で幕内勝利数が600勝に達するというところであった。引退後は後援者の薦めで独立して鏡山部屋を創立、スパルタ指導ぶりには定評があった反面、弟子たちには門限も設けないなどの自由な側面もあった。部屋での育成の傍ら、記者クラブ担当を経て審判部長を1982年(昭和57年)から1994年(平成6年)まで12年間も勤めたが、「物言いの際に経過を説明しない」「旭富士正也の横綱昇進を中々答申しなかった」「1993年5月場所千秋楽の若ノ花勝 - 小錦八十吉戦での微妙な勝負に物言いをつけない」など、素人筋からの評判は散々だった。晩年は深刻な腎臓病の悪化で体調不良が多く、週3回で1回につき5時間の人工透析を受け続けた副作用で骨が弱くなり、好敵手だった大鵬に「おい見てくれよ、脚こんなになっちゃったよ」と言っていたという。これを見た大鵬は「少しでも良くなるように」とカルシウム剤を渡したという。しかしその努力も虚しく、1996年(平成8年)12月8日に死去、58歳没。従五位・勲四等・旭日小綬章 叙位叙勲。
墓所は東京都台東区の谷中霊園。正面には「富樫家」と記された墓が建ち、右横に「第四十七代 横綱柏戸」と彫られた墓誌が建つ。戒名「巌鏡院柏樹剛堅居士」
2016年 07月 17日
森繁久彌(1913-2009)
森繁 久彌(もりしげ ひさや)
俳優
1913年(大正2年)~2009年(平成21年)
1913年(大正2年)、大阪府枚方市生まれ。父・菅沼達吉と母・馬詰愛江の3人兄弟の末っ子として生まれるが、2歳の時に父が死去。母方の祖父で南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎の家を継ぎ、森繁姓となる。1934年(昭和10年)に早稲田大学商学部へ進学し、演劇研究部に所属。後に脱退して、アマチュア劇団・中央舞台(後の人間座)を創立した。1936年(昭和11年)、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。その後、長兄・弘の紹介で東京宝塚劇場(現在の東宝)に入社し、日本劇場の舞台進行係、東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパ一座と劇団を渡り歩いて下積みを過した。1939年(昭和14年)、徴兵制度を避けるために受験したNHKのアナウンサー試験に合格。3ヶ月の養成期間終了後、満州・朝鮮各地の放送局網拡大によるアナウンサーの海外赴任策により希望通り満洲に渡り、満洲電信電話の新京中央放送局に赴任した。1946年(昭和21年)の帰国後は、帝都座ショーや空気座などの劇団を転々とし、1947年(昭和22年)衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画に初出演する。1949年(昭和24年)、再建されたばかりのムーラン・ルージュに入団。同年4月の舞台『蛇』で川田順をモデルとした主人公を演じ、10月にはミュージカル『太陽を射る者』に出演。演技だけでnaくアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集める。1950年(昭和25年)、ムーラン・ルージュを退団し、古川ロッパの推薦でNHKのラジオ番組『愉快な仲間』にレギュラー出演。メインの藤山一郎の相手役を演じ、2人のコンビネーションが人気を呼び、映画や舞台などから次々と声が掛かるようになる。同年、並木鏡太郎監督の喜劇映画『腰抜け二刀流』で映画初主演。1952年(昭和27年)には源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇映画『三等重役』に出演し、河村黎吉演じる社長役に対して要領のよい人事課長役で助演した。また、1953年(昭和28年)からはマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに森の石松役で出演し、第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げるまで大活躍するなど、森繁にとって初の当たり役となった。1955年(昭和30年)、久松静児監督の『警察日記』で田舎の人情警官を演じた後、同年公開の豊田四郎監督の『夫婦善哉』に主演し、コメディアンから実力派俳優へと転身していった。1956年(昭和31年)に『社長シリーズ』がスタート、1958年(昭和33年)からは『駅前シリーズ』にも主演。両シリーズともに東宝を支えた大ヒットシリーズとなった。一方、舞台では1958年(昭和33年)から芸術座の東宝現代劇第1回公演の『暖簾』から数多くに主演。1959年(昭和34年)には淡島千景と自由劇団を旗揚げし、1962年(昭和37年)1月には森繁劇団を結成。また、ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』ではテヴィエ役を演じ、1967年(昭和42年)年の初演以降、1986年(昭和61年)までに900回もの公演を行い、舞台の代表作とした。テレビドラマでは草創期から活躍しており、『七人の孫』、竹脇無我と親子を演じた『だいこんの花』、『おやじのヒゲ』などの代表作がある。ラジオにおいても、出演者が森繁と加藤道子の二人だけというNHKのラジオ番組『日曜名作座』を1957年(昭和32年)から務め、声色を変えて何役も演じるラジオドラマとして半世紀の間放送された。歌手としては、1955年(昭和30年)に『銀座の雀』がヒット。NHK紅白歌合戦には1959年(昭和34年)の第10回から1965年(昭和40年)の第16回まで7年連続出場し、その独特の節回しは「森繁節」と評された。1960年(昭和35年)に映画『地の涯に生きるもの』の撮影で知床に長期滞在した際に『知床旅情』を作詞・作曲し、1970年(昭和45年)に加藤登紀子によってカバーされた。1980年代以降は、舛田利雄監督『二百三高地』、森谷監督『海峡』など作品の重要な役どころで出演する大物俳優の一人として活躍した。1975年(昭和50年)に紫綬褒章、1984年(昭和59年)に文化功労者、1987年(昭和62年)に勲二等瑞宝章を受章。1991年(平成3年)には大衆芸能演劇者として史上初となる文化勲章を受章した。2002年(平成14年)12月、静養先の沖縄県で心筋梗塞で倒れ一時危険な状態に陥ったが無事に回復。2004年(平成16年)1月2日放送のテレビドラマ『向田邦子の恋文』が俳優として最後の演技となった。2009年(平成21年)11月10日午前8時15分、老衰のため東京都内の病院で死去。享年97。没後、従三位に叙せられると同時に国民栄誉賞を授与された。