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島倉千代子(1938~2013)

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島倉 千代子(しまくら ちよこ)

歌手
1938年(昭和13年)~2013年(平成25年)


1938年(昭和13年)、東京市品川区北品川に生まれる。1945年(昭和20年)、長野県松本市に疎開中、井戸から水を運ぶ途中で転倒。水の入ったビンを割り、左手首からひじまでを負傷。母のナカが「女の子だから腕を残して欲しい」と医師に懇願して切断は免れたが、47針を縫い、感覚も無く、動かすこともできなくなる。気持ちの沈んだ千代子のために、母・ナカは『リンゴの唄』を歌って励ました。1947年(昭和22年)、東京に戻る。姉の敏子は歌唱力があったものの小児麻痺を患っていたことから歌手にはなれず、大好きな姉のために自分が歌手になることを決意。敏子から声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入団。左手に負担の無いアコーディオンを担当していたが、歌唱力があったことからボーカルにも起用された。1950年(昭和25年)、童謡『お山のお猿』でレコードデビュー。ただし、誤植により「戸倉千代子」名義となってしまったため、「島倉千代子」のデビュー作とはならなかった。1953年(昭和28年)、品川区の日本音楽高等学校に入学。この頃から歌謡コンクールへ積極的に参加するようになり、翌年にはコロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、専属契約を結ぶ。1955年(昭和30年)、本名の「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲の『この世の花』は、売上200万枚を記録し、一気に人気歌手の仲間入りを果たす。その後、『りんどう峠』、『東京の人さようなら』と立て続けにヒットを連発。1957年(昭和32年)には、NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。その後も、『からたち日記』、『哀愁のからまつ林』とヒットを飛ばし、1960年(昭和35年)のNHK紅白歌合戦では、美空ひばりを抑えて初めて紅組トリを務めた。1961年(昭和36年)、ファンの投げたテープが両目に当たって失明の危機に陥る。このとき、品川区五反田「守屋眼科」の医師・守屋義人の助けで視力を回復。1963年(昭和38年)、父・壽雄が他界。悲しみにくれる中、支えてくれた元阪神タイガースの藤本勝巳と母親の反対を押し切り結婚。結婚前に妊娠したが中絶、結婚後も二子をもうけたが中絶した。後年、この三人の子を合わせて「忍」と名付け、その名を小さな地蔵に付けて肌身離さず持ち歩いた。1968年(昭和43年)、すれ違いの多い生活により別居を経て離婚。家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作る。同年、「泣き節」を売り物としていた彼女にとって異色の作品である『愛のさざなみ』が幅広い世代の間でヒットし、第10回日本レコード大賞特別賞を受賞した。1972年(昭和47年)、和解ができないまま母・ナカが他界。1975年(昭和50年)、以前かかった眼科医に頼まれて実印を貸してしまう。さらに、島倉が知らない間にマネージャーや全く面識のない赤の他人まで多数の人々の保証人にされてしまう。島倉を保証人に借金を重ねた人々は行方不明になり、その借金が雪だるま式に膨らんでいき、当時総額16億円といわれた莫大な借金を抱える。1977年(昭和52年)、島倉の窮地を救ったことから絶大な信頼を寄せていた守屋義人が事業に失敗し、不渡り手形を出して蒸発。島倉に手形の裏書をさせていたことから借金の連帯保証人にされ、2億4000万円の債務を負う。これにより、20億円近くもの莫大な借金を抱えた島倉は、返済のために写真集の発売や全国各地のキャバレー回り、地方興行などをして足掛け7年程で完済した。1986年(昭和61年)、第37回NHK紅白歌合戦に出場。紅白歌合戦に連続30回出場を達成し、当時の紅白史上最多記録を樹立した。しかし、翌年に「30回という区切りを大切にしたい」と紅白辞退の記者会見を行い、紅白連続出場記録は30回でストップとなった。1988年(昭和63年)、前年にリリースした『人生いろいろ』が、当時の人気バラエティー番組「オレたちひょうきん族」での山田邦子やコロッケによる物真似をきっかけにブレイクし、130万枚の大ヒットを記録。同年の第30回日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞し、同年末の第39回NHK紅白歌合戦に2年ぶり31回目の復帰出場を果たした。その一方、島倉が歌手になるきっかけを与えた姉の敏子が目黒川で投身自殺をしている。1993年(平成5年)、初期の乳癌であることが判明。芸能人では初めてとなる癌公表の会見を開き、自ら癌であることを発表した。1999年(平成11年)、紫綬褒章を受章。2007年(平成19年)、事務所のスタッフに資産を奪われ、再び多額の借金を抱える。同じ過ちを犯すのは自分のせいと責任を感じ、自らの誕生日に事務所を解散。周りの協力により心機一転スタートすることになり、経理も全部自分でやるために簿記の勉強をはじめた。2010年(平成22年)、肝臓癌であることが判明。癌発症はごく少数の関係者にしか打ち明けず、手術と入退院を繰り返していたが、2013年(平成25年)に入ると肝硬変に至っていた。同年5月から仕事をセーブするようになり、同年6月21日、宮崎県延岡市で開催したコンサートが生涯最後のステージとなった。11月5日、デビュー60周年記念曲『からたちの小径』を自宅で録音。レコーディングは、当初11月15日に行う予定だったが、島倉自身から「その日まで待てない」と関係者に連絡を入れ、11月5日に急遽吹き込みが行われた。11月6日、「体調が悪いので来てほしい」と自宅からスタッフに電話し、中目黒の東京共済病院に再入院。11月8日朝に容体が急変し、東京共済病院の病室にて所属事務所の女性スタッフに看取られ、眠るように息を引き取った。享年76。


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昭和歌謡を彩った歌手は波瀾万丈な人が非常に多い。その中でも、島倉千代子と江利チエミの不運には思わず身につまされる。左腕の負傷、失明危機、離婚、金銭トラブル、家族の死、癌の闘病…まさに「人生いろいろ」な生涯を果敢に歩んだ島倉千代子。波乱な75年を生きた彼女の墓は、東京都品川区の東海寺大山墓地にある。墓には、島倉が好きだった言葉「こころ」とあり、左横に戒名「寳婕院千代歌愛大姉」が彫られている。なお、後方には「島倉千代子」と、中絶した3人の子供「島倉忍」の名が刻まれている。まだ亡くなって日が浅いためか、彼女の墓には大量の供花で彩られていた。私がお参りする前にもファンと思しき女性2人が先に来ており、お千代さんとの思い出を懐かしそうに語ってくださった。多くの人に騙され、裏切られてきた彼女であったが、騙した人の数の何倍ものファンに愛されていることを感じられた墓参りだった。


# by oku-taka | 2017-02-19 00:59 | 音楽家 | Comments(0)

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十二代目・市川團十郎(いちかわ だんじゅうろう)

歌舞伎俳優
1946年(昭和21年)~2013年(平成25年)

1946年(昭和21年)、十一代目・市川團十郎の長男として東京都に生まれる。本名は、堀越夏雄。1953年(昭和28年)、 歌舞伎座にて『大徳寺』の三法師公で市川夏雄を名のり初舞台を踏む。1958年(昭和33年)、六代目・市川新之助を襲名。1965年(昭和40年)、青山学院高等部を卒業し、日本大学藝術学部に入学。同年、父である十一代目・市川團十郎が急死し、突如として後盾を失う。その後、同世代の四代目・尾上菊之助(現在の七代目・尾上菊五郎)と初代・尾上辰之助が新之助を支え、その三人の姿が若い世代の女性たちの同情を買って「三之助ブーム」が巻き起こる。これにより、しきりに危機が叫ばれていた歌舞伎界が息を吹き返し、興行界に確固たる地位を占めるに至った経過に一役買うこととなった。1969年(昭和44年)、日本大学芸術学部演劇科を卒業。同年、十代目・市川海老蔵を襲名。襲名後は、東京・新橋演舞場で五代目・坂東玉三郎、片岡孝夫(現在の十五代目・片岡仁左衛門)らと公演を行い、海老蔵と玉三郎の顔合わせは「海老玉コンビ」と呼ばれ人気を博す。また、歌舞伎を世界に広める活動にも力を注ぎ、1982年(昭和57年)のアメリカ・ニューヨークでの公演を皮きりに、ワシントン、ロサンゼルス、オーストラリア、ブリュッセル・東ベルリン、ウイーン、パリなど、世界各地で公演を行った。1985年(昭和60年)、十二代目・市川團十郎を襲名。市川宗家として「家の芸」である『歌舞伎十八番物』の「勧進帳」の弁慶や「助六」、時代物「仮名手本忠臣蔵」の由良之助、世話物「四谷怪談」の伊右衛門、「河内山」などの当たり役を磨く一方で新作の創作にも取り組み、1992年(平成4年)に「成田山分身不動」を自主公演した。2004年(平成16年)、長男が十一代目・市川海老蔵を襲名。これと前後して白血病を発症。10月のパリ公演で復帰をするも、翌年の6月には再発。慢性の貧血状態が続く「骨髄異形成症候群」と診断され、輸血を継続する治療や自家末梢血幹細胞の移植を受けるなど、壮絶な闘病生活をおくる。2006年(平成18年)3月、歌舞伎座で復帰会見を開き、5月に復帰。2007年(平成19年)、パリ・オペラ座で初めての歌舞伎公演を行い、フランス政府から芸術文化勲章コマンドゥールを贈られた。同年、紫綬褒章を受章。2008年(平成20年)、ヒト白血球型抗原(HLA)の型が一致した妹から骨髄移植を受けた。2011年(平成23年)に特定非営利活動法人全国骨髄バンク推進連絡協議会会長に就任。2012年(平成24年)、12月17日の京都・南公演終了後に体調を崩し、18日から風邪による体調不良のため休演が発表された。その後も体調が回復することはなく、2013年(平成25年)2月3日、肺炎のため死去。享年66。没後、日本政府より正五位並びに旭日中綬章が追贈された。


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歌舞伎界の頂点である「市川宗家」に生まれた宿命なのだろうか。十二代目・團十郎の生涯は、常に闘いの人生であった。14歳で父を亡くしてから、彼は「海老様」と呼ばれ高い人気を博した十一代目・團十郎と何かにつけては比較された。舞台映えのしない細身の身体、鼻詰まりのような聞き取りづらい声、猫背…彼のまわりには常に悪評が付きまとっていた。そうした評価を覆すべく、義太夫を稽古して発声を鍛えたり、肉付きをよくして大きな存在に見せるよう努力したりと、市川宗家を継ぐ者として必死に取り組んだ。めでたく十二代目・團十郎を襲名し、順風満帆に行くかと思いきや、数々の病に襲われ、さらには息子・海老蔵による不祥事の後始末など、苦労が絶えることはなかった。度重なる試練に挑み続けた團十郎であったが、2013年、ついに力尽きてしまった。短くも濃密な66年という生涯を懸命に生きた團十郎の墓は、東京都港区の青山霊園にある。墓には「堀越家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。十二代目・團十郎は神道(神習教)信者であり、没後に「瑞垣珠照彦命」の諡号が贈られた。


# by oku-taka | 2017-02-18 23:08 | 俳優・女優 | Comments(0)

浪越徳治郎(1905~2000)

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浪越 徳治郎(なみこし とくじろう)

指圧師
1905年(明治38年)~2000年(平成12年)


1905年(明治38年)、香川県仲多度郡多度津町に生まれる。7歳のとき、北海道虻田郡留寿都村に移住。多発性関節リウマチの母の痛みを和らげたいという一心から揉んだり擦ったりするうち、指で押すことで痛みが和らぐことを発見する。後にこの技術を指圧と名づけ、1925年(大正15年)に警視庁のマッサージ術試験に合格。その後、室蘭で「指圧治療所」を開くも、多くの人に指圧の技術を広めるべく1933年(昭和8年)に上京。1940年(昭和15年)、東京都文京区表町(現在の小石川)に日本指圧学院を創立した。1944年(昭和19年)には指圧師養成1000名記念「一指救国指圧大講演会」を日比谷公会堂で開催するなど普及活動は順調に進んでいたが、1945年(昭和20年)5月25日の大空襲により指圧学院が全焼。終戦後の1946年(昭和21年)、同じ場所に新校舎を建設して活動を再開した。1953年(昭和28年)、アメリカのアイオワ州ダベンポートにあるパーマスクールから招聘されて渡米。日本で生まれた指圧の指導と講演を行い、米国各地で指圧の普及活動を行う。1954年(昭和29年)、新婚旅行で来日するも胃痙攣を起こして療養していたマリリン・モンローに素手で触って指圧し、体調回復の一助となる。この一件でマリリン・モンローを指圧の愛好家したのみならず、「指圧の浪越徳治郎」として名声を馳せる。1957年(昭和32年)、日本指圧学院が厚生大臣より正式に指圧師養成校の認定を受け、厚生大臣認定日本指圧学校として発足。その後も、吉田茂をはじめとした歴代の内閣総理大臣、A級戦犯を裁いた東京裁判のジョセフ・キーナン首席検事、モハメド・アリなどの国内外の著名人を治療し、日本はもとより全世界に指圧(SHIATSU)を普及させた。1968年(昭和43年)、NETテレビ(現在のテレビ朝日)の『桂小金治アフタヌーンショー』のコーナーであった「指圧教室」にレギュラー出演。「指圧のこころ母心 押せば生命の泉湧く」のスローガンが話題となり、お茶の間に広く知られる存在となる。1983年(昭和58年)、勲四等旭日小綬章を受章。1987年(昭和62年)、バラエティー番組『ビートたけしの元気が出るテレビ』に出演。当初は「アーッハッハ」という豪快な笑い声から「アッハー浪越」の名前で登場したが、後にジェットコースターに乗った際に普段の笑い声が消え、あまりにも怖がっていたため、そのリアクションから「ジェット浪越」と命名され、一般人から発掘された福島出身の吉田十三(通称「エンペラー吉田」)とのコンビで人気を博した。1992年(平成4年)、ホテルニューオータニで開催された「米寿を祝う会」にて後継者を長男の徹に託し、校長職を含めて事実上の実務を徹に一任する。しかし、1994年(平成6年)に長男・徹が現役校長のまま急逝。89歳にて再び、校長職に復帰。1998年(平成10年)、校長職を長男の妻である満都子に一任。2000年(平成12年)9月25日午前3時7分、肺炎のため東京都文京区の病院で死去。享年94。


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豪快な笑いと「指圧のこころ母心 押せば生命の泉湧く」のフレーズで一世を風靡した指圧師・浪越徳治郎。布袋尊に似たその風貌のせいか、彼は2000年に94歳という大往生を遂げた。指圧の創始者として指圧を世界的なものへと育て上げた彼のお墓は、東京都文京区の伝通院にある。墓には「浪越家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「光壽院德譽明翁居士」。

# by oku-taka | 2017-02-11 21:20 | タレント | Comments(0)

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初代・貴ノ花 利彰(たかのはな としあき)

力士
1950年(昭和25年)~2005年(平成17年)


1950年(昭和25年)、10人兄弟の末っ子として北海道室蘭市で生まれる。本名は、花田 満。長兄には初代・若乃花がおり、満が誕生した時にはすでに22歳で幕内力士となっていた。1958年(昭和33年)、東京都杉並区阿佐谷に転居。杉並区立東田中学校在学中に水泳で名を上げ、中学3年生の8月には「東京都中学水泳選手権大会」と「全国選抜中学水泳大会」で100mバタフライの中学生記録を更新するなど、3年後に控えていたメキシコシティオリンピック選手の候補として期待されていた。しかし、母の勧めで兄の二子山(初代若乃花)の相撲部屋へ入門を希望。二子山は猛反対したが、母の強い説得によって兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可した。1965年(昭和40年)5月場所、本名のままで初土俵。兄から師匠へと立場の変わった二子山は徹底的に厳しく指導し、「弟だから甘くしている」と言われないため、わざと厳しく接した。また、二子山の指導が厳しいが故に、弟に仕返しをするという形で兄弟子たちからも限度を超えたしごきを受け、鍛えられていった。その結果、同年7月場所では6勝1敗の成績で序ノ口優勝を果たした。1968年(昭和43年)3月場所、18歳0ヶ月の史上最年少で新十両に昇進。新十両の場所も8勝7敗と勝ち越して、初土俵以来17場所連続勝ち越しの新記録を樹立した。同年5月場所は7勝8敗と負け越したものの、9月場所で11勝4敗の成績で十両優勝を果たし、11月場所には新入幕を果たした。18歳8ヶ月15日での入幕は武藏山の19歳5ヶ月1日を破り、当時の新記録となった。また、これによって兄の若乃花と共に明治以降では初の兄弟幕内力士となった。しかし、1969年(昭和44年)1月場所は7勝8敗と負け越し、次の3月場所は急性上気道炎のため途中休場。7日目から再出場したが5連敗、この場所一つも白星を挙げられず、12日目に2度目の不戦敗・再休場となり、その後十両に下がってしまう。1970年(昭和45年)1月場所、花田から貴ノ花と改名し再入幕、10勝5敗で敢闘賞を獲得した。同年11月場所では7勝8敗と負け越したものの連日の健闘が讃えられ、会場であった福岡スポーツセンターから表彰された。1971年(昭和46年)、1月場所5日目で横綱・大鵬と対戦し足を負傷するが、5月場所5日目にその大鵬に黒星をつけて一躍有名になる。その後、9月場所6日目に大関・清國に足を取られながら逆転勝ちを収めるなど驚異的な足腰の強さを発揮し、角界一の人気を不動のものとした。1972年(昭和47年)、1月場所8日目に横綱・北の富士と対戦。立合いから攻めに攻めた北の富士が土俵中央で外掛けを強襲、しかし貴ノ花が残したため北の富士がもう一本の足も外掛けにして両外掛けの体勢。掛けもたれる北の富士を貴ノ花がわずかに左へ振ったかとおもうと、北の富士が右手を土俵についた。約5分間も協議が続く大物言いとなるが、結果審判団は貴ノ花は既に「死に体」だと判断し、「かばい手」と判定して北の富士の勝ちとした。このとき「つき手」を主張したものの受け入れられず差し違えとされた立行司25代木村庄之助は千秋楽まで謹慎となり、翌3月場所前には廃業に追い込まれる事態となるなど、「かばい手」「つき手」論争を巻き起こした。同年9月場所千秋楽では、同門のライバルである輪島と水入りの熱戦を繰り広げ、貴ノ花は敗れたものの場所後に二人が揃って大関に昇進した。1975年(昭和50年)3月場所、13勝1敗で千秋楽を迎えた貴ノ花は、12勝2敗の北の湖と対戦。貴ノ花は勝てば初優勝だったが、負けて13勝2敗同士の優勝決定戦にもつれ込み、最終的には北の湖を下して悲願の初優勝を果たした。その瞬間、場内では興奮した観客が投げた座布団がかつてないほどに乱れ飛び、土俵や天井が見えなくなるほどの光景となった。同年9月場所にも北の湖との優勝決定戦を制し12勝3敗で2回目の優勝。2回の優勝の後には横綱昇進を期待されたが、次の場所では好成績を出せず、綱取りは果たせなかった。この頃から腎臓病や足の怪我に悩まされ、開運を期待して貴乃花と改名していたが効果はなく、すぐに元の貴ノ花に戻した。その後、大関在位50場所という当時史上1位の記録を立てたが、優勝争いに絡むことはほとんどなくなり、1980年(昭和55年)1月場所では7勝8敗と大関昇進後唯一の皆勤での負け越しを喫し、貴ノ花の限界説が危惧され始める。「次で負け越したら引退する」と背水の陣で望んだ翌3月場所は5度目の大関角番を脱出し10勝5敗の成績を挙げたが、この場所が貴ノ花の現役最後の2桁勝利となった。同年11月場所3日目、大関候補と呼ばれ日の出の勢いだった千代の富士に一方的に敗れ、この時の相撲を引き金に貴ノ花は引退を決意したと言われている。1981年(昭和56年)1月場所では当時前人未到の大関在位50場所目を迎えたものの、序盤から波に乗れず、6日目の対蔵玉錦戦を最後に引退を表明した。引退後は年寄・鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方に就任。1982年(昭和57年)には、藤島に名跡を変更して初代・若乃花の二子山部屋から分家独立し、藤島部屋を興した。後に長男の若花田(後の横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田(後の横綱・貴乃花)が入門し、大きな話題になった。他にも、後に大関となる貴ノ浪、関脇の安芸乃島や貴闘力など有力力士が育ち、藤島部屋は一気に有力部屋へと発展した。1993年(平成5年)、兄である二子山の停年直前に年寄名跡を交換して年寄・二子山となり二子山部屋を継承。藤島部屋と二子山部屋の合併により二子山部屋は一気に大部屋となった。1994年(平成6年)、11月場所後に次男の貴乃花が横綱に昇進。1998年(平成10年)5月場所後には長男の若乃花も横綱に昇進し、兄弟同時横綱の壮挙が実現する。2003年(平成15年)、弟子の貴乃花が引退を表明。貴ノ花は部屋を譲り、部屋付きとなった。同年秋頃からあごの痛みを訴えるなど体調を崩しがちになり、入退院を繰り返しながら病気療養を続けていた。2004年(平成16年)夏頃に再入院してからは、喉が詰まって普通に話しする事さえままならない状態となり、2005年(平成17年)1月30日には、自らスカウトした愛弟子の音羽山(元大関・貴ノ浪)の断髪式に入院先の病院から駆け付けた。投薬治療が長く続いた影響か、この時の二子山の顔色は明らかに優れず、頭髪も薄くなっていた。また土俵に上がる際には、足がよろけて自力で登る事が出来ず、呼び出しの手を借りなければならない程、体調は相当に悪化した状態だった。この頃から、彼の重病説が囁かれるようになり、次男の貴乃花から「口腔底癌」であることが発表された。その後、意識不明の重体に陥り、それからわずか3カ月後の5月30日に口腔底癌のため、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。享年55。没後、従五位に叙せられ、旭日小綬章を授与された。


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細身で均整のとれた体格と甘いマスクから「角界のプリンスと呼ばれ、大相撲の歴史上において史上屈指の人気を誇った初代・貴ノ花。親方として息子二人を横綱にまで育て上げ、若貴ブームを巻き起こした男の墓は、東京都杉並区の天桂寺にある。円形の墓には「花田家」とあり、その右後ろに墓誌が刻まれている。戒名は「双綱院貴関道満居士」(入信していた霊友会からは「誠生院法憲祐幸智徳善士」という戒名が付けられている)。力士として、親方として、順風満帆な人生を送っているかのように見えた貴ノ花であったが、後年は妻の浮気と離婚、二人の息子の不仲、癌の闘病と、様々なことに苦しめられ可哀相でならなかった。驚異的な足腰の強さと粘り強さで手に汗握る試合を見せてくれたヒーローが、なぜこんなにも次々と不幸に見舞われるのか…と。今はそうした苦難から解放され、穏やかに眠っていることを唯々信じたい。


# by oku-taka | 2017-01-31 23:57 | スポーツ | Comments(0)

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初代・若乃花 幹士(わかのはな かんじ)

力士
1928年(昭和3年)~2010年(平成22年)

1928年(昭和3年)、10人兄弟の長男として青森県弘前市青女子に生まれる。本名は、花田 勝治。生家はリンゴ園を営んでいたが、1934年(昭和9年)の室戸台風で作物が全滅し、一家は破産状態で北海道室蘭に移住。沖仲仕などの力仕事を行い、戦争で傷痍軍人になった父に代わって家計を支えた。普通の男が70~110kgの鉄鉱石や石炭を担ぐところ、国民学校を卒業したばかりの花田は150~200kgもかついで何度も往復し、後に相撲で発揮する身体能力の片鱗を見せていた。1946年(昭和21年)、当時の二所ノ関一門の巡業で催された相撲大会に飛び入りで参加。本職の力士を数名倒してみせたことから、大ノ海(のちの師匠・花籠)の目に留まりスカウトされる。働き手を失いたくない父親は角界入りを反対したが、「3年で関取になれなければ帰る」という条件で入門。大ノ海が若い時に用いた四股名「若ノ花」を譲り受ける。入門後は「二所一門の猛稽古」と呼ばれる洗礼を受け、神風、力道山、佐賀ノ花、琴錦といった分家独立を念頭に置いて内弟子を厳しく鍛えていた先輩力士らによって力を付けた。同年の11月場所で初土俵を踏み、各段優勝に近い成績を収める。1949年(昭和24年)、5月場所で十両に昇進。1951年(昭和26年)、5月場所において後に共に時代を築くことになる栃錦と初対決。いきなりの大勝負となり、何とか勝利を収める。翌9月場所も水入りの末二番後取り直しとなった後に黒星となるなど、栃錦との取組は常に大熱戦になり、技の打ち合いとしのぎ合いで激しく土俵を動き回る両雄の姿はたちまちファンを魅了した。1953年(昭和28年)、師匠の大ノ海が引退と共に二所ノ関部屋から独立し、花籠部屋(独立当初は芝田山部屋)を創設。若ノ花もそれに従うが、当初は小部屋ゆえ巡業の引き受け先が見付からず、辺鄙な土地に出かけて部屋の若い衆相手に胸を貸す稽古を延々と続けた。1955年(昭和30年)、9月場所において横綱・千代の山と水入り取り直しの計17分15秒に及ぶ前代未聞の大相撲を繰り広げる。結果は引分に終わったが、この相撲を評価され、場所後に大関へと昇進。1956年(昭和31年)1月場所、他の2大関が負け越す中、優勝した横綱鏡里に1勝差の13勝2敗という記録を残し、翌3月場所場所も12勝3敗で優勝決定戦に出場。次の5月場所では、12勝3敗で前頭9枚目・大晃との決定戦を制し、初優勝を果たした。翌9月場所に横綱をかけたが、場所前に長男がちゃんこ鍋をひっくり返して火傷で亡くなるという悲運に見舞われる。稽古どころではなく本場所出場も危ぶまれたが出場を強行し、愛児の名を記した数珠をさげて場所入り。水入りの苦戦を強いられることの多かった前頭5枚目出羽錦をあっという間に寄り切るなど初日から12連勝し、連続優勝・全勝優勝・横綱は確実と思われたが、その後に扁桃腺炎を発症し、さらに高熱に襲われ13日目を休場。千秋楽には出場の意欲を見せたが、当日に病状が悪化してやむなく休み不戦敗に終わる。綱取りは夢と消えたが、皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として若ノ花の人気をさらに高めた。1957年(昭和32年)、日活が映画『若ノ花物語・土俵の鬼』を制作し、若ノ花自身も出演した。同年、画数占いですすめてくれる人があったのと、愛児の一周忌を機に心機一転をはかるため、9月場所より「若乃花」に改名。11月場所は12勝3敗の優勝次点、翌年の1月場所では13勝2敗で2回目の優勝を果たし、場所後に第45代横綱に推挙された。これにより、昭和生まれで最初、かつ戦後に初土俵を踏んだ最初の横綱となった。その後は、最大のライバルともいえる栃錦と常に名勝負を展開し、年6場所となった1958年(昭和33年)以降は毎場所のように二人で優勝を分け合い、戦後最初の黄金期である「栃・若時代」を実現する。1959年(昭和34年)5月場所、初日から14連勝の栃錦を千秋楽に下して優勝決定戦に持ち込み、逆転優勝。これは史上初めてのケースであった。1960年(昭和35年)3月場所では、ともに14連勝同士で千秋楽に対戦。これも史上初となる横綱同士による千秋楽全勝対決を寄り切りで制し、初の全勝優勝を達成した。この取り組みを最後に、栃錦は引退。その後は3場所連続で13勝2敗、2度の優勝を果たすなど、栃若拮抗時代から第一人者として一時代を築くかと思われた。しかし、11月場所を9日目から途中休場、翌場所こそ12勝3敗と健在を示したものの、その後は優勝争いにからむこともなくなっていき、11勝前後の成績が多くなる。栃錦というライバルを失ったことによる気力の張りがなくなったことや、新鋭の柏戸の鋭い出足など若い力の台頭に押され始めた。1962年(昭和37年)1月場所、後に第49代横綱となる関脇の栃ノ海に負けを喫し、5月1日の花籠部屋で開いた記者会見で現役引退を表明した。引退と同時に年寄・二子山を襲名し、花籠部屋から独立して二子山部屋を興す。自身の経験から部屋での指導は大変厳しく、稽古の時間になっても起きない弟子がいれば布団を剥がして起きるまで竹箒で殴り、それでも起きなければ布団が赤くなるまで殴りつけたという。また、自らもまわしをつけて稽古土俵に降りて指導をしたこともあった。一方で糖尿病を患った隆の里に対し、まだ幕下以下の力士であった頃から糖尿病治療食のメニューを認めるというきわめて異例な計らいを行う等、弟子思いの一面もあった。1976年(昭和51年)、相撲協会の理事に当選。かつてのライバル春日野理事長(栃錦)は二子山を重用し、両国新国技館建設の頃は、春日野理事長、二子山理事長代行として相撲協会を引っ張るなど、幹部の栃・若時代と呼ばれた。1988年(昭和63年)、春日野は停年まで余力を残しながらも相談役に退き、二子山に理事長を禅譲。理事長として土俵の美を追求して立合いの正常化に努め、「待った」の制裁金導入(後に廃止)や、行司に「手をついて」と掛け声させることなどに取り組んだ。1991年(平成3年)、紫綬褒章を受章。1993年(平成5年)、1月場所後に自身の二子山の年寄名跡を実弟の貴ノ花が持つ藤島と交換し、同年3月に相撲協会を停年退職。退職後は相撲博物館館長に就任するが、1996年(平成8年)に二子山の譲渡金およそ3億円の申告漏れを指摘されたことで辞任し、相撲界から去った。晩年は、横綱経験者で長寿第2位になるなど元気に過ごしていたが、2010年(平成22年)9月1日、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で腎細胞癌のため死去。享年83。


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テレビ時代の到来と共に「栃若時代」で一世を風靡し、親方としては2大関2横綱を育てて相撲界を盛り上げた初代・若乃花。「土俵の鬼」と呼ばれた彼の墓は、東京都台東区の東本願寺にある。墓には「花田家之墓」とあり、右側面に墓誌が彫られている。戒名は「巍勝院釋治道」。晩年は歴代横綱の最長老として意見を求められることがしばしばあったが、その度に現代の相撲界や力士を否定し「ワシの頃は…」と自慢をするので、どうにも苦手な存在だった。過度なしつけ、飲酒の強要と、今であれば間違いなく問題視される伝説を数多く持つ若乃花。先述した発言も含めて考えると、典型的な昔気質の力士であったと思う。

# by oku-taka | 2017-01-31 23:32 | スポーツ | Comments(0)