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菊田一夫(1908~1973)

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菊田 一夫(きくた かずお)

劇作家
1908年(明治41年)~1973年(昭和48年)


1908年(明治41年)、神奈川県横浜市に生まれる。本名は、菊田 数男。生まれてすぐ西郷姓の一家に養子に出され、生後4ヵ月で台湾に渡る。しかし、まもなく捨てられ、転々と他人の手で養育された末、5歳のとき菊田家の養子になる。台湾城北小学校に入学したが、学業半ばで大阪・平野町の薬種問屋「岸田市兵衛商店」に売られ、年季奉公となる。その後、岸田市兵衛商店を飛び出し、神戸・元町の古物・美術商の小僧となる。丁稚として働く傍ら夜間の実業学校に通い、その一方で詩の同人雑誌に寄稿するなど文学を志すようになる。1925年(大正14年)に上京。印刷工として働くかたわら、萩原朔太郎やサトウ・ハチロー、林芙美子、小野十三郎らと出会う。1927年(昭和2年)、正式にサトウハチローの門下生となり、サトウの世話で浅草国際劇場の文芸部に入る。1930年(昭和5年)、処女作『阿呆疑士迷々伝』が浅草玉木座で上演され、劇作家デビューを果たす。その後、金竜館、オペラ座、常盤座など浅草を本拠として榎本健一、古川緑波、徳川夢声らに喜劇を多数執筆。1933年(昭和8年)には、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」の座付き作家となる。1936年(昭和11年)、前年に東宝へ移籍した古川緑波に招かれ、菊田も東宝に移籍。1943年(昭和17年)、大阪を舞台にした現代劇『道修町』がヒット。翌年には『花咲く港』が話題になるなど、戦時下体制化でも手がけた作品が相次いでヒットし、東宝文芸部の主力となった。戦後は、作曲家の古関裕而とコンビを組み、数々のラジオドラマや映画を手がけ、多くのヒット作品を世に送り出した。特に、1947年(昭和22年)7月から3年半にわたって放送されたNHKのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』は、川田正子が歌った主題歌『とんがり帽子』とともに大流行し、翌年には松竹によって映画化された。この歌のヒットにより、菊田は歌謡曲の作詞も行うようになり、二葉あき子の『フランチェスカの鐘』(1948年・昭和23年)、伊藤久男の『イヨマンテの夜』(1949年・昭和24年)といった曲をヒットさせている。1957年(昭和27年)、ラジオドラマ『君の名は』の放送が開始。放送の開始時間になると「銭湯の女湯が空になる」と言われるほどの大ブームを巻き起こし、松竹で映画化がされるほどの大ヒットを記録し、日本放送史の金字塔ともいえる作品となった。1955年(昭和30年)、東宝の取締役に就任。1957年(昭和32年)には芸術座を開館し、東宝演劇部の総帥としての仕事のかたわら、映画や帝劇・宝塚歌劇などの舞台の原作・脚本・演出など精力的な活躍を続け、数々の名作を世に送り出した。舞台においては、1959年(昭和34年)に『がめつい奴』、1961年(昭和36年)に『放浪記』を発表した。それらの功績から、1960年(昭和35年)に菊池寛賞、1961年(昭和36年)に芸術選奨を受賞した。また、ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の上演権を獲得。1963年(昭和38年)に同作を翻訳上演し、日本で初めてブロードウェイ・ミュージカルを舞台に上げた。 1966年(昭和41年)、『風と共に去りぬ』を世界で初めて劇化し、新装開場した帝国劇場で上演。1970年(昭和45年)には、同作をミュージカル化した『スカーレット』を、日本のみならずロンドンやパリで公演した。晩年は糖尿病と闘いながらの活動となり、1973年(昭和48年)4月4日、糖尿病に脳卒中を併発し、死去した。享年66。


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日本の演劇史に燦然と名を残す伝説の劇作家、その名を菊田一夫。「鐘の鳴る丘」「君の名は」「放浪記」と、今なお知名度の高い名作を次々と世に送り出し、日本にミュージカルを根付かせるなど、現在の商業演劇の方向を決定づけたカリスマである。その一方で厳しい演技指導で始終癇癪を起こしては役者を震え上がらせ、私生活では様々な女性と浮名を流すなど、話題に事欠かない人でもあった。それは、辛酸をなめた想像を絶する育歴と、自分の人生を変えてくれた演劇への愛があるが故の行動だったのかもしれない。庶民に寄り添い、幅広い層から支持された劇作家の墓は、東京都八王子市の上川霊園と、東京都世田谷区の九品仏浄真寺の2ヵ所にある。前者の墓には「妙法 菊田家累代之霊」とあり、右側に墓誌が建つ。左側には、「君の名は」の冒頭にあるセリフ“忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ”の一文が刻まれた碑がある。一方、九品仏浄真寺の墓には「菊田一夫」とあり、反対側に没年月日が刻まれている。こちらは、前妻で女優の高杉妙子との間に生まれた長女・伊寧子(現在は作曲家として活動)と次女によって建立されたもののようである。戒名は「久遠院法晶日夫居士」。


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# by oku-taka | 2017-05-04 23:52 | 文学者 | Comments(0)

加瀬邦彦(1941~2015)

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加瀬 邦彦(かせ くにひこ)

ミュージシャン
1941年(昭和16年)~2015年(平成27年)


1941年(昭和16年)、東京都渋谷区に生まれる。慶應義塾高等学校1年生のとき、東京都から茅ヶ崎市に移住。これが縁でアメフト部の先輩の紹介で俳優・上原謙のクリスマス・パーティーに誘われ、当時慶應義塾大学2年生だった加山雄三と出会う。加山との出会いで音楽の世界を志すようになり、加山にギターを習うようになる。1961年(昭和36年)、バンド「ザ・トップビーツ」を結成。その後ホリプロに所属し、清野太郎、かまやつひろしらと「キャノンボール」を結成する。1963年(昭和38年)には事務所の命令により、かまやつひろしと共にザ・スパイダースに加入するも、寺内タケシの誘いを受けて約3カ月で脱退し、寺内タケシとブルージーンズに加入。1966年(昭和41年)、ビートルズの来日公演でブルージーンズが前座を務めることとなり、 ビートルズサウンドへの志向が強くなっていた加瀬は大いに喜ぶ。しかし、厳戒態勢下でのコンサートのため、前座のバンドは演奏後、楽屋に外からカギをかけられ、ビートルズの演奏終了後に開錠されるという措置が取られた為、加瀬は「それではビートルズの演奏が見られない」とブルージーンズを脱退してしまう。 所属していたホリプロは加瀬を引きとめ、給料を支払い続けていたが、「ただで給料をもらうのも申し訳ない」と、渡辺プロに移籍。その後、雑誌『平凡パンチ』でメンバーを募集し、同年7月「ザ・ワイルドワンズ」を結成。11月に『想い出の渚』でレコードデビューを果たす。その後、グループ・サウンズブームに乗り、『青空のある限り』『愛するアニタ』とヒットを連発。1968年(昭和43年)には、当時16歳だった渡辺茂樹が加入し、『バラの恋人』がヒットした。しかし、1971年(昭和46年)に神田共立講堂で行われた公演でワイルドワンズを解散。その後は作曲家に転身し、布施明の『甘い十字架』(1973年・昭和48年)、小柳ルミ子の『冬の駅』(1974年・昭和49年)といったヒット曲を生み出す。また、盟友である沢田研二のプロデューサーとなり、『危険なふたり』(1972年・昭和47年)や『TOKIO』(1980年・昭和55年)といった楽曲の提供のみならず、作詞家としてコピーライターの糸井重里を起用し、パルコCFへの出演を推進するなど、彼の黄金期を支えた。1981年(昭和56年)、日本劇場取り壊しに伴う「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」にザ・ワイルドワンズ(加瀬、鳥塚茂樹、島英二、植田芳暁、渡辺茂樹)のメンバー5名が集結して出演したことを契機として、ザ・ワイルドワンズの再結成話が持ち上がり、仕事の都合で参加を辞退した渡辺を除くメンバー4名でザ・ワイルドワンズを再結成。その一方、「ケネディハウス銀座」のオーナーや、加山雄三&ハイパーランチャーズのプロデューサーとしても活躍した。1994年(平成6年)、食道がんを発症。食道と胃の3分の2を摘出し、細くした胃とのどをつなげる手術を受けた。一度は寛解状態となり、晩年も精力的に音楽活動をしていたが、2014年(平成26年)に下咽頭癌を発症。加山雄三から命を優先するように勧められたことから声帯を切除し、手術後は食道発声法を練習していたが、同年7月に音楽活動の休止を発表。2015年(平成27年)4月20日午後9時、自宅の洗面所の前で喉につけていた呼吸器のチューブがふさがれた状態で倒れているところを家族が発見。洗面所で患部に水を入れ、自ら命を絶ったとみられている。享年74。


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得意の12弦ギターの音色でグループサウンズブームを盛り上げ、パンチのあるロックテイストを含ませた哀愁調のメロディーで多くのヒット曲を生み、何より沢田研二の名プロデューサーとして彼の黄金期を支えた加瀬邦彦。それだけに、自殺というあまりに悲しい最期を選んでしまったことが残念でならない。音楽に魅せられ、音楽ひとすじに生きてきた彼だけに、声帯を失ってからの人生は非常に苦しいものだったのかもしれない。日本の音楽シーンに多大な貢献を残した加瀬邦彦の墓は、東京都文京区の護国寺にある。墓には「加瀬同族之墓」とある。墓誌はない。戒名は「常樂院悠照清邦居士」。


# by oku-taka | 2017-05-04 22:05 | 音楽家 | Comments(0)

中村八大(1931~1992)

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中村 八大(なかむら はちだい)

作曲家
1931年(昭和6年)~1992年(平成4年)


1931年(昭和6年)、中国・青島で生まれる。父親は青島の日本人学校で校長を務めており、自宅にはピアノや蓄音機、レコードなどがあるという恵まれた音楽環境であった。音楽的素養を認めた父の勧めで、1940年(昭和15年)の春に日本へ単身留学し、新宿の国民学校へ転校。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の附属児童学園に週2回通い、ピアノと作曲の英才教育を受ける。しかし、技術習得を重視するハードトレーニングの教育方針に疑問を抱き、学園でのレッスンをさぼって新宿や浅草などの劇場に足しげく通っていた。その後、太平洋戦争が始まると、空襲などから音楽留学を続けるのは不可能になり、1943年(昭和18年)の夏に青島へ引き揚げた。1945年(昭和20年)には父母の郷里である久留米市へ一家で引き揚げ、そこで終戦を迎える。戦後は、旧制中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)で音楽部を結成し、熱心に活動に打ち込む。進駐軍とともに米国音楽が流れこんできた時代で、中村は自作の鉱石ラジオで進駐軍向けのラジオ放送を聴いたり、自宅近くの米軍のクラブで披露される演奏を漏れ聞くなど、米国音楽をむさぼるように聞いて過ごす。1948年(昭和23年)、当時売れっ子の作曲家であった利根一郎が北九州の炭鉱の慰問巡業を行うことになり、一座に加わっていた兄(後のクラリネット奏者・中村二大で、当時早大に在籍しながらジャズを行っていた)からの誘いで八大もこれに加わる。1949年(昭和24年)には上京し、早稲田大学高等学院の3年に編入。生活費や学費の工面のためにキャバレーでジャズ・ピアノ演奏のアルバイトを始める。夏休みにはクラリネット奏者として独立していた二大の伝手で、大阪の名門ダンスホール『赤玉』に1ヶ月、『谷口安彦とプレミア・スウィング』のメンバーとして赴く。1950年(昭和25年)、早稲田大学へ入学。二大の紹介から渡辺晋の勧誘を受け、松本英彦、南廣、安藤八郎らとバンド『シックス・ジョーズ』を結成。1年後にはバンドの名は全国に知れ渡り、音楽雑誌『スイングジャーナル』の人気投票でバンドは部門2位、中村はピアニストとして1位を勝ち取った。しかし、ジャズの芸術性を追求しようとする中村と、あくまでジャズをエンターテインメントとして割り切り、ジャズメンの生活の安定を目指すマネジメント肌の渡辺との間で衝突が発生。中村は松本とともにシックス・ジョーズを脱退し、1953年(昭和28年)に中村、松本、ジョージ川口、小野満の4人で『ビッグ・フォー』を結成。前述の人気投票の各部門の1位のメンバーの顔合わせは若者から熱狂的に歓迎され、日本で初めて野球場での単独コンサートを開催。1954年(昭和29年)には、文化放送でレギュラー番組『トリス・ジャズ・ゲーム』を持つに至った。しかし、1950年代後半に入ると、ジャズが芸術性・前衛性を強めるとともに大衆性を失い、ジャズ自体の人気が下降線をたどり始める。中村はジャズ復興を賭け、ジャズとクラシックの融合というテーマを掲げて自主リサイタルの開催を決意するも、意欲が空回りしてイメージと現実の間にギャップが生じ、準備や譜面の完成などが遅れ始める。精神的に追い詰められた中村は薬物に手を出すまでになり、結果1958年(昭和33年)に産経ホールで開かれた『中村八大リサイタル』は、公演後の評価はそこそこであったが、芸術肌の中村にとって無残な失敗に終わった。その後、薬物依存から脱し、かつて袂を分かった渡辺に頭を下げ、映画の音楽担当の仕事を受ける。中村は大喜びで引き受けたが、東宝側の山本紫朗からオーディションとして翌日までに10曲楽曲を持ってくるよう求められてしまう。それまでジャズ一筋でやってきた中村は作詞家との伝手はなく、思案に暮れているとたまたま永六輔とばったり出会い、そのまま中村の自宅で10曲分の歌詞とメロディーを制作し、そこから二人で原稿を突き合わせ、直しと並行して中村が編曲、写譜屋を3人呼んでオーケストラ用の譜面に書き起こすという突貫作業を日中かかって行い、完成した10曲を持って中村が東宝撮影所へ直行。山本に作品が認められ、中村は音楽監督に採用された。以降、二人は「六・八コンビ」として数多くのヒット曲を世に送り出してゆく。1959年(昭和34年)、東宝映画『青春を賭けろ』の主題歌で、水原弘が歌った『黒い花びら』が大ヒット。同曲は、この年から始まった第1回日本レコード大賞にノミネートされ、審査を勝ち抜き、大賞に輝いた。1961年(昭和36年)、4月からスタートしたNHKのバラエティー番組『夢であいましょう』の音楽担当に就任。この番組で自らもテレビ出演するとともに、ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」(1962年・昭和37年)、デューク・エイセスの「おさななじみ」(1963年・昭和38年)といった曲を発表し、ヒットさせている。中でも、坂本九が歌った『上を向いて歩こう』(1961年・昭和36年)は、1963年(昭和38年)に米国チャートで1位に輝く大ヒットを記録し、日本の音楽が世界に通用することを証明した。しかし、この年の秋に過労がたたって十二指腸潰瘍で入院。その間に発売された梓みちよの『こんにちは赤ちゃん』で、2度目のレコード大賞を受賞した。翌年夏から1年間をニューヨークで過ごし、休養を兼ねて世界の音楽を学ぶ。1966年(昭和41年)第1回リオ・デ・ジャネイロ国際ポピュラー音楽祭に江利チエミの歌による「私だけのあなた」を出品し、最優秀オーケストラ編曲賞を受賞。この頃から、子供の頃からの夢であった交響曲に取り組み始め、1970年(昭和45年)には初のクラシック作品「交響曲ヘ長調」を発表した。同年、NHKの音楽番組「ステージ101」の音楽監督に就任。同番組に出演したグループ、シング・アウトが歌った「涙をこえて」が、前年に開催されたヤマハ主催の第1回合歓ポピュラー・フェスティバルでグランプリに輝いた。同フェスティバルでは、第2回大会で雪村いづみが歌った「涙」がグランプリとなり、第3回大会には自身の作詞・作曲による「太陽と土と水と」で特別賞を受賞している。また、社会的作品として環境問題をテーマにした『水の歌』にも取り組み、構成に谷川俊太郎を迎え入れたリサイタルを開くなどの活動を展開した。1971年(昭和46年)、糖尿病を発症。晩年は糖尿病と闘いながら音楽活動を続けていたが、その後うつ病も発症し、次第に音楽活動の一線からは退いていた。1992年(平成4年)6月10日、心不全のため死去。享年61。没後、勲四等旭日小綬章を追贈された。


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「上を向いて歩こう」「明日があるさ」「涙をこえて」など、今なお多くの人に愛唱されている名曲を数多く生み出した作曲家・中村八大。時に切なく、時に明るく、そして誰もが口ずさめるメロディーをお茶の間に届けたホームソングの大家である。それだけに、61歳というあまりに早い旅立ちは残念である。中村八大と共にポップス黄金期を支えた作曲家の宮川泰は、偉大なる先輩と前置きした上で「みんなで楽しく口ずさんで歌えるような歌、明るい歌っていうのがいいんでしょうね」と、彼の作品を評した。そんな宮川泰も、今は亡き人である。中村八大の墓は、東京都大田区の池上本門寺にある。墓には「中村家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「浄奏院法永学雄日大居士」。

# by oku-taka | 2017-05-03 02:54 | 音楽家 | Comments(0)

忌野清志郎(1951~2009)

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忌野 清志郎(いまわの きよしろう)

ミュージシャン
1951年(昭和26年)~2009年(平成21年)


1951年(昭和26年)、東京都中野区に生まれる。本名は、栗原 清志。3歳のときに母親が亡くなり、伯母夫婦に養子として引き取られ、国分寺市で育つ。国分寺市立第三中学校在学時代、エレキブームに刺激を受け、ベンチャーズなどのカバーバンド「No Name」を結成し、音楽活動を始める。その後、フォークブームに刺激を受け、同級生でバンド仲間だった小林和生(後の林小和生)、桶田賢一(後の破廉ケンチ)と共に「The Clover」を結成する。国分寺市立第三中学校卒業後、東京都立日野高等学校に進学。高校時代は物静かな少年であったが学校に馴染めず、あと何日休んだら単位が落ちるかを計算して、サボれるだけサボッていた。その一方で、ジョン・リー・フッカー好きの友人の影響で、ブルースに傾倒するようになる。その後、バンドの解散と再編を繰り返した後、1968年(昭和43年)に「R.C.サクセション」を結成。1970年(昭和45年)、フォークグループ「RCサクセション」としてシングル『宝くじは買わない』でデビュー。このとき、幼少期に観たテレビアニメ「マイティ・ハーキュリー」の悪役「鉄仮面」登場シーンにおいて「あの忌まわしい鉄仮面」というナレーションを「カッコイイ言葉だな」と感じたことから、芸名を「忌野清志郎」とする。1972年(昭和47年)、シングル「僕の好きな先生」がスマッシュヒット。しかし、その後ヒットに恵まれず、また事務所関係のトラブルが発生したこともあり、長期にわたってバンド活動は低迷する。その間、清志郎は井上陽水との共作『帰れない二人』『待ちぼうけ』、かぐや姫への作詞提供『あの唄が想い出せない』などの印税で糊口を凌いだ。1976年(昭和51年)、事務所を「ホリプロ」から「りぼん」に移籍し、スタジオミュージシャンを大々的に起用したアルバム『シングル・マン』を発表。以降、徐々にロックバンド化し、メンバーの脱退と加入を繰り返しながら、精力的なライブ活動を展開。1978年(昭和53年)半ば頃から、徐々にライブハウスでの人気が出始める。この時期から、デヴィッド・ボウイ、グラムロック一派、ミック・ジャガー等の影響でメイクを始め、またパンク・ファッションの影響でパンクヘアにカットしたことから、独特の奇抜な風貌になる。1980年(昭和55年)、シングル『雨あがりの夜空に』『トランジスタ・ラジオ』、アルバム『RHAPSODY』がヒット。RCサクセションはメディアの寵児として取り上げられることになる。1982年(昭和57年)、清志郎はソロで坂本龍一と組み、シングル「い・け・な・いルージュマジック」を発表。これ以降、RCサクセションとしての活動のかたわら、数多くのユニットでも活動するようになる。1984年(昭和59年)、この時期の事務所の対応に不満を募らせ、事務所「りぼん」から独立。翌年、RCサクセションの事務所「うむ」を設立するが、このころからRCサクセション内でも各メンバーのソロ活動が活発化し、バンドの活動は停滞してしまう。1987年(昭和62年)、初のソロアルバム『RAZOR SHARP』を発表。1988年(昭和63年)、RCサクセションのアルバム『COVERS』が、収録曲の「ラヴ・ミー・テンダー」と「サマータイム・ブルース」で核問題と原子力発電の問題が歌われていたことから、所属していたレコード会社の東芝から圧力がかかり、発売中止となる。発売中止騒動を受け、清志郎とよく似たZERRYという人物がザ・タイマーズを結成し、アン・ルイスのライブに飛び入り参加するなど、様々なミュージシャンのライブ・イベントライブに乱入を繰り返す。特に、1989年(平成元年)に清志郎がTEARDROPSに作詞提供&コーラス参加した「谷間のうた」がFM仙台とFM東京で放送禁止になった事件を受け、アルバム『THE TIMERS』のプロモーションでフジテレビ系の音楽番組「ヒットスタジオR&N」に出演した際、FM東京とFM仙台を放送禁止用語を交えて罵倒する歌に差し替えるという荒業を見せて話題になった。同じ頃、RCサクセション内でメンバーの脱退・加入が激しくなり、1991年(平成3年)にRCサクセションは無期限活動休止を表明。RCサクセションの事務所「うむ」も解散し、清志郎は個人事務所「ベイビィズ」を設立した。RCサクセションの活動休止以降は、前にも増してさまざまなバンド・ユニットを渡り歩く一方、俳優としての活動も始める。1994年(平成6年)にプライベートスタジオ「ロックンロール研究所」を設立。同年、映画『119』に音楽監督として参加し、1995年(平成7年)の第18回日本アカデミー賞で最優秀音楽賞を受賞した。2000年(平成12年)にはサイクリングにはまり、ラフィータフィーのメンバーを勧誘してチームLSD(Long Slow Distance)を結成。以降、ツアー間の移動に自転車を使ったり、奥の細道自転車ツアーやホノルル・センチュリーライドなど数多くの長距離サイクリングにも挑戦した。2006年(平成18年)、公式ウェブサイト「地味変」にて喉頭癌で入院することを発表し、すべての音楽活動を休止する。 現代医学による治療計画では、胃に穴を開けての流動食生活となることを余儀なくされ、これに伴い唾液腺が消滅し、唾液が出ないためステージで歌うのは困難になると宣告されたことから、放射線や抗癌剤での完治を図り、入院後2週間で代替医療へと治療法を変更。2007年(平成19年)1月、石田長生のライブにシークレットゲストとして出演して以降、徐々に活動を再開。2008年(平成20年)2月10日には、日本武道館にて『忌野清志郎 完全復活祭』を開催し、本格的に活動を再開した。しかし、7月14日、公式ウェブサイト「地味変」にて左腸骨への癌の転移を発表し、再びライブ活動を休止。 通院して治療に専念する一方で、楽曲提供や他ミュージシャンのレコーディング参加、ライブへの飛び入り参加などを続けていた。11月、当時アースマラソンに挑戦していた間寛平への応援歌を描き下ろし、自身の作品としては2年ぶりにレコーディングを行い、Booker T. & THE MG'sのライブに飛び入りするなど徐々に音楽活動を再開。2009年(平成21年)2月には、FM802のキャンペーンソング「Oh! RADIO」を書き上げたが、次第に体調が悪化。 その後、東京都内の病院に入院。5月1日午後に容態が急変し、5月2日午前0時51分に癌性リンパ管症にて死去した。 享年58。


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ソウル・ブルースを下地にしたロックサウンドと、そのステージ上における圧倒的な存在感から「ザ・キング・オブ・ロック」の異名を取った忌野清志郎。今日5月2日は彼の命日にあたる。早いもので没後8年を迎えたわけだが、Twitterのトレンドに彼の名がランクインされるなど、今なお人気は衰えていない。筆者が彼の墓を訪れたときも、色とりどりの花々が供えられていた。忌野清志郎の墓は、東京都八王子市の高尾霊園にある。墓には、おそらく直筆であると思われるサイン「忌野清志郎」が彫られており、右側面に墓誌が刻まれている。戒名は「忌野清志郎」。かつて過激な音楽で放送禁止や発売中止を度々起こしてメディアを賑わせた男は、いま高尾の自然に抱かれながら静かな眠りについている。しかし、レンガと西洋風フェンスの外柵と、独特な形をした御影石で造られた墓は、異彩な存在感を放っており、見る者の目を釘付けにする。さすが忌野清志郎である。


# by oku-taka | 2017-05-02 23:00 | 音楽家 | Comments(0)

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八代目・橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう)

落語家
1934年(昭和9年)~2015年(平成27年)


1934年(昭和9年)、東京府東京市(現在の東京都江戸川区)平井に生まれる。本名は、大山 武雄。小松川小学校(現在の平井小学校)卒業後、家業の紙芝居屋を手伝っていたが、やがて落語に興味を抱くようになり、1957年(昭和33年)、四代目月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)に入門。橘家竹蔵として前座デビューを果たす。また、師匠の名を受け、八代目桂文楽の薫陶も受ける。1955年(昭和30年)、二つ目に昇進し、橘家舛蔵と改名。 1965年(昭和40年)、真打に昇進し、五代目月の家圓鏡を襲名。この頃から、高座、ラジオ、テレビ、CMと大活躍し、旦那衆相手にヨイショで稼ぎまくっていたことから「ヨイショの圓鏡」の異名で呼ばれた。また、持ち前の頭の回転の速さからなぞかけを得意とし、大喜利やクイズでも逸早く回答して「早いが取り柄の出前と圓鏡」「早いと言えば、圓鏡か新幹線か」と自称した。落語界においては、従来の寄席演芸のタブーを破って黒縁眼鏡を掛けたまま高座に上がり、兄弟子の初代・林家三平が「ヨシコさん」で売ったのに対抗し、愛妻の節子夫人をネタにした「ウチのセツコが」というフレーズが大いにウケるなど、七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、三代目古今亭志ん朝と共に「落語四天王」と呼ばれた。1978年(昭和53年)には、文化庁芸術祭優秀賞を受賞。しかし、同年に起きた落語協会分裂騒動で、師匠である七代目圓蔵の無節操な言動に翻弄され、騒動の原因を作った六代目三遊亭圓生の一門、三代目古今亭志ん朝一門、圓蔵一門と共に、落語協会を脱退。その後、落語協会復帰は許されたものの、実質的な圓蔵一門の看板として後始末などで大変な苦労をする羽目になった。1980年(昭和55年)、七代目圓蔵が死去。そのわずか2年後の1982年(昭和57年)、圓蔵の名跡に付いてしまった悪印象の払拭を期待され、異例の性急さで八代目圓蔵を襲名した。八代目襲名後は、次第に寄席に比重を移し、タレント的な面白落語家から本格的な面白落語家を目指すようになる。落語家としての基礎と骨格を一段と鍛え整えるため、マスコミ仕事を控えて独演会等をスタートさせるなど、古典に磨きをかけた。晩年は高齢のため全盛期のような口演が困難となり、2012年(平成24年)頃からは高座への出演を控えていた。2015年(平成23年)10月7日、心室細動により死去。享年81。


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長いことその名前に親しんでしまうと、たとえ大名跡を継いでもつい前の名前で呼んでしまうことがある。個人的に八代目橘家圓蔵もその一人で、つい前の名前である円鏡と呼んでしまう。裏を返せば、それだけ落語家・タレントとして円鏡の存在は大きかったということである。「お笑い頭の体操」にはじまり、ラジオ「談志・円鏡 歌謡合戦」、「3日に一度は焼肉料理」で有名になったエバラ焼肉のたれのCM、メガネクリンビューのCMなど、落語家タレントの代表格として目覚ましい活躍を遂げた。そんな橘家圓蔵の墓は、東京都江東区の長寿寺にある。墓には「八代目 橘家圓蔵」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「鏡光院武儔圓蔵居士」。訪問前まで、彼の墓は「大山家之墓」だと勝手に思っていたが、刻まれていたのは「八代目 橘家圓蔵」であり、橘家圓蔵としての彼のこだわりと八代目としてのプライドを感じさせられた。

# by oku-taka | 2017-05-02 21:46 | 演芸人 | Comments(0)