2016年 11月 05日
植木等(1926-2007)
植木 等(うえき ひとし)
コメディアン
1926年(大正15年)~2007年(平成19年)
1926年(大正15年)、愛知県名古屋市生まれ。誕生時、父・植木徹誠は真宗大谷派名古屋別院にて僧侶の修行中であったが、ちょうど体調を崩しており、叔父の保之助が役所への届けを任された。しかし、叔父が届けを忘れ、翌年ようやく出生届が出されたため、戸籍上は1927年(昭和2年)生まれとなっている。1939年(昭和14年)、僧侶としての修行をするべく上京し、東京・駒込にある真浄寺の小僧となる。1944年(昭和19年)、旧制京北中学校を卒業し、東洋大学専門部国漢科に入学。在学中に音楽に目覚め、バンドボーイのアルバイトを始める。1947年(昭和22年)、東洋大学専門部国漢科を卒業し、東洋大学文学部に入学。同年、刀根勝美とブルームードセクションのバンドボーイとなる。友人からギターを譲り受け、教則本を頼りに練習を開始した。この時期に、3歳年下の若いドラマー・野々山定夫(後のハナ肇)と知り合う。1950年(昭和25年)、東洋大学文学部国漢科を卒業し、「萩原哲晶とデューク・オクテット」にギタリストとして加入。1952年(昭和27年)には、 自身のトリオ「植木等とニュー・サウンズ」を結成した。1954年(昭和29年)、当時人気ドラマーであったフランキー堺に誘われ、「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」に参加。「でたらめスキャット」など、コメディー・リリーフとしての才能を開花させる。また、このバンドで谷啓と出会う。1957年(昭和32年)、キューバン・キャッツに移籍。その主要メンバーの一人として活躍し、ジャズ喫茶などで人気を博す。その後、バンド名が「ハナ肇とクレージーキャッツ」と変わり、1959年(昭和34年)には フジテレビのテレビ番組『おとなの漫画』に出演。1961年(昭和36年)、 日本テレビの『シャボン玉ホリデー』に出演し、「……お呼びでない ? こりゃまた失礼いたしました !」といったギャグで爆発的な人気を得る。1961年(昭和36年)、クレージーキャッツのボーカルとして吹き込んだ『スーダラ節』が大ヒット。その後も、『ドント節』、『ハイそれまでヨ』といったコミックソングをヒットさせた。1962年(昭和37年) 、古沢憲吾監督の東宝映画『ニッポン無責任時代』に主演。こちらも大ヒットとなり、以降「無責任男」をキャッチフレーズに数多くの映画に出演し、東宝映画の黄金期を支えた。1967年(昭和42年)には初めての冠番組となる『植木等ショー』が放送を開始した。1970年代に入ると性格俳優へ転身し、味わいのある人間像を多く演じた。中でも、1986年(昭和61年)の木下惠介監督作品 『新・喜びも悲しみも幾歳月』で飄々とした老父を演じ、キネマ旬報助演男優賞、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、毎日コンクール助演男優賞を受賞した。1989年(平成元年)、テレビドラマ『名古屋嫁入り物語』に主演。計10作まで作られるほどの人気シリーズとなった。1990年(平成2年)、自身の企画でヒット曲をメドレーにして歌った『スーダラ伝説』を発売。これが話題を呼び、この年のNHK紅白歌合戦に出場。歌手別最高視聴率56.6%を叩き出す。さらに、オリコントップ10入りという大記録を打ち立てるなど、空前の植木等ブームが巻き起こった。1993年(平成5年)、紫綬褒章を受章。1997年(平成9年)、肺気腫を患うも、病であることは伏せて仕事に打ち込んだ。1999年(平成11年)、勲四等旭日小綬章を受章。2003年(平成15年)頃から容態が悪化し出し、体力低下のため舞台公演が出来なくなる。2007年(平成19年)3月27日午前10時41分、肺気腫による呼吸不全のため都内の病院で死去。享年80。
「日本一の無責任男」と呼ばれ、高度経済成長期を代表するスターであった植木等。日本の喜劇界に名を残した偉大なコメディアンの墓は、東京都東村山市の小平霊園にある。墓は五輪塔で「植木家先祖各霊位」とあり、その横に戒名の「宝楽院釋等照」が彫られている。墓誌はない。クレージーキャッツ全盛期に演じたキャラクターとは対照的に、その素顔は非常に真面目であったことが没後あちこちで明らかにされているが、その真面目さが窺い知れるほどシンプルな墓であった。目立つものもなければ大きくもない。余分なものをいっさい排除した静かな墓である。それはまるで、コメディアン・植木等としてではなく一市民の植木等として眠っているという意思の表れのように感じられた。
2016年 11月 04日
有吉佐和子(1931-1984)
作家
1931年(昭和6年)~1984年(昭和59年)
1931年(昭和6年)、和歌山県和歌山市生まれ。幼い頃から病弱で学校を休みがちであったことから、少女期は家で蔵書を乱読する生活を送る。その後、横浜正金銀行に勤務していた父の赴任に伴い、小学校時代を旧オランダ領東インドのバタヴィアおよびスラバヤで過ごし、1941年(昭和16年)に帰国。東京市立第四高女(現在の都立竹台高校)から疎開先の和歌山高女(現在の和歌山県立桐蔭高校)、光塩女学校(現在の光塩女子学院)等を経て、府立第五高女(現在の都立富士高校)を卒業。東京女子大学英文学科に入学後、演劇評論家を志望し、雑誌『演劇界』の嘱託となる。また、同人誌『白痴群』、第15次『新思潮』にも参加し、文筆活動をスタートさせる。1952年(昭和27年)、休学の後に東京女子短期大学部英語学科を卒業。大蔵省外郭団体の職員を経て舞踊家・吾妻徳穂の秘書となる。1954年(昭和29年)、『落陽の賦』で作家デビュー。1956年(昭和31年)、『地唄』が文學界新人賞候補、次いで芥川賞候補となり一躍注目を集める。1959年(昭和34年)、自らの家系をモデルとした長編『紀ノ川』を発表。ベストセラーとなり、小説家としての地位を確立した。その後も『香華』、『華岡青洲の妻』、『不信のとき』といった作品を発表し、同時期に活躍した曾野綾子と並び「才女」と称された。1970年代には『恍惚の人』や『複合汚染』といった社会派作品にも挑戦し、いずれも大きな反響を呼んだ。そうしたことから、第10期中央教育審議会委員に任命されたほか、参院選全国区に出馬した市川房枝の応援など社会的な活動も精力的に行った。1984年(昭和59年)8月30日、急性心不全のため東京都都杉並区内の自宅で死去。享年53。
激しく情熱的に生きた作家・有吉佐和子。彼女の墓は東京都東村山市の小平霊園にある。墓石には「有吉家之墓」とあり、側面に墓碑銘が彫られている。日本の歴史から古典芸能、果ては現代の社会問題まで幅広いテーマを書き、多数のベストセラー小説を生み出した女性作家は非常に稀有な存在ではないだろうか。53年という生涯は一見短いようにも感じるが、その生涯と数々の大作から考えてみると、おそらく普通の人より密度の濃い人生であったと思う。全速力で人生を駆け抜けた作家、それが有吉佐和子だ。
2016年 11月 04日
高橋掬太郎(1901~1970)
高橋 掬太郎(たかはし きくたろう)
作詞家
1901年(明治34年)~1970年(昭和45年)
1901年(明治34年)、北海道根室町(現在の根室市)に生まれる。本名は高橋菊太郎。青年期に詩歌を作ることに目覚めた掬太郎は、1919年(大正8年)に根室商業学校を中退。茂又勝雄の私塾に通い、国文学を学ぶ。1920年(大正9年)、根室新聞社に入社。社会部の記者として働く傍ら、「高橋春波」のペンネームで文筆活動を始める。翌年、はじめての戯曲『春の湖』を地方の新派芝居喜多村春男一座に書く。1922年(大正11年)、函館日日新聞に入社し、後に社会部長兼学芸部長となる。その一方で、文芸同人誌に参加し、詩や小説、脚本などを手がけた。このほか邦楽にも興味を持ち、長唄、清元、常磐津などを試作する。1926年(大正15年)、函館花柳界の委嘱により『函館音頭』を作詩。これが世に用いられた最初の歌謡作品となる。1929年(昭和4年)、小樽新聞社募集の「小樽小唄」に応募し、一等に当選。佐々紅華の作曲によって、1931年(昭和6年)にコロムビアレコードから発売されている。1930年(昭和5年)、友人の片平庸人が発行する民謡雑誌「艸」に『酒は涙か溜息か』を発表。その後、この作品と『私此頃憂鬱よ』の2篇を日本コロムビア文芸部宛に投稿。その際、当時新進の作曲家として注目されはじめていた古賀政男を指名し、翌年に古賀の作曲でレコードとして発売。『酒は涙か溜息か』は藤山一郎が、『私此頃憂鬱よ』は淡谷のり子が歌い、共に大ヒットとなった。1933年(昭和8年)、函館日日新聞社を退社し上京。作詩家として各レコード会社から多くの作品を発表したが、1934年(昭和9年)にコロムビアレコードの専属作詞家となる。その後は、『船頭可愛いや』(昭和10年/音丸)、『雨に咲く花』(昭和10年/関種子)、『人妻椿』(昭和11年/松平晃)と立て続けにヒットを飛ばし、当時の歌謡界で代表するヒットメーカとなった。1941年(昭和16年)、後進の育成を目的とした「汸々詩舎」を設立し、歌謡同人誌「歌謡文芸」を主宰。会員には、後に人気作詞家として活躍した石本美由起、宮川哲夫、藤間哲郎、東條寿三郎、星野哲郎らがいた。1944年(昭和19年)、コロムビアレコードを退社し、キングレコードに移籍。『啼くな小鳩よ』(昭和22年/岡晴夫)、『かりそめの恋』(昭和24年/三條町子)、『ここに幸あり』(昭和31年/大津美子)、『古城』(昭和34年/三橋美智也)といったヒット曲を世に送り出した。また、1947年(昭和22年)に日本音楽著作家組合、1950年(昭和25年)に日本民謡協会、1960年(昭和35年)に日本詩人連盟の結成に参加した。その一方、流行歌の研究者としても活躍し、『流行歌三代物語』や『日本民謡の旅』といった著作も多数発表した。1968年(昭和43年)、紫綬褒章を受章。1970年(昭和45年)4月9日に死去。享年68。没後、勲四等旭日小綬章を授与された。
日本歌謡界の黎明期を支え、多くの人気作詞家を輩出した高橋掬太郎。彼の墓は東京都東村山市の小平霊園にある。墓石には「高橋家」とあり、右横に『酒は涙か溜息か』の一節が彫られた碑がある。昭和初期から多くのヒット曲を放ち、多くの後継者を育て、歌謡曲を隆盛させた巨人はいま、『酒は涙か溜息か』の歌碑と共にひっそりと眠りについている。
2016年 11月 02日
織井茂子(1926-1996)
歌手
1926年(大正15年)~1996年(平成8年)
1926年(大正15年)、東京都目黒区に生まれる。結婚後の本名は伊東茂子。幼少期よりリーガルレコードの童謡歌手として活動。その後、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に進学し、卒業後は歌謡曲歌手となるべく作曲家・大村能章の門下生となる。1947年(昭和22年)、都能子(みやこよしこ)の芸名でキングレコードからデビュー。しかし、ヒット曲には恵まれなかった。1949年(昭和24年)、先輩歌手の林伊佐緒のすすめで芸名を本名の織井茂子に戻し、コロムビアレコードに移籍。『安南夜船』で再デビューし、その並外れた声量とダイナミックな表現で次第に注目されるようになる。1952年(昭和27年)、松竹映画『カルメン純情す』の同名の主題歌がヒット。翌年、連続放送劇『君の名は』の同名主題歌が大ヒット。ラジオ放送では、声楽家・高柳二葉が起用されていたが、コロムビアからレコードが発売されるにあたり、織井に白羽の矢が立った。その後、松竹で岸惠子・佐田啓二主演により映画化され、織井の歌う『君の名は』も主題歌に採用。空前の大ヒットとなり、総計110万枚を売り上げた。続く、映画『君の名は』第2部の主題歌『黒百合の歌』、佐田啓二とのデュエットである第3部主題歌『君は遥かな』もヒットし、織井茂子はスターダムへと完全にのし上がった。昭和30年代は、当時まだ新進気鋭の作曲家であった船村徹の作品に新境地を見出し、『東京無情』『夜がわらっている』などのヒットを飛ばした。その後、結婚し、徐々に一線から退いていったものの、昭和40年代の懐メロブームに乗って復活。1972年(昭和47年)にはザ・ベンチャーズの作品を歌ったアルバムを発表し、話題をさらった。その一方、東京・六本木でクラブ「織井」を長年経営していたが、バブル崩壊のあおりを受け1993年(平成5年)に閉店となった。1996年(平成8年)1月23日、膵臓腫瘍のため死去。享年70。
力強いダイナミックな歌唱法で知られた織井茂子は、東京都東村山市の小平霊園に眠っている。墓石には「織井家」とあり、後ろに墓誌が彫られている。戒名は「顕徳院聖鑑茂唄清大姉」。右横には、彼女の代名詞ともいうべき『君の名は』の歌詞が彫られた碑が置かれている。織井茂子というと、個人的には『君の名は』より『黒百合の歌』のインパクトが大きい。大きな口を開けての絶唱に何とも毒々しい菊田一夫の歌詞が、幼少期の私に強い衝撃を与えた。それだけに、70歳での旅立ちはあまりに早すぎた感がある。
2016年 11月 01日
松島詩子(1905-1996)
歌手
1905(明治38年)~1996年(平成8年)
1905(明治38年)、山口県玖珂郡日積村(現在の柳井市)に生まれる。本名は松重(内海)シマ。1923年(大正12年)、柳井高等女学校(現在の山口県立柳井高等学校)卒業後、同県の小学校教員にとなる。1929年(昭和4年)、小学校音楽教員免許を取得。広島に出て、忠海高等女学校(現在の広島県立忠海高等学校)の代用教員となる。この頃、彼女が歌好きであることを知った先輩教員の勧めがきっかけで文部省中等教員検定試験の合格を目指すようになり、1931年(昭和6年)に見事合格。その報告として恩人のもとを訪れた際、作曲家・佐々木すぐると出会う。彼女の歌声を聴いた佐々木は流行歌手になることを強く勧め、1932年(昭和7年)に上京。柳井はるみの芸名で日本コロムビアより『ラッキーセブンの唄』でレコードデビュー。その後、千早淑子、東貴美子、松島詩子と様々な芸名を用いて、多数のレコード会社で吹き込みを行う。1934年(昭和9年)、キングレコードより松島詩子の名で吹き込んだ『潮来の雨』がヒット。翌年、『夕べ仄かに』が大ヒットし、キングレコードへ正式に移籍。芸名を作曲家・山田耕筰が命名した松島詩子に統一した。その後、彼女の代名詞的一曲『マロニエの木陰』や、『上海の踊り子』『広東の踊り子』『南京の踊り子』からなる踊り子シリーズをヒットさせ、人気歌手の地位を築く。1940年(昭和15年)、『道頓堀行進曲』のヒットで知られる歌手・内海一郎と結婚。この頃の内海は既に歌手を止めており、1972年に亡くなるまで松島のマネージャーとして活動をサポートした。戦後は、和製シャンソンというジャンルの確立に挑み、日本の流行歌には珍しいヴァースを取り入れた『私のアルベール』、カルメンを題材とした『スペインの恋唄』、息の長いロングヒットとなった『喫茶店の片隅で』などを発表。一方で、原信子や浅野千鶴子といった声楽家に師事してクラッシックを学び、オペレッタ公演を多数行うなど、意欲的に歌へと取り組んだ。1978年(昭和53年)、勲四等瑞宝章を受章。1984年(昭和59年)には、バラエティ番組『ライオンのいただきます』にレギュラー出演し、愛嬌あふれる言動で幅広い層に知名度が拡大した。1991年(平成3年)、柳井市名誉市民に選定。80歳を超えても現役の歌手として活動し、東京・小平の自宅で開いていた音楽教室「詩っ子会」の指導は亡くなる直前まで行っていた。1996年(平成8年)11月19日、心不全のため死去。享年91。
歌を愛し、音楽の道を究め続けた歌手・松島詩子。彼女の墓は東京都東村山市の小平霊園にある。墓石には「内海家」と彫られているだけで、墓誌など他には何もない非常にシンプルな造りとなっている。女学校の教師から歌手に転じ、あらゆるジャンルの音楽に挑戦し続けた松島詩子。晩年には歌謡界の最長老となってしまったが、ピアノの弾き語りやバラエティー番組への出演など、老いてなお益々意気盛んに活動した。今年で没後20年となるだけに、その存在は忘れ去られつつある。クラシックや声楽を身に着けた歌手が往年のヒット曲をテレビ番組で披露する機会が多くなった今、その元祖ともいうべき松島詩子の再評価を望みたい。