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山本嘉次郎(1902~1974)

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山本 嘉次郎(やまもと かじろう)

映画監督
1902年(明治35年)~1974年(昭和49年)


1902年(明治35年)、東京府東京市銀座采女町で生まれる。10代で帰山教正らの純映画劇運動の洗礼を受け、若い頃から映画に興味を持つ。1920年(大正9年)、慶應義塾大学を中退し、映画『真夏の夜の夢』に“平田延介”の芸名で出演し、俳優としてデビューする。しかし、それが原因で親から勘当され、その手切金で「無名映画協会」を設立した。1922年(大正11年)、日活に入社。助監督を務める傍ら、田坂具隆監督の『春と娘』の脚本を手がけ、経験を積む。その後、帝国キネマを経て、関西で結成された早川プロに参加し、1924年(大正13年)山本嘉次郎として『熱火の十字球』で監督デビュー。その後、マキノプロ、高松プロなどで監督や俳優を務め、1926年(大正15年)に日活金曜会の一員となる。後に日活大将軍撮影所の脚本部に移り、数々のシナリオを担当した。1932年(昭和7年)、再び日活に入り、『細君新戦術』で監督業を本格化。1934年(昭和9年)、PCLに移籍。『エノケンの青春酔虎伝』(1934年・昭和9年)『エノケンのちゃっきり金太』(1937年・昭和12年)といった榎本健一の喜劇映画を多く手がけ、明朗喜劇の監督として頭角を現す。こうした娯楽映画に軽妙な演出ぶりを見せる一方、『坊ちゃん』『良人の貞操』といった文芸ものも手掛け、いずれも大ヒットとなった。特に『綴方教室』(1938年・昭和13年)と『馬』(1941年・昭和16年)は、従来扱われていなかった世界を取り上げた佳作として高い評価を受けた。第二次世界大戦中は、『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年・昭和17年)、『加藤隼戦闘隊』(1944年・昭和19年)といった戦争映画を制作し、歴史的ヒットを記録した。戦後も東宝で喜劇作品など多くを監督。1948年(昭和23年)には、本木荘二郎らと映画芸術協会を設立し、『風の子』『春の戯れ』などの佳作を発表した。その後も、『ホープさん』(1951年・昭和26年)、東宝で初のカラー映画『花の中の娘たち』(1953年・昭和28年)といった話題作を制作し、健在ぶりをアピールした。晩年は監督作品に恵まれなかったが、脚本を多数執筆。また、「カツドウヤ」を自称する小粋な生き方は多くの文化人をひきつけ、多くの著書を発表した。非常に好奇心が強く、博学かつグルメであったため、姓名をもじって「ナンデモカジロウ」とあだ名された。そうしたことから、徳川夢声司会のラジオ番組『話の泉』に、サトウ・ハチロー、堀内敬三らと出演し、その博学ぶりを披露して人気を集めた。1960年代には東宝の俳優養成所の所長を務め、後進の指導にあたった。時には自ら指導を行なう真摯な態度は研修生たちに慕われ、尊敬の念をもって「ヤマカジ先生」と呼ばれた。著名な門下生に、映画監督の黒澤明、女優の高峰秀子、俳優の黒部進らがいる。1974年(昭和49年)6月、脳軟化症を起し、ついで肝硬変を発症。9月21日、動脈硬化のため死去。享年72。


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喜劇・文芸といったジャンルで東宝映画の黎明期を支えた映画監督・山本嘉次郎。彼の特筆すべき功績は、やはり世界的映画監督となった黒澤明と、日本映画史に燦然と輝く女優・高峰秀子を育てたことであろう。高峰と山本の間にはこんなエピソードがある。戦時下の昭和20年、映画撮影の休憩中に高峰秀子が宿屋から退屈そうに空を眺めていると、山本嘉次郎が彼女の横に腰を下ろした。「デコ、一人で何を考えているの?」「なにも考えてないよ」「デコ、目の前の松の木はどうしてこっち向いてるの?」「わかんない」「向こうに海があるから、そっちから風が吹いてきて、きっとこの松はだんだんこっちへ歪んだんだよ」「……」「役者というものはね、普通の人がタクワン食べて『臭いなー』と思うのを『くっさーい!!』と感じなきゃやっていけない商売だから、これからは松の木見たら『どうして曲がってるんのかな?』という風に、どうしてかな?なぜかしら?という風に何でも考えてみると、人生はそんなにつまんなくないし、退屈でもないよ」…仕事に面白さを感じられなかった子役時代の高峰に山本が放った言葉。この話を、彼女は徹子の部屋に出演した際(平成元年8月14日放送)に語り、女優として生きていく決意をさせたと懐かしそうに話していた。多くのヒット作と映画人を生み出した山本嘉次郎の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。洋型の墓には「山本家」とあり、背面に墓誌が刻まれている。戒名は「智泉院釋醉綠」


# by oku-taka | 2017-07-11 21:10 | 映画関係者 | Comments(0)

松平康隆(1930~2011)

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松平 康隆(まつだいら やすたか)

元バレーボール日本代表監督
1930年(昭和5年)~2011年(平成23年)


1930年(昭和5年)、東京府東京市荏原区(現在の東京都品川区)に生まれる。東京都立城南高等学校(現在の東京都立六本木高等学校)在学中に数学教師からの言葉でバレーボールに興味を持ち、1947年(昭和22年)に慶應義塾大学法学部政治学科へ入学後はバレーボール部に所属。後に主将となり、1951年(昭和26年)には全日本9人制選手権大会で優勝し、学生チームとしては戦後初となる天皇杯を獲得した。1952年(昭和27年)、大学をを卒業し、日本鋼管(現在のJFEホールディングス)に入社。9人制バレーボールのバックセッターの選手・主将・監督として活躍する。1954年(昭和29年)、9人制の選手として全日本入り。1961年(昭和36年)に現役を引退するまで日本代表の主力選手として全タイトルを獲得した。1961年(昭和36年)、日本とソ連の「スポーツ交流協定」第1号として文部省から選ばれ、6人制バレーを学ぶためにソ連へ派遣留学。帰国後、全日本男子チームのコーチに就任し、1964年(昭和39年)の東京オリンピック競技大会での銅メダル獲得に貢献した。1965年(昭和40年)、全日本男子監督に就任。「世界制覇8年計画」を立て、大古誠司・森田淳悟ら身長 1m90cm以上の長身選手を集めて大型化をはかるとともに、「Aクイック」「Bクイック」「一人時間差(時間差攻撃)」など、速攻主体の日本式コンビネーションバレー確立に力を注いだ。その結果、同年に開かれたワールドカップは4位、翌年の世界選手権は5位、1968年(昭和43年)に開催された第19回夏季オリンピックメキシコ大会では銀メダルを獲得した。一方、メキシコオリンピックの前年から始まった日本リーグ(Vリーグ)では、男子は女子の添え物扱いでテレビ放映もなかったことから松平はテレビ局のディレクターに直談判。やっとの思いで放映が実現するも客が入らず、スポンサーがつかなくなると言われたことから場内の観客をテレビに映るサイドに集める努力をするなど、男子チームの地位向上にも力を注いだ。また、全日本男子代表チームを鍛えるため海外遠征を積極的に行い、チェコスロバキアや当時の日本とレベルが下がるスウェーデンやフィンランドといった北欧諸国にも遠征に出かけた。その後、1969年(昭和44年)のワールドカップで準優勝、1970年(昭和45年)の世界選手権は銅メダルを獲得。同年、松平がチームの知名度向上を目指して広告代理店経由でTBSに持ち込んだ企画『アニメドキュメント ミュンヘンへの道』の放送が開始。日本代表チームが本当に金メダルを取れるのかという視聴者の興味を盛り上げながら、オリンピック前哨戦の試合と連動させ、男子チームの人気が高まる。そして、1972年(昭和47年)の第20回夏季オリンピックミュンヘン大会で準決勝での大逆転を経て金メダルを獲得した。1974年(昭和49年)、全日本男子の監督を退任。1978年(昭和53年)、報道番組『FNNニュースレポート6:00』で初代スポーツキャスターを2年間務めた。また、NHK『600 こちら情報部』では、金曜日の「なんでも相談」コーナーにてスポーツに関する質問の解説を担当した。1979年(昭和54年)、日本バレーボール協会専務理事に就任。1980年(昭和55年)、モスクワオリンピック世界最終予選で総監督を務めた。同年、アジアバレーボール連盟会長に就任。1988年(昭和63年)、藍綬褒章を受章。1989年(平成元年)、日本バレーボール協会会長に就任。会長として将来のプロ化を前提としたVリーグの発足、国際大会の日本での固定開催の実現、ジャニーズ事務所のアイドルに大会のイメージキャラクターを務めさせるなど若者層への普及に力を入れた。しかし、1995年(平成7年)に国際バレーボール連盟FIVBへの協賛金に関連して、2000万円が日本バレーボール協会から正規の手続きを経ずに支出されたなどとするバレーボール協会の金銭疑惑を一部の週刊誌が報じ、松平は「健康上の理由」から会長職を辞任した。 会長退任後は解説者を務め、端正な風貌とソフトな語り口で人気を集めた。1998年(平成10年)、日本人で初めてバレーボール殿堂入り。その後、日本オリンピック委員会(JOC)副会長兼理事や国際バレーボール連盟(FIVB)第一副会長等を務め、JOCでは会長候補でもあった。2000年(平成12年)、日本鋼管を退社。2001年(平成13年)、日本バレーボール協会に復帰し、名誉会長に就任した。この頃、慢性閉塞性肺疾患(COPD)と診断されたものの、肺機能回復に成功。しかし、2008年(平成20年)に肺腫瘍が見つかり、酸素吸入器を着用しながら全日本の試合会場に足を運んだ。2011年(平成23年)12月28日に肺炎で入院。12月31日午後0時21分、肺気腫のため都内の病院にて死去。享年79。



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日本バレーボール界の父といわれた松平康隆。それまで注目されなかった男子バレーの地位と実力向上に尽力し、「ミュンヘンへの道」と呼ばれた一大ブームを巻き起こすまでに成長させた。今や世界各国で使われている速攻・移動・時間差といったバレーボールの攻撃システムの基礎を創り、今も脈々と受け継がれているジャニーズによるタイアップ応援など、まさに現代のバレーボールの礎を築いた巨人である。世界の舞台で勝つことのできるチームを作り上げた名将の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓所は正面に洋型墓石が二基建ち、左側が「松平家」右側が「山田家」とある。墓誌もそれぞれ造られ、松平家の墓誌には全面を使用して松平康隆の略歴が刻む。戒名はなく俗名のみ。


# by oku-taka | 2017-06-25 23:21 | スポーツ | Comments(0)

丹波哲郎(1922~2006)

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丹波 哲郎(たんば てつろう)

俳優
1922年(大正11年)~2006年(平成18年)


1922年(大正11年)、東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現在の新宿区百人町)に生まれる。本名は、丹波 正三郎。祖父は薬学者の丹波敬三、父は日本画家の丹波緑川、先祖に平安時代に医学書『医心方』を著した丹波康頼という家系であり、裕福な家庭で何不自由なく育つ。その後、成城中学から陸軍幼年学校を受験するも落第し、仙台の二高を二度受験するも不合格。親戚の林頼三郎が総長を務める中央大学法学部英法科へ無試験で入学した。在学中に学徒出陣し、陸軍航空隊に入隊。立川陸軍航空整備学校で整備士官としての教育を受け、「キ64試作戦闘機」に、20ミリ機関砲4門を翼内に2門づつ、胴体に2門つける仕事に従事した。 戦後は大学に復学し、学業の傍らGHQ通訳のアルバイトに就いたが、英会話は全くできずジェスチャーなどでやり過した。1947年(昭和22年)、英語ができない為に居辛さを感じ始めていた丹波は、GHQを辞めて秋葉原にあった俳優養成所に通い始める。持ち前の大声から大芝居に抜擢され、やがて講師である月野満代から劇団の立ち上げを勧められたことから、1950年(昭和25年)に創芸小劇場を主宰。劇団で俳優・演出家として活躍する傍ら、兄の薬品会社、東海自動車という進駐軍の修理会社、油糖砂糖配給公団と職業を転々として暮らす。1950年(昭和25年)、月野から紹介された劇団文化座の演出家・大久保正信と高橋真から強く勧められ、劇団文化座に加入。1952年(昭和27年)、同劇団所属の山形勲の代役として、新東宝配給のセミドキュメンタリー映画『殺人容疑者』に主演級の役でデビュー。その後、映画『モンテンルパ 望郷の歌』(ノンクレジット)『女ひとり大地を行く』などの出演を経て、1952年(昭和27年)に文化座を退団して勧誘されていた新東宝へ入社。新東宝では陰のある二枚目としておもに敵役・悪役で活躍。しかし、1960年(昭和35年)に新東宝社長の大蔵貢と対立してフリーランスとなる。その後、フジテレビのディレクターだった五社英雄とコンビを組み、同年に放送されたテレビドラマ『トップ屋』の主演で注目を集める。1961年(昭和36年)にはニュー東映で映画『霧と影』『白昼の無頼漢』に主演し、日活映画『豚と軍艦』ではコミカルなやくざを演じて演技開眼となった。同年、キャロル・ベイカー主演のアメリカ映画『太陽にかける橋』で海外映画に初出演。1963年(昭和38年)、テレビ時代劇『三匹の侍』に出演し、ドラマのヒットとともにスターとしての地位を確固たるものとした。その後、時代劇映画・ギャング映画・任侠映画など幅広く出演。1967年(昭和42年)には日本をロケ地として撮影されたイギリス映画『007は二度死ぬ』に出演し、作品の世界的な大ヒットにより国際的にもその存在が認知された。1968年(昭和43年)、テレビドラマ『キイハンター』に主演。最盛期には視聴率30%を越える人気ドラマとなった。『キイハンター』終了後も、丹波は同時間帯でテレビドラマ『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』『Gメン'75』と出演し、TBS系土曜21時ドラマの顔となった。1973年(昭和48年)、映画『人間革命』で毎日映画コンクール男優演技賞を受賞。翌年には、映画『砂の器』で見せた人情味のある今西刑事役の重厚な演技が高く評価された。1980年(昭和55年)、映画『二百三高地』でブルーリボン賞助演男優賞と日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をそれぞれ受賞。この頃から「死後の世界」の研究に力を入れるようになり、それにまつわる著書を多数発表。1989年(平成元年)には、映画『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』を制作・出演し、300万人以上の動員を得る。1994年(平成6年)、『死はこんなに気楽なものか』で第14回日本文芸大賞特別賞を受賞。その後も、映画やドラマなどで渋みある演技を披露する傍ら、そのひょうきんで豪快な性格が受けてバラエティー番組にも積極的に出演。しかし、2005年(平成17年)2月から約2か月間インフルエンザと虫垂炎のために入院。それが原因でひどく痩せ、健康が懸念されるようになる。2006年(平成18年)9月24日午後11時27分、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。享年84。


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国際派俳優としてその名を知られた丹波哲郎。主役を圧倒する強烈な存在感で日本映画の黄金期を支えた名優の一人である。脇役でありながらも主役を食ってしまうスケールの大きな芝居と存在感は、出演作を観る度に感嘆させられていた。その一方で、ものにこだわらない大物振りで多くの逸話を残し、バラエティー番組で色々なことを明るく楽しく語る姿に幼い頃の私は幾度となく笑わされた。これほどまでに振り幅の大きい役者は、丹波哲郎をおいて他にいないのではないだろうか。幅広い人から愛された大御所俳優・丹波哲郎の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「丹波」とあり、裏側に墓誌が刻む。戒名はなし。


# by oku-taka | 2017-06-25 21:04 | 俳優・女優 | Comments(0)

内海好江(1936~1997)

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内海 好江(うつみ よしえ)

漫才師
1936年(昭和11年)~1997年(平成9年)


1936年(昭和11年)、夫婦漫才師の荒川小芳・林家染寿の長女として東京都東京市浅草区(現在の台東区)に生まれる。本名は、奥田 好江。1945年(昭和20年)に舞台デビュー。女剣劇や父娘漫才を経て、1950年(昭和25年)に母と2人の子どもを養うために新しい相方を探していた内海桂子を林家染団治から紹介され、コンビを結成した。当時まだ14歳で芸の技術もなかった好江を桂子は厳しく育て、好江も芸人の子としてのプライドから泣き言は1つも言わず修行に耐えた。また、自身で三味線教室に通い、毎日10時間以上の猛練習を行うなどして、猛スピードで成長した。その後、徹底した庶民派漫才を身上とし、三味線・歌・踊りを盛り込んだ漫才スタイルを確立。江戸っ子らしい歯切れのよい喋りと、古典的道徳・常識的な桂子のしゃべりに、好江がツッコむスタイルで人気を集め、女流漫才の第一人者として活躍した。1957年(昭和32年)、『NHK新人漫才コンクール』に3度目の挑戦で挑み、優勝候補と目されながらも、獅子てんや・わんやに敗れて2位に。このことで、桂子から「好江のせいだ」とあたられ、好江は睡眠薬を大量に服用して自殺未遂を起こす。1958年(昭和33年)、4度目の挑戦で『NHK新人漫才コンクール』で優勝。1961年(昭和36年)には文部省芸術祭奨励賞を受賞し、順調な活躍ぶりを見せた。しかし、桂子との間に軋轢が生まれ、デビュー以来ギャラ配分が4:6だったことがきっかけで解散騒ぎに発展。事務所などが間に入り解散は免れたものの、このことがきっかけで1人で仕事をしたいという思いに至り、単独での番組出演をするようになる。その後、長期間にわたってコンビ仲が悪く、舞台以外は口も聞かないという状態が続いた。その後、新聞社から「古い付き合いのある友人」というテーマで原稿を頼まれた桂子は好江について書くことに決め、執筆するにつれ「好江の成長を応援しよう」思うようになり好江を認めた。また、好江も桂子に対して「意地を張ったり反発したことはあったが、素直に心からの礼を言ったことがあっただろうか」と考え、1983年(昭和58年)の芸術選奨文部大臣賞受賞パーティーで桂子に対して初めて心からの礼を述べた。以降、漫才の仕事や付き合い、ギャラ配分などが全て好江に任せられるようになり、桂子は表に出ないようになった。また、1981年(昭和56年)から横浜放送映画専門学院(現在の日本映画大学)で講師を務め、ウッチャンナンチャンらを育てた。1986年(昭和61年)、日本放送演芸大賞功労賞を受賞。。1991年(平成2年)、浅草芸能大賞を受賞。1994年(平成6年)、第47回NHK放送文化賞を受賞。晩年はテレビ番組のコメンテーターとして「どーなってるの!?」や「おもいッきりテレビ」といった情報番組に多数出演し、江戸っ子ならではの歯に衣着せぬ辛口コメントの批評で知られた。私生活では造園業を営む男性と結婚していたが、1995年(平成7年)に死別した。その1年後の1998年(平成10年)、胃癌が発覚し、既に手の施しようがない状態にまで進行していた。それでも、病をおして舞台に立ち続けていたが、1997年(平成9年)10月6日、胃癌のため死去。享年61。桂子が見舞いに来た際、「あと2年で結成50年なんだからしっかりしなさいよ」と声を掛けたのが2人にとって最後の会話となった。


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テンポの良さと歯切れの良さ。東京の漫才、いや女性漫才の中でもトップクラスを誇る面白さであった内海桂子・好江。桂子のほうは94歳にして今も舞台に立ち続け、数年前からはTwitterをはじめるなど老いを感じさせぬ活躍ぶりを見せている。その相方の好江は、61歳という若さで旅立ってしまっているのが何とも無常である。ある意味では桂子以上に芸に厳しく、様々な番組で見せた威勢のいい毒舌っぷりは今でも忘れられない。その毒舌も、元来の江戸っ子気質からくるきっぷの良さのせいなのか、どこか爽快で嫌味っぽさがなかった。漫才・コメンテーターと一流の喋りを見せてくれた内海好江の墓は、東京都世田谷区の幸龍寺にある。墓には「内海好江之墓」とあり、右横に彼女の足跡が記された碑が建つ。戒名は「賢達院藝秀日好大姉」


# by oku-taka | 2017-06-18 01:40 | 演芸人 | Comments(0)

吉本隆明(1924~2012)

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吉本 隆明(よしもと たかあき)

評論家・思想家
1924年(大正13年)~2012年(平成24年)


1924年(大正13年)、東京都東京市月島に生まれる。1934年(昭和9年)、深川区(現在の江東区)門前仲町にあった今氏乙治の学習塾に入り、この塾で文学に開眼する。その後、東京府立化学工業学校を経て、1942年(昭和17年)に米沢高等工業学校(現在の山形大学工学部)へ入学。翌年から宮沢賢治、高村光太郎、小林秀雄、横光利一、保田与重郎 、仏典といった影響を強く受け、本格的な詩作をはじめる。1944年(昭和19年)、米沢工業専門学校(前・米沢高等工業学校、戦時下に改称)を繰り上げ卒業し、東京工業大学電気化学科に入学。その傍ら、学徒動員で向島のミヨシ化学興業の研究室で勤労奉仕として働く。1947年(昭和22年)、東京工業大学電気化学科を卒業以後、幾つかの中小工場で働くも、労働組合運動で職場を追われてしまう。1949年(昭和24年)、東京工業大学大学院の「特別研究生」試験を受け合格。同年、『ランボー若しくはカール・マルクスの方法についての諸注』を「詩文化」に発表。「意識は意識的存在以外の何ものでもないといふマルクスの措定は存在は意識がなければ意識的存在であり得ないといふ逆措定を含む」「斯かる芸術の本来的意味は、マルクスの所謂唯物史観なるものの本質的原理と激突する。この激突の意味の解析のうちに、僕はあらゆる詩的思想と非詩的思想との一般的逆立の形式を明らかにしたいのだ」と述べた。1951年(昭和26年)、特別研究生前期を終了し、当時インク会社として最大手だった東洋インキ製造株式会社青砥工場に就職。1952年(昭和27年)、詩集『固有時との対話』を自費出版で発行。1953年(昭和28年)、詩集『転位のための十篇』を自家版として発行。この『転位-』の第六篇「ちいさな群への挨拶」の一節「ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる」は後によく知られる一節となり、吉本自身が左翼的な詩と解説したものの左翼からの評価は得られなかった。しかし、詩誌「荒地」から評価が得られ、1954年(昭和29年)に「荒地新人賞」を受賞。同人として、鮎川信夫らが主宰する「荒地詩集」に参加する。同年、『現代評論』創刊号と12月発行の第2号に「反逆の倫理――マチウ書試論」(後に「マチウ書試論」に改題)を発表。後に有名となる「関係の絶対性」というワードをここで初めて使う。1956年(昭和31年)、初代全学連委員長・武井昭夫と共同で著した『文学者の戦争責任』で、戦時中の壺井繁治・岡本潤らの行動を批判し、同時に新日本文学会における戦前のプロレタリア文学運動に参加した人物の1950年代当時の行動の是非を厳しく問うた。同年、労働組合運動を起こしたことから東洋インキ製造株式会社を退職。その後、大学時代の恩師・遠山啓の紹介で長井・江崎特許事務所に入所し、隔日勤務で国際関係の特許の翻訳・書類作成等に従事した。一方、文学者の戦争責任論に端を発し、政治と芸術運動をめぐって花田清輝との間で激しい論争を展開。4年にもわたる応酬は花田の撤退とともに終結し、吉本の勝利を強く印象づけることとなった。1958年(昭和33年)、戦前の共産主義者たちの転向を論じた『転向論』を『現代批評』創刊号に発表。「共産主義者や日本の知識人(インテリゲンチャ)たちの典型には、『高度な近代的要素』と『封建的な要素』が矛盾したまま複雑に抱合した日本の社会が、『知識』を身に付けるにつけ理に合わぬつまらないものに見えてきて一度離れるが、ある時離れたはずのその日本社会に妥当性を見出し、無残に屈伏する」とする“二段階転向論” と、「マルクス主義の体系などにより、はじめから現実社会を必要としない思想でオートマチズムにモデリングする」“非転向=転向の一形態”の二つがあると論じた。そして、宮本顕治を指導部とする日本共産党は「非転向」にあたり、その論理は原則的サイクルを空転させ、「日本の封建的劣性との対決を回避」していると批判した。1959年(昭和34年)、「マチウ書試論」「転向論」等を載せた『芸術的抵抗と挫折』を刊行。1960年(昭和35年)、「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に発表。また、同誌4月号では、共産主義者同盟全学連書記長島成郎らと座談会を行うなど、吉本は60年安保を先鋭に牽引した全学連主流派と積極的に同伴する。その後、6月行動委員会を組織し、6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加。また、無数の人々が参加した安保反対のデモのなかで、6月15日に国会構内抗議集会で演説。鎮圧に出た警官との軋轢で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された。逮捕・取調べの直後に、近代文学賞を受賞。18日には釈放となった。60年安保直後の総括をめぐって全学連主流派が混乱状態に陥った以降は、「自立の思想」を標榜して雑誌「試行」を創刊。この『試行』において吉本は、既成のメディア・ジャーナリズムによらず、ライフワークと目される『言語にとって美とは何か』『心的現象論』を執筆した。発行部数500部の『試行』は、谷川雁、村上一郎、吉本隆明の三同人により編集されていたが、11号以降は吉本の単独で編集が行われ、1970年代後半のピーク時には8000部を超えるまで部数を伸張させた。1962年(昭和37年)、安保闘争への総括文書である「擬制の終焉」を発表。1963年(昭和38年)、『丸山真男論』を刊行。そこにおいて、いわゆる「知識人」のいかがわしさを端的に代表しているのが丸山眞男に象徴される大学教員に他ならないとし、丸山からの「ルサンチマン」との応答を含む激しい論戦が展開された。1965年(昭和40年)、『言語にとって美とはなにか』を刊行。1968年(昭和43年)、『共同幻想論』を刊行。当時の教条主義化したマルクス・レーニン主義に辟易し、そこからの脱却を求めていた全共闘世代に熱狂して読まれた。1980年代に入ると当時の豊かな消費社会の発生と連動し、テレビや漫画・アニメなどを論じた『マス・イメージ論』や、主に都市論の『ハイ・イメージ論I~III』を発表。サブカルチャーを評価し、忌野清志郎・坂本龍一・ビートたけしらを評価した。1984年(昭和59年)、女性誌『an・an』誌上に川久保玲のコム・デ・ギャルソンを着て登場。埴谷雄高から「資本主義のぼったくり商品を着ている」と批判を受けるなど、吉本の「転向」が取り沙汰される。吉本は「『進歩』や『左翼』だと思っていたものが、半世紀以上経ってみたら、表看板であるプロレタリアートの解放戦争で、資本主義国におくれをとってしまったことが明瞭になってしまった。この事実を踏まえなければ何もはじまらないというのが『現在』の課題の根底にある」「こういう『現在』の課題を踏まえることは、資本制自体を肯定することとも、資本主義には何も肯定的問題はないということとも全く違う」と応答した。また、1981年(昭和56年)に500人の文学者が署名し、二千万人の署名運動に発展した反核署名運動を批判。1986年(昭和61年)のチェルノブイリ原発事故から盛り上がった反原発運動を批判するなど反原発活動に異を唱えた。1994年(平成6年)、自らの『転向論』を意識した「わが転向」を文藝春秋に発表。小沢一郎の『日本改造計画』を「穏健で妥当なことを言っている」と相対的に高く評価し、「社会主義は善で資本主義は悪という言い方は成り立たない」「左翼から右翼になったわけではなく」「体制―反体制」といった意味の左翼性は必要も意味もない」「全く違った条件を持った左翼性が必要」として自らを「新・新左翼」とし、「なにか個別の問題が起ったとき、ケースバイケースで、そのつど、態度を鮮明にすればいい」「そのつどのイエス・ノーが時代を動かす」、と述べた。また、1995年(平成7年)に起った阪神大震災とオウムの地下鉄サリン事件について、「日本の切れ目を象徴」し、特にオウムの無差別テロは「一世紀のうちに、何回も起らない20世紀ではソ連の崩壊に次ぐほどの大事件、ここで戦後民主主義がいかに無力だったかということが誰の目にもあきらかになり、戦後の左翼運動のあらゆるラジカリズムー過激な反体制運動が全部超えられた」と述べた。しかし、かつてオウム真理教の麻原彰晃をヨーガを中心とした原始仏教修行の内実の記述者として評価していたことから、オウム真理教事件発生後は中沢新一らとともにオウムの擁護者であると批判された。1996年(平成8年)、静岡県田方郡土肥町の海水浴場で遊泳中に溺れ意識不明の重体になり緊急入院したが、集中治療室での手当が功を奏し一命を取り留めた。1997年(平成9年)、大塚英志との対談で『新世紀エヴァンゲリオン』及びそこに見られるいわゆる「セカイ系」について感想を述べる。1998年(平成10年)、先の入院中に構想を固めた『アフリカ的段階について 史観の拡張』を私家版として出版。1999年(平成11年)、小林よしのりの漫画『戦争論』と「新しい歴史教科書を作る会」に関連して『私の戦争論』という書籍を刊行し、自らの戦争体験を交え、「公」「私」「国家」「特攻隊」「ナショナリズムのサブカルチャー化」「ナショナリズムの質的変化」についての自らの考えを述べた。2002年(平成14年)、前年の9月11日に起きたアメリカ同時多発テロに関した『超・戦争論』を刊行。アメリカ対イスラム原理主義は「近代主義的な迷妄」対「原始的な迷妄」の戦いであり、特に「自由」という観点からいえば「両者とも自由にたいして迷妄である」とし、21世紀の課題は国民「国家を開いていく」ことだと述べた。また「地球規模での贈与経済をかんがえなくてはならない」と捉え、同時に「日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向を指していることは疑念の余地がない。それは断言できる」と主張した。2003年(平成15年)、『夏目漱石を読む』で小林秀雄賞を受賞。晩年は、持病の糖尿病の合併症による視力・脚力の衰えが進み、読み書きは虫眼鏡、電子ルーペ、拡大器を用いるなど努力を要し、著述は、口述やインタビュー後にゲラ刷りを校正する方法が多くなていった。2012年(平成24年)1月22日、発熱のため日本医科大学付属病院に緊急入院。3月16日、肺炎のため東京都の日本医科大学付属病院で死去。享年87。


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文学・政治・宗教・サブカルチャーと、あらゆるジャンルを幅広く論じた吉本隆明。下町にある船大工の三男として生まれた吉本は、常に庶民の立場で様々な事象を見つめ、斬新な切り口は戦後の思想界に大きな影響を与えた。1960年代から1970年代にかけて当時の若者を熱狂させたカリスマ評論家は、絶えず時代と向き合って新しいものを否定せず受容していった。しかし、時の流れはあまりに早すぎたのか、平成に入る前後から吉本は時代を見据えた発言ができなくなっていたように思う。それでも、彼は亡くなるまで主義・主張を変えることはなかった。その根底には、戦争時代に経験した「良い」と言われているものに対する疑いがあったからだ。世の中の評価に反逆し続けた知の巨人・吉本隆明の墓は、東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある。墓には「吉本家之墓」とある。墓誌はない。戒名は「釋光隆」


# by oku-taka | 2017-06-18 00:42 | 評論家・運動家 | Comments(2)