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野村芳太郎(1919~2005)

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野村 芳太郎(のむら よしたろう)

映画監督
1919年(大正8年)~2005年(平成17年)


1919年(大正8年)、日本の映画監督の草分け的存在で、松竹蒲田撮影所の所長も務めた野村芳亭の長男として京都府京都市に生まれる。生後まもなく東京市浅草区吉野町に移る。父・野村芳亭が松竹の監督で撮影所長も務めていた関係で、京都(下賀茂撮影)と東京(蒲田撮影所)の移転を繰り返す。このため、幼少期は生活の中に映画がとけ込み、生家には何人かの助監督が住み込んでいた等、映画の世界に囲まれた環境下で育つ。1941年(昭和16年)、同年に勃発した太平洋戦争のため慶応義塾大学文学部芸術学科を繰り上げ卒業し、同時に松竹へ入社。翌年には応召され、過酷なビルマ戦線に送られる。1946年(昭和21年)、復員。その後は、家城巳代治、川島雄三らの助監督につき、担当した『醜聞』『白痴』の監督・黒澤明からは「大船には三人の優れものがいた」「日本一の助監督」と評価された。1952年(昭和27年)、『鳩』で監督デビュー。翌年には正式に監督へと昇進。嵐寛寿郎主演の『鞍馬天狗・青面夜叉』を皮切りに、美空ひばり主演『伊豆の踊子』、佐田啓二・岸惠子のメロドラマ『亡命記』など、プログラムピクチャーを器用にこなし、会社の意向に従って喜劇から時代劇まであらゆるジャンルの作品を手掛ける職人監督として活躍した。1954年(昭和29年)、ブルーリボン賞新人賞を受賞。1958年(昭和33年)、松本清張の短編『張込み』の映画化を担当。野村は「最高の状態でなければカメラを回さない」と強いこだわりをもって製作に挑み、下積み刑事と犯罪者の日常をドキュメンタリー的に描いた。これにより、本作は高い評価を受け、映画監督しての地位を確立。以後、ショッキングな描写を伴う社会派的色彩の強いサスペンスを数多く撮るようになり、特に松本清張原作のサスペンスは野村の十八番となった。一方、社会批判を込めた風刺喜劇にも才能を発揮し、無知な貧しい庶民の軍隊を通して天皇制軍隊を批判した『拝啓天皇陛下様』(1963年)、ヒット曲をもとに帰る故郷のない兄と妹の心の亀裂と愛憎を描いた『昭和枯れすすき』といったヒット作も生み出した。1974年(昭和49年)、『砂の器』で毎日映画コンクール監督賞、モスクワ国際映画祭の審査員特別賞を受賞。1978年(昭和53年)、自作『黒地の絵』の映像化を熱望していた松本清張が、映画・テレビの企画制作を目的とした「霧プロダクション(霧プロ)」を設立。野村もこの設立に関わったが、一向に『黒地の絵』を製作しない野村に清張は不満を抱き、6年後には解散となった。一方、この頃からは製作者としても活躍し、森谷司郎監督の『八甲田山』、門下生の三村晴彦監督作品『天城越え』(1983年)、同じく門下生の山田洋次監督作品『キネマの天地』(1986年)などのヒット作をプロデュースしている。1979年(昭和54年)、『事件』『疑惑』でブルーリボン賞監督賞、日本アカデミー賞最優秀監督賞、2度目の毎日映画コンクール監督賞を受賞。1985年(昭和60年)、紫綬褒章を受章。1995年(平成7年)、勲四等旭日小綬章を受章。1992年(平成4年)には吉田剛監督の『復活の朝』の製作総指揮を務めるなど、平成に入っても精力的に活躍していたが、この後に脳内出血を発症し、自宅療養を余儀なくされた。2005年(平成17年)4月8日午前0時15分、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年85。


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ミステリー映画の鬼才・野村芳太郎。松本清張の作品はほとんど野村の手によって映像化され、いずれも芸術性の高い名作揃いとなっている。丹波哲郎演じる今西刑事の執拗な捜査を経て事件の手掛かりを掴んだ瞬間からラストまで怒涛の展開を見せた『砂の器』、それまで清順派な役が多かった岩下志麻のイメージを一気に変えた『鬼畜』、桃井かおりが悪女・鬼塚球磨子を見事に演じきった『疑惑』。この『疑惑』こそ、松本清張とのコンビの結実であり、最高傑作であると思う。そうしたミステリーを撮りながら、天皇制崇拝の軍隊を面白おかしく批判したブラックコメディー『拝啓天皇陛下様』といった名作を生んでいる。ジャンルにとらわれず、父・野村芳亭と同じように庶民に寄り添った作品を作り続けた巨匠の墓は、東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある。墓には鶴見俊輔によって書かれた「野村芳亭墓」とあり、右側面に墓誌が彫られている。傍には田中絹代から送られた花立が置かれている。戒名は「映芳院釋顕真」

# by oku-taka | 2018-03-05 01:54 | 映画関係者 | Comments(0)

江藤淳(1932~1999)

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江藤 淳(えとう じゅん)

文芸評論家
1932年(昭和7年)~1999年(平成11年)


1932年(昭和7年)、東京府豊多摩郡大久保町字百人町(現在の東京都新宿区)に生まれる。本名は、江頭 淳夫(えがしら あつお)。1939年(昭和14年)、戸山小学校に入学するも、病弱な上に教師と合わず、不登校になる。自宅の納戸に逃避して、谷崎潤一郎や山中峯太郎や田河水泡を愛読する日々を送る。1942年(昭和17年)、神奈川県鎌倉市の鎌倉第一国民学校に転校。これを機に学校が好きになり、成績が上昇。1946年(昭和21年)、神奈川県藤沢市の旧制湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)に入学。湘南中学の先輩で歴史学者の江口朴郎宅に出入りするうちに1級上の石原慎太郎と親交を深め、生涯を通じて交際が続くことになる。1948年(昭和23年)、旧制の東京都立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に転校。古書店で伊東静雄の詩集『反響』に出会ったことが、文学の道に進むきっかけとなった。1951年(昭和26年)、健康診断で肺浸潤が発見され、高校を休学。自宅での療養中はフョードル・ドストエフスキー、谷崎潤一郎、福田恆存、大岡昇平などに読みふける。1953年(昭和28年)、東京大学文科二類(現在の文科三類に相当)を受験して失敗。慶應義塾大学文学部(教養課程)に進む。この頃、福沢諭吉を読んで感銘を受け心酔。後の主著『作家は行動する』において重要なモチーフとなっている他、度々福沢諭吉について論じるなど大きな影響を与えた。1954年(昭和29年)、吉田健一の『英国の文学』の影響を受け、専門課程への進学に際し英文科を選ぶ。1955年(昭和30年)、同人誌に発表した「マンスフィールド覚書補遺」が山川方夫の目にとまり、山川の依頼で『三田文学』に江藤淳の名で「夏目漱石論」を発表。それまで漱石の弟子たちが偶像化してきた漱石神話を破壊して作家の実像に迫り、評論家としての第一歩を踏み出した。1957年(昭和32年)、慶應義塾大学文学部文学科(英米文学専攻)を卒業。卒業論文のテーマはローレンス・スターン。4月、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程に進む。指導教授の西脇順三郎からは嫌われていたといい、西脇は江藤の姿を教室に認めるや「今日は江藤君がいるから授業しない」と宣言したこともあったという。5月、大学の同級生だった三浦慶子と結婚。後年、先輩の安岡章太郎から「慶子さんと付き合うためにわざと東大に落ちたんじゃないか」と揶揄されるほどの愛妻家となった。1958年(昭和33年)、大学院生でありながら文芸誌に評論を執筆し原稿料を稼いでいたことが教授会から問題視され、退学を勧告される。それに対し、江藤は授業料のみ納入し、抵抗の意味で不登校を続ける。同年、当時の自民党が改正しようとした警察官職務執行法に対する反対運動から、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成。11月、文藝春秋から『奴隷の思想を排す』を発表。日本の近代的自我に対する批判を描き出し、吉本隆明を始め多方面の文学者に大きな影響を与えた。これにより、大江健三郎・司馬遼太郎らと共に気鋭の新人として注目され始める。1959年(昭和34年)、講談社から『作家は行動する』を発表。同年3月、退学届けを提出し、正式に大学院を中退。1961年(昭和36年)、『小林秀雄』を発表。マルクス主義者と論争をくりひろげた初期の仕事に光をあて、審美家的な小林秀雄像を浮き彫りにした。そこには60年安保に対する江藤自身のスタンスが投影されていたかもしれない。1962年(昭和37年)、ロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学。このときに得た米国での経験から、巨大なアメリカ社会とどう向き合うかというテーマに生涯取り組み、戦後日本における西欧模倣の近代化を他の言論人に先駆けて鋭く批判した。一方、滞在中に前年発表した『小林秀雄』が新潮社文学賞を受賞したとの知らせを受けた。1963年(昭和38年)、プリンストン大学東洋学科で日本文学史を教える。1964年(昭和39年)帰国。これ以降、愛国者にして天皇崇拝者の相貌を帯び始め、明治国家を理想とする正統的な保守派の論客として論壇で異彩を放つようになり、戦後保守派や新保守主義派の論客と対立した。文学者としての立場から「父性原理」や「治者の理論」にこだわり、敗戦による時代と国家の喪失の物語を自らの体験に重ねて作為し、戦後神話の解体を通して主体の回復に挑んだ稀有なる個性を、文学史と思想史の交点に描き出す事を論点とし、三島由紀夫や清水幾太郎、福田恆存らとはしばしば対比された。1966年(昭和41年)、遠山一行・高階秀爾・古山高麗雄の4名で『季刊藝術』を創刊。1967年(昭和42年)、第三の新人の作品を素材にして文学における母性について論じた『成熟と喪失』を発表し、代表作の一つとなった。1969年(昭和44年)、毎日新聞の文芸時評を担当。約9年間にわたり活動した。1970年(昭和45年)、『漱石とその時代』で菊池寛賞と野間文芸賞を受賞。同作はその後も書き続けられ、江藤のライフワークとなった。同年、遊戯性と虚構性の域を出ない戦後日本の政治運動を「ごっこ」と名指し、公的なものが存在しない日本を批判したエッセイ「『ごっこ』の世界が終ったとき」を発表。全共闘運動を「革命ごっこ」、三島由紀夫の楯の会自決(三島事件)を「軍隊ごっこ」と斬り捨てた。更に、三島由紀夫が自決した直後に、雑誌『諸君!』で行った小林秀雄との対談「歴史について」では、「三島由紀夫は、一種の病気」であると断言し、吉田松陰的に崇拝されていく三島像を明確に否定する考えを表明した。1971年(昭和46年)、東京工業大学の助教授に就任。同年、江戸城無血開城に際し敗れた幕府側の人間でありながらも、理想的な治者として勝海舟を見出し、松浦玲と共に『勝海舟全集』の編纂に携わる。1974年(昭和49年)、「『フォニイ』考」で、加賀乙彦、辻邦生らの長編を、純文学ならざるものとして批判し、論争となる。1975年(昭和50年)、博士論文『漱石とアーサー王伝説』を慶應義塾大学に提出し、文学博士を取得。この論文は、江藤が漱石と嫂登世との恋愛関係に固執するあまり、恣意的に『薤露行』を罪と死と破局の物語と読む誤りを犯していると大岡昇平から批判を受け、論争になった。1976年(昭和51年)、NHKのドキュメンタリー・ドラマ『明治の群像』のシナリオを手掛ける。同年、第32回日本芸術院賞を受賞。1977年(昭和52年)、雑誌『文學界』1月号掲載の開高健との対談『作家の狼疾』で「武田(泰淳)さんの物心両面の継続投資」が「埴谷雄高さんをいままでサーヴァイヴさせ」たと発言して埴谷を激怒させ、『江藤淳のこと』を雑誌『文藝』に掲載し批判した。1979年(昭和54年)、ワシントンのウィルソン・センターで米軍占領下の検閲事情を調査。この際、アマースト大学の史学教授レイ・ムーアより、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)とされる文書のコピーを提供されたという。これ以降、日本人がいかに洗脳されてきたか、日本国憲法が戦後の日本の言語空間を縛っているといったことを問題とし始める。1982年(昭和57年)、『海』4月号で吉本隆明と対談(『現代文学の倫理』)。このとき編集後記で同誌編集長宮田毬栄が、この対談について私見を述べたところ、江藤はそれに激怒して社長嶋中鵬二宛に抗議の手紙を送った。1983年(昭和58年)、「ユダの季節」で、保守派の論客である山崎正和、中嶋嶺雄、粕谷一希の党派性を批判し、保守論壇から孤立することとなった。1990年(平成2年)、東工大を辞職。母校の慶應義塾大学法学部客員教授を経て、1992年(平成4年)に慶應義塾大学環境情報学部の教授に就任。しかし、1997年(平成9年)定年まで1年を残して慶應義塾を去り、大正大学の教授に就いた。この頃になると、理想とする治者とは正反対の人生を送った永井荷風、西郷隆盛を論じ、意外の感を与えた。1998年(平成10年)11月7日、慶子夫人が死去。翌年、『文芸春秋』に妻の癌の発覚から死に至るまでの夫婦の日々を克明に描いた鎮魂記「妻と私」を発表し、話題となった。しかし、妻を亡くしてからはかつてのような気力を失い、また自身も脳梗塞を発症。その後遺症に苦しむ日々を送る。1999年7月21日、神奈川県鎌倉市西御門の自宅浴室で剃刀を用い、手首を切って自殺。午後7時過ぎに自宅浴室で倒れているところを家政婦が発見したが、既に絶命していた。「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」と書かれた遺書は当時大きな話題となった。享年67。


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先日、評論家の西部邁が多摩川に入水自殺をした。その第一報を聞いたとき、江藤淳の自殺を思い出さずにはいられなかった。保守派の論客、愛妻の死、病気、自殺、と共通項が多く、江藤淳が亡くなったとき「自死は精神の自然である」という追悼文を寄せた西部の最期に、何とも言葉にできないやるせなさを感じた。小林秀雄亡き後、日本の文壇で強い影響力を持つまでになった江藤淳だが、留学後の彼は驚くほどに右傾化し、事あるごとに論争を巻き起こす喧嘩屋みたくなってしまった。そんな彼が、妻の死で急速に精彩を欠き、果ては「一種の病気である」と切り捨てた三島由紀夫と同じ末路を辿るとは、誰が予想したであろうか。絶望と諦観の末に妻のもとへと旅立った江藤淳の墓は、東京都港区の青山霊園にある。墓には「江頭家之墓」とあるのみで、墓誌はない。

# by oku-taka | 2018-02-25 03:26 | 評論家・運動家 | Comments(0)

石橋湛山(1884~1973)

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石橋 湛山(いしばし たんざん)

政治家
1884年(明治17年)~1973年(昭和48年)

1884年(明治17年)、東京市麻布区芝二本榎(現在の港区)に生まれる。出生名は、省三(せいぞう)。実父の湛誓は日蓮宗一致派の初代管長である新居日薩の門下で、現在の東京都港区高輪の承教寺に所在していた東京大教院(現在の立正大学の前身)の助教補を務めていた。1885年(明治18年)、父・湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現在の同郡富士川町)にある昌福寺の住職へ転じるため、母と共に甲府市稲門(現在の甲府市伊勢2丁目)へと転居する。1889年(明治22年)、甲府市立稲門尋常小学校に入学。3年生の時に初めて父と同居することになり、稲門から約20km奥まっている増穂村の小学校に転校した。1894年(明治27年)、湛誓が静岡市の日蓮宗本山青龍山本覚寺の住職に転じることになり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(現在の南アルプス市)にある長遠寺の住職・望月日謙に預けられる。以来、実質的な親子の関係は絶たれ、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。1895年(明治28年)、日謙に勧められ山梨県立尋常中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)へ進学する。在学中は校友会の季刊誌『校友会雑誌』に論文を投稿。1900年(明治33年)6月発行の第八号において「石橋坐忘」の筆名で小論「石田三成論」を発表し、以来「石橋省三」「石橋省造」「石橋湛山」などの名で小論を発表している。また、同誌には学術部総会に関する報告も掲載され、湛山が総会において英文朗読・演説、文章の朗読・演説などを行っており、当時から政治・歴史などに関心をもっていた。1902年(明治35年)、2年落第による7年間在籍を経て山梨県立第一中学校を卒業。この頃、父が若かりし頃に弟子入りした山梨県の昌福寺という日蓮宗の寺院には古くから湛の字を名につけるならわしがあったことから、自身も湛山と改名した。4月、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)受験のため上京するも、同年7月の試験は不合格に終わる。翌年に再度受験するがまたもや失敗。その後、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格し、9月に入学した。1907年(明治40年) 、早稲田大学大学部文学科を首席で卒業。特待研究生として宗教研究科へ進級した後、1908年(明治41年)12月に島村抱月の紹介で毎日新聞社(旧横浜毎日新聞や旧東京横浜毎日新聞で、当時は『東京毎日新聞』を出している。現在の毎日新聞社とは無関係)に入社した。1909年(明治42年)、東京麻布の第1師団・歩兵第3連隊に「一年志願」兵として入営する。湛山ははじめ社会主義者と誤解され要監視兵の扱いを受けるが、後に誤解が解け上官・将校とも良好な関係を築き、彼らも石橋の「合理性」を評価したという。石橋は伍長に昇進し、軍曹として除隊した。石橋は入営中に軍隊の哲学に関心を持ち、社会生活・団体生活への順応性の重視を痛感したという。1911年(明治44年)、東洋経済新報社に入社するが、同年9月には自らの意思で見習士官として再入営。最終試験を経て1913年(大正2年)に歩兵少尉となる。その後は予備役となった。大正時代になると、石橋は大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人としていち早く「民主主義」を提唱。また、三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張するなど(小日本主義)、リベラルな言論人として知られるようになる。1924年(大正13年)、東洋経済新報社第5代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務に就任する。1931年(昭和6年)、東京経済新報社を中心とした経済倶楽部を創設。1933年(昭和8年)には経済倶楽部の会員により山梨県南都留郡山中湖村旭日丘に「経済倶楽部山中湖畔山荘同人会(経済村)」が作られ、湛山も山中湖畔に山荘を構え、夏期は同所において執筆活動を行った。また、部下の高橋亀吉と共に経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては1円=金2分(1/5匁・0.75g。旧平価)での金本位制復帰に反対して、実体経済に合わせて通貨価値を落とした上での復帰(新平価解禁)を勝田貞次らと共に主張し、旧平価での復帰や財界整理を主張する池田成彬や堀江帰一、大蔵大臣として金解禁を旧平価で行う井上準之助と論争している。行政では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張した。1935年(昭和10年)、内閣調査局委員に任ぜられる。1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発。以来、敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張る。同誌は署名記事を書くことが困難だった多くのリベラリストにも匿名での論説の場を提供。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいており、かつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する特徴を持っていたため、同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが、廃刊は免れた。1941年(昭和16年)、東洋経済新報社の社長制新設に伴い、代表取締役社長に就任。戦争末期には、連合国の戦後構想に刺激を受け、戦後研究の重要性を石渡荘太郎蔵相に進言し、それにより設立された大蔵省戦時経済特別調査室で経済学者や金融関係者と共に戦後研究を行った。1945年(昭和20年)8月25日には、論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べた。10月13日、『東洋経済新報社論』で「靖国神社廃止の議」を論じて靖国神社の廃止を主張した。東京裁判ではGHQ・検察側が、高橋是清の経済政策が戦争に結びついたと主張したが、石橋は高橋是清の政策はデフレ不況を脱出するための政策であり、軍備拡張にはつながっていない、明治以来の政策と軍備拡張の政策は違うと主張。しかし、裁判では採用されなかった。1946年(昭和21年)、日本自由党から総選挙に出馬。落選はしたものの、第1次吉田内閣の大蔵大臣として入閣した。大蔵大臣在任時にはデフレーションを抑えるためのインフレーションを進め、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進した。一方、戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題等でGHQと対立。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて、日本の国家予算の3分の1を占めている。このあまりの巨額の負担を下げるように、石橋は要求した。アメリカは、諸外国の評判を気にしたことと、以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減することとなった。戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は、国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したが、公職追放令をもってGHQにより公職追放された。1951年(昭和26年)の追放解除後は、石橋の公職追放に関わったとされる吉田茂の政敵であった自由党・鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。1952年(昭和27年)、戦後すぐに立正大学から懇願されていた学長に就任した。1954年(昭和29年)、第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任。1955年(昭和30年)、商工委員会委員長田中角栄のもと、戦後の財閥解体の根拠法令のひとつであった過度経済力集中排除法を、独占禁止法と置き換える形で廃止。11月には、日中輸出入組合の結成を支援した。石橋は中華人民共和国、ソビエト連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。11月15日、保守合同により鳩山の日本民主党と吉田から継承した緒方竹虎の自由党が合同し自由民主党が結成され、石橋も合流入党した。1956年(昭和31年)、日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、12月で鳩山首相が引退。これを受けて、アメリカ追従を主張する岸信介が自民党総裁選に立候補した。これに対し石橋は、さらに中華人民共和国など他の共産圏とも国交正常化することを主張し、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。総裁選の当初は岸優位で、1回投票では岸が1位であったが、石井光次郎と2位・3位連合を組んだ決選投票では石橋派参謀の石田博英の功績もあって、岸に7票差で競り勝って総裁に当選。12月23日に内閣総理大臣に指名された。しかし、前述のような総裁選であったため岸支持派とのしこりが残り、さらに石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ、組閣が難航。石橋自身が一時的に多くの閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足した(一人内閣)。「党内融和のために決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見が強かったため、石橋内閣成立の立役者だった石井の副総理がなくなり、副総理には岸が就任した。内閣発足直後に石橋は「全国民を包括する総合的な医療保障」を演説した鳩山の路線を継承して、1957年(昭和32年)1月8日に国民皆保険を目指すことを閣議決定するなど福祉国家建設、さらに対米自主外交では日中貿易を促進する世界平和の確立などを基本とした「五つの誓い」を掲げ、具体的には経済政策では池田勇人を大蔵大臣に抜擢して「1000億円施策、1000億円減税」として積極財政を行うとし、全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。1月25日、帰京した直後に自宅の風呂場で倒れた。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2か月の絶対安静が必要との医師の診断を受けて、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した。1957年(昭和32年)度予算審議という重大案件の中で行政府最高責任者である首相が病気療養を理由に自ら国会に出席して答弁できない状況での辞任表明には、野党でさえ好意的であり、岸の代読による石橋の退陣表明を聞いた日本社会党の浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたい」と述べたと言う。石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王・桂太郎・羽田孜に次ぐ歴代で4番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した唯一の首相にもなった。後任の首相には岸が任命され、居抜き内閣として第1次岸内閣が誕生した。幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの、石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。1959年(昭和34年)9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であり、日本政府とは一切関係ないものとする」と牽制されながらも中華人民共和国を訪問。前首相・衆議院議員とはいえ政府の一員ではない石橋は、訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処がつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談が実現した。冷戦構造を打ち破り、日本がその懸け橋となる日中米ソ平和同盟を石橋は主張した。この主張は、まだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意した。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束。「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。1960年(昭和35年)、大陸中国との貿易が再開。この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれる。その後も少数派閥ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には、本会での議決を欠席するなどして、批判的な態度をとり自民党内ハト派の重鎮として活躍したが、1963年(昭和38年)の総選挙で落選し、そのまま政界を引退した。1964年(昭和39年)、勲一等旭日大綬章を受章。1966年(昭和41年)2月、手足に麻痺を感じ聖路加病院に入院。同年11月の自民党幹部・大久保留次郎の葬儀に参列したのを最後に外出記録はない。1968年(昭和43年)3月には立正大学学長を退き、一切の社会的活動から引退した。1970年(昭和45年)2月にも再び肺炎で聖路加病院に入院し、その後は鎌倉の娘宅や中落合の自宅で療養生活を送る。1971年(昭和46年)7月にはアメリカ大統領の特使ヘンリー・キッシンジャーが訪中し周恩来と会談すると、米中対話を支持するメッセージを発表。また、翌年7月には田中角栄内閣が成立し、日中国交正常化への機運が高まっていたが、田中は訪中以前に中落合の石橋宅を訪れており、田中訪中の結果、日中国交正常化が成立すると、石橋はこれを祝賀するメッセージを発表した。その後は病状が悪化。1973年(昭和48年)4月25日午前5時、脳梗塞のため自宅で死去。享年89。


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庶民派の宰相として期待されながらも、病気のため65日で退陣した石橋湛山。戦前は気骨あるジャーナリストとして日本に帝国主義への離脱と世界平和の実現を訴えた。今や戦後日本を代表するリベラリストとしての評価が高い石橋湛山だが、再軍備と憲法改正を訴えていたことは意外と知られていない。彼の場合、一貫して経済的視点からの主張をしており、その評価をリベラルとか保守などで分けられるものではないと思う。ジャーナリストから総理大臣にまで上り詰めた男・石橋湛山の墓は、東京都荒川区の善性寺と山梨県南巨摩郡の久遠寺に分骨されている。今回紹介する前者の墓には「石橋湛山 石橋家」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「謙徳院殿慈光湛山日省大居士」

# by oku-taka | 2018-02-24 22:49 | 政治家 | Comments(0)

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長谷川 裕見子(はせがわ ゆみこ)

女優
1924年(大正13年)~2010年(平成22年)

1924年(大正13年)、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に生まれる。本名は、船越(旧姓:長谷川)琴子。1944年(昭和19年)、白百合高等女学校(現在の白百合女子大学)を卒業。一時は陸軍省に勤めたが、1947年(昭和22年)叔父で俳優の長谷川一夫が主宰する新演技座に入り、京都南座『鏡獅子』で初舞台を踏む。1948年(昭和23年)、長谷川一夫主演、大曾根辰夫監督の『遊侠の群れ』で映画デビュー。1950年(昭和25年)、叔父と大映京都に入社。1955年(昭和30年)には東映京都に移り、翌年には河野寿一監督の『白扇・みだれ黒髪』で東千代之介演じる田宮伊右衛門の妻を演じ、京都市民映画祭助演女優賞を受賞した。その後も片岡千恵蔵主演の『大菩薩峠』、大川橋蔵主演の『新吾十番勝負』シリーズなどにレギュラー出演。映画では町娘や武家娘、女房役を演じることが多く、1950年代から1960年代にかけて東映の時代劇映画を中心に活躍した。1958年(昭和33年)、かつて映画で共演した俳優・船越英二と結婚。2年後には後に俳優となる船越英一郎を出産した。1964年(昭和39年)、東映を退社し、テレビに活躍の場を移す。1965年(昭和40年)、英一郎のぜんそく治療のため神奈川県足柄下郡湯河原町に住居を移し、会員制旅館「旅荘 船越」を開業。その後、徐々に仕事を減らしていき、1974年(昭和49年)親友であった石井ふく子プロデュースによる東芝日曜劇場『一つだけのいのち』(10月20日放送)を最後に女優を引退した。引退後は長女とともに旅館の経営にあたった。2010年(平成22年)7月27日午前4時44分、転移性肺癌のため湯河原町の病院で死去。享年86。

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日本映画全盛期、この時代にデビューした女優たちは次々とヒロインに抜擢され、銀幕を代表する女優になっていった。殊に時代劇映画では「お姫様女優」と呼ばれ、宇治みさ子、千原しのぶ、大川恵子といった時代劇の女優たちがスクリーンに欠かせぬ存在としていくつもの作品に華を添えた。その中でも、喜多川千鶴とともに大映の時代劇映画のお姫様女優として君臨していたのが長谷川裕見子である。片岡千恵蔵の「大菩薩峠」シリーズではお浜・お豊の二役という難しい役を、大友柳太朗の「丹下左膳」シリーズでは伝法な櫛巻お藤、大川橋蔵の「新吾十番勝負」では将軍吉宗の正室・お鯉の方役で息子の新吾を思いやる母親など、実に幅広い役柄をこなした。女優引退後は湯河原で穏やかな生活を送っていたそうだが、息子の嫁と船越英二との確執、夫の急逝、経営していた旅館の閉鎖、娘の自殺と晩年は恵まれなかったように思う。瓜実顔のお姫様女優・長谷川裕見子の墓は、東京都新宿区の正受院にある。当初は神奈川県の湯河原に建立した墓に納められていたが、2013年(平成25年)船越英二の7回忌にあたり当時の息子の嫁であった松居一代によって新宿区に移された。五輪塔の墓には「船越家」とあり、両端に墓誌が建つ。諡名は「船越琴子裕見子姫命」

# by oku-taka | 2018-02-24 16:47 | 俳優・女優 | Comments(0)

船越英二(1923~2007)

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船越 英二(ふなこし えいじ)

俳優
1923年(大正12年)~2007年(平成19年)


1923年(大正12年)、東京府東京市四谷区内藤新宿(現在の新宿区)に生まれる。本名は、船越 榮二郎。四谷第五小学校から帝京中学校を経て、美術学校か写真学校に進学を希望するが、父親の勧めで1941年(昭和16年)に専修大学経済学部に入学。しかし、1944年(昭和19年)に学徒出陣で繰り上げ卒業。香川県三豊郡豊浜町(現在の観音寺市)の陸軍船舶学校に入り、翌年の8月に見習士官として終戦を迎える。その後は父親の勧めで地元新宿に写真屋を開いていたが、1947年(昭和22年)俳優となった兄の友人が冷やかし半分で大映第2期ニューフェイス募集に船越の応募書類を送付したところ合格。同年3月に大映東京撮影所演技研究所に通い、4月には大映と専属契約。『第二の抱擁』で折原啓子の恋人役で俳優デビューとなった。最初は出来心で俳優になったが、地元の新宿商店街に後援会まで発足してしまったので引っ込みがつかず、中途半端な心境のためか役柄も真面目青年しか与えられなかった。1952年(昭和27年)、出演した『安宅家の人々』と『秘密』の演技が好評を呼び、以降も二枚目俳優として大映のプログラムピクチャーに多く出演する。もっぱら主演女優の引き立て役が多かったが、1956年(昭和31年)の『日本橋』、翌年の『満員電車』と『夜の蝶』で演技派俳優としての才能を開花させ、それまでの単なる二枚目俳優から飄逸さと人間的逞しさを併せ持つ性格俳優となった。1958年(昭和33年)、長谷川一夫の姪で女優の長谷川裕見子と結婚。2年後には長男で後に俳優となる船越英一郎が誕生した。1959年(昭和34年)、大岡昇平原作、市川崑監督の『野火』に主演。役作りのために何日も絶食し、フィリピン戦線で飢餓の中を彷徨う敗残兵の演技は絶賛され、第33回キネマ旬報賞主演男優賞、第14回毎日映画コンクール主演男優賞など各映画賞を総なめにした。その後も『黒い十人の女』『破戒』『私は二歳』などの話題作に出演し、美男のルックスと個性を活かした様々なジャンルの作品でその役柄をこなす手堅い演技派として活躍。和製マルチェロ・マストロヤンニとも謳われ、大映に欠かせないスターとして約200本の映画に出演した。1965年(昭和40年)、息子・英一郎のぜんそく治療のために神奈川県足柄下郡湯河原町に住居を移し、会員制旅館「船越」を創業。俳優業の傍ら旅館の経営にもあたった。1971年(昭和46年)、大映が倒産。その後はテレビドラマに活動の場を移し、『時間ですよ』『熱中時代』『暴れん坊将軍』などジャンルに問わず出演し、いずれも代表作となった。1989年(平成元年)に紫綬褒章、1995年(平成7年)に勲四等旭日小綬章を受章。2001年(平成13年)のフジテレビ系ドラマ『旗本退屈男』の出演を最後に俳優を引退。その後は旅館に近い自宅で妻や娘夫婦と共に暮らし、旅館の経営も娘に譲って余生を過ごしていた。2007年(平成19年)3月15日、自宅で突然倒れ、すぐに静岡県内の病院に搬送された。当初は意識もわずかにあったが、16日夜に容態が急変し、3月17日午後10時57分、脳梗塞により死去。享年85。


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昨年ワイドショーを席巻したは船越英一郎と松居一代の離婚騒動。その父、船越英二は大映の黄金期を彩ったスター俳優である。後年の船越英二は歳のせいか優しくてコミカルなおじさんを演じることが多かったが、かつては『黒い十人の女』のような女をたぶらかすだらしない男、『野火』のような飢餓と悲惨な戦争状況で極限状態に陥った敗残兵など、端整な顔立ちだけでない確かな演技力で数少ない実力派の映画スターであった。そんな人に「お口クサ~イ」と小さい子供に言われるポリデントのCMをやらせるなんて…と複雑な思いを抱いたが、コミカルな演技もできた船越英二だからこそ不快のないCMができたのかなと今は好意的に捉えている。船越英二の墓は、東京都新宿区の正受院にある。当初は神奈川県の湯河原に建立した墓に納められていたが、2013年(平成25年)の7回忌にあたり当時の息子の嫁であった松居一代によって新宿区に移された。五輪塔の墓には「船越家」とあり、両端に墓誌が建つ。諡名は「船越榮二郎英二翁命」


# by oku-taka | 2018-02-24 16:40 | 俳優・女優 | Comments(0)