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カテゴリ:音楽家( 69 )

上原げんと(1914~1965)

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上原 げんと(うえはら げんと)

作曲家
1914年(大正3年)~1965年(昭和40年)

1914年(大正3年)、青森県西津軽郡木造町(現在のつがる市木造)に生まれる。本名は、上原 治左衛門。生家が蓄音機店だったことから、幼い頃より音楽になじみ、独学でギターと作曲を学ぶ。1934年(昭和9年)、上京。新聞配達、チンドン屋など職を転々とした。この頃、上野松坂屋の食堂に勤めていた佐々木辰男(後の岡晴夫)と出会い、歌手を夢見る彼と共に、1936年(昭和11年)から演歌師などをして東京の下町一帯を流して歩く。岡とは東京の6畳の部屋で共同生活をし、夜は流し、昼はそれぞれ歌と作曲の勉強をした。1938年(昭和13年)、銀座のキャバレー「クラウン」で出会った東海林太郎に勧められ、キングレコードのオーデションを受けて合格。1938年(昭和14年)2月、歌手の岡晴夫と組み、『国境の春』でデビューした。5月には『上海の花売娘』が大ヒットし、作曲家として認められる。その後も、『港シャンソン』『東京の花売娘』と、岡晴夫の黄金期を支える作曲家として数々の曲を作曲し、ゴールデンコンビとして一世を風靡する曲を連発した。1951年(昭和26年)、コロムビアレコードに移籍。美空ひばり、初代コロムビア・ローズ、島倉千代子などに曲を提供する傍ら、作詞家・石本美由起もコロムビアレコードに移籍させ、コンビでヒットを量産した。1955年(昭和30年)には、マーキュリーレコードで悪戦苦闘をしていた岡晴夫に声をかけ、コロムビアレコードに移籍させた後に『逢いたかったぜ』でカムバックさせた。その後もヒットメーカーとして活躍する一方、松山まさる(後の五木ひろし)等の後進の育成に力を注いでいたが、1965年(昭和40年)8月13日、避暑地に向かう車中で心筋梗塞を発症し急死。享年50。


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昭和のヒットメーカーの一人、上原げんと。彼が紡いだ旋律は口ずさみやすいメロディーが特徴で、初代コロムビア・ローズが歌った『東京のバス・ガール』は長い間はとバスの定番曲となり、美空ひばりの『港町十三番地』は森繁久彌が最も好むひばりソングとしてベストワンに挙げるなど、上原メロディーは聴衆者の心を掴むものがあった。中でも、親友・岡晴夫とのコンビは歌謡曲黎明期を支えるに貢献し、『東京の花売娘』『逢いたかったぜ』は今なお愛唱されている。50歳というあまりの突然の死となってしまった上原げんとの墓は、東京都八王子市の東京霊園にある。墓には、上原の戒名「麗音院釋紘人居士」と妻の戒名があり、右横に『東京の花売娘』の一小節目が刻まれた碑が建つ。

by oku-taka | 2020-03-22 22:58 | 音楽家 | Comments(0)

井田誠一(1908~1993)

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井田 誠一(いだ せいいち)

作詞家
1908年(明治41年)~1993年(平成5年)

1908年(明治41年)、東京都八王子市に生まれる。1932年(昭和7年)、早稲田大学英文科を卒業。八王子中学校(現在の八王子学園八王子高等学校)の教師となる。1938年(昭和13年)、作詞家に転身し、ビクターの専属となるも、翌年に退社し再び教職に戻る。戦時中は日本語教師として中国大陸に渡るが、終戦によって1946年(昭和21年)に帰国。1946年(昭和21年)、井田が書いた『恋の風車』が末松和男・吉岡妙子の歌唱によりレコード化。これを機にビクターへと戻り、作詞家の活動に専念する。1949年(昭和24年)、戯曲『炎の朝』で第2回読売演劇大賞を受賞。1951年(昭和26年)、暁テル子が歌った『東京シューシャンボーイ』が初のヒット。以降、『水色のスーツケース』『東京ティティナ』『若いお巡りさん』などヒットを連発。また、ダイナ・ショワの『青いカナリア』、ハリー・ベラフォンテの『バナナ・ボート』といった海外のヒット曲の訳詞も担当した。1993年(平成5年)10月12日、東京都八王子市長房町の自宅にて死去。享年85。


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1950年代の歌謡界に多くのヒットを放った作詞家の井田誠一。佐伯孝夫、宮川哲夫と共に戦後のビクターを支え、暁テル子、雪村いづみ、曽根史郎らをスターダムに押し上げた。代表作『東京シューシャンボーイ』『若いお巡りさん』からわかるように、彼の詩は明るく口ずさみやすいのが特徴的であった。和田弘とマヒナ・スターズのオリジナルヒット第1号『泣かないで』においても、別れの歌でありながら「明日の晩も会えるじゃないか」と締めている。希望を持たせた流行歌を作り続けた作詞家の墓は、東京都八王子市の富士見台霊園にある。墓には「井田家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。

by oku-taka | 2020-01-01 22:15 | 音楽家 | Comments(0)

出門英(1942~1990)

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出門 英(でもん ひで)

歌手
1942年(昭和17年)~1990年(平成2年)

1942年(昭和17年)、東京府に生まれる。本名は、加藤 秀男。中央大学を中退後、ポニー音楽スクールに入学。1959年(昭和34年)、都内のジャズ喫茶で歌い始める。以後、運転手、ボーイなど職を転々としながら音楽活動を行う。1962年(昭和37年)、日活第6期ニューフェースに合格し、日活に入社。水木 英二(みずき えいじ)の芸名で約1年間の俳優活動を行い、並行して『東京ロマンチックガイ』で東芝レコードからソロ歌手としてデビュー。1966年(昭和41年)、出門 ヒデと改名し、佐藤由紀(後のアン真理子)と「ユキとヒデ」を結成。ボサノヴァ・デュオとして活動したが、1968年(昭和43年)にユキがレコード会社を移籍したことから解散。同年、イタリア出身、ロザンナ・ザンボンと「ヒデとロザンナ」を結成。デビュー曲『愛の奇跡』が大ヒットし、一躍売れっ子歌手の仲間入りを果たす。1970年(昭和45年)には『愛は傷つきやすく』が大ヒットし、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たした。1975年(昭和50年)2月、ロザンナと結婚。このとき、仕事をキャンセルしてハワイで極秘に結婚式を挙げたことから一時的に芸能界から干された。結婚後は主にソロで活動し、作曲家として小柳ルミ子に『星の砂』(1977年、作詞は関口宏)、森昌子に『彼岸花』(1978年)を提供し、ヒットさせている。俳優としても、テレビドラマ『必殺仕事人V・旋風編』や『毎度おさわがせします』(第3シリーズ)、映画は『光る女』『東京上空いらっしゃいませ』等の相米慎二監督作品に出演して活躍した。1989年(平成元年)7月、NHKテレビ『思い出のメロディー』のリハーサル中に突如原因不明の激しい下痢に見舞われる。一旦下痢は治まったものの、同年10月に再発。しかし、病院に行かず仕事を続けていた。年末に医師の診察を受けた結果、結腸癌と判明。妻のロザンナは出門本人にがんの告知をしなかったが、1990年(平成2年)1月に緊急入院。結腸癌の手術時には既にリンパ節・腹膜にも転移が判明し、末期癌の段階にあり手遅れの状態だった。同年3月に一時退院し、3月17日には出門自らが経営していたゴルフショップの新ブランドの発表会の記者会見を行う。しかし出門の身体は明らかに急激に痩せ、目をサングラスで隠すなどをしており、これが出門の最後の公の場になった。同年4月高熱により再入院。診断の結果、結腸癌が肺にまで転移していることが判明した。イタリア出身で、敬虔なカトリック信者のロザンナや愛児らの「生まれ変わっても(出門の生まれ変わりと)家族でありたい」という願いもあり洗礼を受ける。6月15日、大量吐血し意識不明の重体に陥り、6月17日に入院先の東京都内の病院で死去。享年47。


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日本人とイタリア人という異色のコンビで話題となった、ヒデとロザンナ。後に2人は結婚し、晴れて夫婦デュオとなったのだが、ロザンナ曰くヒデは相当のモテ男で女友達も多く、ロザンナの強い押しで結婚にこぎつけることが出来たとのことだった。結婚後は作曲家、バラエティー番組の司会者、俳優とマルチに活躍していたが、まさか自分が47歳であの世の人になるだろうとは思いもしなかったであろう。出門英の墓は、東京都あきる野市の西多摩霊園にある。「加藤家」とある洋形の墓には十字架が飾られ、その手前には趣味だったゴルフボールを模った花入れ、生前の写真と「愛はいつまでも」と刻まれた碑が建つ。

by oku-taka | 2019-11-06 17:33 | 音楽家 | Comments(0)

辻輝子(1907~1973)

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辻 輝子(つじ てるこ)

声楽家
1907年(明治40年)~1973年(昭和48年)

1907年(明治40年)、長崎県長崎市に生まれる。本名は、山田 眞梨子。1927年(昭和2年)、活水女学院音楽師範科を卒業。福岡女学院で音楽を教えていたが、1932年(昭和7年)に教職を辞して上京。声楽家の奥田良三や作曲家の山田耕筰に師事した。声楽家として立ち、「源氏物語」に題材をとった鈴木二三雄(チェロ奏者)作曲の「紫」の声楽部門を担当。全国で公演を行って好評を博した。後に山田耕筰と結婚し、夫が手がけたオペラや新作歌曲などで活躍した。1973年(昭和48年)7月5日、死去。享年65。


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ラジオ歌謡『さくら貝の歌』で知られる声楽家の辻輝子。晩年は恋多き作曲家だった山田耕筰の妻となり、病気のため体が不自由になった彼の右腕として活動した。そんな辻に山田は『みぞれに寄する愛の歌』という曲を誕生日にプレゼントしている。多くの歌曲を山田から指導され、果ては妻として偉大な音楽家を支えた辻輝子は、東京都あきる野市の西多摩霊園にある。洋形の墓には、直筆による「山田耕筰 眞梨子」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2019-10-25 19:38 | 音楽家 | Comments(0)

山田耕筰(1886~1965)

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山田 耕筰(やまだ こうさく)

作曲家
1886年(明治19年)~1965年(昭和40年)

1886年(明治19年)、東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)に生まれる。出生名は、山田 耕作。1896年(明治29年)、10歳で実父を亡くす。実父の遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学する。1899年(明治32年)、姉のガントレット恒を頼り、岡山の養忠学校に入学。姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきをうける。翌年、関西学院中学部に転校。同本科中退を経て、1904年(明治37年)東京音楽学校予科に入学。1908年(明治41年)、東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽科を卒業。1910年(明治43年)から3年間、三菱財閥の総帥・岩崎小弥太の援助を受けてドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。1912年(大正元年)には日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。帰国後の1914年(大正3年)、岩崎が組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任されるが、自身の恋愛問題により岩崎が激怒し、資金源を断たれ、翌年に解散する羽目となる。1917年(大正6年)、渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開き、ニューヨーク近代音楽協会および全米演奏家組合の名誉会員に推挙された。また、小山内薫と組んで劇団「土曜劇場」「新劇場」を創立。新劇運動にも積極的にかかわった。1919年(大正8年)、日本の歌劇運動を推進するため日本楽劇協会を組織。オペラの上演を試みる一方、『堕ちたる天女』『香妃(シャンフェイ)』などを作曲した。一方、欧米でも作曲家・指揮者として活躍した。1921年(大正10年)、文化学院音楽科主任となる。1922年(大正11年)、北原白秋と共同編集の月刊誌『詩と音楽』を創刊。詩と音楽の融合を図り、日本語の語感を生かした歌曲の普及による国民音楽樹立運動をおこした。1924年(大正13年)、近衛秀麿と共にハルビンのオーケストラ楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰。これを母体に近衛と日本交響楽協会(現在のNHK交響楽団の前身)を設立。しかし、不明朗経理を理由に内紛が勃発。黒柳守綱ら4名を残し大部分の楽員は近衛と行動をともにしたため、山田派は崩壊した。1926年(大正15年)、湘南の茅ヶ崎町(現在の神奈川県茅ケ崎市)に居を構える。オーケストラ楽団の失敗により多額の借金を抱えていたが、同地で再起。日本的な表現、日本語による歌曲を追求し,『赤とんぼ』『この道』『からたちの花』などの名曲が数々生まれる。1930年(昭和5年)、耕作から耕筰へと改名。「山田耕作」と同姓同名の人物が多く、それゆえのトラブルが頻発していたことから、改名に踏み切った。また、山田の指揮姿を見た颯田琴次から後頭部の髪の乱れを指摘され、カツラをつけろと言われたが、カツラを嫌った山田は丸坊主にしたものの、その姿を気に入っておらず、それで名前の上にカツラをかぶせることを考えた。1936年(昭和11年)、レジオンドヌール勲章を受章。1937年(昭和12年)、相愛女子専門学校(現在の相愛大学)教授に就任した。戦時体制が色濃くなった1940年(昭和15年)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任する。同年11月にはオペラ『黒船』(当初の題名は「夜明け」)を初演。また、皇紀2600年奉祝演奏会ではジャック・イベールの新作『祝典序曲』を指揮する。1941年(昭和16年)、情報局管轄下の「日本音楽文化協会」を発足し、副会長に就任。また、音楽挺身隊を結成し、占領地での音楽指導にも携わる。しかし、将官待遇となったことからしばしば軍服姿で行動したため、後の「戦犯論争」の槍玉に挙げられることとなる。1942年(昭和17年)、帝国芸術院会員に選出。1944年(昭和19年)、日本音楽文化協会の会長に就任。終戦後、自身の戦時中の行動に関して、東京新聞で音楽評論家・山根銀二との間に戦犯論争が勃発。音楽界では唯一の戦争責任論争が行われた。1948年(昭和23年)、脳溢血を発症。以後体が不自由となる。1950年(昭和25年)、日本指揮者協会の会長に就任。同年、放送文化賞を受賞。1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。同年、再婚したのをきっかけに戸籍上の名も「耕筰」に改める。1965年(昭和40年)11月初旬、聖路加国際病院に入院していたが、家族が東京都世田谷区成城に広壮な洋館風の邸宅を借りる。同年12月4日、成城の自宅に退院。12月29日午前7時5分、心筋梗塞のため死去。享年79。


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日本において西洋音楽の普及に努めた音楽家・山田耕筰。親しみやすい童謡から交響曲、軍歌、校歌と幅広いジャンルで数多くの名曲を残した。作曲家として活動する一方、日本最初の交響楽団となる東京フィルハーモニー管弦楽団を創設。指揮者として自作を発表するなど、交響楽やオペラの普及にも尽力した。音楽と女性を愛し、日本語の特徴を生かした美しい楽曲を残した山田耕筰の墓は、東京都あきる野市の西多摩霊園にある。洋形の墓には、直筆による「山田耕筰 眞梨子」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「響流院釋?筰」。

by oku-taka | 2019-10-25 16:37 | 音楽家 | Comments(0)

新橋喜代三(1903~1963)

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新橋 喜代三(しんばし きよぞう)

歌手
1903年(明治36年)~1963年(昭和38年)

1903年(明治36年)、鹿児島県の種子島、熊毛郡北種子村(現在の西之表市)に生まれる。本名は、中山 嘉子。旧姓は今村、旧名はタネ。(読み方は同じで「タ子」と書かれた書物もある)。間もなく両親と鹿児島市に移り住む。父は畳職人であったが、水商売を好み、旅館や料亭など幾多の商売を手がけるも上手く行かず、鹿児島市内を転々として過ごした。鹿児島市唐湊に住んでいた頃に尋常小学校へ入学するが、父の度重なる商売の失敗で夜逃げをするに至り、宮崎県小林市に移り住んだ後、家計を助けるため尋常小学校を5年で中退。近所の芝居小屋「新芸座」に住み込んで売り子の仕事をするようになった。1916年(大正5年)、小林で父が営んでいた商売が軌道に乗り、一家は鹿児島へ戻る。鹿児島に戻った一家は、鹿児島駅近くの小川町で小さな果物屋を開いた。1916年(大正5年)、果物屋の常連客が、父に「タネを芸者にしないか」と相談しているのを耳にしたタネは、小さな果物屋の商いで家族8人が暮らして行く大変さ、商売が軌道に乗ってもまたいずれ父が新たな商売に手を出す事を慮り、翌朝両親に芸者になりたいと打ち明けた。両親は当然の事ながら反対するが、タネの熱心な説得は続き、鹿児島市の西券番に属する芸者置屋「都屋」へ身代金100円と引き換えに芸者の仕込みとして入る。同年9月1日、同じ置屋の芸者八重子の妹分として八重丸の名で見世出しするが、南券番より移籍して来た同僚芸者の小染から南券番の芸の水準の高さを聞かされた八重丸は、芸の水準のみならず客層や料亭の格も上級である南券番への移籍を希望し、見世出しからわずか3ヶ月ほどで南券番の置屋「松屋」に移り、12月15日に先輩芸妓千代治の妹分として、置屋の主人の命名により「成金」の名で見世出し(周囲から名前について冷やかされたため、改名を願い出て翌正月より「千成」となる)。当時鹿児島の花柳界に所属する芸者は関西出身の者が大半を占め、地元出身の芸者は極少数であったため、非常に珍しがられた。千成も唄に三味線にと熱心に取り組み、馴染みの客なども出来て順調だったが、旦那(スポンサーのこと)を持つ事を拒否していたため、着物代などの経費は自腹で賄わねばならず、その為に借金が増えてった。1919年(大正8年)5月、西券番へ紹介した父の果物屋の常連客と街中で偶然会ったところ、台湾で働く芸者を探しに来ている人が、前月行なわれた券番の温習会を見て、千成の事を気にかけているという話を聞き、借金を清算するために台湾行きを希望する。話はトントン拍子に進み、5月25日に下関から信濃丸で台湾へ渡る事となる。年季は4年で1,500円の前借りという条件であった。台湾では置屋「高砂」に所属し「蔦奴」と改名して台湾での芸者稼業をスタートさせた。一方、当時仕事で台湾に駐在していた後の写真家木村伊兵衛と恋に落ちる。1922年(大正11年)、伊兵衛が日本へ引き上げることとなり、日本が恋しくなった蔦奴も鹿児島への引き上げを決意する。年季があと1年近く残っていたことによる前借金の清算と、台湾で新たに作った借金の合わせて1,500円を請求されたが、迎えに来た父が交渉して1,300円に負けてもらい、そのうち800円を現金で支払い、残りは証文にして後日の支払いを約束、再び鹿児島へ戻ることとなった。鹿児島に戻った蔦奴は、南券番の置屋「喜楽」に所属。 1922年(大正11年)、妓籍名を「喜代治」と改めてお披露目。鹿児島に戻ってからも伊兵衛とは手紙を通じて交際は続いたが、次第に伊兵衛からの連絡が滞るようになり、11月にはとうとう手紙の返事が来なくなった伊兵衛の気持ちを確かめる為に、置屋には熊本へ行くと偽り、生まれて初めて上京。東京では伊兵衛の両親とも初めて対面し、本人との関係も修復して10日後には鹿児島へ戻るが、12月20日には伊兵衛へ思いが高まり、誰にも告げぬまま発作的に夜行列車に飛び乗り東京へ向かう。しかし喜代治の行動を察知した券番が後を追って上京し、鹿児島へ帰るよう説得するも聞き入れなかったため、さらに父が上京し、結果鹿児島へ連れ戻された。その際、伊兵衛の両親との仲も円滑であったことから、伊兵衛と両親は喜代治との結婚を視野に入れ落籍を願い出たが、一括で落籍に要する費用を支払えなかったため父に断れている。1923年(大正12年)1月末、伊兵衛の母親から立腹した内容の手紙が届き、喜代治が知らぬ間に父が伊兵衛の両親宛に「娘は伊兵衛との仲をあきらめた」と偽りの内容の手紙を出していた事を知る。すぐさま弁解の手紙を出そうとしたが、実際問題としてなかなか進展しない伊兵衛との仲や、父をはじめとする周囲の反対に、この恋の成就は無理だと悟った喜代治は別れを決意し、伊兵衛の母親宛にその旨を記した手紙を送った。伊兵衛と別れた喜代治は一層芸に打ち込み、それに人柄も相まって人気も上昇していった。昭和に入ると、ますます喜代治の人気は高まり、地元の名士の宴席はもちろんのこと、鹿児島を訪れた政財界の要人の宴席には決まって喜代治が呼ばれるようになる。1929年(昭和4年)、鹿児島を訪れた大倉喜七郎、大川平三郎、松野鶴平、渋沢栄一らの宴席も務めており、彼らは後に喜代治が新橋花柳界に移籍してからも贔屓の客となった。この頃、先輩芸者一八が得意とし、別名『一八節』とまで言われた『小原良節』を直々に教わり、一八が京都へ移った事からその後継者となった喜代治は、NHK熊本放送局から『小原良節』『はんや節』『よさこい』『三下り』『げんや節』などを放送して名をあげ、度々熊本放送局へ呼ばれるようになり、コロムビアからの依頼により大阪のスタジオでレコーディングも行なった。1930年(昭和5年)、鹿児島では昭和恐慌以来なかなか回復しない経済の閉塞感を打開する気運を作ろうと、鹿児島商工会議所の主催、鹿児島市・鹿児島県の後援により「國産振興博覧會」が企画され、その宣伝ソングを作る話が持ち上がる。作家として指名されたのは作詞が西條八十、作曲が中山晋平の両巨匠で、1931年(昭和6年)、その二人が取材のために鹿児島を訪れ、料亭「青柳」での接待の宴席に呼ばれたのが喜代治であった。その席で喜代治は一八直伝の『小原良節』を披露。西條は歌詞の取材のために鹿児島市内各地を歩き回っていたが、作詞が終わらないことには作曲出来ないため、中山は滞在中度々喜代治を呼び出しては鹿児島の民謡を聞いたりして過ごした。この時に喜代治は一八から教わった『小原良節』の歌い方について、自分なりの工夫をした点の善し悪しを相談したところ、喜代治なりの歌い方で良いと励まされた。西條の詞の完成を待って中山の作曲が始められ、滞在6日目にだいたい出来上がると、市内3券番(南・西・中券番)の芸者代表として喜代治が中山より直接歌唱指導され、他の芸者を前にしての模範歌唱を行なった。また振り付けも中山自らが行ない、それを喜代治に教えて喜代治から他の芸妓へ伝えられた。 ちなみにその國産振興博覧會の宣伝ソングとして出来上がったのは、当時既に人気歌手となっていた芸者出身の藤本二三吉が歌った『鹿児島小唄』で、博覧会の会場に設けられた演芸館で連日鹿児島市内3券番の芸者連中が舞踊と演奏でこの曲を披露し、喜代治も南券番の唄方として名を連ねている。鹿児島滞在中から喜代治に恋心を寄せていた中山は、鹿児島を離れた僅か4ヶ月後、歌を作る為に西條と共に訪れていた福岡県久留米市から、喜代治に会うためだけに西條を伴って再度鹿児島を訪れている。また喜代治も中山の人柄に触れ、尊敬の念が次第に恋愛感情へと変わって行った。同年の8月1日、東京の日本橋三越で行なわれた鹿児島物産展のアトラクションに出演するため上京。アトラクション出演の翌日8月2日、中山の紹介によりビクターで『小原良節』『はんや節』『よさこい節』『三下り』の4曲をレコーディングした。 この上京の際、同郷人で貴族院議員、財界の重鎮でもあった樺山資英、後に飯野海運社長となる俣野健輔から新橋金田中での宴席に呼ばれ、その席で披露した芸が好評を博し、東京への進出を勧められた。それを中山に話したところ大いに賛同を得て喜代治は上京を決意。鹿児島へ戻った喜代治は、当時世話になっていた旦那に東京行きの決意を伝えて許しを得、新橋の置屋「金三升」へ所属する事を決め、1931年(昭和6年)10月22日、鹿児島商工会議所会頭、料亭関係者、芸妓組合50人以上の見送りを受けて上京。正式に新橋に所属する事となり、その際に先輩芸者に読み方が同じの喜代次がいたため、名を「喜代三」と改める。その美貌と優れた芸がたちまち評判となり、上杉愼吉、大倉喜七郎、松本學、橋本欣五郎、中島健蔵、杉山平助など、政財界をはじめとする当時の名士の座敷を勤めた。新橋に移ってからも宴席では鹿児島民謡を中心に九州民謡を披露し好評を得た。1932年(昭和7年)7月、新橋の置屋の看板を譲りたいという話があり、中山の出資を得て2,500円で取得。「喜代之家」として届け出て営業を始めた。秋にはポリドールの専属となり、「新橋喜代三」の名で流行歌『わしゃ知らぬ』を吹込み、1933年(昭和8年)6月に発売。しかし、芸者と流行歌手の兼業を快く思わなかった新橋の先輩芸者らからレコード会社の専属とステージでの活動を止めるよう咎められて対立するようになり、市村羽左衛門らも仲裁に入ったが決裂。同じ新橋の烏森花柳界へ移籍し、芸苗字「新橋」を守る。1934年(昭和9年)1月、『鹿児島小原良節』を出し大ヒット。便乗した他社からも次々に『鹿児島小原良節』のレコードが発売されるほどのブームとなった。翌年には『明治一代女』もヒットした。この間、中山とは既に愛人関係となっており、熱海や箱根仙石原の別荘で逢瀬を重ねながらも、中山の依頼で敏子夫人に三味線を教え、喜代三は中山から発声のレッスンを受けるため中山家に出入りしていた。中山は喜代三を独占したいがために引退を勧めたこともあったが、芸能界に未練のあった喜代三はそれを拒否。そのままの関係が続いた。 1935年(昭和10年)、日活の山中貞雄監督の映画『丹下左膳余話 百萬両の壺』でヒロインお藤役で出演。幅広い活躍をみせた。1936年(昭和11年)10月15日、かねてより療養中であった中山夫人の敏子が45歳の若さで死去。夫人没後の中山の身の回りの世話を案じた周囲の勧めにより、中山は上京以来愛人関係にあった喜代三にプロポース。1937年(昭和12年)12月3日、銀座の山野楽器社長山野政太郎夫妻の媒酌により丸の内会館で結婚。それを機に引退。ポリドールとの契約があと1年残っていたが、他社への移籍ではなく、結婚し家庭に入るということで不問となった。戦時中は熱海へ疎開し、戦後も引き続き熱海で暮らした。1950年(昭和25年)頃になると、戦後の混乱も一段落し、民謡が流行する兆しが見えると、ビクターからの依頼で三重県の出身で渋谷から出ていた菊丸という芸者を教えるようになる。その後、ビクターの社長から「『喜代三』の名前を譲って欲しい」と中山に話があったが、中山が断り、彼女は旧名の文字を変え同じ読み方で「喜久丸」と名付けられた。『喜代三』の名前については、直弟子であった「喜代丸」からも譲って欲しいと相談があったが、中山が許さなかった。1952年(昭和27年)12月30日、中山が65歳で死去。中山は臨終間近の病床で喜代三の手を取り「よく支えてくれたね」と労った。中山の没後しばらくは抜け殻のようになっていたが、歌手復帰を決意。中山の一周忌を機に企画されたNHKの「民謡をたずねて」に喜代丸、喜久丸と出演。復帰にあたってはキングをはじめ、古巣のポリドール、コロムビアからも誘いがあったが、結局ビクターに決定。1954年(昭和29年)3月にビクターへ入社し、喜代三の名で『小原良節』『ひえつき節』『上州小唄』『田原坂』『キンキラキン』などを吹込み、秋には博多を振り出しに18年振りに九州各地を演奏旅行を行った。その後も引き続き熱海で暮らしながら、1958年(昭和33年)には自叙伝『多情菩薩 喜代三自伝』を出版。その他中山晋平音楽祭などに関与したり、中山の作品の普及に努めるなど熱心に活動したが、1963年(昭和38年)3月23日、胆管癌のため死去。享年59。


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『明治一代女の唄』のヒットで知られる新橋喜代三。鹿児島に生まれた美声の美人芸者が新橋の芸妓となり、『鹿児島小原良節』『明治一代女の唄』をヒットさせ、映画女優としても活躍し、果ては作曲家・中山晋平夫人となる、というシンデレラストーリーを絵に描いた人だった。歌手としての活動期間は短かったものの、大ヒット『明治一代女の唄』が多くの歌手によって歌い継がれ、新橋喜代三の名も忘れられることなく今の世に知られている。晩年は中山晋平の功績を残すべく奮闘した新橋喜代三の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「中山家霊塔」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名はない。

by oku-taka | 2019-10-13 14:23 | 音楽家 | Comments(0)

中山晋平(1887~1952)

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中山 晋平(なかやま しんぺい)

作曲家
1887年(明治20年)~1952年(昭和27年)

1887年(明治20年)、長野県下高井郡新野村(現在の中野市)に生まれる。生家は名主、村長を出した旧家であったが、父親の急死により落魄し、養蚕をする母親に女手一つで育てられる。1903年(明治36年)、長野師範学校講習科を修了し、尋常高等小学校の代用教員となる。この当時から唱歌が好きで、生徒からも唱歌先生と呼ばれた。1905年(明治38年)、故郷での代用教員の職を辞し上京。島村抱月の弟の縁により抱月の書生となる。1908年(明治41年)、東京音楽学校予科に入学。1909年(明治42年)には本科のピアノ科に入った。1912年(明治45年)、東京音楽学校本科を卒業。東京都浅草の千束小学校音楽専科教員を務める傍ら作曲を行う一方、島村抱月が松井須磨子らと旗揚げした「芸術座」に参加した。1914年(大正3年)、トルストイ『復活』公演の劇中歌『カチューシャの唄』を抱月の依頼で作曲。同曲は松井須磨子の歌によって大流行となり、一躍有名になった。翌年公演したツルゲーネフ『その前夜』の劇中歌『ゴンドラの唄』も大人気となった。1917年(大正6年)、トルストイの『贖罪』を戯曲化した『生ける屍』の劇中歌として北原白秋の詞による『さすらいの唄』を発表。1918年(大正7年)、島村抱月の死去により「芸術座」が解散。1919年(大正8年)、斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』に童謡を発表するが、当時はまだ童謡の認知度が低く、教員として唱歌を教えるべき立場を憚って「萱間三平」との変名による発表だった。1920年(大正9年)、野口雨情と組んで『金の船』から多くの童謡を発表。『証城寺の狸囃子』『背くらべ』『アメフリ』『肩たたき』『雨降りお月さん』『あの町この町』『砂山』『鞠と殿さま』『てるてる坊主』など多くの傑作を発表した。1921年(大正10年)には野口雨情作詞の『船頭小唄』が大ヒット。同曲は日本の歌謡曲の基本的な型となり、日本固有のヨナ抜き音階やリズムの特徴を生かした独特な様式の中山作品は「晋平節」といわれた。一方、日本的な歌謡の創作をめざした「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、『須坂小唄』『十日町小唄』『天竜下れば』など新民謡運動でも大きな役割を果たした。1922年(大正11年)、千束小学校を退職。1928年(昭和3年)、日本ビクターの専属となり、世界的なオペラ歌手藤原義江、佐藤千夜子の歌で『波浮の港』『出船の港』等々の多くのヒットを生んだ。1929年(昭和4年)、西條八十とコンビで作った『東京行進曲』が佐藤千夜子の歌唱で25万枚のレコード売り上げを記録。この頃、ラジオ文化の発展に伴い、作曲した流行歌の楽譜集が「中山晋平作曲全集」として銀座・山野楽器店から順次発刊され、竹久夢二の表紙画の人気も手伝い大いに売れる。その後、アルト歌手の四家文子、バリトン歌手の徳山璉、バリトン歌手だった藤山一郎ら東京音楽学校の出身の声楽家らがビクターに入社し、中山晋平の作品を歌い、いずれもヒットを記録。洋楽の手法で日本人の情緒感と原始的郷愁を踏まえた作品を残した。1942年(昭和17年)、日本音楽文化協会理事長に就任。1944年(昭和19年)、日本音楽著作権協会の理事長に就任。1948年(昭和23年)には会長となった。1952年(昭和27年)12月2日、自らが作った『ゴンドラの唄』が使われた『生きる』を映画館で鑑賞。その翌日に膵臓炎で倒れ、30日3時30分、入院先の熱海国立病院で死去。享年65。告別式は翌年1月16日築地本願寺にて、日本ビクターの社葬として行われ、作曲家・佐々木俊一の指揮するオーケストラによる「哀悼歌」、児童合唱団による『てるてる坊主』、最後には『カチューシャの唄』が歌われた。


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日本に流行歌を創始した作曲家・中山晋平。昭和初期の大衆音楽普及時代に、日本のヨナ抜き音階やリズムの特徴を生かした「晋平節」といわれる独特の様式をつくりあげ、庶民的なメロディースタイルを確立した。童謡・民謡・校歌・流行歌など約3000曲を世に送り出し、「日本のフォスター」と呼ばれた中山晋平の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「中山家霊塔」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「清楽院晋山明響居士」。

by oku-taka | 2019-10-13 12:07 | 音楽家 | Comments(0)

西城秀樹(1955~2018)

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西城 秀樹(さいじょう ひでき)

歌手
1955年(昭和30年)~2018年(平成30年)

1955年(昭和30年)、広島県広島市東蟹屋町(現在の東区東蟹屋町)に生まれる。本名は、木本 龍雄(きもと たつお)。ジャズギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に馴染み、ジャズスクールに通って、最初はエレキギター、その後ベース、次いでドラムを勉強した。小学3年の時、ジェフ・ベックのファンになったが、同世代には洋楽を聴く者は誰もおらず、音楽の話は兄たちとした。小学4年生の時にその兄とエレキバンド「ベガーズ(beggars)」を結成。小学生ドラマーとして活動し、GS全盛期の1968年(昭和43年)に兄が中3、自身が中1のとき、広島市立二葉中学校の文化祭でステージ演奏をし、学内の女生徒から大人気となる。ボーカルに魅力を感じるようになったのはこの頃からであり、すでに既成概念としてロックを認識していただけでなく、ビートルズは勿論、ビートルズ以降に生まれた多様なジャンルのロックを現在進行形で自然に吸収し、ザ・ベンチャーズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、シカゴなどの洋楽に影響を受けた。その一方、結構なワルで小さな頃は喧嘩ざんまい。中学では縄張り争いを繰り広げ「売られた喧嘩で負けたことはいっぺんもない」と豪語した。このほか自宅前の荒神陸橋によじ登ったり、無免で単車を乗り回し巡査に何度も油を搾られた。高一のときには、駅のトイレで他校生15人からリンチを受け、兄貴と仲間で仕返ししたこともある。兄らが卒業したため中学2年のとき「ベガーズ」からメンバーを入れ替え「ジプシー」を結成。このバンドでリードボーカルとなり、「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第一回、第二回に出場。中国大会で優勝した。 中学以降もバンド活動を続け、米軍岩国基地や佐世保基地のライブハウスなどにも出演。山陽高等学校一年の1971年(昭和46年)、R&B喫茶「パンチ」から声がかかり、店のレギュラーバンドになる。その後、店で歌唱していたところをスカウトされる。本来、歌手には興味がなかったが、当時、尾崎紀世彦の『また逢う日まで』がヒットしており、歌謡曲が変わり始めた時期と感じてスカウトを承諾した。しかし、父親が頑固で厳格な人であったため芸能界入りを猛反対。その反対を押し切り、高校一年の二学期途中の10月3日、家出同然で広島から夜行列車で上京。芸能事務所「芸映」に所属。明大中野高等学校定時制へ転校する。1972年(昭和47年)3月25日、日本ビクター(現在のJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のRCAレーベルよりシングル『恋する季節』で歌手デビュー。キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」。片仮名の「ヒデキ」が愛称となる。しかし、オリコン42位という結果に終わり、順風満帆なスタートとはいかなかった。最初の頃のキャンペーンはジャンプスーツでリンゴ箱に乗り、パラパラのお客相手に歌った。それが功を奏したのか、2枚目のシングル『恋の約束』は18位となり、徐々にファンを拡大。続く『チャンスは一度』では振付けが付き、一躍トップアイドルの仲間入りを果たした。郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれるようになったが、この年の12月31日、郷ひろみは新人賞受賞で『第14回日本レコード大賞』の本選に出場し、野口五郎は『第23回NHK紅白歌合戦』に白組最年少で初出場したが、西城は大晦日の高視聴率番組には出演できず、同じ「新御三家」でも知名度で差をつけられることになった。1973年(昭和48年)6月25日、5枚目のシングル『情熱の嵐』がオリコン週間チャートで初のベストテン入り。新曲発表会では、空からヘリコプターで派手に登場し、ヘリコプターから縄ばしごを伝ってはしごの下まで降り、片手で手を振った後、ステージに着地するというスタントマン紛いの演出を行い話題をさらう。また、曲中に「ヒデキー!!」とファンの掛け声が入った。以降、オリコンベストテンに11年連続、計33曲を送り込む。その後『ちぎれた愛』、『愛の十字架』が連続してオリコン週間チャートの第1位を獲得。絶唱型と言われる歌唱法を披露。『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞する。新曲を発表するごとに人気が高まり、急激な人気の上昇でレコードプレスが間に合わず、発売後10日間で50万枚をプレスを記録し、レコード売上げの短期間最高記録といわれた。12月31日には『第15回日本レコード大賞』歌唱賞を獲得するも、初出場が確実視された『第24回NHK紅白歌合戦』は落選した。同年、「ヒデキ、感激!!」でお馴染みの「ハウスバーモントカレー」のテレビ広告が放送開始した。1974年(昭和49年)1月16日、ホームドラマとして人気を博したTBS系列テレビドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演。俳優としても活動する。2月25日には『薔薇の鎖』を発売。日本武道館で観たロッド・スチュワートのマイク・パフォーマンスからヒントを得たスタンド・マイクを使ったアクションが話題になる。5月25日発売の『激しい恋』は売り上げ58.4万枚の大ヒットとなり、年間シングルチャートでも第8位に輝いた。7月13日、初主演の松竹映画『愛と誠』が公開。原作者である梶原一騎に西城自身が直談判して出演が決まった。8月3日、日本で初めてとなるスタジアムでのワンマン・コンサートを大阪球場で開催。12月31日、『傷だらけのローラ』で2年連続となる日本レコード大賞歌唱賞を受賞。「第25回NHK紅白歌合戦」にもトップバッターとして初出場した。1975年(昭和50年)11月3日、日本人ソロ歌手としては初めての日本武道館公演を行う。その後11年連続(通算12回)開催し、「秋(静)の日本武道館」と「夏(動)のスタジアム・コンサート」は恒例となる。 1976年(昭和51年)、この年から作詞者に阿久悠を起用。この年発売した3曲『君よ抱かれて熱くなれ』『ジャガー』『若き獅子たち』は「青年(成年、盛年)の3部作」と呼ばれた。特に『ジャガー』は、臀部の割れ目が見えそうなセクシーな衣装と、「抱いてやるー!」と絶叫するセリフが話題となった。この曲で「東京音楽祭」国内大会でゴールデン・カナリー賞を受賞し、世界大会にも出場した。1978年(昭和53年)2月9日、『ブーツをぬいで朝食を』が「ザ・ベストテン」で第1位を獲得。この曲の反響でライター・ボヤ事件起こる。6月18日、『炎』で「第7回東京音楽祭」世界大会に出場し、外国審査員団賞を受賞。1978年(昭和53年)、『ブルースカイブルー』で初の最優秀歌唱賞を受賞(『FNS歌謡祭'78』)。阿久悠と組んだ最後の曲。1979年(昭和54年)、「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現する『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』が売り上げ80.8万枚の大ヒット。年末の賞レースは、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを獲得。『第21回日本レコード大賞』は邦楽が審査対象とされたため、社会現象までになった『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』は外国人作曲のカバー曲という理由で審査対象から外れ『勇気があれば』でエントリー。ジュディ・オング『魅せられて』との激しい大賞争いとなったが敗れた。1981年(昭和56年)4月6日、『リトルガール』でオリコン史上初となるシングル30曲ベストテン入りを果たす。続く『セクシーガール』で、ピンク・レディー、森進一、山口百恵、沢田研二に次いで史上5組目となるシングルレコードの総売上枚数1,000万枚を突破する。同年、香港で初のコンサートを開催し、その後もアジア各国でコンサートを行う。1983年(昭和58年)1月21日、スタッフと共に芸映を円満退社し独立。有限会社(現在は株式会社)「アースコーポレーション」を設立し、第1弾シングル『ギャランドゥ』を発表する。以降、グラハム・ボネットの『Night Games』、ワム!の『Careless Whisper』、バリー・マニロウの『In Search of Love』をカヴァーする等、それまでの歌謡曲の枠に囚われることなくロック系、バラード系の曲にも意欲的に取り組むようになる。2000年(平成12年)、『最後の愛』を最後にビクター音楽産業系(RCA⇒RVC⇒BMGビクター)からポリドールへ移籍し、『Bailamos』をリリース。以降はユニバーサルミュージック系(ユニバーサルJ・ナユタウェイブレコーズ)から楽曲をリリースする。2001年(平成13年)、長らく独身であったが、大阪府在住の会社員の一般女性と結婚。長女、長男、二男に恵まれた。同年の秋、脳梗塞を発症。2003年(平成15年)6月21日、つんく♂がプロデュースしたシングル『粗大ゴミじゃねぇ』を発表した直後、公演先の韓国で2度目の脳梗塞を発症する。軽度の言語障害の後遺症は残ったが、闘病の末に復帰。しかし、これ以降「隠れ脳梗塞」を含め計8回の脳梗塞を発症し、人知れず闘病生活を送ることになる。2011年(平成23年)には脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態などが改善していた。しかし、2018年(平成30年)4月25日、自宅の家族団欒の席で突然倒れて救急搬送で緊急入院。意識不明の状態が続く中懸命の治療が行われたが、5月16日23時53分、急性心不全のため神奈川県横浜市内の病院で死去。享年63。


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戦後の歌謡界を代表するトップスターの一人、西城秀樹。派手なアクションと絶叫型と呼ばれたその歌唱スタイルに多くの女性が虜となった。演歌・ムード歌謡・アイドルなどの曲が大半を占めていた歌謡界にロックテイストを持ち込んだ先駆者であり、今日のJ-POPを築いた功労者でもある。殊に80年代以降の日本のロックヴォーカリストたちは、西城秀樹や沢田研二をテレビで触れたことを「音楽のめざめ」とする者が多い。このほか、野球球場でのコンサート開催、ファンとのコール&レスポンス、ペンライトなど、今のライブでは当たり前となった事象を行った初のシンガーでもあった。晩年は数度にわたる病との闘いを強いられたヒデキだったが、諦めずに病へと懸命に立ち向かう姿は多くの者を勇気づけた。それだけに、63歳での旅立ちはあまりに残念だった。亡くなる直前までステージに立ち続けることにこだわった炎のシンガー・西城秀樹の墓は、東京都目黒区の円融寺にある。生前購入した土地に子供たちが「パパといったら炎だよね」と、炎をイメージした墓をデザイン。そこには「木本家」と彫られ、その左側に墓誌が建つ。後ろにはヒデキの楽曲名が刻まれている。戒名は「修音院釋秀樹」。

by oku-taka | 2019-08-16 19:31 | 音楽家 | Comments(1)

平尾昌晃(1937~2017)

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平尾 昌晃(ひらお まさあき)

歌手・作曲家
1937年(昭和12年)~2017年(平成29年)

1937年(昭和12年)、東京府東京市牛込(現在の東京都新宿区)に生まれる。出生名は、平尾 勇。幼少時にたびたび改名し、デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、最終的には「昌晃」とした。父親は大手化粧品会社レートクレーム本舗の3代目社長であり、両親が人を呼んでよく自宅でダンスパーティーを開催していたことから、家族全員がクラシックの楽器演奏ができ、自身も邦楽好きの父のお供で練習に行ったり、洋楽を聴いていた。 小学2年生のとき、空襲で代々木の600坪の家が焼け、神奈川県の湘南エリアにあった別荘に移住し、藤沢市にある湘南学園で小中学時代を送る。小学3年生のとき、アメリカ人将校の前で『キス・オブ・ファイア』などの歌を披露し、そのお礼としてジャズのLPを貰う。それを聴いた平尾は衝撃を覚える。11歳のとき、のど自慢大会に出場し『奥様お手をどうぞ』を英語で歌い、鐘3つの合格点をもらう。その後、藤沢市のジャズ教室に通い、朝丘雪路、水谷良重、ペギー葉山らと知り合う。慶應義塾高等学校中退後、ウエスタンの人気バンド「チャック・ワゴン・ボーイズ」に入る。しばらくしてボーカルの小坂一也が脱退したため「オールスターズ・ワゴン」に改名した。1957年(昭和32年)、ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、ステージを見た渡辺プロの渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演する。自身としても、1958年(昭和33年)1月、キングレコードより『リトル・ダーリン』でソロデビューを果たす。続いて同年3月に発表した『監獄ロック』が10万枚を売り上げるヒットとなる。その後、ミッキー・カーチス、山下敬二郎と「ロカビリー三人男」として「日劇ウエスタンカーニバル」などで爆発的な大人気を博した。1958年(昭和33年)にはキングレコードからオリジナルナンバーである『星は何でも知っている』を歌い、50万枚を売り上げる大ヒットとなった。1959年(昭和34年)、ポール・アンカが作詞・作曲した『好きなんだ! (I Love You)』を発表。日本での売上は10万枚程度に留まったが、ハワイでは地元ラジオ局KPOI(英語版)が流したことをきっかけにリクエスト・ランキングで1位を記録する大ヒットとなった。同年12月にはハワイで開催された「アメリカン・ポップス大会」に日本代表として歌唱した。1960年(昭和35年)、自身が作詞・作曲した『ミヨチャン』を発表し、40万枚を売り上げる大ヒット。その後は、童謡や民謡をロックにアレンジして歌った。1965年(昭和40年)2月20日に拳銃不法所持で逮捕される。平尾が独自にハワイから持ち帰り、帰国後「日頃、興行でお世話になっているから」と、名古屋と東京の暴力団組長に拳銃をプレゼントした事件が発覚した。平尾は22日間拘留され、釈放後「軽率だった」との反省文が雑誌に掲載された。この一件で謹慎に追い込まれ、またロカビリーブームも去り、芸能界から姿を消す。謹慎中は東京五輪の売れ残りグッズの行商などをして生計を立てていたが、同じ頃に北海道のラジオ局・HBCラジオのDJだった三浦陽二が1961年(昭和36年)に発表された『おもいで』を番組で流したことで、同曲が注目を浴びる。同局のリクエストランキングでは、当時の最新ヒット曲だった加山雄三の『君といつまでも』、ビートルズの『イエスタデイ』、倍賞千恵子『さよならはダンスの後に』を抑えて1位にまでなった。それに伴い、既に廃盤となっていた本作シングルは再プレスされて北海道限定盤として発売し、3万枚を売り上げた。この思いがけないヒットにより、平尾は久々に脚光を浴びるきっかけを得ることになった。1966年(昭和41年)、渡辺プロダクション所属でキングレコードからデビューした新人歌手・布施明のシングルとして『おもいで』がレコーディングされる。布施はこの曲のヒットによりスター街道を歩むことになり、平尾自身も歌手から作曲家へ本格的に転向することになった。続けて、作曲家として『恋』、じゅん&ネネ『愛するってこわい』などがヒット。中でも布施明の「霧の摩周湖」、梓みちよの「渚のセニョリーナ」では、第9回日本レコード大賞作曲賞を受賞した。その後も作曲家として非凡な才能を発揮していたが、1968年(昭和43年)12月3日に結核を患い、健康保険岡谷塩嶺病院への長期間入院による療養を余儀なくされ、肋骨を6本取り除く大手術を受ける。1969年(昭和44年)11月30日に退院。平尾自身は、この療養期間が作曲家としての活動の原点であることを事あるごとに語っている。1970年代に入ると、ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を、五木ひろしや小柳ルミ子、アグネス・チャンらに提供している。特に作詞家の山口洋子とのコンビは、この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られている。 1972年(昭和47年)、小柳に提供した『瀬戸の花嫁』で第3回日本歌謡大賞を受賞。1973年(昭和48年)、五木に提供した『夜空』が第15回日本レコード大賞を受賞する。1974年(昭和49年)、平尾昌晃音楽学校(現在の平尾昌晃ミュージックスクール、HMS)を創立。東京本校の他、札幌、所沢、茨城、名古屋、大阪、福岡、鹿児島にも地方校があり、デビューのバックアップもする。同校出身者は狩人、畑中葉子、川島なお美、石野真子、松田聖子、川崎麻世、大沢逸美、森口博子、芳本美代子、倖田來未、後藤真希など。1978年(昭和53年)には生徒の一人である畑中葉子とデュオを組み、『カナダからの手紙』『ヨーロッパでさよなら』などのヒットを出した。また、音楽活動のみならず、NHKの人気番組『レッツゴーヤング』の司会や『ものまねバトル』(日本テレビ系)の審査員などにも携わる一方、『平尾昌晃の部屋』など、ラジオ番組のパーソナリティも務めた。その他、人気テレビ番組『熱中時代』での「僕の先生はフィーバー」、「やさしさ紙芝居」、『熱中時代-刑事編』の「カリフォルニア・コネクション」の他、ABC発テレビ朝日系時代劇の『必殺シリーズ』、アニメ『銀河鉄道999』などの音楽を手がける。また1980年代初頭から宝塚歌劇団の舞台音楽も手がけており、こちらは晩年まで長きにわたって関係が続いた。その反面、結核で闘病した経験からチャリティー活動にも関心を持ち、1975年(昭和50年)に各地の施設を慰問する『愛のふれあいコンサート』を開始。同年には「平尾正晃プロアマチャリティーゴルフトーナメント」を開催し、晩年までチャリティー活動を精力的に行った。1993年(平成5年)にはゴルフのプレー中に心筋梗塞で倒れたが、同行していた医師の懸命な治療により見事復活した。2003年(平成15年)、紫綬褒章を受章。2005年(平成17年)、歌手を目指す若い人、生徒のために自主レーベルのHMSレコードを立ち上げて、優秀な生徒をCDデビューさせている。2006年(平成18年)、大晦日の『第57回NHK紅白歌合戦』で同年3月に逝去した宮川泰の後を受け『蛍の光』の指揮者に就任。第67回までの11年間を務めた。しかし、2014年(平成26年)の年末に原発性肺高血圧症に起因する肺炎で危篤状態に陥る。このときは奇跡的に持ち直したが、翌年に肺癌が判明。体力面を考慮して手術を回避し、以降は呼吸補助器を携行して公の場に出ていた。その後は入退院を繰り返し、2017年(平成29年)5月に「息苦しい」と訴えて約1か月にわたり入院。一時は回復したものの、同年7月13日に「蒸し暑く体調が悪い」と東京都新宿区の病院で検査入院。肺炎の疑いで入院したが、食欲も旺盛で元気だった。しかし、7月21日に容体が急変。同日23時40分、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年79。


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戦後の歌謡界を代表するヒットメーカーの一人、平尾昌晃。歌手としては、山下敬二郎、ミッキー・カーチスとともに「ロカビリー御三家」として絶大な人気を誇り、ロカビリーブームの立役者となった。作曲家としては、『瀬戸の花嫁』『よこはま・たそがれ』など世代を超えて愛される数々のヒット曲を生み出した。そんな大物でありながらテレビ番組にも積極的に出演し、司会者や審査員として気さくな人柄で親しまれた。自分の教え子とデュエットしたり、提供した歌をテレビでセルフカヴァーしたりと、とにかく目立ちたがり屋というイメージが強かった彼だが、いまにして思えばテレビに出てタレント活動する作曲家の走りだったのかもしれない。生前「僕はいまだにジャンルなんて考えていない。演歌の作曲家とも思っていないし、ポップスの作曲家だとも思っていない。音が好きな作曲家であると思っている」と語っていた平尾昌晃。ジャンルにとらわれない昭和の大作曲家の墓は、東京都台東区の谷中霊園にある。没後、後妻と三男の間で遺産を巡る骨肉の争いが起き、長らく納骨が見送られていたが、2019年の三回忌において先祖代々が眠る谷中霊園に納められたことが発表された。墓には「平尾家之墓」とあり、右横に墓誌が建つが平尾の名前は刻まれていない。戒名は「慈嚴院照音晃道居士」。

by oku-taka | 2019-08-16 14:03 | 音楽家 | Comments(0)

中川博之(1937~2014)

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中川 博之(なかがわ ひろゆき)

作曲家
1937年(昭和12年)~2014年(平成26年)


1937年(昭和12年)、日本統治時代の朝鮮の京城府(現在の韓国・ソウル市)で生まれる。1945年(昭和20年)、戦火を逃れ朝鮮北部の陽徳で食堂を営む祖父の元に疎開する。その後、太平洋戦争の敗北とともに数ヶ月の逃避行を経て京城に戻り、収容所で徴兵から復員して来た父と劇的な再開を果たす。しかし、その翌日に極度の過労から母が急性肺炎で死去する。1946年(昭和21年)、母の遺骨を抱き、引揚船で日本に帰国。父の故郷・岡山県新見市哲多町宮河内に暮らしたが、父の再婚相手となった義母とそりが合わず、母親の故郷である山口県光市で一足先に帰国した祖母の元に移る。新見中学校在学中、祖母からギターをプレゼントされる。「学校に行くときは押し入れに大事にしまい、早く帰って弾きたいと思っていた。嬉しい時も悲しい時もギターだった」と語るほど夢中になり、この頃から作曲を始める。新見高等学校に進学すると『湖畔の宿』が好きだった母の影響を受けて音楽家を志すようになり、1955年(昭和30年)に単身上京。カメラの下請け工場、ガソリンスタンド、劇団のマネージャー業など様々な職種に就きながら音楽を勉強する。1962年(昭和37年)、CMソングのオーディションに合格。「いずみたくミュージックオフィス」を前身とするCMソングの制作会社「国際芸術協会」に在籍し、プロの道へと進む。当時、広告代理店のプロデューサーだった内田康夫と数多くのCMソングを発表。デビュー作となったチョコレートのCM曲を皮きりに、大手企業のCM曲を多く手がける。この頃、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で、黒沢明とロスプリモスのメンバーと出会う。1966年(昭和41年)、彼らのためにオリジナル曲『ラブユー東京』を製作。『涙とともに』のB面曲として収められ、初回出荷はわずか1000枚に留まったが、発売から半年後に山梨県甲府市のホステスの間で『ラブユー東京』が話題になり、また内田康夫が制作に係わった深夜ラジオで連夜『ラブユー東京』を流したところ次第に知名度が上がる。1967年(昭和42年)7月、同品番でジャケットデザインを差し替え、『ラブユー東京』がA面曲に昇格する。オリコンシングルチャートが正式に発表されるようになった1968年(昭和43年)1月4日付で1位を獲得し、ミリオンセラーとなる。同曲の大ヒットで記念すべき1曲目の1位獲得曲となった。これによってクラウンレコードの専属作曲家となり、以来、ムード歌謡界の第一人者として活躍。『たそがれの銀座』(黒沢明とロス・プリモス)、『足手まとい』(森雄二とサザンクロス)、五十嵐 悟(いがらし さとる)の別名で『わたし祈ってます』(敏いとうとハッピー&ブルー)といったヒット曲を世に送り出した。また、美川憲一とは『新潟ブルース』以降のゴールデンコンビとなり、『お金をちょうだい』『さそり座の女』『ナナと云う女』など多くのヒット作を提供した。2014年(平成26年)6月11日、肺癌のため死去。享年77。没後に日本レコード大賞特別功労賞が贈られた。


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生涯に1,500曲以上を残したムード歌謡の第一人者・中川博之。男女の機微を哀愁漂う切ないメロディーで描き、『ラブユー東京』『夜の銀狐』『わたし祈ってます』といったヒット曲を次々世に送り出した。特に美川憲一とは多くの作品でコンビを組み、『新潟ブルース』『さそり座の女』などをヒットさせた。この人なければ、今の美川憲一の存在はあり得なかったであろう。これほどのヒットメーカーであるのに、亡くなった際の訃報の扱いの小ささには呆れると共に怒りを感じたものだった。ムード歌謡をというジャンルを見事に築き上げた中川博之の墓は、東京都港区の梅窓院にある。細長く造られた墓には、直筆で「中川博之」と彫られ、その下には「中川博之主要作品」として代表作が刻まれている。


by oku-taka | 2019-08-11 22:12 | 音楽家 | Comments(0)