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前川春雄(1911~1989)

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前川 春雄(まえかわ はるお)

実業家・第24代日本銀行総裁
1911年(明治44年)~1989年(平成元年)


1911年(明治44年)、東京都に生まれる。府立五中、一高を経て、1935年(昭和10年)に東京帝国大学法学部を卒業。日本銀行に入行し、イタリア駐在、ドイツ駐在となって海外の金融事情を勉強。国際金融のスペシャリストとして歩みを進める。その後、高松支店長を経て、1958年(昭和33年)にニューヨーク駐在参事となる。1960年(昭和35年)、外国為替の局長に着任。1963年(昭和38年)には外国局長と理事を兼任した。1970年(昭和45年)、日本輸出入銀行に転出し、副総裁に就任。1974年(昭和49年)、副総裁として日本銀行に復帰。1979年(昭和54年)、森永貞一郎の後を受け、第24代日本銀行総裁に就任。副総裁には、輸銀時代の上司であった澄田智(後任の第25代日銀総裁)を据え「逆転人事」として話題を呼んだ。日銀総裁就任後は第2次オイルショックによるインフレーションにどう対処するのかという難題に取り組まねばならなかった。前川はそこで絶妙な金融引締め政策を実施し、結果、他の先進諸国がインフレにもがき苦しむ中で、日本経済が最も上手にこの危機を乗り越えることが出来た。石油危機後もマネーを安定させることに成功。日本経済はインフレなき成長を達成し、前川日銀による政策運営は国際的に高い評価を得た。1984年(昭和59年)、大蔵省出身の澄田智に総裁職を譲り退任。日銀退任後の前川は、折からの日米貿易摩擦への対応を取りまとめる任を負った。1985年(昭和60年)、中曽根康弘内閣が設置した私的諮問機関である経済構造調整研究会の座長に就き、「内需拡大と市場開放」を謳った報告書(前川リポート)を取りまとめた。前川リポートやアメリカ側の対日強硬姿勢については、小宮隆太郎等、国内外の経済学者から批判が寄せられたが、結局、この前川路線が日本のその後の規制緩和・対外開放の動きを規定することとなった。1986年(昭和61年)、国際電電の会長に就任。1989年(平成元年)9月22日、死去。享年78。


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日本銀行総裁として第2次オイルショックに金融引き締め政策を取り、インフレの克服に尽力した前川春雄。当時の日銀は政府の機嫌を損ねればいつ総裁を解任されてもおかしくなかったが、前川は公定歩合の引上げを断行し、時の内閣総理大臣だった大平正芳に直訴。結果、インフレは沈静化に向かい、世界各国が混迷に陥る中で日本だけがその危機から脱出できた。これにより国際的にも名声を得た前川春雄の墓は、東京都渋谷区の仙寿院にある。兄で建築家の前川國男が設計した五輪塔の墓には「前川家」とあり、右側面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2019-06-02 14:29 | 経済・技術者 | Comments(0)

瀬島龍三(1911~2007)

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瀬島 龍三(せじま りゅうぞう)

陸軍軍人・実業家
1911年(明治44年)~2007年(平成19年)


1911年(明治44年)、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)に生まれる。 旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、1932年(昭和7年)に陸軍士官学校第44期を次席で卒業し、恩賜の銀時計を拝受。富山歩兵第35連隊で陸軍歩兵少尉に任官。1938年(昭和13年)、陸軍大学校第51期を首席で卒業し、恩賜の軍刀を拝受。1939年(昭和14年)、関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二陸軍中将)参謀、同年11月22日に大本営陸軍部幕僚附関東軍参謀本部部員となる。1940年(昭和15年)、大本営陸軍部作戦課に配属。関東軍参謀時代には対ソ示威演習である関東軍特種演習(関特演)の作戦担当として作戦立案にあたった。1941年(昭和16年)7月、大本営陸軍部第1部第2課作戦班班長補佐となる。同年12月8日、太平洋戦争が開戦。この時の日本軍の開戦日の暗号は瀬島考案の「ヒノデハヤマガタ(ヒノデハヤマガタトス)」であった。開戦以降は陸軍の主要な軍事作戦を作戦参謀として指導。主任として担当したものを含め、主なものは南方作戦におけるマレー作戦(E作戦)・フィリピン作戦(M作戦)や、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作戦、菊水作戦、決号作戦、対ソ防衛戦などであった。瀬島は特攻作戦である菊水作戦時、第6航空軍の作戦参謀として南九州の陸軍基地で勤務した。1944年(昭和19年)、単独でモスクワに2週間出張。1945年(昭和20年)1月、島村矩康陸軍大佐/連合艦隊常勤参謀が戦死。その後任に瀬島が選ばれる。2月25日、海軍の連合艦隊参謀兼務となり、最終階級は陸軍中佐となった。その後、同僚の千早正隆海軍参謀と共に本土決戦準備のため日本各地を調査。特に高知県沿岸を決号作戦における米軍の上陸予想地点として、第55軍の作戦指導に熱心に取り組んだ。瀬島は迫水久常(鈴木貫太郎内閣内閣書記官長)と親戚であることを千早に打ち明け、迫水を通じて鈴木貫太郎首相に戦局の実情を訴えたという。7月1日、関東軍作戦参謀に任命され、満州へ赴任。8月15日の日本降伏後の8月19日、ジャリコーウォでソ連軍と停戦交渉を行う。日本側の参加者は、関東軍参謀長秦彦三郎、瀬島作戦主任(中佐)、在ハルビン日本総領事宮川舩夫、ソ連側の参加者は、極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥、第一極東方面軍司令官キリル・メレツコフ元帥、同軍司令部軍事会議委員シュチコフ大将であった。このとき瀬島は軍使として同地を訪れたため、内地に帰還することは可能であったが、9月5日、関東軍総司令官山田乙三陸軍大将や総参謀長秦彦三郎陸軍中将らとともに捕虜となった。この交渉の際、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で捕虜抑留についての密約(日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たという)が結ばれたとの疑惑が斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)らにより主張された。後年、瀬島は著書『幾山河』で「『密約説』を唱える人たちは、明確な根拠を示して欲しい」と述べている。また、瀬島は停戦協定の際の極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーと関東軍総参謀長秦彦三郎にはこのような密約を結ぶ権限がなかったと反論している。また、ロシア側資料からそのような密約を証明できる証拠はペレストロイカの情報開示後も全く発見されてはいない。2002年(平成14年)には政治学者田久保忠衛がモスクワのロシア国立社会政治史文書館で「国家防衛委員会決議No.9898CC「日本人捕虜五十万人の受入、収容、労働利用に関する決議」(1945年8月23日付)を確認し、このスターリンが自ら署名した文書に「労働のためにやって来る捕虜の受入、収容、労働利用の実施を行うよう次の人民委員に命ずる」と強制労働命令について明記してあり、この文書によって極東ソ連軍の権限でなくソ連中央政府からの命令であったことが判明しており、密約説は否定された。ソ連との交渉締結後は、ソ連のシベリアへ11年間抑留。このとき本来捕虜としての労働の義務のない将校であるにもかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。瀬島は高橋ブリガードに配属されたが、特別の技術もなく何回か肺炎を患って体が衰弱していたので、外での労働は無理と判断され、班長の高橋重隆の配慮で左官の仕事が宛がわれた。1946年(昭和21年)、連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、草場辰巳陸軍中将(関東軍鉄道司令官)・松村知勝陸軍少将(総参謀副長)とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。ソ連側より日本への帰還の取引条件として極東国際軍事裁判で昭和天皇の戦争責任を証言するように求められるが断固拒否する。さらにソ連側は瀬島らに自分らの主張に沿った証言をさせようと家族との面会の話を持ち出したが、瀬島はこれも断った。ソ連は家族の所在を突き止め強制的に面会を強要した。裁判後は再びシベリアに戻され、1950年代後半に入るまで抑留生活を余儀なくされた。抑留中ソ連側の日本人捕虜に対する不当な扱いに対しては身を挺して抗議をしたため自身も危険な立場に立たされることもあった。1956年(昭和31年)、シベリア抑留から帰還。設立直後の自衛隊に入るよう原四郎から再三の誘いを受けたが、瀬島の長女が反対したため断念。瀬島はシベリアからの復員兵の就職斡旋に奔走し、1958年(昭和33年)に伊藤忠商事に入社する。入社前に瀬島は入社面接を拒否し、その代わりに手紙を送付。面接を拒否した理由は「そこまで落ちぶれたくないというプライドだった」と後に語っている。契約内容は嘱託採用、給与は係長待遇、契約は毎年更新という内容だったが、妻の清子はこれを喜び、採用通知書を神棚に飾った。入社時の伊藤忠商事の社長は小菅宇一郎だったが、ある日小菅に呼び出された瀬島は「この会社には商売をする者は腐る程います。だから瀬島さんは商売はしなくていい。この先、日本も世界も大きく変わってゆく中で、あなたには商社としてどう進んでいけばいいのか?そういう観点から助言や補佐をしてもらいたい」と伝えられた。元軍人でビジネス用語に不慣れだった瀬島は「こりゃ金利を覚えないでいいな」との笑い話を残している。1960年(昭和35年)、伊藤忠商事航空機部長に就任。入社3年目の1961年(昭和36年)には業務本部長に抜擢され、1962年(昭和37年)に取締役業務本部長、半年後に常務となる。同年、領空侵犯機をいち早く見分ける半自動警戒管制システム「バッジ・システム」の受注をめぐり米ヒューズ=伊藤忠、米GE=三井物産、米リットン=日商の3組が争った。当初はGE=物産連合が優勢で、ヒューズ=伊藤忠の勝ち目はなかったが、陣頭指揮の瀬島は部下を防衛庁の情報収集に走らせ、内局や空幕の幹部に深く喰い込み、価格情報を探ると、思い切り値段を下げて応札。応札額はGE=207億円、リットン=170億円、ヒューズ=130億円で、その安さが決め手になり、ヒューズ=伊藤忠連合に決まった。1967年(昭和42年)には、6月に勃発した第3次中東戦争を「イスラエルが勝つ」「戦争は1週間で終わる」「スエズ運河は閉鎖される」と明言。戦争はイスラエルが勝利して6日間で終わり、この予測で伊藤忠に莫大の利益をもたらした。こうした分析の的中率の高さから、業務本部はマスコミに「瀬島機関」と称された。その後も同社がかかわる様々な案件で重要な役割を果たし、1968年(昭和43年)に専務、1972年(昭和47年)副社長、1977年(昭和52年)副会長と昇進し、1978年(昭和53年)には会長に就任した。この間、防衛庁防衛研究所の戦史叢書「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯」の執筆に協力し、1971年(昭和46年)には第3次佐藤栄作内閣時代の通産大臣だった田中角栄と知り合う。後に源田実に紹介されて児玉誉士夫とも交友を結ぶ。1972年(昭和47年)、ハーバード大学ジョン・F・ケネディー・スクール・オブ・ガバメントにて「一九三〇年代より大東亜戦争までの間、日本が歩んだ途の回顧」という講演を行った。実権のない伊藤忠会長だった1978年(昭和53年)、永野重雄日本商工会議所会頭に請われ、日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭に抜擢される。瀬島はそれまで財界活動はしていなかったが、以後財界活動を活発に行うようになり、永野の参謀として太平洋経済協力委員会やASEANの民間経済会議などに出席した。1981年(昭和56年)、伊藤忠商事の相談役に就任。同年、永野や鈴木善幸首相、宮澤喜一、福田赳夫、田中角栄らの推薦と、永野と中曽根康弘行政管理庁長官から依頼を受け、第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員に就く。土光敏夫会長のもとで参謀役として働き「臨調の官房長官」と称され、中曽根政権のブレーンとして政財界に影響力を持つようになった。また、大韓民国の軍事政権の全斗煥や盧泰愚等とは、両名と士官学校で同期の権翊鉉(クォン・イクヒョン、권익현)を通じて彼等が若手将校時代から親しく、金大中事件、光州事件等内外の事情で日韓関係が悪化していた1980年代初頭の時期に、戦後初の公式訪問となった中曽根首相の訪韓実現や全斗煥大統領の来日や昭和天皇との会見の実現の裏舞台で奔走し、日韓関係の改善に動いた。1984年(昭和59年)、勲一等瑞宝章を受章。1987年(昭和62年)、伊藤忠商事の特別顧問に就任。他にも、亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。2000年(平成12年)、伊藤忠商事特別顧問を退任。2007年(平成19年)、同台経済懇話会常任幹事野地二見に「安倍首相の『美しい国』づくりという提唱はとても良いことだと思っている。しかし具体的な政策を出さないと国民がついて行けない。ここで同台としての最後の御奉公として、骨太な柱となる具体的な提案をしたらどうだろう。皆の知識と経験を集結して、国民に判り易く、そして国際的にも日本の姿勢がアピール出来るようなテーマを考えてみたらどうか」と発言。5月30日、同台経済懇話会会長として瀬島龍三は安倍首相に提出した提案書のなかで美しい国づくりの大テーマとして近未来を見据えた地球温暖化対策、クリーンエネルギーの増加、豊かな良い水を護ることを提案した。クリーンエネルギー提案書では、10年間で風力と太陽光で電力の30%を達成するために、風力とソーラーの統合発電機構をつくり、関係産業各社と電力会社の協力を推進すること、太陽光ケーブルの大々的利用(重層利用、地下発電も可能となる)、ソーラー関係機器商品の開発奨励などを提案、森と水資源に関する提案書では、特に定年を迎えた元気なシルバー世代への啓発事業、保水と空気清浄の源となる里山の増加育成、湖沼・ダム・湾などの新しい装置・技術を活用した浄水事業を、山本卓眞(富士通名誉会長)、山口信夫(旭化成会長)、下山敏郎(オリンパス最高顧問)、小長啓一(前アラビア石油会長)、中條高徳(アサヒビール特別顧問)、野地二見(元産経新聞取締役)、秋山智英(元林野庁長官)、鈴木正次(元日本弁理士協会会長)、南崎邦夫(石川島播磨重工副社長)、小野寺俊一(元港湾協会会長)、小野重典(フジタ最高顧問)、植之原道行(元NEC副社長)、岸国平(農業研究センター所長)らと連名で提出した。9月4日午前0時55分、老衰のため東京都調布市の私邸において死去。享年95。没後、従三位が贈られた。


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昭和の参謀と呼ばれ、山崎豊子の小説『不毛地帯』のモデルとなった瀬島龍三。軍人としては、大本営作戦参謀として国軍の作戦計画の中枢で活躍。実業家としては、繊維商社だった伊藤忠商事の会長に就き、世界規模の総合商社に発展させた。また、中曽根元首相のブレーンとして政財界に大きな影響力を持ち、影のキーマンとして国家改革に影響力を発揮した。そうした輝かしい経歴の反面、瀬島が緻密に練り上げた「南方作戦」によって太平洋戦争が起こり、太平洋戦争末期に「台湾沖航空戦は誤報である」という情報部・堀英三少佐の指摘電報を握りつぶして悲惨なレイテ沖海戦を招くなど、国家を揺るがす史上最悪の決断を多く実行していることも忘れてはならない。特に韓国へ5億ドルの戦争賠償金を支払う代わりに伊藤忠が火力発電等の大型プロジェクトの受注を次々に獲得していった「賠償ビジネス」の確立は、後の日韓問題の原因を生む一因になったように思えてならない。「昭和の参謀」は日本国発展の功労者だったのか、それとも国賊なのか。評価が分かれる瀬島龍三の墓は、東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある。墓は「瀬島家之墓」と「南無阿彌陀佛」と彫られた2基あり、右横に墓誌が建つ。戒名は「顯正院釋龍照」。

by oku-taka | 2019-04-30 22:21 | 経済・技術者 | Comments(1)

木村秀政(1904~1986)

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木村 秀政(きむら ひでまさ)

航空エンジニア
1904年(明治37年)~1986年(昭和61年)


1904年(明治37年)、北海道札幌区に生まれる。誕生後すぐに家族とともに東京市へ転居。自宅近くに練兵場があり、海外からのフライング・マシーンがデモンストレーションの場所にした。1911年(明治44年)、アメリカのカーチス機が見世物の巡業として目黒の競馬場へ飛行。木村は祖父に連れられ見物に行き、生まれて初めて飛行機を認識する。帰宅後、飛行機の模型を2枚のボール紙とマッチ棒で作るほど夢中になる。1913年(大正2年)、フランス製のブレリオ XI-2 bisの飛行を目にしたが、この機が墜落し飛行士2名が死亡した事を知り大きな衝撃を受ける。その後、府立第四中学校、第一高等学校に進学。高校時代は千葉県の東京湾にあった飛行機工場へ見学に通った。1924年(大正13年)に東京帝国大学工学部航空学科へ進学。この時、航空学科へ入学した10名の中には三菱重工業で九試単座戦闘機(九六艦戦)や十二試艦上戦闘機(零戦)の設計主務者となる堀越二郎、川崎航空機でキ10(九五戦)やキ48(九九双軽)、キ61(飛燕)の設計主務者となる土井武夫がいた。1927年(昭和2年)、東京帝国大学を卒業。東京帝国大学大学院に進み、1929年(昭和4年)3月に大学院課程を修了する。同年7月に航空評議会嘱託。1930年(昭和5年)6月より東京帝国大学に置かれた航空研究所に研究生として加わり、1934年(昭和9年)10月から航空研究所嘱託となる。航研機では和田小六所長の指導下で胴体・尾翼・脚の設計、性能試験および飛行計画を担当。1937年(昭和12年)、航空研究所技師に任ぜられる。1938年(昭和13年)、航研機は周回長距離飛行10,651.011kmを達成し世界記録を樹立。1940年(昭和15年)、東京・ニューヨーク間の親善飛行を目的とするA-26の設計主務者となる。1941年(昭和16年)、東京帝国大学助教授を兼任。1944年(昭和19年)、特殊滑空機(後の桜花)の基礎設計を行なう。また、A-26が16,435kmの周回長距離飛行を成し遂げたが、戦時下であり国際航空連盟による公認を受ける事はなかった。1945年(昭和20年)、東京帝国大学教授に任ぜられると共に、航空研究所員に補される。同年、論文「飛行機と基礎形決定並びに飛行試験に於ける螺旋不安定の検討に就て」 で工学博士を取得。同年、双光旭日章を受章。1946年(昭和21年)、GHQの指令により日本の航空活動が禁止されたことから、航空研究所が官制廃止となり退官。1947年(昭和22年)、航空研究所時代の同僚であった粟野誠一日本大学教授の誘いを受け、日大旧工学部(現在の理工学部)教授に着任。1952年(昭和27年)、サンフランシスコ講和条約発効により日本の航空活動が許可され、航空活動を再開。大学研究室の学生らと二人乗り軽飛行機N52を製作開始。1953年(昭和28年)、日本航空学会会長に就任。1955年(昭和30年)、日本大学機械工学科に航空専修コースを設置。航空工学の専門教育を開始した。1957年(昭和32年)、中型機の開発を目的とした財団法人輸送機設計研究協会(通称・輸研)が設立され、木村は初代技術委員長に就任。1958年(昭和33年)、135馬力の4人乗の軽飛行機N58を製作。1960年(昭和35年)、国際航空連盟よりポール・ティサンディエ賞を受賞。1962年(昭和37年)にはN62を開発。伊藤忠航空整備と共同開発した軽飛行機は160馬力4人乗りで、韓国訪問飛行を2度実現させた。1962年(昭和37年)、初の国産旅客機YS-11の基本構想に参画。1966年、(昭和41年)、3年がかりで製作した人力飛行機「リネット号」で日本最初の人力飛行に成功。1968年(昭和43年)、 藍綬褒章を受章。1971年(昭和46年) には紫綬褒章を受章した。1974年(昭和49年)、自動車エンジンをつけたモーターグライダーN70の開発に着手。1976年(昭和51年)、人力飛行機「ストーク号」で446メートルの日本新記録を樹立、翌年には「ストークB号」で飛行距離2,093メートル、滞空時間4分27秒80の世界記録を樹立した。1975年(昭和50年)、勲二等旭日重光章を受章。1986年(昭和61年)10月10日、死去。享年82。


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戦後日本の航空機技術を発展させ、航空界に大きく貢献した木村秀政。ライト兄弟の飛行機が初飛行を行った年に生まれ、6歳の時に見た飛行機で大空に憧れを抱いた少年は、戦後初の国産旅客機YS-11の設計で中心的な役割を果たし、大きく立ち遅れていた日本の航空技術の立て直しに成功した。多くの若手技術者をも育て、その技術を次世代に引き継ぐ架け橋として活躍した木村秀政の墓は、東京都港区の青山霊園にある。墓には「木村家之墓」とあり、左横に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2018-12-30 01:03 | 経済・技術者 | Comments(0)

井深大(1908~1997)


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井深 大(いぶか まさる)

ソニー創業者
1908年(明治43年)~1997年(平成9年)

1908年(明治43年)、栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)に生まれる。2歳の時、青銅技師で水力発電所建設技師あった父の死去に伴い、愛知県安城市に住む祖父の基に引き取られるが、5歳のときに母と共に東京へ転居。8歳のときに再び愛知県へ戻り、安城第一尋常小学校(現在の安城市立安城中部小学校)を卒業。後に再婚した母に従い、母の嫁ぎ先の神戸市葺合区(現在の中央区)に転居した。兵庫県立第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)、第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学理工学部に入学。学生時代から奇抜な発明で有名で、在学中に「動くネオン」を開発した。1933年(昭和8年)、早稲田大学理工学部を卒業。東京芝浦電気(現在の東芝)の入社試験を受けるも不採用となり、写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称:PCL) に入社。学生時代に発明した「走るネオン」がパリ万国博覧会で金賞を獲得。1937年(昭和12年)、日本光音工業に移籍し無線部長に就任。1940年(昭和15年)、日本光音工業の出資を受け「日本測定器株式会社」を設立。常務に就任した。日本測定器は軍需電子機器の開発を行っており、戦時中の熱線誘導兵器開発中に盛田昭夫と知り合う。 1945年(昭和20年)10月、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業「東京通信研究所」を立ち上げる。その後、朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田の目に留まり、会社設立に合流する。翌年5月には株式会社化し、資本金19万円で、義父の前田多門(終戦直後の東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が常務(営業担当)、増谷麟が監査、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業した。1947年(昭和22年)、NHKを統括していた米軍の将校からテープレコーダーを試聴し、製作することを決心する。1950年(昭和25年)、東京通信工業社長に就任。1951年(昭和26年)、苦難の開発の末、国産初のテープレコーダー「G-1型」を発売。しかし、小売価格16万円 (現在の3,000,000円位) と高価のため売れず、小型の普及機に方向転換する。結果、全国の小中学校から注文が殺到し始め、時同じくして占領軍の統制下にあった電波が民間に開放され全国でラジオの開局ラッシュが始まり、業務向けも注文が殺到する。1952年(昭和27年)アメリカでのテープレコーダー普及状況を調査するため渡米。アメリカの国力を痛感し、最先端技術を開発しなければ日本の再生は無いと悟る。帰国後、実用化は無理と考えられていたトランジスタの開発を決意し、周囲の反対を押し切り開発を推し進める。1955年(昭和30年)、アメリカで開発されたトランジスタの国内生産に成功し、それを利用したトランジスタラジオ「TR-55」を世に送り出した。翌年にはトランジスタ・ラジオを改良し、イヤフォン方式やハンディタイプなど次々に新製品を出荷した。1957年(昭和32年)、スピーカー付きポケットラジオ「TR-63型」を発売。世界最小で感度も良く、消費電力も従来の半分であったため大ヒット。アメリカの雑誌「ポピュラーサイエンス」に取り上げられ、アメリカでもヒット商品となり、電気製品での輸出第1号となった。1958年(昭和33年)、それまで商標名として使っていたSONYを正式な商号に採用してソニーと改称し、ブランド名と社名を統一した。1961年(昭和36年)、トランジスタテレビを発売。翌年には世界初の5インチテレビを発売した。1962年(昭和37年)、日本映画・テレビ録音協会初代名誉会員に選出。1964年(昭和39年)、世界初の家庭用白黒ビデオ・テープレコーダーを発売。1967年(昭和42年)、トリニトロン・カラーテレビが完成。当初はクロマトロン方式にチャレンジしたが、5年間の努力を続けても製品としての完成はほど遠かった。だが、その過程で全く新しい方式のブラウン管であるトリニトロンの開発に成功。色選別機構のアパチャーグリル、1ガン3ビームの電子銃、縦方向にゆがみのないシリンドリカルスクリーン・スクェアコーナーなど、独自技術により高性能を実現。他社がシャドーマスク方式のブラウン管を採用していた中で、技術のソニーを見せつける製品となった。1968年(昭和43年)、日本テキサス・インスツルメンツ株式会社の初代 代表取締役社長に就任。1969年(昭和44年)、財団法人幼児開発協会を設立し、理事長に就任。この頃から技術立国には幼児教育が欠かせないと考えるようになり、残りの生涯を幼児教育の情熱に注ぐ。1972年(昭和47年)、電子工学関係で世界最大の学会「IEEE 」から米国人以外は初となるファウンダー賞が贈られる。1975年(昭和50年)、ソニーの会長に就任。1977年(昭和52年)にはソニーの名誉会長に就任した。1986年(昭和61年)、勲一等旭日大綬章を受章。1989年(平成元年)、文化功労者に選出。1990年(平成2年):ソニーファウンダーを創業し、名誉会長に就任。1992年(平成4年)、産業人として初の文化勲章を受章。晩年は身体の自由は利かなくなっており、車いすでの移動を余儀なくされた。だが、当時の側近の言に因れば、最後の最後まで頭ははっきりしていたといい、「今、なにがやりたいですか?」の問いには「小さい会社を作って、またいろいろチャレンジしたいね」との返答をしたという。1997年(平成9年)12月19日、急性心不全のため東京都港区三田の自宅で死去。享年89。没後、勲一等旭日桐花大綬章を追贈された。


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ソニーを町工場から日本を代表する国際的な企業に育て上げた井深大。新しい独自技術の開発に次々と挑戦し、戦後日本経済の復興と急成長に大きく貢献。国民の生活を豊かなものにした。なんといってもトランジスタの誕生がもたらした功績は大きく、その後に出されたウォークマンと併せて音楽をより身近なものにした。戦後の日本を技術国に押し上げ、不可能を可能にし続けた井深大の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「井深家一族之墓」とあり、右横に「自由闊達 井深大」と彫られた碑が建つ。背面には井深の略歴が刻まれている。

by oku-taka | 2018-09-16 01:24 | 経済・技術者 | Comments(0)

島秀雄(1901~1998)

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島 秀雄(しまひでお)

鉄道技術者
1901年(明治43年)~1998年(平成10年)


1901年(明治43年)、鉄道技術者・島安次郎の長男として大阪で生まれる。 父の影響を受け、1925年(大正14年)に東京帝国大学工学部を卒業し鉄道省へ入省。キャリアの初期には父・安次郎の直系の弟子格に当たる朝倉希一に師事し、工作局車両課で蒸気機関車開発に携わった。1928年(昭和3年)、幹線用蒸気機関車「C53形(設計主任:伊東三枝)」の設計に参加し、シリンダー・弁装置を担当。しかし、設計部分が機関車そのものの寿命に致命的な影響を及ぼす深刻な欠陥構造となってしまう。1930年(昭和5年)、設計主任に就任。主任として初めてのパシフィック機であるC54形も空転しがちで不評を買い、しかも製造から15年前後で主要部の鋳鋼製部品に多くの亀裂が発生して早期廃車となった車両が全体の半分近くを占めるなど、看過できないほどに重大な失策が幾つもあった。設計主任としての代表作とされ、当人も後に「会心の出来」と評した貨物用機関車「デゴイチ」ことD51形も大量生産され全国に普及したが、島が設計を担当した初期形は構造面での問題を多数抱えていた。そのため、島の後任として主任設計者となった細川泉一郎によって大幅な設計変更が実施され、当初の仕様よりも軸重の増大を許容し死重を追加搭載するようになってようやく本格的な大量生産が開始された。しかし、C10形・C11形・C12形と3形式続けて設計主任を担当した一連の小形制式機シリーズの設計は一定の成果を見せ、特にC12形ではボイラー主要部組み立てへの電気溶接構造の採用や、主台枠前部への大型鋳物部品の採用など、新しい設計に挑戦し成功した。その一方、日本の軌道条件が劣悪な狭軌鉄道における蒸気機関車の限界と、電車・気動車に代表される動力分散方式の将来性を見抜いていたことから、いち早く気動車の開発を推進し、普及に努めた。また内燃機関技術や省営自動車(国鉄バス)への国産車採用の見地から、1931年(昭和6年)に商工省(当時)の主導で開始された国内自動車メーカー共同による標準形式自動車の開発にも鉄道省から参画。1933年(昭和8年)に後のいすゞ車の原型となるTX型を完成させている。 1937年(昭和12年)、海外の鉄道事情視察の命を受け、翌年にかけてアジア・欧州・南米・北米と外遊。世界各国の鉄道事情を研究した。帰国後は国内の狭軌用機関車を満鉄用の広軌用に改造。1939年(昭和14年)、1930年代末期から進められた東京-下関間を9時間で結ぶ「弾丸列車計画(新規広軌幹線敷設計画)」のメンバーに招集される。ここでも電気動力を本命として計画を立案したが、太平洋戦争激化によって計画は頓挫した。以降、戦時中はB20形や63系電車など、戦時設計車両を手掛けた。 1947年(昭和22年)、長距離用電車・80系電車の計画を立案。電車自体に懐疑的だった当時のGHQによる妨害を排しながら、1949年(昭和24年)に完成。翌年から東海道本線に導入させ、16両の長大編成を組んだ「湘南電車」の運行を実現させた。その間の1948年(昭和23年)には国有鉄道理事工作局長に就任。ビジネス特急「こだま」のプロデュースに携わるなどしたが、戦後の混乱した情勢において鉄道事故が続発。1951年(昭和26年)には大惨事となった列車火災事故の桜木町事故が起こり、島は63系電車の安全面の改良を徹底的に行った後、責任を取り国鉄車両局長の職を辞した。退職後は鉄道車両用台車の最大手メーカーである住友金属工業の顧問を務めた。1953年(昭和28年)には鉄道趣味者団体「鉄道友の会」の初代会長に就任し、鉄道趣味の分野でも活躍した。1955年(昭和30年)、十河信二が国鉄総裁に就任。十河は最適任の技術者として島に復帰を要請し、島は副総裁格の国鉄技師長に就任。鉄道電化を主軸とする動力近代化推進の先頭に立ち、純国産技術による広軌高速鉄道「新幹線」計画の指揮を執る。同計画には国内外からも反対派が多かったが、「東海道線の貨物輸送のために線路をあけるには、旅客列車を別の新線にする必要がある」と世界銀行副総裁のアメリカ人を説得し、同銀行から多年度長期借款を実現。世界標準軌(広軌)の導入、踏切の全廃、信号系を車内に移す、機関車が客車を引く欧米方式をやめて全ての車輪をモーターで駆動する等の改革を新幹線で実現させようとした。1956年(昭和31年)、産業計画会議常任委員に就任。1958年(昭和33年)、産業計画会議が国鉄分割民営化を政府に勧告。島が常任委員であったことから物議を醸す。1963年(昭和38年)、十河が「新幹線予算不足の責任」を問われ総裁を辞任。島も予算超過の責任をとる形で国鉄を退職した。退職後は再び住友金属工業に入り顧問となる。1964年(昭和39年)10月1日朝、東京駅で行われた東海道新幹線の出発式に、国鉄は島も十河も招待しなかった。島は、自宅のテレビで「ひかり」の発車を見たという。十河は前総裁と言うことで当日10時からの記念式典には招待されたが、島はこちらの招待も受けなかった。しかし、新幹線の誕生は空路におされていた鉄道の復活として著名となり、特に日本より欧米で先に評価され、1967年(昭和42年)に島は運輸の功績者を選ぶアメリカのスペリー賞を受賞。1969年(昭和44年)には英国機械学会のジェームズ・ワット賞を日本人として初めて受賞し、その地位は回復した。その後、文化功労者に選出。また、佐藤栄作首相から宇宙開発事業団の初代理事長を請われ就任。人生初めての鉄道畑以外の仕事であったが、「10年以内に日の丸衛生が実現できるはずがない」と国産ロケット路線を拒否し、アメリカからの技術導入に踏み切った。 これが後に液体水素、液体酸素の国産ロケットH2の開発につながった。その後も鉄道技術者時代と同じく最先端高性能の技術より安全性信頼性を重視したロケット・人工衛星開発の信念を貫いた。現在日本が使用している人工衛星に「ひまわり」・「きく」・「ゆり」など植物名が付けられているのは島の園芸趣味からきているという。1977年(昭和52年)、技術試験衛星「きく2号」を静止軌道に打ち上げた。同年、理事長職を2期8年で退任。 1994年(平成6年)、文化勲章を受章。鉄道関係者としては初めての受章となり、JRではこれを記念したオレンジカード等を製作・発売した。1998年(平成10年)3月18日、死去。享年96。


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新幹線を作った男として名高い島秀雄。父と同じ道を歩み、D51や小型蒸気機関車の設計、弾丸列車の計画、80系・ビジネス特急「こだま」等の長距離用運行電車のプロデュース、新幹線の開発と、まさに日本の大動脈を劇的に変えた改革者であった。「できることをできるといい、できないことをできないという。当たり前のことをやる」という思想のもと、島は高性能を狙わず地道な改良で一定水準の性能と確実な信頼性を達成しようとするリスク回避のポリシーを守った。時に失敗し、理解を得られなくて批判されることも多々あったが、後年になってその功績は評価され、鉄道関係者として初の文化勲章受章という形でようやく結実した。日本の鉄道技術の発展に大きく貢献した島秀雄の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「島家」とあり、背面に墓誌が彫られている。

by oku-taka | 2018-09-03 00:28 | 経済・技術者 | Comments(0)