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赤松良子(1929~2024)

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赤松 良子(あかまつ りょうこ)

官僚
1929年(昭和4年)〜2024年(令和6年)

1929年(昭和4年)、画家・赤松麟作の三女として大阪市天王寺区に生まれる。赤松夫妻は二人とも再婚で、父は先妻との間に五男一女がいた。良子が産まれたとき、父51歳、母40歳と高齢出産であり、そのためか父は良子を溺愛し、1934年(昭和9年)に「良子」という作品を描いている。1936年(昭和11年)、大阪市天王寺第五尋常小学校(現在の大阪市立五条小学校)に入学。1942年(昭和17年)、大阪府立夕陽丘高等女学校(現在の大阪府立夕陽丘高等学校)に入学。終戦の混乱の中であった1946年(昭和21年)に同校を卒業し、神戸女学院専門学校(現在の神戸女学院大学)に入学。しかし、肺門浸潤で休学を余儀なくされ、後に退学した。一方、GHQの改革により日本の家父長制度は終焉を迎え、女性への参政権が認められるなど、ものすごいスピードで移り変わる世の中に大きな衝撃を受ける。1947年(昭和22年)、上京。得意だった英語を活かすべく、津田塾専門学校英語学科(現在の津田塾大学 学芸学部英語英文学科)に進学。1950年(昭和25年)3月、津田塾専門学校英語学科を卒業し、同年4月に東京大学法学部政治学科(3年制の旧制大学)に入学。在学中は東洋政治思想史の丸山眞男ゼミに所属する一方、「差別のない社会を作りたい」と素朴に思い、働くことを通じてそうした社会を実現しようと決意し、在学中に国家公務員6級試験(現在の国家公務員採用総合職試験)を受験して合格。1953年(昭和28年)の大学卒業とともに労働省(現在の厚生労働省)へ入省し、婦人少年局婦人課に配属される。同年11月、花見忠(後に上智大学教授)と結婚。その後、出産・育児に加え、仕事面でも男性キャリアと比較して昇進が遅いなど雌伏の時を過ごす。1958年(昭和33年)、埼玉労働基準局に転任。1960年(昭和35年)に本省へ戻り、希望していた職業安定局に配属される。しかし、部署は労働市場調査課で、係員はひとりもいない名ばかりの係長であった。全国から集まってくる調査票を整理して書き写す単調な仕事なため、モチベーションを維持すべく職場外での活動に取り組み、研究と学術論文の執筆に勤しむ。1963年(昭和38年)、国際連合フェローシップ試験に合格して渡米。同年10月から1964年(昭和39年)4月まで、ワシントンDC、クリーブランド、シカゴ、デトロイトなど米国東部で女性の労働事情について研究した。もともとの研修期間は半年間であったが、費用を自己負担する形で約2カ月の欧州視察をプラスし、「中高年労働者の雇用問題」をテーマに各国の労働関係の役所やジュネーブにある国際労働機関(ILO)本部などを訪問した。1964年(昭和39年)6月、帰国。婦人少年局婦人労働課係長となる一方、企業が結婚を機に女性を退職させる「結婚退職制」に異議を唱え、1965年(昭和40年)に『女子の定年制』を執筆した。1966年(昭和41年)、企業における女性の結婚退職制の適法性が争われた民事訴訟「住友セメント事件」で「『結婚退職を約束する念書』に反したことによる解雇は、性別を理由とする合理性を欠く差別待遇であり、民法九〇条の規定により無効」とされた判決に喜び、"青杉優子”の筆名で雑誌『婦人展望』に「結婚退職制度は違憲―住友セメント事件の判決を巡って」という論文を発表した。1968年(昭和43年)、同期の男性が次々と地方の課長となる中で、自分にはいつまでも声がかからないことから、「若いころに、地方課長の経験をしておくことは、キャリア官僚としてはとても重要なことだ」と官房長に直談判。これにより、群馬労働基準局の労災課長に就任。その後、本省婦人労働課長補佐、婦人課長、婦人労働課長を歴任。婦人労働課長時代には、勤労婦人福祉法立案に際し、育児休業制度を盛り込む。1975年(昭和50年)、女性で初めて山梨労働基準局長に就任。1978年(昭和53年)、総理府の婦人問題担当室長に就任。1979年(昭和54年)、国際連合日本政府代表部公使に任命される。国連公使として女子差別撤廃条約に賛成の投票を行い、同条約に署名したことで日本は条約を批准するための国内法整備が課題となった。1982年(昭和57年)、労働省婦人少年局長に就任し、男女雇用機会均等法の立案に当たる。しかし、経済界はこの法案に猛反対し、赤松は大企業を軒並み回って説明して歩いた。企業側は罰則を恐れている節があったことから、あくまでもこの法案は女性の差別をなくしてくださいという法律であること、最初からきつい法律は作らずソフトなところから出発する意志を伝え、募集、採用、昇進、昇格、解雇など多くが努力義務規定、強行規定は解雇の部分だけであることを説いて回った。しかし、これにより今度は「すべて強行規定にすべきだ」と女性たちから批判を受けるようになった。一方、財界は法案に反対するための声明を準備していることを知り、赤松は旧知の女性記者に「世界中を見回してみてほしい。先進国では女性差別を撤廃する法律を作っているのに」と訴えた。彼女がそれを記事にしたことで、財界にも「男女雇用機会均等法に大げさに反対する意見を発表したら笑いものになる」という雰囲気が生まれた。こうして、1983年(昭和58年)に法案の審議会が開かれたが、経営側は「男は基幹労働、女は補助労働で日本の終身雇用制度は維持されている」「女性は労働保護法規に甘えている」と譲らず、労働側も「男女平等は進めたいが、保護がなくなるのは困る」と主張し、議論は空回りした。同年、労働省の組織改編に伴い、初代婦人局長に就任。また、第2次中曽根内閣で労働大臣に坂本三十次が就任し、坂本は男女雇用機会均等法に理解を示したことで省内の空気は変わり、事務次官に同行して中曽根首相に直接説明することも実現した。しかし、募集・採用と昇進・昇格での男女差別を禁止規定にできるか、努力義務にとどめるかで調整は難航。労働側は罰則付きの禁止と女性の保護規定を求め、経営側は企業の自由な競争力をそぎ経営にマイナスになると、禁止規定に激しく反発し、議論は平行線をたどった。公益委員が労使歩み寄りを促しても効果はなく、そのため1984年(昭和59年)3月に労働大臣へ渡した建議には両者の意見を併記することになった。ところが、諮問案に書かれた差別規定が緩やかになり、男女平等法という最初の名称もどこかにいってしまったとのことから、総評婦人局長の山野和子をはじめ労働側委員全員が同年4月19日に開かれる婦人少年問題審議会を欠席する意向を固める。審議会が開かれないと他の関連審議会も開かれず、結果的に法案作成は暗礁に乗り上げてしまうことから、赤松は山野に電話をかけ、「建議で禁止規定だったものが努力義務になっているのは、確かにそうです。そのかわり保護規定では、深夜業禁止の項目を大幅に残して労働側の言い分を入れました。経営側にだけ譲歩したわけではありません。法案の形式から名称を変えることになり、きちんと伝えていなかった点は謝ります」と説明した。その結果、数十分後に開かれた審議会に山野たちは出席し、同年5月に男女雇用機会均等法案は国会に提出された。同年7月3日からは衆議院社会労働委員会で審議が始まり、政府案は「募集・採用と配置・昇進の男女差別是正は企業の努力に任せる(努力義務規定)」とし、女子保護規定のうち管理職・専門職の深夜業や時間外勤務等の規制を廃止した。この政府案で衆院を通過し、参院で見直し規定の修正が入り、1985年(昭和60年)5月に男女雇用機会均等法は成立、1986年(昭和61年)4月に施行となった。これにより、門戸が閉ざされていた総合職などで女性の採用が始まり、彼女たちは「均等法世代」と呼ばれた。一方の赤松は、同年に駐ウルグアイ大使に任命される。1989年(平成元年)に帰国し、女性職業財団会長、国際女性の地位協会会長、文京女子大学教授、文京学院大学大学院教授などの職を務める。また、朝日新聞に設置されたばかりのオンブズマンに就任し、犯罪報道における容疑者・被害者の顔写真の扱いを慎重にするべきだなどの見解を示した。1993年(平成5年)、細川内閣で文部大臣に就任。非自民連立政権にあって、文教行政に関し、非政治性、非宗教性が強く求められたことや女性、民間人の積極登用の目的で赤松に白羽の矢が立った。赤松は文相に就任した早々、高校野球における丸刈りの強制に反対したり、甲子園のベンチに女子マネージャが入れないのはおかしいとの意見を主張した。また、公務員の結婚後の通称使用、教科書検定の公開、国立大学施設費の予算増額などを検討した。1994年(平成6年)、細川内閣の総辞職後に発足した羽田内閣にも留まったが、2ヶ月あまりで瓦解したため、赤松も文相を退任した。1999年(平成11年)、政治をめざす女性を資金面で応援するネットワーク「WIN WIN」を設立。2003年(平成15年)11月3日、扇千景とともに女性として初の旭日大綬章を受章。また、国際女性の地位協会10周年を記念して「赤松良子賞」が設けられた。2008年(平成20年)6月13日、女性として初の日本ユニセフ協会の会長に就任。2012年(平成26年)、市民団体「クオータ制を推進する会」を立ち上げ、自ら代表に就任。候補者などの一定割合を女性に割り当てる「クオータ制」の必要性を訴えた。2014年(平成26年)9月、未来を展望し、政治の場に立候補しようと考える人や民間の組織などあらゆる場でリーダーを目指す女性を育成するための塾「赤松政経塾」を創設。晩年も、超党派の議員連盟とともに政党に男女の候補者数をできる限り均等にするよう求める「候補者男女均等法」の成立に貢献するなど、精力的に活動していたが、2024年(令和6年)2月6日に死去。享年94。没後、従三位に叙せられた。


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女性キャリア官僚の草分け的な存在であった赤松良子。女性の地位向上に力を注ぎ、特に「男女雇用機会均等法」の制定では、企業側と労働者側の根回しや調整などに奔走した。議論では互いに主張を譲らず、時に実力行使で抵抗され、平行線を辿る中で両者を調整し、合意形成を得たのは見事であった。制定当初は「努力義務」にとどまるものが多く、支持者であるはずの女性労働者からは賛同どころか不満の声が寄せられたが、年を経て改正が重ねられ、2006年(平成18年)男女共に性別を理由とした差別的扱いが禁止、2007年(平成19年)に出産・育児などによる不利益な待遇が禁止された。あらゆる立場の人たちから文句を言われ、常に板挟みの状態に遭いながら、「なんと言われようと、あのときに法律を作ることが必要だと信じていました。あとは改正をしていけばよい」という強い信念で法案成立を実現させた「均等法の母」の墓は、東京都新宿区の四谷たちばな墓苑にある。墓は「たちばなの碑」と呼ばれる合同墓であり、左右に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2026-02-27 00:59 | 政治家・外交官 | Comments(0)