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五代目・古今亭今輔(1898~1976)

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五代目・古今亭 今輔(ここんてい いますけ)

落語家
1898年(明治31年)〜1976年(昭和51年)

1898年(明治31年)、群馬県佐波郡境町(現在の伊勢崎市)に生まれる。本名は、鈴木 梧郎。出生名は、斎藤 五郎。母を1904年(明治37年)に亡くし、自身は太田中学校、陸軍士官学校と進学して軍人になることを望んでいたが、父が米相場に手を出して失敗したことにより、進学の道は諦めることとなった。高等小学校を卒業した1913年(大正2年)9月8日、家出同然で上京。はじめは上野松坂屋に勤務するが、上司に叱られ、僅か20日で退社。以後、11の職を転々とする。1914年(大正3年)5月、松坂屋の近くに表札を出していたことから唯一住まいを知る噺家であった、初代三遊亭圓右に入門。初代三遊亭右京を名乗る。弟子入り後はニ代目三遊亭円楽(のち三遊亭一朝)に古典落語の稽古をつけてもらうが、圓右の息子(のちの2代目三遊亭圓右)の理不尽さに腹を立てて衝突し、1916年(大正5年)7月に兄弟子であった初代三遊亭右女助一門に移籍した。1917年(大正6年)、二ツ目に昇進して桃助に改名。1919年(大正8年)3月、初代柳亭市馬の紹介で三代目柳家小さん一門に移籍し、四代目柳家小山三に改名する。1923年(大正12年)3月、真打に昇進。1925年(大正14年)、湯島同朋町の待合「鈴本」の鈴木芳子と結婚し、本名が"鈴木 五郎”となる。同年8月、三代目三遊亭圓楽らとともに落語協会を脱会し、落語改革派を結成。落語界の改革を唱え、1925年(大正14年)11月には"柳家小さん三"と改名したが、1926年(大正15年)1月に落語改革派は解散。ニ代目桂小文治一門に移籍し、再度"柳家小山三”を名乗る。このとき、三遊亭一朝から三遊亭圓朝のネタを多数伝授される。1928年(昭和3年)、上州訛り克服のため新作落語に転身。柳家金語楼の影響を受け、金語楼作品を多く口演するが、なかなか芽が出ずにいた。1931年(昭和6年)10月、師匠小文治の前名である三代目桂米丸を襲名。この時期は生活に困窮し、鈴本演芸場の鈴木孝一郎に雇われ、昼間は上野倉庫の倉庫番として勤めた。1941年(昭和16年)4月、5代目古今亭今輔を襲名(襲名のときは6代目として襲名したが、後で数えたら5代目であった)。また、襲名と同時に三遊亭圓橘の姓名判断により、本名を梧郎に改める。戦後、「老稚園」「くず湯」「受話器」などの新作落語を得意とし、とくに“お婆さんもの”で人気を得た。1964年(昭和39年)、第1回大衆芸能賞を受賞。1967年(昭和42年)11月28日、師匠の小文治が亡くなり、後任として日本芸術協会副会長に就任する。1973年(昭和48年)3月、第24回NHK放送文化賞を受賞。同年4月、勲四等瑞宝章を受章。1974年(昭和49年)3月1日、6代目春風亭柳橋の後任で日本芸術協会2代目会長に就任。1976年(昭和51年)12月10日、胃潰瘍のため死去。享年78。没後、従五位に叙された。


五代目・古今亭今輔(1898~1976)_f0368298_00161807.jpg

「お婆さん落語」で一世を風靡した五代目古今亭今輔。もともと最初の師匠が明治・大正期の名人であった初代三遊亭圓右で、自らも人情噺を含むいくつかの古典落語を持ちネタとしていたが、上州訛りを克服するべく新作落語に転身。長らく売れない時代が続くも、戦後すぐの落語ブームに乗って一躍人気者となった。当時は「古典落語至上主義」が蔓延し、影響力のあった評論家たちは徹底的に新作落語を否定かつ攻撃したが、今輔は「古典落語も出来たときは新作だ」という姿勢を崩さなかった。そうした頑固さの一方、持って生まれた義侠心で多くの弟子たちを育て、四代目桂米丸や桂歌丸などを売れっ子に育てた。真面目で常に自分を律し、弟子や後輩に対しては「○○さん」と呼び、「です・ます」調で話をしたという新作落語の重鎮の墓は、東京都新宿区の顕性寺にある。墓には「鈴木家之墓」とあり、墓誌はないが背面に建立者として「鈴木梧郎」の名が刻む。

by oku-taka | 2026-02-20 00:27 | 演芸人 | Comments(0)