人気ブログランキング | 話題のタグを見る

岩田専太郎(1901~1974)

岩田専太郎(1901~1974)_f0368298_23102012.jpg

岩田 専太郎(いわた せんたろう)

画家
1901年(明治34年)〜1974年(昭和49年)

1901年(明治34年)、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれる。生家は印刷業で、版木の名人と言われた父方の伯父や絵双紙屋のおばがいるという環境で、その感化を受けて専太郎も大衆的な絵画に興味をもち、少年の頃から独学で絵を学ぶ。1914年(大正3年)、旧制尋常小学校を卒業し、父の仕事の都合で家族が京都に転居していたことから専太郎も京都に移る。その後、図案家、日本画家、印刷図案家の順に弟子入りしてはやめるを繰り返し、最終的には日本画家・菊池契月の塾に通う。1919年(大正8年)、東京に戻り、お菓子屋の見本描きなどをして生計を立てていたが、大衆文芸雑誌『講談雑誌』を発行する博文館の挿絵画家として採用される。1920年(大正9年)、『講談雑誌』3月号に挿絵を描いてデビュー。以後、『講談雑誌』や同社発行の『文芸倶楽部』を中心に次々と挿絵を描いていく。また、この頃に伊東深水へ師事した。しかし、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災し、大阪に転居する。1924年(大正13年)、中山太陽堂の経営する広告出版社プラトン社の専属画家となり、同年創刊の『女性』、翌年創刊の『苦楽』で、永井荷風らの連載小説の挿絵を描く。特に『苦楽』の編集を担当していた川口松太郎や直木三十五らとともに仕事をすることで、大正モダニズムの影響を強く受けた。1926年(大正15年)には東京に戻ったが、同年『大阪毎日新聞』に吉川英治が連載した『鳴門秘帖』に挿絵を描いて評判となり、「モダン浮世絵」と呼ばれる。また、谷崎潤一郎『痴人の愛』の挿絵や、三上於菟吉『日輪』などの新聞小説の挿絵も担当し、一流挿絵画家の地位を獲得する。1937年(昭和12年)、山中貞雄監督の映画『人情紙風船』の美術考証を担当。これが縁で、1939年(昭和14年)には山中の遺した原案をもとに梶原金八が脚本を書き、萩原遼が監督した映画『その前夜』で美術考証を担当する。このほか、『すみだ川』『血槍富士』『日本橋』などの映画の美術考証や時代考証も担当した。1945年(昭和20年)、陸軍報道部の命により日本画『神風特攻隊基地出発』を製作。戦争末期には、妹の知人の故郷がある岩手県に妹と疎開し、食糧に窮した際には、頼って疎開してきた舞踊家の花柳徳兵衛と一座を組んで村々を慰問し、花柳の踊りを専太郎が解説するという出し物で訪問先から食糧を得た。戦後は出版ブームに乗り、挿絵の依頼が殺到。その一方、1948年(昭和23年)には出版美術家連盟(現在の日本出版美術家連盟)の発足に伴い、初代理事長に就任した。1954年(昭和29年)、表紙絵及び挿絵の功績により、第2回菊池寛賞を受賞。1961年(昭和36年)、紫綬褒章を受章。同年、『週刊読売』にエッセイを連載。1964年(昭和39年)にはこの連載をまとめた『溺女伝』を刊行した。同年、「個展-現代女性風俗画展」を日本橋三越で開催。以降、1972年(昭和47年)まで毎年開催する。1974年(昭和49年)、脳出血のため東京都新宿区の慶応病院にて死去。享年72。


岩田専太郎(1901~1974)_f0368298_23102189.jpg

岩田専太郎(1901~1974)_f0368298_23102286.jpg

挿絵画家として一時代を築いた岩田専太郎。線描の美しい官能的な女性を得意とし、新聞の連載小説・週刊誌・月刊誌の挿絵を多く手掛けた。中でも、吉川英治『鳴門秘帖』を皮きりに、谷崎潤一郎『痴人の愛』、大仏次郎『赤穂浪士』、川口松太郎『蛇姫様』、司馬遼太郎『竜馬がゆく』といったヒット作の挿絵を担当しており、まさに「ヒットの陰に専太郎美人画あり」という時代があった。挿絵画の巨匠・岩田専太郎の墓は、東京都新宿区の法蔵寺にある。墓には「岩田家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「伯秀院幽玄専空居士」。なお、女優としても活動した妹の湊明子(本名:岩田とし)も同じ墓に納骨されており、墓誌によれば1978年(昭和53年)7月23日に72歳で亡くなったとのことである。

by oku-taka | 2026-01-26 23:15 | 芸術家 | Comments(0)