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海老一染之助(1934~2017)

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海老一 染之助(えびいち そめのすけ)

太神楽曲芸師
1934年(昭和9年)〜2017年(平成29年)

1934年(昭和9年)、落語家・三遊亭圓駒の次男として、現在の東京都新宿区に生まれる。本名は、村井 正親(むらい まさちか)。少年時代は赤貧の生活で、豆カスやヒエの混ざった飯ですら、茶碗1杯を食べることができなかった。1945年(昭和20年)、「進駐軍に珍しい芸を見せれば、うまい物を食べられるぞ」と父に勧められ、傘の上でまりを回す芸で知られる伝統演芸・太神楽の 2代目海老一海老蔵に兄が入門。しかし、そこにくっついていったことで太神楽に興味を持ち、兄弟揃って入門となった。そのため、兄とコンビを組むことになったが、年齢的にまだ幼いため、しばらくは兄のカバン持ちを務めた。1946年(昭和21年)12月、新宿末広亭で「海老一勝太郎・小福」の名で初舞台を踏む。1949年(昭和24年)、「海老一染之助・染太郎」に改名。以来、染之助が曲芸を披露する傍らで、染太郎が軽快なテンポと独特な話術を展開する芸が十八番となり、“おめでとうございます”などとはやし立てる明るい芸風で子供からお年寄りまで幅広い人気を得た。しかし、兄は曲芸ができなかったわけではなく、弟よりもむしろ頭がよく芸の覚えも早かった。けれども兄は気持ちが長続きせず、結局弟の方が上達することになるので、兄は脇役に回る結果になったという。この一目見て分かる曲芸は海外でも人気を呼び、1960年(昭和35年)5月に旧ソ連文化省より招聘を受け旧ソビエト連邦にて初の海外公演。1965年(昭和40年)2月には 「お染ブラザーズ」の愛称でアメリカのABCテレビに出演。このほか、ブラジル、東南アジアなどで公演し、オーストラリアのシドニーオペラハウス、スウェーデン国立人形劇場などにも招かれた。1973年(昭和48年)、放送演芸大賞曲芸部門賞を受賞。1985年(昭和60年)、浅草芸能大賞の第1回奨励賞を受賞。1988年(昭和63年)10月、フジテレビ『笑っていいとも!』にレギュラー出演。正月だけでなく通年でテレビで見られるようになり、若者にも認知が広がった。1989年(平成元年)3月 にはシングル『おめでとうございます!!』でCDデビューを果たす。以降も正月番組の顔としてお茶の間に親しまれていたが、2002年(平成14年)2月2日に染太郎が胃癌のため死去。その後はピンで活動を続けていたが、晩年は50代で発症した糖尿病が悪化。薬には頼らず、ウオーキングや食事療法で血糖値を抑え、糖尿病をテーマにしたコラムなどを書いていたが、次第に体力が衰え、2013年(平成25年)頃に引退。2014年(平成26年)に入ってからは体調を崩し、車椅子で通所介護を利用するようになった。2015年(平成27年)以降は入退院を繰り返し、2017年(平成29年)11月に肺炎を患って入院。同年12月6日午前11時31分、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年83。


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「おめでとうございま〜す」の挨拶で正月の演芸番組にはお馴染みの存在だった海老一染之助・染太郎。伊勢神宮が発祥と言われる伝統の太神楽を一代で正月の風物詩に育て上げた。特に弟の染之助は、汗だくになりながら大技を披露し、「弟は肉体労働、兄は頭脳労働。これでギャラは同じです」などの軽妙なギャグで会場を笑いに包んだ。そうした待遇差もあってか、実生活では兄弟仲が非常に悪く、二人が楽屋で喧嘩している所を見たという芸人もいたようで、かつて内海好江が「あなた達はしょっちゅう喧嘩してますね」と言うほどであった。しかし、後輩芸人が染太郎に対して無礼な態度をとったときは本気で激怒するなど、互いに兄弟として大事に思い合っていた部分はあったようである。実際、兄が先に亡くなり、染之助がピンで活動するようになったが、その姿にどこか寂しさが感じられた。兄・染太郎が亡くなって15年、83歳で旅立った弟・染之助の墓は、東京都中野区の東光寺にある。墓には「村井家 萩原家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「至藝染朗信士」。

by oku-taka | 2026-01-18 22:27 | 演芸人 | Comments(0)