人気ブログランキング | 話題のタグを見る

高木彬光(1920~1995)

高木彬光(1920~1995)_f0368298_21453965.jpeg

高木 彬光(たかぎ あきみつ)

作家
1920年(大正9年)〜1995年(平成7年)

1920年(大正9年)、青森県青森市に生まれる。本名は、高木 誠一(たかぎ せいいち)。非嫡出子として生まれ、幼少時に母親と死別。旧制青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)から四修で第一高等学校理科乙類に入学した年には父親が亡くなり、家は破産して一家は離散。親族からの援助で学業を続けた。その後、東京帝国大学理学部化学科の受験に失敗。1940年(昭和15年)、京都帝国大学薬学部に進学。1941年(昭和16年)には工学部冶金学科へ転籍し、1943年(昭和18年)に同科を卒業し、入隊するものの健康上の理由から中島飛行機に材料検査係の技師として入社する。しかし、太平洋戦争の敗戦に伴い職を失う。1947年(昭和22年)、二人の易者から、中里介山に骨相が似ているから小説を書けと勧められ、『刺青殺人事件』の執筆を開始。本作は、横溝正史の『本陣殺人事件』に多大な感銘を受け、特に密室トリックの精緻なメカニズムに感嘆しつつも、犯行現場の離れが純日本的構造を必要としないことに不満を持ち、純日本的な建築家屋の中で唯一完全な密閉空間である鍵のかかった浴室内で密室トリックを完成させることに挑み、完成後に江戸川乱歩に送付。これが乱歩に激賞され、乱歩の世話によって1948年(昭和23年)に「宝石選書」第一編として発表。推理作家としてデビューする。同年、香山滋、山田風太郎、島田一男、岩田賛、楠田匡介らとともに「探偵小説新人会」を結成。1949年(昭和24年)、探偵作家クラブ二代目書記長に就任。同年、初の時代小説『鬼の腕』を雑誌天狗に掲載。また、初の少年向け小説『覆面紳士』を刊行し、以後、時代小説と少年向け小説も多数執筆していく。1950年(昭和25年)、雑誌「宝石」に発表した『能面殺人事件』で第3回探偵作家クラブ賞を受賞。同年、雑誌『新青年』4月号に「探偵作家抜打座談会」が掲載。これは、大坪砂男と宮野村子が幹事役、木々高太郎、永瀬三吾、岡田鯱彦、氷川瓏、本間田麻誉が出席した新年会に、『新青年』編集長の高森栄次が現れ、出席者に「非常に突然で恐縮ですが、速記をとって本誌に掲載させていただきたいと存じます。抜打ち座談会という形です」と告げたことから端を発したもので、この席上で推理小説界の文学派をもって任ずる出席者たちが、本格派の探偵作家たちを強い調子で非難。特に大坪は「低級な探偵小説を発行部数の多い雑誌に載せるが、それを支えている唯一のものは経済的根拠ですね」「その人達の誇っているところはいかに儲かるかということですよ」と発言した。この座談会を読んだ江戸川乱歩は即座に『宝石』の編集部に電話をかけ、『「抜打座談会」を評す』という一文を同誌の5月号に発表。横溝正史や高木も激怒し、特に高木は大坪の発言に猛反発し、大坪の作品が載った雑誌や単行本を風呂の焚きつけに使って溜飲を下げていた。また、本格派擁護のために、香山滋、山田風太郎、島田一男、三橋一夫、武田武彦、香住春作、島久平、白石潔らと「鬼クラブ」を結成した。これに対して文学派の諸作家も反撃し、騒ぎはますます大きくなった。しかし、本来売れ行きの芳しくなかった『新青年』は赤字から脱することができず、抜打座談会掲載から3ヵ月後の7月号を以て休刊を迎えた。これに伴って文学派は萎縮と沈黙を余儀なくされ、事態は沈静化した。大坪とはこの一件から犬猿の仲となり、1952年(昭和27年)、関西探偵作家クラブ会報『KTSC』誌上にて、匿名批評子“魔童子”と大坪砂男との間で「魔童子論争」が勃発。発端は、魔童子と名乗る匿名子が『KTSC』第49号掲載の「暗中鬼語」において、当時の探偵作家クラブ賞を「タライ廻し」「輪番制」と批判したことだった。このとき名指しで「関東の奇妙な幽霊」と揶揄された大坪は第50号に反駁文を発表し、「魔童子というオッサン、名を名乗れ!」「匿名批評なんて高等技術は、貫禄でするもんだ」「三下が頬ッ被りで、薪ざっぽう振廻してるなァあたり迷惑」「正体なしのスッコケ野郎」と反撃した。これに対し、魔童子は「匿名批評はカンロクでするもんやて言うてはるけど、そないケッタイな定理が批評学上におしたやろか」「大坪砂男がどんだけカンロクあるちゅうのや」「あんたはんは作家どすさかい、批評には作品で答えはったらよろしいのや」と反論した。すると大坪は第51号にて「昨年、KTSC会報は(クラブ賞について)オヒャラカシ的表現を掲載し、私は不愉快だった」と釈明。さらに「魔童子君は箱根山の西になんかいないで、東京にいる。私は始めから(原文ママ)その正体を知っていたのだ」と宣言した上で、「問題は不問に付そう」「私は魔童子君の忠告通り、以後言行をつつしみ、創作に専念しよう。では、さようなら」と鉾を収めた。これに対して魔童子の側は「魔童子は、昨年のクラブ賞について、貴下の心配なさるようなオヒャラカシ的言辞は、毫も弄してはいない」と反駁した上で、「正体は東にあり、はじめから知っていた、などと、これもハッタリだろう」「魔童子は可笑しくてしかたがない」と嘲弄したが、大坪はもはや何も言い返さず、この論争は終結した。今日では、魔童子の正体は高木彬光と山田風太郎の両人だったことが明らかになっている。作家としては、デビュー作に登場した名探偵・神津恭介と、神津に心酔する松下研三をメインキャラクターとして『人形はなぜ殺される』や、日本における歴史ミステリーの走りとなった 『成吉思汗の秘密』と精力的に執筆。1957年(昭和32年)には、坂口安吾の未完作『復員殺人事件』の後半解決部を書き次ぎ、『樹のごときもの歩く』として雑誌「宝石」に発表した。一方、松本清張の台頭による社会派ミステリーブームが起こると、百谷泉一郎弁護士や霧島三郎検事、近松茂道検事などのリアル寄りのキャラクターを主人公とした社会派ミステリーを多く手がけ、日本初のほぼ全編が裁判シーンという法廷ミステリ『破戒裁判』、誘拐ミステリの先駆けである『誘拐』などを発表。特に、光クラブ事件を題材にした『白昼の死角』は、後に映画化・テレビドラマ化されて話題となった。1967年(昭和42年)、大学時代に学んだ冶金学の知識を生かして秋田県で鉱山事業を経営し、鉱山の発掘に熱中した。1970年代に入ると、バロネス・オルツィの『隅の老人』をもじった「墨野隴人」なるキャラクターを生み出し、『大東京四谷怪談』では「破格探偵小説」を名乗ったりした。また、神津恭介シリーズも本格的に復活し、歴史ミステリー『邪馬台国の秘密』がベストセラーになったことなどで、長者番付の作家部門でベスト10入りを果たした。しかし、1979年(昭和54年)に脳梗塞のため入院。その後も幾度となく脳梗塞を発症し、後遺症に苦しみながらも、闘病記『甦える』を執筆した。1985年(昭和60年)、大動脈閉塞症で右足を切断。1988年(昭和63年)、『仮面よ、さらば』で作家業引退を宣言。その後、『神津恭介への挑戦』『神津恭介の復活』『神津恭介の予言』を執筆し、作家生活の総決算として「最後の神津恭介」を構想していたが、執筆途中の1995年(平成7年)9月9日、腎不全のため入院先の東京都内の病院で死去。享年74。


高木彬光(1920~1995)_f0368298_21453762.jpg

高木彬光(1920~1995)_f0368298_21453988.jpg

ミステリー小説界の巨匠として、江戸川乱歩や横溝正史と並び称された高木彬光。その江戸川乱歩からは、香山滋、島田一男、山田風太郎、大坪砂男とともに「戦後派五人男」と呼ばれ、力量を高く評価された。神津恭介、霧島三郎と魅力的なキャラクターを次々と生み出し、その作品の多くが2時間サスペンス化された。それだけに、現代における高木彬光という存在の忘れられっぷりには驚くばかりである。晩年は病との闘いの連続で、一度は引退を決意するも、やはり書くことを止めなかった高木彬光。ミステリーの鬼となった彼の墓は、東京都世田谷区の大吉寺にある。墓には「高木家之墓」とあり、左側面に本名ではなくペンネームで墓誌が刻む。戒名は、「文照院悠譽旺道彬光居士」。

by oku-taka | 2025-12-22 21:48 | 文学者 | Comments(0)