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寺内大吉(1921~2008)

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寺内 大吉(てらうち だいきち)

僧侶・作家
1921年(大正10年)〜2008年(平成20年)

1921年(大正10年)、東京府荏原郡世田谷村(現在の世田谷区)に生まれる。本名は、成田 有恒(なりた ゆうこう)。東京府立第六中学校(現在の東京都立新宿高等学校)卒業後、大正大学へ進学。在学中、生家である浄土宗・大吉寺の住職となる一方、文学に目覚めて富沢有為男の下へ出入りをし、文学を学び始める。1945年(昭和20年)、大正大学宗教学部を卒業。1955年(昭和30年)、処女作『逢春門』で第47回サンデー毎日大衆文芸賞を受賞。ペンネームは、自分宛てに届いた手紙「大吉寺内 成田有恒様」を見て、文字をひっくり返し「寺内大吉」と決めた。1956年(昭和31年)には『黒い旅路』で第8回オール新人杯を受賞した。この頃に記者として取材に訪れた司馬遼太郎と知り合い、1957年(昭和32年)に司馬、石浜恒夫らと同人誌「近代説話」を創刊。1961年(昭和36年)、同誌に掲載した『はぐれ念仏』で第44回直木三十五賞を受賞。以降、小説を執筆する傍ら、野球・ボクシング・競輪など多岐にわたる評論活動を行い、スポーツ番組の解説者としてもテレビに出演したことから、「なまぐさ坊主作家」として知られるようになる。しかし、45歳のときに作家坊主としての意識が強まり、題材を仏教に絞る。1983年(昭和58年)には『念佛ひじり三国志』で第37回毎日出版文化賞を受賞した。浄土宗の僧侶としても数々の役職をこなし、1988年(昭和62年)からは浄土宗東京事務所長を務めるなど、宗内において大きく貢献した。1991年(平成3年)から浄土宗宗務総長を務め、宗派内の知恩院派(京都)と増上寺派(関東)との融和につとめた。しかし、1997年(平成9年)6月21日の朝日新聞朝刊における宗教学者の山折哲雄との対談で「『お戒名は?』と聞かれたら、私は檀家の方にはっきり言っちゃう。『おたくは年が若いんで、院号をどうしても希望するなら五十万円ぐらいはどうだろう』『おたくのご主人の一ヶ月の給料くらいの基準で考えておくれよ』と」「何も恥ずかしいことではない。坊主自身がそのお金を変に使おうとするから恥ずかしいんであってね」と発言したところ、「戒名を売り物にしている印象を与える 」 などと宗派内で批判が出た為 、9月に宗務総長を辞任。その後、選挙で再選されて再び宗務総長となり、2001年(平成13年)まで務めた。一方、学校法人浄土宗教育資団(現在の学校法人佛教教育学園)の理事長も務めた。2001年(平成13年)からは増上寺第87代法主となる。2008年(平成20年)9月6日午後5時12分、心不全のため東京都文京区の病院にて遷化。享年86。


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浄土宗の僧侶でありながら、作家として俗物を主題とした作品を多く執筆した寺内大吉。自らも『競輪上人随聞記』さながらにギャンブルへとのめり込み、そこで得た経験が作品づくりに活かされた。また、ギャンブルのみならずスポーツにも熱中し、特にTBSのキックボクシング中継は長年にわたって解説者を務めた。後年、そうした部分は鳴りを潜め、僧侶として数々の役職を歴任。作家としても、独自の哲学や宗教観を強く反映したものを発表するようになったが、やはり「ものぐさ坊主」「競輪和尚」のイメージは色濃く残っていた。道楽人生を極めた偉大なる大和尚・寺内大吉の墓は、東京都世田谷区の大吉寺にある。墓には歴代の住職たちの名が刻まれ、右横に墓誌が建つ。戒名は「天蓮社大僧正超誉上人英阿大吉有恒大和尚」。

by oku-taka | 2025-12-14 18:32 | 僧侶 | Comments(0)