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服部克久(1936~2020)

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服部 克久(はっとり かつひさ)

作曲家
1936年(昭和11年)〜2020年(令和2年)

1936年(昭和11年)、作曲家・服部良一の長男として東京府(現在の東京都)に生まれる。幼少より音楽の英才教育を受け、国立学園小学校、成蹊中学校・高等学校を経てパリ国立高等音楽院へ留学。和声、フーガ、対位法を学んだ後、1958年(昭和33年)に卒業。帰国後、日本テレビの『ハニー・タイム』で作曲家デビュー。テレビ放送の草創期より活動を始め、連続テレビ映画『遊星王子』の劇伴担当を皮きりに、テレビ、ラジオ番組、ドラマ、アニメ、映画音楽を中心に活躍した。1964年(昭和39年)、東京オリンピック体操競技の伴奏を担当。同年、フジテレビ系列で放送開始した『ミュージックフェア』で編曲と音楽監修を担当。1966年(昭和41年)、フジテレビ系列で放送開始された『ママとあそぼう!ピンポンパン』で番組用楽曲の作・編曲を担当。同年、『サンダーバード』の日本語版主題歌の編曲を担当。1967年(昭和42年)、ブラジル・リオデジャネイロで行われた「第2回国際ポピュラー音楽祭」に日本代表として参加し、『ただそれだけ』(歌:中尾ミエ)で入賞を果たした。1970年(昭和45年)、日本万国博覧会 in 大阪 ガス・パビリオン音楽担当に就任。同年、日本アレンジャー協会(現在の日本作編曲家協会)を発足。1971年(昭和46年)、ダークダックスが歌った『花のメルヘン』で第13回日本レコード大賞編曲賞を受賞。1976年(昭和51年)、五木ひろし初のアメリカコンサート「ラスベガスオンステージ」で編曲及び指揮を担当。1978年(昭和53年)、TBS系列で放送開始された『ザ・ベストテン』のオープニングテーマを作曲。1979年(昭和54年)、TBS系列で放送開始した『クイズ100人に聞きました』のオープニングテーマを作曲。1980年(昭和55年)、谷村新司『昴』の編曲を担当。同年、「山口百恵 ファイナルコンサートツアー」の音楽監督と指揮を担当。1983年(昭和58年)、「音楽の自然食」をテーマとしたインストゥルメンタル集『音楽畑』シリーズをスタート。「ル・ローヌ」、「自由の大地」、「Friends, Love, Believing」などの代表曲とともに、全20作をリリース。オーケストラサウンドを徹底的に追求したこのシリーズは、一つのジャンルとして確立され、1990年(平成2年)と1998年(平成10年)に日本レコード大賞企画賞を受賞した。1988年(昭和63年)、「日本海夕日コンサート」のプロデュースを担当。自身も指揮とピアノで参加した。同年、NHK教育テレビの「趣味講座」、『 ピアノでポップスを』に講師として出演。“お宅で深い眠りについているピアノ”を揺り起こして家族全員でピアノ演奏を楽しもう、という概念に基づいて毎週1曲ずつレッスンし、家族役の出演者4人はそれぞれ演奏レベルが違い、音楽への接し方も違う点を考慮してそれぞれにふさわしい曲を選曲してあるが、必ずしもポップスにこだわらず、連弾やクラシックの編曲、弾き語り、カラオケの伴奏、ギターとのアンサンブル、懐かしのメロディまで幅広く網羅。このシリーズIでの好評を受け、シリーズIIでは半年間・計26回に延長された。シリーズIIIでは技術的にも中級・上級向きの曲を多く取り上げた。1989年(平成元年)、広島県「海と島の博覧会」の音楽プロデューサーに就任。同年、東京音楽大学の客員教授に就任。 1990年(平成2年)、大阪府「国際花と緑の博覧会」の音楽プロデューサーに就任。1992年(平成4年)、スペイン「セビリア万博」の日本館音楽プロデューサーに就任。1993年(平成5年)、韓国「大田国際博覧会」ジャパンデーコンサートをプロデュースし、指揮と編曲も担当。同年、毎年正月に海外(特にアメリカ)のポップス・オーケストラの来日公演を聴き刺激を受け、「日本一のポップスオーケストラで、日本一のサウンドで、最高の演奏で聞いてもらおう」と、東京ポップスオーケストラを組織。4年後には東京ポップスオーケストラを率いてカーネギー・ホールで単独公演を行った。1994年(平成6年)、日本作編曲家協会の会長に就任。1998年(平成10年)、服部の作曲した『記念樹』(1992年発表。フジテレビで放送されていた明石家さんま司会のトークバラエティ番組『あっぱれさんま大先生』のエンディング・テーマ)が、歌曲『どこまでも行こう』(1966年発表。ブリヂストンタイヤ、現在のブリヂストンのCMソング)の盗作であり、著作権を侵害していると、作曲者である小林亜星が抗議。服部は盗作ではないと主張し、両者の主張が平行線をたどった結果、小林と著作権者(編曲権者)である有限会社金井音楽出版が、服部に対して著作者人格権(同一性保持権、氏名表示権)侵害および編曲権侵害に基づく損害賠償を請求する訴訟を提起した。第一審(東京地裁平成12年〈2000年〉2月18日判決)はフレーズごとに対比してみると一部に相当程度類似するフレーズが存在する、ということは認めたものの、全体として『記念樹』が『どこまでも行こう』と同一性があるとは認められない、として小林側の請求をすべて棄却した。この判決を不服とした小林側が控訴し、複製権侵害の主張を撤回した上で編曲権侵害に主張の中心を移して争った。控訴審(東京高裁平成14年〈2002年〉9月6日判決)では、裁判所の判断は一転。両曲には「メロディーの始めと終わりの何音かが同じ」「メロディーの約72パーセントが同じ高さの音」といった「表現上の本質的な特徴の同一性」があり、この顕著な類似性が偶然の一致によって生じたものと考えることは不自然・不合理であるとし、服部が『どこまでも行こう』に依拠して『記念樹』を作曲したものであると認定した。結果として、小林の氏名表示権・同一性保持権侵害と音楽出版社の編曲権侵害を肯定し、小林と音楽出版社に対する合わせて約940万円の損害賠償を服部に命じた。服部は上告したが、最高裁は上告不受理とする決定(最高裁平成15年〈2003年〉3月11日決定)をしたため、高裁の判決が確定し、最終的に『記念樹』の作曲が著作権法違反にあたるものであるとされた。さらに小林側は、訴訟提起中にもかかわらず「記念樹」を流したとしてフジテレビも提訴しており、株式会社フジテレビジョン、株式会社フジパシフィック音楽出版、株式会社ポニーキャニオンに対して、計2338万9710円の損害賠償が命じられた。被告であった服部は最高裁で盗作が認定された後、日本音楽著作権協会 (JASRAC) 理事を辞任。フジテレビは、控訴審判決後の2002年(平成14年)9月8日放送分から『記念樹』の使用を中止することとし、JASRACも上記最高裁決定を受けて『記念樹』の利用許諾を中止した。また、小林が小学校など同曲を使用する可能性がある団体に利用の中止を求めたため、『記念樹』の公の場での歌唱・演奏は事実上不可能となった。2005年(平成18年)、愛知県「愛・地球博」のフィナーレ曲『Friends Love Believing ~EXPO2005』の作・編曲を担当。閉会式にも出演し、指揮を務めた。同年、特定非営利活動法人“LIVE FOR LIFE”の代表に就任。もともとは、急性骨髄性白血病のため入院中だった歌手の本田美奈子.の発案により設立され、白血病などの難病に苦しむ患者を支援するために、全国各地での本田の追悼イベントや公式サイトでオリジナルグッズの販売や募金の受け付けなどを行っている。2009年(平成21年)、日本作曲家協会の会長に就任。同年、音楽家生活50周年を記念し、アルバム『服部克久』『服部克久の世界』を2枚同時リリース。記念コンサートも開催した。2010年(平成22年)、宮崎県都城市総合文化ホールの終身名誉館長に就任。2011年(平成23年)、TBS系列『音楽の日』の放送にあたり、テーマ曲作曲、音楽監督、指揮を担当。2017年(平成29年)、昭和女子大学人見記念講堂にて「服部克久 傘寿の音楽会~80歳からの新たなスタート~」を開催。また、自伝的エッセイ集『僕の音楽畑にようこそ』を出版した。2020年(令和2年)2月頃に体調を崩して入院。同年6月11日午前8時42分、心不全のため東京都内の病院で死去。享年83。


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作曲家・服部良一の長男として生を受け、自らも同じ音楽の道へと進んだ服部克久。父とは異なり、主に映画やテレビの音楽を担当し、特にTBSでは『ザ・ベストテン』『日曜特集・新世界紀行』『クイズ100人に聞きました』といった看板番組のテーマを次々に手がけた。また、フジテレビの『ミュージックフェア』にはチーフアレンジャー・音楽監修として参加し、クオリティーの高い上質な音楽番組づくりに大きく貢献した。一方、名アレンジャーとしても知られ、谷村新司の『昴』『群青』、竹内まりやの『駅』、松山千春の『電話』といったシンガーソングライター勢のアレンジを引き受け、ヒットに導いた。後年、『記念樹』が小林亜星から剽窃として訴えられたり、2015年(平成27年)のレコード大賞において壇上で「これが日本の音楽業界の現状です」と発言して物議を醸すなど、ツイてないことが続いた服部克久の墓は、東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある。父も同地にある「服部家之墓」に眠るが、克久はそこから少々離れた位置に墓を建立しており、その墓には「南無阿彌陀佛 服部家」とあり、左側面に墓誌が、台座部分にピアノのモニュメントが設置されている。戒名は「清音釋克迦」。

by oku-taka | 2025-11-24 20:58 | 音楽家 | Comments(0)