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西田敏行(1947~2024)

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西田 敏行(にしだ としゆき)

俳優
1947年(昭和22年)〜2024年(令和6年)

1947年(昭和22年)、福島県郡山市に生まれる。父方の祖は和泉国伯太藩家老職を務めた今井家であったが、幼くして父が亡くなり、母は美容師として働いて息子を育てるが、5歳のときに同じ美容師の男性と再婚し、母の姉の申し出で、西田家に引き取られた。少年時代は養父に連れられ映画館へ通い、チャンバラ映画に熱中。観る側より映画のスクリーンに映る自分の姿をぼんやり夢想していた。小原田小学校を卒業後、市立第三中学校へ入学。その後、小原田中学校の創設に伴い、1年次に小原田中学校へ移る。中学時代は漠然と俳優になりたいと考えて演劇に興味を持つが、演劇部は女性部員ばかりで、当時男子生徒の部活動といえばスポーツが一般的だった風潮もあり、悶々とした3年間を過ごす。また、映画で「東京弁」に触れるうち、「俺このままずっとこの多感な時期こっちで暮らしていると、福島弁が染みついちゃって、もしかしたら標準語をしゃべれなくなっちゃうんじゃないか」との危機感を感じ始め、演劇が好きでも福島弁でしか演じられない現状に自問するうち標準語を習得したいと思い始め、両親を説得の上、中学卒業とともに上京。卒業生に俳優が多いと雑誌で読んだ明治大学付属中野高校へ進学する。高校に進学するとバレーボール部に入部したが、たまたま男子部員がいなくて困っていた演劇部の女子部員から、男役として部に協力してほしいと請われ、顧問のような形で演劇部に参加する。1年生の頃は訛りが直らず、高校をサボって上野動物園に何げなく入ると、群れから一匹だけ離れ、悲しげな顔で遠くを見つめるゴリラを見つけ、「同類がいる」と思い、動物園に通い始めた。1966年(昭和41年)、明治大学農学部に入学。同時に日本演技アカデミー夜間部に入る。日本演技アカデミーと掛け持ちしているうちにそちらへ熱が入り、大学は一年で中退してアカデミーの昼間部に通う。1967年(昭和42年)にアカデミーを卒業し、友人と劇団『シアター67』を結成。この頃、『渥美清の泣いてたまるか』(TBS)に学生役でテレビ俳優としてデビューしたが、劇団は一年後に解散となった。1968年(昭和43年)、青年座俳優養成所に入所。1970年(昭和45年)に卒業し、青年座の座員となる。同年、青年座7月公演『情痴』で初舞台を踏む。1971年(昭和46年)の10月公演『写楽考』では早くも主役に抜擢されたが、その後は役者として不遇の日々を送る。1975年(昭和50年)、舞台『私はルビイ』で芸術祭優秀賞を受賞。また私生活では、松崎しげると飲み友達で、毎晩のように飲み歩いては、互いの愚痴を吐き出しながら、励まし合う仲だった。そんな中でも知り合いや先輩が経営する飲食店に顔を出してリクエストに応えて歌うと、無料で飲み食いさせてもらえるメリットがあった。そうした中で出来上がったのが「客の出す3つの『お題』を入れて即興で歌を作る」というネタであった。松崎は元より、西田も歌唱力と音楽的センスがあったため、2人の即興デュエットは当時の六本木界隈では有名になり、その噂を聞きつけたTBSのスタッフが2人を進行役に起用し、テレビ番組『ハッスル銀座』がスタート。この番組では、視聴者から寄せられるハガキのエピソードを元に即興で歌を作り、披露するコーナーが評判となった。この番組出演が契機となり、1976年(昭和51年)にTBSのドラマ『いごこち満点』と『三男三女婿一匹』に出演。森繁久彌のアドリブにも堂々と渡り合う硬軟自在で個性的な演技と、愛嬌のある顔立ちや体型で人気を獲得した。1977年年(昭和52年)、舞台『写楽考』で第12回紀伊國屋演劇賞を受賞。同年に『特捜最前線』(テレビ朝日)、1978年(昭和53年)に『西遊記』(日本テレビ)でレギュラー出演し、主役を喰うほどの演技力が高く評価される。そして、1980年(昭和55年)に『池中玄太80キロ』(日本テレビ)と『サンキュー先生』(テレビ朝日)で主演を務め、1981年(昭和56年)にもNHK大河ドラマ『おんな太閤記』で準主役、さらに出演した映画『北斎漫画』で第5回日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞するなど、俳優として大ブレイクを果たす。歌手活動も精力的に行い、同年4月に発売した『もしもピアノが弾けたなら』(『池中玄太80キロ』第2シリーズ主題歌)は大ヒット。第23回日本レコード大賞金賞を受賞し、同年末の『第32回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たした。また、素朴で飾り気のないキャラクターやトーク、アドリブの巧さ、コメディアン・エンターテイナーぶりはバラエティ番組やコント番組でも注目され、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』を始め、数多くの番組に出演し、その他司会など、演劇活動以外でもマルチな才能を発揮した。1984年(昭和59年)、『天国の駅 HEAVEN STATION』で第8回日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞。1986年(昭和61年)、映画『植村直己物語』に主演。この作品ではモンブラン(フランス)、エベレスト(ネパール、中国)、マッキンリー、北極など植村の足跡を追う5大陸ロケを敢行して話題となり、第10回日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞した。1988年(昭和63年)6月公開の映画『敦煌』でも長期の現地ロケに参加し、一時は「極地俳優」の異名をとった。同作で、第26回ゴールデン・アロー賞映画賞と第12回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。また、中国で多くの人々と触れ合い、交流を深めたことから、中国との縁を大切にしていこうと志を立て、日本中国文化交流協会に入会。以来30数年間、同協会の会員同士の仲間たちと共に、日本国民に向けて中国文化を体験する機会を提供する各種イベント(東京国際映画祭の「中国映画週間」企画、チャイナフェスティバルなど)を開設・開催・支援し続けた。同年、映画『釣りバカ日誌』シリーズに出演。三國連太郎とのコンビで、最終の第20作(特別編2本を入れると22作)まで約22年に及ぶ長期シリーズとなり、自身の代表作の一つとなった。1991年(平成3年)、この年の大河ドラマ『翔ぶが如く』の主演を務めていたことから、『第41回NHK紅白歌合戦』の白組司会に抜擢される。その年の『大河ドラマ』の主演者が紅白の司会に起用されるケースは史上初であり、応援・出場歌手・審査員として出演歴のあった西田も、今回の白組司会担当をもって史上初の「グランドスラム」を達成した。1992年(平成4年)、『寒椿』『釣りバカ日誌5』で第16回日本アカデミー賞優秀主演男優賞、『おろしや国酔夢譚』『天国の大罪』で優秀助演男優賞を受賞。1993年(平成5年)、第31回ゴールデン・アロー賞映画賞、『学校』で日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞主演男優賞と全国映連賞 主演男優賞、『学校』と『釣りバカ日誌6』で第17回日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞を受賞。1994年(平成6年)、東宝ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で森繁久彌、上條恒彦に次ぐ3代目テヴィエ役に抜擢され、その後7年にわたり出演した。1996年(平成8年)、『学校II』で第20回日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。2000年(平成12年)、『ネイチァリングスペシャル「風雪の聖地アンデス縦断4000キロ」- 西田敏行53歳 米大陸最高峰アコンカグアに挑む -」』(テレビ朝日、2001年5月28日放送)の収録のため、南米最高峰アコンカグア(標高 6,962メートル)登山に挑戦している。この当時、焼肉とビールをこよなく愛し、大食漢で大酒飲みでありながら、運動といえば数か月に1度のゴルフ程度の上、1日の喫煙量は80本以上のヘビースモーカーという生活で、体重は94kg。そのため中性脂肪が人並外れて高いなど身体的な不安材料を抱えながらも、8月からネパールでの高地トレーニングを開始した。11月上旬にアタックを開始したが、強風や低温など天候に恵まれず、スケジュール的に無理と判断し、高度6,830m地点で登頂を断念している。2001年(平成13年)、上岡龍太郎の芸能界引退に伴う降板に伴い、朝日放送テレビ『探偵!ナイトスクープ』の2代目局長に起用。2代目の局長には、「『探偵!ナイトスクープ』のファンであり、かつ阪神タイガースのファンでもあることが望ましい」「探偵局員より年長者であること」「上岡クラスか、それ以上の大物であること」といった条件を満たす人物を招聘することとした。この条件に合致する人物は、関西はおろか日本全国に範囲を広げても簡単には見つからず、人選は難航。しかし、条件を全て満たす人物として、関西出身・在住者ではないものの阪神ファンとして有名であり、かねてから同番組の大ファンでもあった西田に白羽の矢を立てた。西田は番組からの熱心な打診を受け内諾していたものの、大河ドラマ『葵 徳川三代』の収録が完了するや上述のアコンカグア登山のスケジュールに追われており、その収録を終えなければ出演できない状況だった。そのため番組内では登場まで西田の名前を伏せ、局長席に「鋭意交渉中」の札を掛け続けて探偵、顧問が週替わりで進行役を務めた。局長としての初出演は日本への帰国直後、そのままABCホールに直行しての収録となり、ニットシャツにジーンズ、顔中に無精髭をたくわえたワイルドな出で立ちでの登場となった。同番組では関西弁交じりで話し、依頼内容に少しでも感動的な要素があるとほぼもれなく涙を流すなど、非常に涙もろい一面がうかがえ、大阪で移動にタクシーを利用すると、運転手に「なんであれで泣くの?」と聞かれることがあるというくらい、番組のカラーを変えたとされる。一方、同年11月7日に首の骨が変形し、頸椎の神経が圧迫され手足がしびれる「頸椎性脊髄症」を患い入院。15日に神経圧迫部位を除去する手術を行い、翌月には退院・復帰した。2002年(平成14年)、『陽はまた昇る』で第26回日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。2003年(平成15年)3月3日夜、自宅で心筋梗塞のため緊急入院。処置が早く、症状も安定していたため28日には退院している。肉食中心の生活でヘビースモーカーだったが、入院中、吉永小百合から手紙をもらい、そこに書かれていた「タバコだけはやめてね、西やん」の言葉に一念発起して禁煙を宣言。また、体重も82kgまで減量した。同年、フジテレビ系ドラマ『白い巨塔』に出演。それまでイメージ的に「いい人」的な役回りが多かった為、同作で金に物をいわせて根回しをする悪役を演じるにあたり、意地汚いイメージを出そうと西田の提案により、付け髭にカツラを着用して演じた(作中でカツラ着用者という設定)。この年は、『ゲロッパ!』で第27回日本アカデミー賞優秀主演男優賞、『ゲロッパ!』と『釣りバカ日誌14』で第46回ブルーリボン賞主演男優賞、第58回毎日映画コンクール主演男優賞、第28回報知映画賞主演男優賞、全国映連賞主演男優賞を受賞した。2004年(平成16年)1月1日、前日をもって青年座を退団し、元青年座スタッフで、長年マネージャーを務めていた小林保男が設立したオフィスコバックに移籍。これは自身の健康上のこととともに、師事していた青年座元プロデューサーで青年座映画放送代表取締役の金井彰久が65歳で死去したことが契機となっている。2008年(平成20年)11月、長年にわたる演劇界での業績が認められ、紫綬褒章を受章。同年4月、NHKラジオ第1のラジオドラマ番組『新日曜名作座』に竹下景子とともに起用。森繁久彌と加藤道子のコンビで50年にわたり放送された『日曜名作座』の番組スタイルを継承した。2009年(平成21年)、里見浩太朗の後を受け、日本俳優連合第5代理事長に就任。俳優の資質や地位の向上・権利問題などにも取り組んだ。2010年(平成22年)3月、『釣りバカ日誌』シリーズで、22年の長きにわたり国民に笑いと感動を与え続け、日本映画界へ残した数々の功績を讃えられ、三國連太郎と共に第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞。2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生し、出身地である福島県も甚大な被害を受けたことを受け、支援ライブへの出演のほか、積極的な支援活動に奔走。震災後に中畑清らとともに復興応援CMに出演し、4月2日には故郷の福島県郡山市のスーパーを訪問し、県産の野菜やイチゴ、キュウリなどを試食して安全性のアピールにひと役買った。同年、『ステキな金縛り』『はやぶさ/HAYABUSA』『探偵はBARにいる』で第24回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞助演男優賞を受賞。2012年(平成24年)3月15日、社団法人日本喜劇人協会主催の喜劇人大賞を受賞。また、『ステキな金縛り』で第3回日本シアタースタッフ映画祭助演男優賞、『星守る犬』で第21回ゴールデン・アロー賞日本映画批評家大賞審査員特別演技賞を受賞。2013年(平成25年)、『アウトレイジ ビヨンド』で第22回東京スポーツ映画大賞男優賞を受賞。2014年(平成26年)7月1日、9月12日から16日に開催した「第7回したまちコメディ映画祭in台東」でコメディ栄誉賞を受賞。2016年(平成28年)2月1日、自宅ベッドから転落して首を痛め、「頸椎亜脱臼」と診断される。出演中のドラマ『家族ノカタチ』の撮影には参加を続けたが、12日に大阪の朝日放送で予定されていた『探偵!ナイトスクープ』の収録は大事をとって欠席し、2月26日の収録で復帰した。しかし、4月19日に腰椎の一部を頸椎に移植する手術を受け、手術後に胆のう炎を発症した。そのため、5月6日に予定されていた『探偵!ナイトスクープ』の収録を取りやめ、5月12日に胆のうの摘出手術を受けた。5月19日、『人生の楽園』のナレーションで仕事に復帰。6月3日、『探偵!ナイトスクープ』の収録でテレビ画面への復帰を果たした。6月11日に退院。この際、入院などについて薬物使用疑惑などのデマが流れ、同年8月、所属事務所は警視庁赤坂警察署に被害届を提出。「違法な書き込みに対して、書き込みした人物を特定し、業務妨害及び名誉毀損を理由として、刑事、民事の責任追及を現在進めているところ」といった警告文を発表した。2017年(平成29年)7月5日、警視庁赤坂署は実際には(前述の)薬物などの使用の事実はなく、書き込みは虚偽の内容だと判断し、偽計業務妨害容疑で男女3人を書類送検した。同年、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』で第41回日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞。2018年(平成30年)4月、春の叙勲で旭日小綬章を受章。同年、『アウトレイジ 最終章』で第27回東京スポーツ映画大賞主演男優賞、第39回ヨコハマ映画祭特別大賞を受賞。2019年(令和元年)10月18日、『探偵!ナイトスクープ』のエンディングにおいて、19年間務めた局長の職を退任することが本人から発表され、11月22日放送分をもって番組を卒業し、局長を退任することとなった。降板理由について西田は「上岡局長のときに見てたテイストっていうのは、大阪人のエスプリを根底にして、深い時間に大人のおっちゃんがチビチビやりながら楽しんで、乾いた笑いを求めていた。そのテイストを大事にしようと思ってて、何かの拍子に泣いちゃった。それからどんどん感動巨編的な依頼が増えて、ちょっと初期のころのコンセプトと乖離してる気もした。乾いた笑いも、ちょっと濡れた感動も一緒になるような番組で令和は進んでいってほしいと思い、私が辞すること、そういうことが可能になるのかなと思った」と説明した。これについては前年秋ごろから降板を意識しており、高齢や体調の問題から新幹線での隔週来阪が「肉体的にはだいぶ、しんどくはなってきていた」と打ち明けた。2020年(令和2年)、この年に開館した東日本大震災・原子力災害伝承館の解説映像でナレーションを担当。2024年(令和6年)10月17日、東京都世田谷区の自宅でベッドで冷たくなっているところを付き人により発見され、死亡が確認された。同月8日の映画『劇場版ドクターX』の完成報告会見に出席しており、亡くなった当日も仕事の予定を入れていた。遺体は即日警察に回送・検案され、結果を受けて18日に所属事務所がコメントを出し、死因は虚血性心疾患であることを明らかにした。享年76。没後、第48回日本アカデミー賞協会栄誉賞、第66回日本レコード大賞特別功労賞が贈られ、また日本国政府より従五位に叙された。


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日本を代表する俳優の一人、西田敏行。人間味あふれる役からコミカルな役、そして鬼気迫る悪役と幅広く演じ、男手一つで三人の子供を育てるカメラマン、仕事そっちのけで釣りをこよなく愛するサラリーマンと当たり役が多い人であった。その中でもNHKの大河ドラマには相当数出演しており、その多さから西田が演じた役だけで歴史年表が作れてしまうほどだった。また、気さくで親しみやすい人柄からバラエティーでも大活躍。歌も上手く、リリースした『もしもピアノが弾けたなら』は紅白歌合戦に選出されるほどの大ヒットを記録。果ては、応援・歌手・審査員・司会者として紅白歌合戦に出演した史上初の「グランドスラム」達成の人ともなった。まさに稀代のエンターテイナーであった西田敏行の墓は、東京都杉並区の栖岸院にある。洋型の墓には「西田家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「芸月院敏那覚優居士」。

by oku-taka | 2025-11-17 02:03 | 俳優・女優 | Comments(0)