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安藤昇(1926~2015)

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安藤 昇(あんどう のぼる)

ヤクザ・映画俳優
1926年(大正15年)〜2015年(平成27年)

1926年(大正15年)、東京府豊多摩郡淀橋町(現在の東京都新宿区)に生まれる。横浜市平安尋常小学校では6年間級長を務めたが、1938年(昭和13年)頃から学校をサボり、新宿のミルクホールでたむろするようになる。1939年(昭和14年)、神奈川県立旧制川崎中学校(現在の神奈川県立川崎高校)に入学。1940年(昭和15年)、横浜ゴムに勤務していた父が満州国の奉天支社に異動。母親も奉天に移り、昇は祖母とともに日本に残った。同年、先輩の相田とともに自宅の剣道具を古道具屋に売った。その後、相田は単独で学校の剣道具を盗み、古道具屋に売った。相田は警察に逮捕されると、「安藤昇が主犯だ」と主張したことから、昇は淀橋警察署に連行されて取調べを受けた。それから60数日間、相田と共謀して剣道具を盗んだことを否認し続けたため、九段の少年審判所に送られ、その後、調布の感化院「六踏園」に入れられた。入園から1ヵ月後、相田の証言で嫌疑が晴れて六踏園を出たが、以降は他校の不良たちと喧嘩に明け暮れるようになった。この頃、帝京商業学校(現在の帝京大学高校)の加納貢と知り合い、さらに立教大学の学生・杉本法介と知り合った。この杉本の紹介で、新宿不良グループの首領で慶應義塾大学の学生だった館崎直也の弟分となる。しかし、1941年(昭和16年)2月に両親の元へ移り、同年4月には奉天第一中学校に転入した。同年11月、奉天の料理店で奉天商業高校の教師と喧嘩になり、暴行を加えたことで、奉天第一中学校を退学。昇は日本に帰り、鍋屋横丁の叔父の家に預けられた。1942年(昭和17年)4月、京王商業学校(現在の専修大学附属高校)に転入したが、同年7月には退学となる。その後、旧制智山中学校に転入。その3ヶ月後、旧制智山中学校の同級生が、東洋商業学校(現在の東洋高校)の不良たちに因縁をつけられたため、昇が間に入って話をつけた。さらにその1ヵ月後、旧制智山中学校の柔道部主将・戸山剛史や副将たちに、東洋商業学校の一件が知られて、柔道部部員たちにリンチを受けた。リンチを受けた1週間後、昇は不良仲間2人を連れて戸山の住むアパートを襲い、戸山ら柔道部部員を恐喝して、現金5円や剣道具、柔道着などを奪った。昇たちは、剣道具、柔道着などを古道具屋に売って、150円を得た。しかし、同年の暮れに柔道部部員が警察に訴え、昇たちは淀橋警察署に逮捕される。1943年(昭和18年)、練馬警察署に移送された後、九段の少年審判所に送られ、そこから多摩少年院に護送された。その4ヵ月後、海軍予科練習生になる決心をして願書を提出。合格したことから恩赦で少年院を退院し、同年12月8日に第21期海軍乙種飛行予科練習生として、三重海軍航空隊第83分隊6班に入隊した。1945年(昭和20年)6月、109部隊特攻「伏龍」に志願。横須賀市久里浜に配属され、命の危険も伴う苛酷な訓練を受けるも、同年8月15日の終戦で除隊となり、両親の疎開先である神奈川県藤沢市に移った。同年10月、疎開先を出て上京。同年12月、戦前からの仲間だった野田克己と再会。その後、加納、法政大学の学生・黒木健児、西条剛史、庄司茂とも再会。愚連隊「下北沢グループ」を形成し、下北沢の喫茶店「パール」を根城にして、新宿・渋谷・銀座に進出し始めた。当初は新宿で勢力拡大を試みたが、敗戦直後の新宿は古豪と新興勢力がひしめきあう激戦区だったことから渋谷へ転進。当時の渋谷は、渋谷駅を世田谷方面からのターミナル駅として利用する学生が集まる、いわば”子どもの町”であったためか、1950年代半ばまで警察が飲食店での揉め事に関知しない「無警察地帯」であったとされ、戦勝国民と称して都心の主要駅前を占拠し、闇市を取り仕切っていた在日朝鮮人と対立した。1946年(昭和21年)1月、昇と野田は銀座で愚連隊・銀座白虎隊の2人と喧嘩になる。このとき、昇は銀座白虎隊の1人が持っていたドスを奪い取った。同年3月、下北沢の屋台で、黒木と野田が、三田組の組員2人ともめ、同月に下北沢駅前で下北沢グループが三田組組員と喧嘩になり、加納、野田、黒木らが叩きのめした。その後、喫茶店「パール」で再び黒木・野田と三田組組員が喧嘩になり、黒木が三田組組員を倒した。それを知った三田剛造の舎弟・沢野哲也は、配下の三田組組員とともに東北沢で黒木と野田を襲い、野田が沢野に日本刀で背中を切られて重傷を負った。その日のうちに、昇たちは三田組に殴り込みをかけたが、三田や沢野は既に自首していた。その後、昇は銀座白虎隊の1人から奪ったドスから足がつき、世田谷警察署に逮捕。銃砲刀剣等不法所持で書類送検された。同年4月、法政大学予科に入学。同年、渋谷で地回りのヤクザ3人と喧嘩していた外食券食堂の闇切符売り・須崎清を西条とともに助け、須崎はその場で昇の舎弟となる。さらに、須崎の口利きで外食券売りの元締めたちの用心棒となる。1947年(昭和22年)、花田瑛一、石井福造、島田宏が下北沢グループに参加。同年、ハワイの日系2世の下士官と知り合い、駐留軍の物資を闇で売りさばくようになる。しかし、1948年(昭和23年)に下士官や須崎が物価統制令違反でCID(特別犯罪捜査部)に逮捕され、下士官は軍事裁判で本国送還となった。同年秋、兄弟分・高橋輝男の紹介で、銀座に洋品店「ハリウッド」を開店。その一方、裏では再び駐留軍の物資を闇で売りさばいていた。1949年(昭和24年)春、銀座みゆき通りの交差点付近で、在日外国人のヤクザ・蔡に言いがかりをつけられる。喧嘩に発展する様相となったが「待ってくれ!上着を脱ぐから」と言うので律儀に従ったところ、上着に隠していた短刀(長匕首)で切り付けられる。傷は左頬のもみあげから唇までの約15センチで、手術では1時間半かけて30針が縫われた。その後、高橋は蔡の兄から和解を頼まれ、1ヵ月半後に喫茶店で高橋から昇に蔡との和解話を持ちかけた。しかし、昇は和解を断り、高橋が蔡を喫茶店近くまで連れて来ていたので、昇の舎弟たちが蔡を捕まえて刺殺した。同年、法政大学を中退。1950年(昭和25年)秋、渋谷区宇田川町にバー「アトム」を開店。同年、石井の紹介で、花形敬が下北沢グループに加入する。1952年(昭和27年)、志賀日出也が下北沢グループに加入。この頃の昇は、渋谷区宇田川町に「東京宣伝社」の看板を掲げ、舎弟たちにパチンコの景品買いやサンドウィッチマン、靴磨きなどを取り仕切らせていた。同年7月、東京都渋谷区宇田川町に「株式会社東興業(通称:安藤組)」を設立。登記上の業種は、不動産売買と興行だったが、裏では水商売の用心棒なども行っていた。専務には志賀日出也、営業部長には花田瑛一、参謀に島田宏が就いた。設立当時、幹部が13人、それぞれの幹部に属する準幹部が26人、直属配下が70人、下北沢グループの流れをくむ組員が200人いた。組員には安藤組のバッジを配布し、安藤組のバッジのデザインは、黒地にアルファベット「A」の文字を金色で浮き立たせたもので、幹部はそれを三重、準幹部は二重、他は一重の丸で囲んで区別した。幹部と準幹部はグレーのベネシャンのスーツに黒色のネクタイを制服とし、刺青や指詰めを禁止にした。組員が使用する拳銃は、米軍用コルト45口径に統一。上級者には絶対服従を徹底した。同年、新宿三越裏の喫茶店「白十字」で、万年東一から落合一家・高橋岩太郎を紹介される。昇は高橋岩太郎から博打のテラの取り方などを学んだ。1953年(昭和28年)、東興業の事務所を渋谷区上通り4丁目のビル3階に移す。また、賭博を開帳し始め、毎週金曜日にはポーカー賭博を行った。1955年(昭和30年)、渋谷区宇田川町に「純情」なるキャバレーがオープン。しかし、安藤組に挨拶がなかったことから、花田や大塚ら50人が「純情」に赴いて営業妨害を行うと、店内から用心棒の力道山が出てきた。報告を受けた昇は力道山襲撃を計画。安藤組組員が力道山の自宅近くに待機していたが、力道山は帰宅しなかった。その後、元横綱でプロレスラーの東富士が仲介に入り、安藤組と力道山は和解した。1956年(昭和31年)、東京の赤坂に赤坂支店を開設。支店長には、東興業専務・志賀日出也を据えた。1957年(昭和32年)、武田組組員と安藤組組員が揉め、翌日午前6時ごろ、昇は2丁の拳銃を所持し、志賀とともに、武田組・武田一郎組長の親分で関東尾津組・尾津喜之助の自宅に赴いた。昇は武田組との抗争の件で、直接尾津のもとに掛け合いに来たことを告げ、尾津は昇の武田組に対する要求を認めた。同日、高橋岩太郎と小林光也は昇の行動に立腹し、翌日に尾津宅を訪れ、尾津に昇の行動を謝罪。高橋岩太郎は、尾津に安藤組と武田組に手打ちをさせることを提案し、尾津はその提案に賛成したことから、その後に安藤組と武田組は池袋の料理屋で、高橋岩太郎を仲裁人、尾津の兄弟分・関口愛治を見届人として、手打ちを行った。1958年(昭和33年)6月、三栄物産代表取締役の元山富雄から、実業家・横井英樹の債務取立てのトラブル処理を請け負う。昇は元山とともに銀座8丁目の第2千成ビル8階にあった東洋郵船本社を訪れて横井と交渉。しかし、横井は「その件なら話はついているはずですが」と支払いを拒否し、さらに「日本の法律ってやつは借りた方に便利にできてるんだ。なんなら君たちにも金を借りて返さない方法を教えてやろうか」とうそぶく。元山と安藤は一旦会社を後にするが、話し合いの席上における横井の態度に昇は激怒し、組員に横井襲撃を命じる。同日午後7時10分、安藤組赤坂支部・千葉一弘が東洋郵船本社の社長室に押し入り、横井をFN ブローニングM1910で1発銃撃。弾は横井の右腕から左肺と肝臓右を貫通して右わき腹に達し、意識不明の重体に陥ったが、かろうじて一命は取り留めた。千葉は逃走し、警視庁は横井に対する恐喝容疑で昇を全国指名手配した。6月16日の夕方には花形にも逮捕状が出され、神宮外苑で逮捕された。7月15日に、昇と島田宏が神奈川県葉山町の別荘で、7月22日に千葉と志賀が山梨県内でそれぞれ逮捕された。7月23日、小笠原郁夫が自首。また、北海道旭川市内で花田も逮捕された。右翼の佐郷屋留雄は横井英樹を説得し、「減刑嘆願書」を取り付け、12月25日、東京地裁にて昇は懲役8年、志賀は懲役7年、千葉は懲役6年、島田は懲役2年、花形は懲役1年6か月、花田は懲役1年6か月、小笠原は懲役1年の実刑判決を受けた。安藤は中野分類刑務所(後に前橋刑務所に移された)に、志賀と島田は胸部疾患のため八王子医療刑務所に、花形は宇都宮刑務所に、花田は網走刑務所に収監された。1964年(昭和39年)9月15日、昇は6年2か月の服役を経て、仮釈放で前橋刑務所を出所。同年11月6日、西原健吾の舎弟・小池が渋谷区宇田川町のバーで、錦政会(後の稲川会)会員と喧嘩になり、11月7日午後5時50分にレストラン外苑で、西原健吾と矢島武信が錦政会側と話し合いを持ったが、2人は錦政会会員に襲われた。西原健吾は3発の銃弾を受けて死亡し、矢島武信は日本刀で頭を切りつけられて重傷を負った。この一件をきっかけに、昇は12年の歴史を持つ安藤組の解散を決意。12月9日に千駄ヶ谷区民講堂で「安藤組解散式」を行った。これは暴力団の自主解散第1号となった。1965年(昭和40年)、手記『激動』を出版。これを松竹が映画化するに至り、映画プロデューサーから映画化を申し入れられた。しかし、安藤昇役の俳優が見つからなかったことから、昇自身に『血と掟』での安藤役を依頼した。この依頼を了解し、同年8月に湯浅浪男監督の映画『血と掟』が公開された。その後、短身だがその端整な顔立ちと有名な元暴力団組長という類を見ない経歴と作品のヒットを受け、松竹がさらなる映画出演を持ちかけ、契約金2千万円、1本当たりの出演料が看板女優である岩下志麻を凌ぐ500万円で専属契約を結んだ。さらに、『新宿無情』で歌手としてもデビュー。同曲はテレビやラジオで放送禁止になるも、年内に20万枚を超えるヒットとなった。映画俳優として、松竹の子会社として設立されたCAGに所属するかたちで11本の映画に出演。しかし、1967年(昭和42年)に東映へ移籍。本来なら五社協定違反となる移籍だったが、映画界の慣習を認識していない昇は、松竹に「(五社協定なんて)知らない」と言うと、それで通ってしまった。1967年(昭和42年)には、鶴田浩二、高倉健に伍して東映で主演作が5本組まれたが、彼らに次ぐ東映の大看板には至らなかった。1969年(昭和44年)からは日活で「やくざ非情史シリーズ」に主演した。1970年(昭和45年)、親友で互いに義兄弟と認め合っていた五社英雄監督のテレビ時代劇『新・三匹の侍』に主演。1976年(昭和51年)、唐十郎監督映画『仁侠外伝 玄界灘』撮影中に本物の拳銃を使い、監督とともに小田原署に逮捕される。しかし、昇によればこれは宣伝のためで、捕まることが前提であったという。撮影現場には新聞記者も呼んでいた。1977年(昭和52年)、自宅を増改築した際に出た新建材を庭で燃やしていたとき、急に風向きが変わり、毒ガスに近い煙を浴びて目と喉を痛めた経験から、元通産省技官の協力も得て、携帯用防災マスク「ガスボーマスク」の特許を取って製品化。後に消防署の立会いで実証試験を行い、ファンクラブの女学生に防災マスクを付けて5分間煙の中に入ってもらった結果は大成功であり、売値が980円と手ごろな値段もあってデパートや学校関係から大量に注文が来た。これを受け、全世界へと大々的に販売するために製造販売部隊を法人化し、その法人業務のすべてをビジネスパートナーに任せたが、パートナーが会社の金を4千万円も使い込み、会社は倒産となった。1979年(昭和54年)、東映映画『総長の首』を最後に俳優を休業。以降はごく希にVシネマへ客演するにとどまったが、出演数の激減理由には、撮影中のカメラリハーサルにおける拳銃を撃つシーンで、「バン!バン!」と銃を撃つ声を自ら出さなければならなかったところ、それを偶然知人に見られてしまい、そのときの恥ずかしい思いがきっかけと言われている。以後はVシネマのプロデュースおよび文筆活動に勤しんだ。また、開運研究「九門社」を主宰し、家相・気学鑑定を行っていた。2015年(平成27年)12月16日午後6時57分、肺炎のため都内の病院で死去。享年89。


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ヤクザの組長から映画俳優という異色の経歴を持つ安藤昇。大学出身者が多く在籍し、刺青や指詰めを禁止とした斬新なインテリ暴力団「安藤組」を組織し、1000人以上の構成員を率いて渋谷を中心に暴れ回った。映画俳優としても、俗に言う特別出演や脇役ではなく、鶴田浩二や高倉健と並ぶ任侠映画のスターとして看板を張った。素人故に歌も演技も決して上手いとは言えなかったが、それにも増して本職にしか出せないリアルさと圧倒的な存在感が強烈な個性として輝きを放った。後年、バラエティー番組で神田うのから「初めてパンチパーマをしたヤクザは誰か」というインタビューを受けるなどしたが、芸能活動の第一線からは退き、専ら文筆活動に勤しんだ安藤昇。評論家・大宅壮一が「男の顔は履歴書」と評した男の中の男の墓は、東京都杉並区の永福寺にある。墓には「安藤家之墓」とあり、両側面に墓誌が刻む。戒名は「常然院義鑑道昇居士」。

by oku-taka | 2025-11-02 22:20 | 俳優・女優 | Comments(0)