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森村誠一(1933~2023)

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森村 誠一(もりむら せいいち)

作家
1933年(昭和8年)〜2023年(令和5年)

1933年(昭和8年)、埼玉県熊谷市に生まれる。幼い頃から本の虫で、特に雑誌『少年倶楽部』を愛読。自宅には父の蔵書や居候が置いていった本がたくさんあり、夏目漱石から恋愛小説まで手当たり次第に乱読した。12歳のとき、日本で最後の空襲となった熊谷空襲を体験。森村一家は近くの星川まで避難したが、再び郊外の桑畑まで逃げて助かる。夜が明けて星川まで戻ると、遺体が折り重なり川底が見えないほどの光景に衝撃を覚え、この空爆の情景を書かねばならない、記録したいと思い、作家を目指すようになる。また、このときの体験が後の「反戦平和」の原体験となる。旧制中学校を卒業後、埼玉県立熊谷商業高等学校に進学。しかし、数学が苦手だったことから勉強はサボりがちで、学校を長期欠席して町の図書館に通うほど読書に夢中となる。卒業後、伯父の紹介で東京・新橋の自動車部品会社に入社。しかし、自転車にリヤカーをつないで商品を輸送している最中に神田駿河台の坂を登れず困っていたところを明治大学生に助けられたことから、大学生になるのもよいと考えて会社を退社。入試まで3か月しかなかったが、猛勉強の末に青山学院大学文学部英米文学科へ入学。在学中はハイキング部に所属し、山歩きに熱中した。1年留年の後、1958年(昭和33年)に大学を卒業。しかし、卒業時は就職不況時代であったため、希望したマスコミ業界には就職できなかった。英語が得意だったことから、新大阪ホテル(現在のリーガロイヤルホテル)に入社。1年後には系列ホテルだった東京都千代田区の都市センターホテルに転勤する。ここで、新大阪ホテルの重役の姪と知り合い、28歳のときに結婚した。また、ホテルの目の前に文藝春秋の社屋が完成し、梶山季之や阿川弘之、黒岩重吾、笹沢左保ら当時の流行作家がホテルを定宿とするようになる。フロントマンとして度々接していると、そのうち親しくなった梶山が森村に原稿を預け、各社の編集者に渡すよう頼んでくるようになる。森村はその原稿を盗み読みし、続きを自分なりに書いてみると、次第に3本に1本は「俺の方が面白い」と思えて自信を持つようになる。1964年(昭和39年)、妻のコネという庇護から逃れるため、ホテルニューオータニに自力で飛び込んで転職。しかし、ホテルでの仕事は相変わらず「自分の個性を徹底的に消す」職場環境であり、「鉄筋の畜舎」と感じていた。そんな中、出版社に勤める友人の紹介で、総務関係の雑誌にサラリーマン生活に関するエッセイなどを書き始める。このエッセイが好評となり、1965年(昭和40年)に母親の名前からとった雪代敬太郎というペンネームで『サラリーマン悪徳セミナー』を出版して作家デビューする。その後、副業を咎める上司の言葉をきっかけに、1967年(昭和42年)にビジネススクールの講師に転職。その傍らで執筆を続けたが、あちこちの出版社に原稿を持ち込むも突き返されてしまい、唯一認めてくれた青樹社からビジネス書や小説『大都会』を出版するが売れなかった。1969年(昭和44年)、青樹社の編集長から「ミステリーを書いてみたら?」と言われ、ホテルを舞台にした本格ミステリー『高層の死角』を執筆。同作で第15回江戸川乱歩賞を受賞する。翌年には『新幹線殺人事件』が60万部のヒットとなり、推理作家としての道が開ける。1973年(昭和48年)、原子力開発をめぐる政官財癒着を描いた『腐蝕の構造』で第26回日本推理作家協会賞を受賞。その後、角川書店の編集局長だった角川春樹が森村の自宅を訪れ、小説誌『野性時代』の創刊に合わせて連載を依頼。このとき、角川は「作家の証明書になるような作品を書いてくれませんか」と切り出した。森村は「証明」という言葉が重くのしかかって締め切りまでに書けず、自信を失っていたところ、20代の頃に山歩きの途上で群馬県の霧積温泉に立ち寄り、そこで食べた弁当の包み紙に印刷された西條八十の詩『ぼくの帽子』の一節である「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね…」を思い出す。これに着想を得て『人間の証明』を書き上げ、1975年(昭和50年)に『野性時代』で連載された。当初、読者の反応は低調だったが、角川が映画化を発表してから加速度的に人気が上昇。映画公開に合わせ、文庫フェアと原作者が全国を回るサイン会も行われ、映画のキャンペーンと会場がバッティングすると、森村が映画館で挨拶をするなどの"角川商法"が功を奏し、書籍は文庫本と合わせて800万部に迫る空前のベストセラーとなった。以後、『人間の証明』で登場した「棟居弘一良」を推理小説のシリーズキャラクターとした「棟居刑事シリーズ」を発表した。1977年(昭和52年)、『人間の証明』に続き、角川の依頼により映画化を前提として『野性の証明』を執筆。また、高額所得者作家部門で1位に輝き、年収は6億円に達した。1981年(昭和56年)、日本共産党の機関紙「赤旗」(現在の「しんぶん赤旗」)に小説『死の器』を連載。その中で、第二次世界大戦中の「日本の人体実験」(主に関東軍防疫給水部本部、通称731部隊によるもの)を取り上げた際、731部隊について情報提供をしたいという読者からの申し出があった。森村は元隊員からの一本の電話を糸口として、その人脈をたどって取材することで未公表の情報が多く得られると予想し、『人間の証明』の出版で得た収入から費用を捻出し、「赤旗」の記者である下里正樹と共同で取材を始めた。資料が集まるにつれ、『死の器』で当初予定していたストーリー内で取り上げ切れない範囲のものが増えたため、別途ノンフィクションを構成することとし、同年に「赤旗」の日刊紙版に『悪魔の飽食』として連載を開始した。11月には光文社から刊行されると、深夜テレビ番組『トゥナイト』や『11PM』で紹介され、当初は若者を中心に、後に広い層に読まれ、国際的にも反響を呼んだ。また、森村自身が旧日本軍第731部隊の実情を明らかにしたものであると主張したことでも話題を呼び、以降731部隊に関する賛否さまざまな視点からの著作が発表される事となる。1982年(昭和57年)7月には、続編の『続・悪魔の飽食』を刊行。同書では、ある人物Aから提供された写真を731部隊の蛮行の証拠として新発見と収録したが、その一部に1912年(明治45年)出版の「明治四十三四年南満州『ペスト』流行誌」の記録写真など、731部隊に関係しない写真が含まれており、郷土史研究をする東京の会社員が古本屋で同じ写真が掲載された写真帖に偶然遭遇したことで発覚した。これを日本経済新聞が9月15日付で報じ、同日午前に森村はNHKニュースの取材に答えて誤りを認めた。この時点で『続・悪魔の飽食』は前作と合わせてベストセラーになっていたことから、日本経済新聞に続いてサンケイと読売新聞も誤用問題を取り上げ、森村の責任を追及した。森村が誤りを認めた後、光文社がおわびの社告を新聞に掲載するとともに、書店に回収要請をし、訂正版を出版することを告知。10月の森村とAが同席する会見で、Aは写真に付いていた説明文を塗り潰して森村に提供したと告白した。森村と光文社の説明によれば、提供者Aは七三一部隊の石井四郎の親族と関係のあった人物で、問題の写真は他の元隊員複数による判定で本物と見なされていたという。森村は後に、同書のグラビアに用いた「本物の写真の中に偽物が混入されて提供されたので、真偽の判別ができなかった」と述べた。この後、森村は光文社の依頼に応じて経緯を説明するための原稿を光文社に提示したが、両者の間で意見が対立し、森村は12月までに同書の絶版を光文社に申し入れた。しかし、1983年(昭和58年)に『悪魔の飽食』第3部と、第1部・第2部の改訂版が、問題の写真を削除した上で、角川書店より新たに出版されることになる。角川春樹はこのことについて、後に「内容がどうのこうのということより、作者が森村誠一さんであったことと、こうした脅迫に屈したら日本の出版の自由は退歩すると考え、退かなかった」と述懐した。しかし、これを出版したことで、右翼の街宣車から罵声を浴びせられたり、嫌がらせ電話や自宅の窓への投石をされた。このため、警察が森村の家の警備に付いたという。また、角川書店にも右翼活動家が乗り込んできたことがあったという。1987年(昭和61年)、小説『駅』を刊行。以降、この作品で登場した「牛尾正直」を主人公とした『終着駅シリーズ』を発表した。1993年(平成5年)、角川春樹がコカイン密輸で逮捕されたことを受け、「角川書店の将来を考える会」を自ら主導して結成。その記録を1994年(平成6年)に『イカロスは甦るか―角川事件の死角』として出版した。1999年(平成11年)、友人だった山村正夫の意志を継ぎ、「山村正夫記念小説講座」の名誉塾長に就任。21世紀に入ってからは、写真を用いての俳句に関心を持つ。旅行時や散歩時もカメラを持ち歩き、写真俳句についての著作『森村誠一の写真俳句のすすめ』(スパイス刊)も発表。また、「アスパラ写真俳句塾」審査員も務めた。2003年(平成15年)、第7回日本ミステリー文学大賞を受賞。2011年(平成23年)、『悪道』で第45回吉川英治文学賞を受賞。2015年(平成27年)、老人性うつを発症。記憶が失われて言葉を忘れてしまうほどだったが、言葉を忘れないように筆ペンでノートに文字を書き散らし、それをトイレ、仕事場の壁、寝室の天井などに貼り、文字や文章を復唱するなどして克服。また、一時期は食事がとれなくなったことで体重が30kg台になり、生死の境も彷徨うほどだったが、流動食を導入したことで食欲が戻り、うつ状態から少しずつ回復していった。2021年(令和3年)には、闘病の記録『老いる意味』を発表し、ベストセラーとなった。しかし、うつと入れ替わるように今度は認知症を発症。脳に刺激を与えようと、散歩をしながらテープレコーダーを回したり、写真を撮ったりと懸命に対策をとるが、症状は進行して要介護3となり、デイサービスや訪問看護を利用せざるを得ない状況となった。晩年は要介護5となり、2023年(令和5年)に老人ホームへ入所。まもなく寝たきりの状態となり、同年7月24日午前4時37分、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年90。


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ホテルマンからベストセラー作家へと華麗なる転身を果たした森村誠一。社会派のテーマとトリックを融合させたミステリーで人気となり、特に角川春樹と組んで書き上げた『人間の証明』と『野性の証明』は映画化もされて大ヒットに。さらに、前者から生まれた「棟居刑事シリーズ」は何度もテレビドラマ化されるなど、多くのベストセラーを世に送り出した。私自身、彼の代表作である『終着駅シリーズ』を土曜ワイド劇場で観てきたので、森村誠一という名前は幼き頃から馴染みのある名前であった。一時は長者番付の常連となるほど絶大な人気を誇った森村誠一の墓は、東京都町田市の東京多摩霊園にある。洋型の墓には「証明 森村家」とあり、カロート部分に墓誌が刻む。戒名は「景光院?山誠文居士」。

Commented by 雨止み at 2025-10-19 01:50
野性の証明、最近動画で配信されてますね。
by oku-taka | 2025-10-13 02:33 | 文学者 | Comments(1)