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八代目・雷門助六(1907~1991)

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八代目・雷門 助六(かみなりもん すけろく)

落語家
1907年(明治40年)〜1991年(平成3年)

1907年(明治40年)、六代目雷門助六の次男として東京府東京市本郷区壱岐殿坂に生まれる。本名は、岩田 喜多二。旧姓は、青木。1912年(明治45年)、5歳で父に入門し、“雷門小助六”と名乗る。人形町末廣で初舞台を踏み、このとき小噺のあとに「かっぽれ」を踊って大喝采を浴びる。小学校へ入ると、踊りのほかに清元、長唄、常磐津、そして鳴物と稽古に励む。1917年(大正6年)には五代目柳亭左楽の門人となった。その後、一時中断していた時期もあったが、1921年(大正10年)10月に16歳の若さながら“睦の五郎”の名で真打に昇進。このとき、睦ノ太郎、睦の三郎と若手三羽烏として売り出される。1928年(昭和3年)、父が睦会を脱退して「日本技芸士研成協会」の会長に就任。自身も睦の五郎を返上し、“雷門五郎”に改名するが、日本技芸士研成協会は1930年(昭和5年)9月に解散したことから、再び睦会に加入。また、初代三遊亭歌奴、柳亭芝楽、六代目橘家圓蔵ら若手真打5人を集めて「五大力の会」を結成した。しかし、1934年(昭和9年)に父が亡くなったことを機に落語を離れ、「五郎ショウ」を結成して軽演劇に傾倒。浅草などの劇場に進出した。その後、評判を聞いた大阪の松竹傘下新興演芸部に誘いを受け、1937年(昭和12年)頃に雷門五郎劇団を結成して大阪に進出。大阪では新興キネマ演芸部に所属した。戦中戦後は一座を率いて全国を巡業。浅草松竹演芸場などを中心に喜劇役者として活躍した。一方、1944年(昭和19年)に応召されるが、1946年(昭和21年)に復員。1955年(昭和30年)、劇団を解散。1956年(昭和31年)7月には八代目桂文楽の斡旋で落語に復帰し、日本芸術協会(現在の落語芸術協会)に加入して寄席に復帰した。1959年(昭和34年)、短期間ながら吉本新喜劇の座長として出演。1962年(昭和37年)10月、八代目雷門助六を襲名。以後、落語に専念し、「あやつり踊り」をはじめとする“寄席の踊り”と、踊りの振りを生かした噺で活躍。後に、三代目古今亭志ん朝らの強い要望で、絶えそうになっていた「住吉踊り」を後世に伝え、現在寄席の夏の風物詩として定着させるなどの功績を残した。また、東京・名古屋・岡山にまたがる雷門一門の惣領として活躍した。1981年(昭和56年)、勲五等双光旭日章を受章。1986年(昭和61年)、文化庁芸術祭賞を受賞。晩年は膝を悪くして正座が出来なくなったため、前に釈台を置き、胡坐で演じていた。また、四代目古今亭志ん好は健在だったが高座は引退していた為、明治生まれの現役最後の落語家だった。1991年(平成3年)10月11日、大腸癌のため死去。享年84。


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落語家ながらに「踊り」を得意とし、あやつり踊り、かっぽれ、住吉踊り等の寄席芸を確立した八代目雷門助六。特に「住吉踊り」に関しては、三代目古今亭志ん朝をはじめとする後輩落語家たちから請われ、その技を承継。今や夏の寄席で披露される伝統芸となった。噺の方では、飄々とした語りが味わい深く、特に立川談志が絶賛した「凝り相撲」は、何度も観たくなるクオリティーの高いネタであった。晩年は膝を悪くし、得意な踊りを活かしたネタが出来なくなったものの、上半身だけで動きを見せる形へと見事にシフトチェンジしていった八代目。「かわるがわる色々な顔をご覧にいれまして、さぞお力おとしもございましょうが、これもなにかの因縁とあきらめて、しばらくの間ご辛抱のほど願っておきます」の挨拶が懐かしく偲ばれる、落語芸術協会の大看板の墓は、東京都杉並区の立法寺にある。2基ある墓のうち、本名の岩田 喜多二で建立された墓には「岩田家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻まれているものの、八代目の名は刻まれていない。

by oku-taka | 2025-09-15 02:34 | 演芸人 | Comments(0)