人気ブログランキング | 話題のタグを見る

寺田農(1942~2024)

寺田農(1942~2024)_f0368298_03315436.jpg

寺田 農(てらだ みのり)

俳優
1942年(昭和17年)〜2024年(令和6年)

1942年(昭和17年)、洋画家・寺田政明の長男として東京府東京市(現在の東京都)豊島区椎名町に生まれる。本名の「農」(みのり)は、後漢の詩碑にある一文字から名付けられた。5歳の頃に板橋区常盤台へ転居し、遊びの一環として絵を描き始める。父に絵を教わったことはなかったが、小学2年生に描いたカレイの絵が文部大臣賞に選ばれた。しかし、小学3年生になるとサッカーを始めたり、カントリー&ウエスタンを聴くようになり、絵の興味は薄れた。中高時代はサッカー部でキャプテンを務めていたが、東京都立志村高等学校1年生の頃にアルフレッド・ヒッチコックの映画『めまい』を観て、主演女優のキム・ノヴァクに憧れた。しかし、当時父が新聞小説の挿絵を描いていた関係から、家にはよく新聞記者が出入りし、尾崎士郎などの作家も時々訪れていたことから、その影響を受けて新聞記者になることを将来の夢としていた。その尾崎から「新聞記者になるなら早稲田に行け!」と言われ、本人は言葉の意味がよく分からないまま同大学の受験を決め、早稲田大学第二政経学部の入試面接を受けると、面接官の教授が偶然同大学サッカー部部長だった。その人物が内申書を見ながら「君はサッカー部に入りたくて早稲田を受けたのか?」と聞き、とっさに「もちろんです!」と答えた。このやりとりもあって同大学に合格し、面接で言った手前、入学後はサッカー部に入部した。1961年(昭和36年)、友人に誘われ、冷やかし程度に文学座の研究生オーディションに参加。それまで、たまに映画を見ていたが芝居には特に興味はなく、舞台(演劇)も見たことがなかった。声楽の試験では、後に世界的指揮者となる若杉弘のピアノ伴奏で各受験者が得意なクラシック曲を歌った。しかし、本人の十八番はカントリー&ウエスタンで、若杉から伴奏できないと言われたため、寺田は急遽ギターを借りて弾き語りした。朗読の試験では、シェイクスピアの『ハムレット』の「第一独白」の中の読み仮名を数個面接官に聞いた時点で、「キミ、朗読はもういいです」と告げられた。しかし、その課題終了間際、面接官だった俳優の芥川比呂志から「大きい声出せますか?」と聞かれた。思いっきり声を張り上げて試験を終えた結果、芥川が「これからの時代、ああいう変なヤツが1人ぐらいいても面白い」と他の面接官たちに口添えしたことで合格が決まり、文学座附属演劇研究所に第一期生として入所した。同期に岸田森、草野大悟、橋爪功、悠木千帆(後の樹木希林)、小川眞由美、北村総一朗などがおり、当時18歳の寺田と悠木は、第一期生の中で一番年下だった。同年の暮れ、『十日の菊』(三島由紀夫 作)で初舞台を踏む。同作では、愚連隊のような役に「ちょうどいいのがいる」と当時研究生の寺田に白羽の矢が立ち出演が決まった。その稽古では、演出家から"バカヤロー!"と怒鳴られたことに腹を立て帰ろうとしたが、先輩俳優の山崎努から「我慢しろ。芝居作りっていうのはこういうモンなんだ」となだめられ、何とか稽古を続けた。本番終了後、三島由紀夫から「実にイキイキしていた。素晴らしい!」と褒められ、以後の舞台でも役をもらえるようになり、稽古に忙しくなったため大学を中退した。1964年(昭和39年)、劇団雲に研究生として移籍。1965年(昭和40年)、五所平之助の監督作品『恐山の女』(松竹)で映画デビュー。同年、テレビドラマ『青春とはなんだ』(日本テレビ系)、翌年の『これが青春だ』などの学園ドラマで人気を得て、新進気鋭の俳優として注目を集める。1968年(昭和43年)、岡本喜八監督の映画『肉弾』の主演に抜擢され、第23回毎日映画コンクール男優主演賞を受賞。翌年の映画『赤毛』にも起用され、これら岡本作品で存在感を示したことをきっかけに仕事が増えた。その後も岡本監督作品には常連として多数起用された。1970年(昭和45年)、劇団雲を退団してフリーとなる。同年、実相寺昭雄監督の映画『無常』に出演。これを機に実相寺作品にも重用されるようになる。また、30歳のときにはNHKの時代劇『男は度胸』で共演した三木のり平から、舞台『おれは天一坊』の山内伊賀亮役を依頼される。「共演経験はあったものの、気難しい彼とそれまでちゃんと話したことはなく出演を迷った」ため親友で落語家の三代目古今亭志ん朝に相談すると、「農ならきっと先生と合う。アタシが面倒みるから絶対におやんなさい。断ったりしたら縁を切るよ!」と発破をかけられ出演を決めた。本番ではのり平の芝居で客が大爆笑すると、劇場が揺れる感覚を目の当たりにして「あぁこれが役者なんだ」と感銘を受け、この舞台で役者業の面白味に気付いたことから、のり平が亡くなるまで共に舞台に立ち続けた。このため、のり平を「役者としてのオレの師匠」と位置づけている。1981年(昭和56年)、相米慎二監督の映画『セーラー服と機関銃』に出演。これ以降、相米から信頼され、相米作品の常連俳優となる。1985年(昭和60年)の相米作品『ラブホテル』では2作目となる主役を演じ、第7回ヨコハマ映画祭主演男優賞を受賞した。以後も個性派の性格俳優として多くの映画、テレビドラマで活躍。ナレーターとしても起用が多く、声優としては1986年(昭和61年)公開のスタジオジブリ作品『天空の城ラピュタ』のムスカ大佐役を務めた。それまでは外国映画の吹き替えを何度か経験したが、アニメ作品は初めてだった。本作品の後半の収録時は絵が未完成だったため、“15秒でこのセリフを言って下さい”などと指示を受け、時計を見ながら声を吹き込んだ。一方、演技について宮﨑駿と揉め、そのためにトラウマとなったことから公開後もまったく『ラピュタ』を観ることは無かったという。1992年(平成4年)、『マイ・ブルー・ヘヴン わたし調教されました』でAV監督デビュー。2008年(平成20年)、東海大学文学部特任教授に就任。「現代映画論」「演劇入門」「戯曲・シナリオ論」の各科目を担当した。2012年(平成24年)3月12日、長く内縁関係にあった女性から婚約不履行を理由に慰謝料5000万円と弁護士費用500万円を求めて東京地方裁判所に提訴された(後に和解)。2021年(令和3年)、映画『信虎』で、武田信玄の父である武田信虎役で36年ぶりとなる主演を務めた。2024年(令和5年)3月14日、肺癌のため東京都内で死去。享年81。


寺田農(1942~2024)_f0368298_03315537.jpg

寺田農(1942~2024)_f0368298_03315511.jpg

個性派の名優・寺田農。狡猾で胡散臭い悪役を演じさせたら天下一品で、かと思えば『ドラゴン桜』での物腰柔らかな国語講師役などもこなし、善人にも悪人にもなれる高い演技力の持ち主であった。また、その渋みのある声も大変な魅力があり、『天空の城ラピュタ』のムスカ役のみならず、多くの番組でナレーションを務めた。自らを"偉大なるアマチュア"と称し、映画『日本沈没』と映画『日本以外全部沈没』の双方から出演を依頼され、悩んだ末に後者を選んだり、当たり役となったムスカを「当時2日で録ったからほとんど覚えていない」と語るなど、演じることに強いこだわりは持たなかった。「我慢、苦労、忍耐、努力」などの言葉を嫌い、同じことをするのも好まず、いつでも新鮮な気持ちで仕事に打ち込むことを求めた寺田農。カメレオン俳優と呼ばれた役者の墓は、東京都八王子市の上川霊園にある。洋画家だった父も眠るこの墓には「寺田家」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2025-08-24 03:33 | 俳優・女優 | Comments(0)