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橋本治(1948~2019)

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橋本 治(はしもと おさむ)

作家
1948年(昭和23年)〜2019年(平成31年)

1948年(昭和23年)、東京都杉並区に生まれる。1951年(昭和26年)に世田谷区へ転居し、杉並区の小中学校を経て、1963年(昭和38年)に都立豊多摩高校へ入学。1966年(昭和41年)、同校を卒業。予備校に通った後、1967年(昭和42年)に東京大学文科III類へ入学。在学中に歌舞伎と出会い、大学で唯一の友人であった船曳建夫と一緒に歌舞伎をよく見に行った。その後、歌舞伎研究会に入り、出演だけでなくパンフレットや舞台美術も手がけた。東大紛争の最中であった1968年(昭和43年)、美術サークルのほかにデザイン研究会と歌舞伎研究会に所属する中で、第19回駒場祭ポスターに「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打って応募。この原画が採用されて一躍注目を浴び、イラストレーターとしての活動をスタート。1970年(昭和45年)、『週刊新潮』で「ぽるの日本史」の挿絵を1年間担当。1974年(昭和49年)7月、ポリドールレコードから発売された『昭和枯れすゝき』のレコードジャケットのイラストを切り絵で手がける。演出家の久世光彦は、この曲を雀荘の有線放送で聞いてドラマの挿入歌として使うことを決めるが、曲を探し当てた際に見たジャケットイラストを高く評価し、作者である橋本を探しあて、同年10月に放送開始したテレビドラマ『時間ですよ 昭和元年』のタイトルバックのイラストを依頼した。1977年(昭和52年)に再度久世の依頼を受け、同年11月に放送開始した『せい子宙太郎』のタイトルバックも手がけた。同年、小説『桃尻娘』を発表して文筆業に転じる。同作は、性に対して奔放なヒロインの高校生から浪人を経て早稲田大学入学後のキャンパスライフなどが描かれ、当時の少女マンガの語り口や少女雑誌の投書欄の文章を参考にした型破りな文体が、話し言葉の小説として話題となり、第29回小説現代新人賞の佳作となった。以降、該博な知識と独特な文体を駆使し、ハイペースで執筆活動に勤しむ。1978年(昭和53年)、「小説現代」12月号に「私のコレクション オリジナルセーター」というグラビアが掲載され、橋本のニットコレクションが披露される。大学生のとき、母が編み古しの毛糸で橋本のためにセーターを編んだところ、その編み方に興味を示し、編み方を教わると自分でやり始めて病みつきになった。また、着たいセーターがなかなか見つからず、自分で編もうという気になり、自分流にデザインするようになって模様はどんどん複雑になっていった。こうした経験から「編み物作家」の肩書きがつき、毎年秋から冬に雑誌の取材依頼が数件入るようになった。1982年(昭和57年)11月、日本ヴォーグ社の「創作ニット大賞(グランプリ)」の審査員を務める。同年、「週刊宝石」12月17日号で「毛糸と針の錬金術師 橋本治のニット展覧会」と題して8ページの特集が組まれ、製図を作ってから精密に編み込まれたセーターなどが話題を呼んだ。この記事を河出書房新社の編集者・小池信雄に見せたところ、小池が担当編集者となって1983年(昭和58年)に『男の編み物』を刊行。デヴィッド・ボウイ、沢田研二、山口百恵、マリリン・モンロー、歌舞伎の世界などの絵柄が編み込まれたセーターが掲載され、3万部という反響を得た。同年5月には、西武流通グループ「全ニッポン雑巾コンテスト」の審査員となる。1984年(昭和59年)、フジテレビのイメージキャラクターをおかわりシスターズと共に務める。同年11月3日、柏ローズタウン開店5周年と柏市制30周年記念を兼ねたイベント「KASHIWA PERFORMANCE'84」が柏市民体育館で開催。プログラムの中に橋本の自作ニットのファッションショーも組み込まれ、橋本が編んだ70着以上のニットを着たタレントやモデルがランウェイを歩いた。橋本はショーの演出も手がけ、会場中央に設置されたヤグラから解説をした。1986年(昭和61年)、チャンバラ映画を核に、歌舞伎・講談・新劇・新国劇・浪花節・テレビ・ストリップといった大衆芸能娯楽をすべて俎上に上げ、通俗を喪失して「実直な優等生」となった日本と日本人とは何かを問う1400ページにおよぶ大著『完本チャンバラ時代劇講座』を発表。1987年(昭和62年)、『枕草子』を読みやすく翻訳することを目指し、『桃尻語訳枕草子』を発表。原文に忠実に訳しつつ、当時の若い女性の話し言葉を使用して注目を集める。また、背景となっている平安時代の貴族の生活の註を詳しく入れた。1989年(平成元年)、賃貸で住んでいた「事務所であるマンションの一室」の大家が、相続税を払うために自分の持っているものを売らなければならなくなった。当時、橋本は忙しくて身動きが取れず、また荷物をやたらに持っていたことから、とんでもない量の荷物を持って途方にくれるわけにはいかないということで、そのマンションを1億8000万円(ローン)で購入する。以後、月々150万円、晩年には60万円を支払い続ける。1990年(平成2年)10月、『江戸にフランス革命を!』で第17回大佛次郎賞の候補に選出。1991年(平成3年)、光源氏の一人称の書き言葉に翻訳した『窯変源氏物語』を発表。執筆にあたっては、3年間軽井沢の山中にこもり、400字詰め原稿用紙で9700枚の量になった。1992年(平成4年)、小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師を務めた。1993年(平成5年)、雑誌「芸術新潮」で「ひらがな日本美術史」の連載を開始。古代から戦後まで、時代順、1回1作品を原則とし、原稿の半分以上を時代背景の解説に費やすなど博識を披露。正統的な美術史の語りにも言及しつつ、鋭い観察と想像力で肩肘張らない普段着の言葉で自身の選んだ作品について論じた。1996年(平成8年)、『宗教なんかこわくない!』で第9回新潮学芸賞を受賞。また、ロマン大賞の選考委員(第5回〜第7回)、文藝賞の選考委員(第33回〜第34回)、ノベル大賞の選考委員(第27回〜第29回)を務めた。1998年(平成10年)、『双調平家物語』を発表。執筆に際して、合計数十メートルにもなる巻物の年表と系図を作成し、既製の系図にはない女性の名前も調べ上げて加えるなど、400字詰め原稿用紙で8400枚の量になった。1999年(平成11年)11月、東京・三軒茶屋シアタートラムで篠井英介の一人芝居『女賊』の作・演出を担当。2002年(平成14年)、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で第1回小林秀雄賞を受賞。2004年(平成18年)、文化論『上司は思いつきでものを言う』がベストセラーとなる。2005年(平成17年)10月、『蝶のゆくえ』で第18回柴田錬三郎賞を受賞。2007年(平成19年)、第6回小林秀雄賞の選考委員を務める。以降、第17回まで務めた。2008年(平成20年)11月、『双調平家物語』で第62回毎日出版文化賞を受賞。2009年(平成21年)、雑誌「新潮」2月号に「巡礼」が掲載。橋本の小説が文芸誌に掲載されたのはこの作品が初めてであった。また、『巡礼』に続いて『橋』『リア家の人々』が刊行され、橋本治の「戦後3部作」と呼ばれた。2010年(平成22年)、免疫性の難病である顕微鏡的多発血管炎を発症。2018年(平成30年)、作家デビュー40周年記念として『草薙の剣』を出版し、野間文芸賞を受賞。同年6月、上顎洞癌の診断を受ける。発見時にはステージ4であったが、顕微鏡的多発血管炎で腎機能が低下していたために抗がん剤を使うことができず、癌の摘出手術を行うために入院。10月には退院したが、11月の野間文芸賞受賞会見は体調不良で欠席し、12月の贈呈式では編集者が受賞スピーチを代読した。2019年(平成31年)1月29日午後3時9分、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去。享年70。


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ユニークな視点と卓越した言語感覚で幅広い活躍を見せた橋本治。東京大学在学中に手がけた学園祭のポスター「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」で一躍時の人となり、その10年後に発表した『桃尻娘』での「桃尻語」は、口語を超えた口語として一大センセーションを巻き起こした。そこからさらに飛躍して桃尻語による古典翻訳にも挑戦し、『枕草子』の「春はあけぼの」を「春って曙よ!」と訳したことは、多くの読者に驚きをもって迎えられた。その他にも、レコードジャケットのイラスト、編み物、芸能評論、フジテレビのイメージキャラクターなど、その多岐にわたる活躍は、さながら昭和後期の文化を体現する代表的存在のようであった。どこかサブカル的な匂いを漂わせながら、時代時代で大きな印象に残るものを発表し続けてきた橋本治の墓は、東京都世田谷区の勝國寺にある。墓には「橋本家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「盈覺院翰昭治邦居士」。また、治の葬儀で喪主を務めた母も、治の死から2年後に亡くなっていたようで、母の戒名も刻まれていた。

by oku-taka | 2025-08-17 23:31 | 文学者 | Comments(0)