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中西太(1933~2023)

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中西 太(なかにし ふとし)

プロ野球選手
1933年(昭和8年)〜2023年(令和5年)

1933年(昭和8年)、香川県高松市松島町に生まれる。3歳の時に父を亡くし、幼少期は野菜の行商をしていた母の手で育てられる。小学6年生のとき、担任に三角ベースボールを教わり、グラブもバットもない中で野球に夢中となる。1946年(昭和21年)、旧制高松一中(現在の高松第一高等学校)に入学。近所に野球部の先輩がいたことから野球部に入部したが、教育制度改革の真っ只中で本格的な練習をしたり、試合に出たりすることはできなかった。上級生の練習の手伝いなど下積み生活が3年ほど続いた後、1949年(昭和24年)春の全国高等学校野球選手権大会に出場。準々決勝に進むが、小倉北高のエースだった福嶋一雄に完封負けを喫する。同年夏の全国高等学校野球選手権大会では、準決勝で佐々木信也のいた湘南高に延長10回にサヨナラ負けを喫する。1951年(昭和26年)夏の全国高等学校野球選手権大会は、岡山東高の秋山登らから2試合連続でランニングホームラン、計6打点を記録して準決勝に進むが、優勝校となる平安高の清水宏員、上市明のバッテリーに抑えられ3-4で惜敗。同年の広島国体では準々決勝(初戦)で都島工と対戦、延長21回の熱戦の末に0-1でサヨナラ負けを喫した。しかし、3度の出場と本塁打を量産したことにより「怪童」と名付けられ、「高松一高に中西太あり」と全国にその名を轟かせた。国体出場後、高校卒業後の進路について飛田穂洲より早稲田大学進学を勧められ、見学のために上京。この時に同郷の先輩で早大OBでもある西鉄ライオンズの三原脩監督と出会った。三原は貧しかった中西の早大進学の費用を西鉄が出す代わりに、卒業したら入団するように約束をさせた。しかし、毎日オリオンズの若林忠志監督が毎日新聞高松支局長を伴って中西の兄を抱き込み、契約寸前までいっているとの連絡が入る。三原はすぐさま中西の家に向かい、西鉄側には高松一高野球部後援会や市会議員までが出てきて入団を後押しした。最終的には「郷里の先輩を信じるのが一番良い」という母親の決断により、西鉄入りが決定。早大進学の夢が打ち砕かれたのとプロでやっていく自信の無さから、決定の瞬間に中西は大声をあげて泣いた。1952年(昭和27年)、西鉄に正式入団。開幕から七番打者、三塁手に抜擢されて活躍し、プロ初本塁打はランニングホームランで飾った。同年、打率.281(17位)、12本塁打で新人王を獲得。1953年(昭和28年)7月からは四番打者に座り、トリプルスリー(打率.314、36本塁打、36盗塁)を史上最年少で達成。同年から6年連続でベストナインに選出される。また、36本塁打は高卒2年以内の選手の最多本塁打記録であり、86打点も2024年(令和6年)の村上宗隆が抜くまで高卒2年目以内の選手の最多記録だった。その後も毎年の様に三冠王に近い成績を残し、同年から4年連続で本塁打王を獲得。大下弘・豊田泰光・関口清治・高倉照幸・河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年(昭和29年)に球団初のリーグ優勝を飾る。同年の中日ドラゴンズとの日本シリーズでも25打数8安打3打点と活躍した。1955年(昭和30年)は17敬遠でパ・リーグの初代最多敬遠となり、翌年も山内和弘と並ぶ17敬遠を記録した。同年、パシフィック・リーグMVPを受賞。さらに、水原茂監督率いる巨人を相手に3年連続日本一という黄金時代を築き上げた。この時期に三原の長女のもとへ婿入りし、三原の義理の息子となっている(戸籍上は「三原太」となっている)。この年は29本塁打・95打点で二冠王に輝くも、打率は豊田泰光と4毛の差で三冠王を逃す。1958年(昭和33年)、打率.314と23本塁打で二冠王に輝くも、打点王の葛城隆雄(大毎)に1打点差で届かず、三冠王を逃す。1959年(昭和34年)6月3日、近鉄戦(平和台)で鈴木武に利き手をスパイクされて6針を縫う。さらに1960年(昭和35年)には左手首に腱鞘炎を患い、満足なスイングができなくなって常時出場は困難になる。1961年(昭和36年)には回復が見られ、主に一塁手として78試合に先発出場し、打率.304、21本塁打を記録。しかし、ベストナインには9試合のみ起用された三塁手として選出された。1962年(昭和37年)からは西鉄の選手兼任監督に就任。しかし、再び怪我が悪化して開幕から欠場し、28試合の先発にとどまる。1963年(昭和38年)は開幕から一塁手として出場。チームも好調を維持し、トニー・ロイ、ジム・バーマ、ジョージ・ウィルソンら「三銃士」が活躍。若生忠男・畑隆幸・田中勉・安部和春・井上善夫ら若手投手の奮闘もあり、南海と熾烈な優勝争いを繰り広げる。最大14.5ゲーム差を追い上げて最後の4試合(2日連続のダブルヘッダー。3勝1分以上もしくは2勝2分で優勝、3勝1敗で南海との同率プレーオフ、それ以外は南海の優勝)に全勝し、劇的なリーグ優勝を決める。しかし、同年の日本シリーズでは巨人に3勝4敗で敗退した。1964年(昭和39年)からは代打での出場が主になる。チームは稲尾和久を故障で欠いたため5位へ転落。同年オフの退団となった若林忠志ヘッドコーチの処遇を巡ってバッシングを受け、「若林に成績不振の責任を取らせた」とマスコミからの非難を浴びた。実はこの時、若林退団の真の理由は末期癌のためであったが、若林の家族の意向からその事実は本人にも伏せられ、真相は中西と若林夫人しか知らなかった。自らの真の病状を知らない若林は中西が見舞いに来るたびに、「自分はもう大丈夫だから現場に戻してほしい」と語っていたという。それがもはや叶わないことを知っていた中西は「涙が出るほど辛かった」と後年に回想している。若林は1965年(昭和40年)、58歳で死去した。一方、この年はルーキーの池永正明が20勝で新人王を獲得したほか、稲尾の復活もあり3位でAクラスに返り咲く。1966年(昭和41年)は稲尾がリリーフに転向し、最優秀防御率を獲得。同年9月30日、中西はこのシーズン5本目の代打本塁打を記録するが、これは自身通算10本目の代打本塁打であり、大館勲夫が持っていて当時の日本プロ野球記録を二つとも更新した。1967年(昭和42年)は宮寺勝利を正捕手に据えたため、和田博実を外野にコンバート。池永が最多勝を獲得し、2年連続で2位となった。1968年(昭和43年)、「猛打西鉄」復活を狙って、高木喬・広野功を獲得。東田正義・竹之内雅史の台頭もあったが、5位に終わる。1969年(昭和44年)は宮寺に代わって村上公康が正捕手となったが、チーム打率最下位・チーム防御率5位という散々な内容で2年連続5位となる。同年に中西は現役を引退し、監督も退任。同年10月に発覚し、西鉄の選手も関与していた八百長疑惑事件、いわゆる「黒い霧事件」についての道義的責任を負っての辞任でもあった。中西が着けた背番号6は、将来有望な選手が出るまでの保留欠番とされ、1973年(昭和48年)に西鉄が身売りした際に、監督の稲尾の推薦で菊川昭二郎が33から変更して着けた。引退後はTBSの解説者と日刊スポーツで野球評論家を務めたが、次々に発覚する西鉄球団の黒い霧事件に関し、元監督としての道義的責任を取るとして当面の間活動を停止すると発表。1971年(昭和46年)、ヤクルトのヘッドコーチに就任。若松勉の素質を見抜き、体の小ささを理由にプロ入りを拒否していた若松に対して北海道まで出向いて説得を行い、入団後はマンツーマン指導により2年目で首位打者を獲得するまでに育て上げた。1974年(昭和49年)、日本ハムの初代監督に就任。しかし、2年連続最下位で解任となった。代表取締役社長兼球団代表の三原は、初回に走者が出た場面でバントのサインを多用していた中西の采配を見て、監督の器ではないと思ったという。また、張本勲は一打逆転の場面を直視できずにベンチ裏に下がり、マネージャーを通して状況を確認していた中西の采配について、選手も戦う気になれなかったと振り返っている。また、張本はすれ違いも多かったと述べている。1976年(昭和51年)、九州朝日放送の解説者となり、1977年(昭和52年)には日刊スポーツの評論家となったが、1979年(昭和54年)に阪神の一軍打撃コーチに就任。翌年のシーズン途中からは、ドン・ブレイザーの解任に伴い監督へ昇格。岡田彰布を二塁手で定着させて新人王を獲得させた一方で、掛布雅之を中心とした猛虎打線の基礎を横溝桂打撃コーチと共に築き上げたが、5位に終わる。1981年(昭和56年)は3位になるも、コーチ時代から折り合いの悪かった江本孟紀に「ベンチがアホや」と公言され、確執が修復不能なほど悪化して引退に追い込んでしまう。同年で監督を退任し、翌年に再び日刊スポーツの評論家と毎日放送の解説者を務めた。1983年(昭和58年)、ヤクルトの一軍ヘッド兼打撃コーチに就任。八重樫幸雄と二人三脚で独特のオープンスタンスの打撃フォームを造り上げ、これにより打力が向上した八重樫は正捕手の座を獲得し、現役晩年は代打の切り札として活躍した。1984年(昭和59年)4月には武上四郎の辞任に伴い監督代行を務めるも18試合で辞任。一般的には「体調不良と成績不振のため」とされているが、当時1軍打撃コーチだった伊勢孝夫によれば「荒木大輔の処遇で揉めた」のが真の原因で、荒木を2軍でじっくり育てるべきとする中西と、大人気の荒木を1軍に置きたいオーナー(松園尚巳)やフロントが対立し、中西が「言うことを聞いてもらえないなら、代行もやめる」として辞任したという。1985年(昭和60年)、近鉄の一軍打撃コーチに就任。盟友の仰木彬監督とタッグを組み、1989年(平成元年)にはヘッドコーチに就任。仰木とのコンビで、球団の人気も実力とともに急上昇し、同年には前年の10.19で敗れた西武ライオンズを下して劇的なリーグ優勝を果たし、近鉄は常勝チーム・西武の最大のライバル球団となった。近鉄優勝の立役者となったラルフ・ブライアントは、前年途中まで中日二軍でプレーしていたが、仰木らと共に二軍戦を視察した中西が「獲れ。ワシが直す」と進言し、金銭トレードでの近鉄移籍が実現。その後はマンツーマンの練習を行って成功に繋げた。1991年(平成3年)、日刊スポーツの野球評論と毎日放送の解説を担当。1992年(平成4年)、巨人の一軍打撃総合コーチに就任。1994年(平成6年)、ロッテのヘッドコーチに就任。シーズン途中からは八木沢荘六の後を受けて監督代行を務め、その手腕が評価されて翌年からの正式就任を打診されるも、年俸などの条件が折り合わず固辞した。1995年(平成7年)、オリックスのヘッドコーチに就任。仰木と再びタッグを組み、リーグ2連覇と1996年(平成8年)の日本一に貢献。仰木とのコンビは名コンビと言われた。田口壮からも恩師と慕われ、イチローには打撃じゃなくて守備を教えた。オリックス退団後も様々な球団で「特別コーチ」「臨時コーチ」を務めたが、1997年(平成9年)に甲状腺癌を患う。1999年(平成11年)、野球殿堂入りを果たす。同年、ヤクルトの監督を務めていた若松の依頼により、バッティングアドバイザーに就任。在任中は宮本慎也を指導し、当時の宮本は守備の人であったが、これにより打力が向上。後にプロ通算2000安打を達成した際に「(中西との出会いがなければ)2000本になんて到底届かなかったと思います」と語っている。並行して2000年(平成12年)からは4度目の日刊スポーツ評論家となり、2002年(平成14年)からは評論活動に専念。2007年(平成19年)2月にはメジャーリーグに挑戦する愛弟子・岩村明憲の自主トレを手伝い、中西自らバッティングピッチャーとして登板。岩村も「こんな元気な70代の人はそうはいないですよ」と驚くほどだった。2008年(平成20年)、第90回全国高等学校野球選手権記念大会開会式前に「甲子園レジェンズ」の一人として登場。2017年(平成29年)、学生野球の指導資格を回復。2018年(平成30年)3月には高倉照幸前会長の後を受けて「ライオンズOB会」会長に就任。同年夏には、第100回全国高等学校野球選手権記念大会香川県大会と本大会(大会14日目)で始球式を行った。2019年(平成31年)4月2日にはライオンズ埼玉移転40周年を記念して、メットライフドームにてパ・リーグ本拠地開幕戦で始球式に招聘された。2023年(令和5年)5月11日、心不全のため東京都内の自宅で死去。享年90。


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豪快な打撃と好守備で西鉄ライオンズの黄金期を支えた中西太。3度出場した甲子園では本塁打を量産し、早くから「怪童」と呼ばれた。プロ入り後は、初本塁打をランニングホームランで飾り、1年目で新人王、トリプルスリーを史上最年少で達成するなど目覚ましい活躍を見せた。南海の捕手だった野村克也は、中西がベンチ前で素振りをすると、反対側のベンチまで「ブンッ」という音が聞こえたと語っている。指導者としては、西武であったにもかかわらず指導を受けた伊東勤が「教えるのが好きな人だった」と振り返っているように、掛布雅之、真弓明信、八重樫幸雄、田口壮、宮本慎也、岩村明憲といった名選手たちを多く育てた。しかし、「名選手、名監督にあらず」の言葉通り、監督としては優勝に導くことができず、かの有名な江本孟紀の「ベンチがアホやから野球がでけへん」の発言を生むことにもなってしまった。もとより、中西本人も「俺はバッティングコーチが天職や。監督には向かん」と言っていたそうだが…名は体を表すかのような恰幅の良さ、そして名選手にして名伯楽であった中西太の墓は、義父であり師匠でもある三原脩と同じ、東京都世田谷区の実相寺にある。墓には「山中家之墓」とあり、側面に墓誌が刻む。これは、おそらく娘の嫁ぎ先の墓だろうと推測される。戒名は「球宝院釈太優」。

by oku-taka | 2025-08-03 23:53 | Comments(0)