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森康二(1925~1992)

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森 康二(もり やすじ)

アニメーター
1925年(大正14年)〜1992年(平成4年)

1925年(大正14年)、鳥取県鳥取市に生まれる。幼少期は日本統治下の台湾で育ったが、中学時代にミケランジェロの伝記を愛読して建築家を志すようになり、1942年(昭和17年)に帰国して東京美術学校(現在の東京芸術大学)を受験。1度目の受験は失敗したが、浪人を経て、2度目の受験で同校の建築科に合格する。しかし、1945年(昭和20年)に召集令状を受けて千葉県の鉄道隊に入隊。戦時中に政岡憲三が演出を手がけたアニメ『くもとちゅうりっぷ』を観て感銘を受ける。その後、九州で終戦を迎え、1946年(昭和21年)に復学。卒業間際に、浅草の映画館でポール・アリーの短編アニメ『マイティマウス』シリーズの『グリーンライン』を観て衝撃を受け、アニメの道へ進むことを決意した。1948年(昭和23年)、政岡憲三に師事し、アニメ映画制作会社「日本動画」に入社。入社後、政岡の『トラちゃんと花嫁』で彩色を担当。次に熊川正雄の『ポッポやさんののんき駅長』で動画を務めた。しかし、日本動画は経営不振が続いており、1949年(昭和24年)に政岡が退社、1950年(昭和25年)には社員は全員解雇となる。25歳にして失業してしまった森は、小学館の学年誌から挿絵の仕事を請け負ったり、家具設計事務所や西武百貨店の宣伝部に勤務するなどして生活費を稼ぎながら、イラストの持ち込みなどをした。1953年(昭和28年)から「日本動画」を再建した「日動映画」のアニメ映画を手がけるようになり、1956年(昭和31年)に正式入社する。同年8月、「日動映画」は東映の傘下に入り、「東映動画(後の東映アニメーション)」が設立。1957年(昭和32年)、東映動画の第1作となる『こねこのらくがき』にメインアニメーターとして参加。非常に丁寧な作画でキャラクターの愛らしさとアニメーションの動きの魅力を存分に魅せつける作風で、その後の数々の動物擬人化アニメの原点とも言える作品となった。同年6月、香港からの持ち込み企画であった『白蛇伝』の制作が発表されると、森は大工原章とともに原画を担当。また、美術大学などにアニメーターとなる人材を求め採用した東映動画一期生達を指導し、後に『ルパン三世』や『未来少年コナン』の作画監督を務めた大塚康生や、『銀河鉄道の夜』を手掛けたアニメーション監督の杉井ギサブローなど日本アニメの基礎を担う人材を育てた。『白蛇伝』の成功後、長編アニメ『こねこのトランペット』を制作する予定だったが、上層部からの横やりが入り、『こねこのスタジオ』へと変更される。さらに、1961年(昭和36年)の『安寿と厨子王丸』では原画を務める会社からリアリティーのある絵を求められ、デフォルメされた絵を得意とする森はストレスで十二指腸潰瘍となり入院。軽度であったが森自身が早期復帰を強く望んだため、手術が行われた。1963年(昭和38年)、東映動画の長編アニメ第6作『わんぱく王子の大蛇退治』において、これまで東映長編の監督を担当してきた藪下泰司に代わり、新東宝出身の新人の芹川有吾が監督に初登板。従来、東映動画内では演出家はコーディネーター的立場だったが、アニメーター出身でない芹川は東映動画に本格的な演出を持ち込み、監督という職制を確立。さらに本作では、作画の絵柄統一を図る日本独特の原画監督(後の作画監督)制度が初めて採用され、森が日本初の作画監督となった。1964年(昭和39年)、十二指腸潰瘍の手術が原因で腸閉塞となる。以降、身体の不調と闘いながらのアニメ制作となる。1968年(昭和43年)、長編アニメ『太陽の王子 ホルスの大冒険』で原画を担当。このとき手がけたヒロイン「ヒルダ」は絶賛され、宮崎駿や奥山玲子といった関係者からも高く評価された。1969年(昭和44年)、『長靴をはいた猫』で2度目の作画監督を担当。同作は高評価となり、このとき描いた主人公の猫「ペロ」は、後に東映動画(東映アニメーション)のシンボルマークとなった。1971年(昭和46年)、東映創立20周年記念作品『どうぶつ宝島』で3度目の作画監督を担当。同年8月、東映社長の大川博が死去。後任として社長に就任した岡田茂は躊躇なく赤字噴出の東映動画の経営改善に踏み切り、激しいリストラを敢行。従業員320名(うち契約者104人)のうち約半数の150人の希望退職を募集。労組は激しく反発し、東映東京撮影所に機動隊が導入されるなど東制労闘争は激化、労使の間で団交が繰り返されたが、希望退職の募集は何度も延期され、のち5カ月間に及ぶロックアウトが敢行され、約120名が退職。その後も訴訟紛争は続き、労使紛争は二年に及んだ。森も会社の理不尽さに腹を立て、長編アニメ作品の仕事を断っていたことから目をつけられ、1973年(昭和48年)に岡田から退社を勧告された。その後、招かれる形でズイヨー映像(後の日本アニメーション)に入社し、テレビアニメ『山ねずみロッキーチャック』の中盤以降の作画監督を担当。しかし、激務の影響で視力が低下。治療法は無く、5年で失明すると診断され、アニメーターとしての余命宣告を受けてしまう。幸い失明は免れたが、激務に耐えられるほどの視力は回復しなかった。1975年(昭和50年)、ズイヨー映像の代表取締役だった本橋浩一が設立した日本アニメーションに移籍。同年、『フランダースの犬』でキャラクターデザインを担当。1978年(昭和53年)には宮崎駿の依頼で『未来少年コナン』に原画担当として参加したが、視力低下に悩まされほとんど描けなかった。1981年(昭和56年)、藪下泰司に招かれ、東京デザイナー学院アニメーション科の講師に就任。1985年(昭和60年)には小田部羊一・奥山玲子夫婦を同校の講師に招き入れた。1989年(平成元年)に3度目の手術を受けて自宅療養に入るが、病身を押して1990年(平成2年)にアニメ『ちびまる子ちゃん』のパイロット版の原画を手がけた。1991年(平成3年)、『おおかみと7ひきのこやぎ』の監督とキャラクターデザインを担当。この頃には癌を患っていたが本人には告知されておらず、その後も次回作に向けて打ち合わせを行っていた1992年(平成4年)9月4日、肝臓癌のため死去。享年67。


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東映動画の草創期から活躍し、「アニメーションの神様」と称えられた森康二。『白蛇伝』や『長靴をはいた猫』といった東映動画を代表する長編漫画映画を多く手がけ、特に『太陽の王子 ホルスの大冒険』のヒロイン・ヒルダと、『長靴をはいた猫』の主人公・ペロは高い評価を得た。また、大塚康生や小田部羊一といった次世代を担うアニメーターを数多く育てるなど、日本のアニメ史に残した功績は非常に大きい。後年は視力の低下と体調不良に加え、デフォルメされた絵を細部まで作り込むことを得意とする森と時代のギャップさが浮き彫りとなり、パイロット版として手がけた『ちびまる子ちゃん』では、それを観た原作者からアニメ化の話を断られてしまうという事態になってしまった。リアルさを追求せず、己の持つ美意識だけを信じ続けた森康二の墓は、東京都東大和市の三光院にある。洋型の墓には「森家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は、「温恭康徳居士」。

by oku-taka | 2025-06-30 15:14 | アニメーション関係 | Comments(0)