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二代目・桂小金治(1926~2014)

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二代目・桂 小金治(かつら こきんじ)

落語家・タレント
1926年(大正15年)〜2014年(平成26年)

1926年(大正15年)、東京府豊多摩郡杉並町(現在の東京都杉並区)に生まれる。本名は、田辺 幹男。1942年(昭和17年)、帝京商業学校に入学。しかし、1943年(昭和18年)に太平洋戦争のため繰り上げ卒業となり、立川にあった飛行機工場の食堂に勤務となる。1945年(昭和20年)、特別幹部候補生として陸軍少年戦車兵学校に入校するが、在校中に終戦。金もなく、着物を着てできる職業ということで落語家を志望し、落語家になるため新宿末廣亭の楽屋に通い、誰にも入門できないまま、前座(後の五代目春風亭柳昇)の下でさらに下働きをする。落語家は前座の弟子を食べさせる慣例があるが、当時は食糧事情が悪すぎるため、前座一人分の食糧を捻出できる落語家がほとんどいなかった。しかし、よく働く田辺青年の姿に、当時の日本芸術協会副会長・ニ代目桂小文治が目をつけ、小文治のほうから入門をもちかけた。小文治はもともと上方噺家であり、常に関西弁のみをしゃべるため入門を躊躇したが、副会長の権勢は傍目にもすごいように見え、1947年(昭和22年)に入門を決意。小文治より"桂 小竹〟の初名(前座名)をもらう。小文治は「噺はよそ行って習うて来い。わしからは芸人としての生き方だけ覚えていったらええのや」と言い、小金治にいっさい稽古をつけなかった。そのため、『三方一両損』は八代目三笑亭可楽から、『蛇眼草』は三代目桂三木助から、『渋酒』は五代目立川ぜん馬から、『禁酒番屋』は五代目柳家小さんからそれぞれ習った。特に五代目柳家小さんには、ひょんなことから真打になったばかりの小さんの高座を観たときに「なんとこの人はうまいのだろう」と驚き、小さんから稽古をつけてもらうべく、師匠の小文治に頼んだ。すぐさま小文治自ら小さん宅に電話をかけ、小金治への稽古を依頼した。若き小さんにとって小金治は「最初に落語を教えた人」であり、小金治は「5代目柳家小さんの弟子」と自ら名乗るようになる。1949年(昭和24年)、二つ目に昇進し、"桂 小金治〟を名乗る。その後、小金治のファンでもある松竹大船撮影所の川島雄三監督が小金治の出演していた東京・神田の寄席『立花』を訪れ、そこで川島から直々に映画の世界に誘われる。川島は師匠の小文治に「良い噺家を一人ダメにします。お許しください」と手をつき、1952年(昭和27年)に映画『こんな私じゃなかったに』(松竹大船)で俳優デビューする。以降、川島により起用され続け、単発契約で何本か出演。いずれも好評で、川島の所属する松竹は小金治と専属契約を結びたいと考え、小金治に対して映画出演一本あたりのギャラ5万円を提示。師匠の小文治に「契約したほうがいいか断るべきか」を聞きに行くと、即座に「アホ!落語やってたら、そんな金、一生かかってもようもらえんで」と返され、松竹と専属契約を結ぶに至った。しかし、正式に俳優となってからは長い日数拘束され、スケジュール上なかなか寄席に出られないことから、日本芸術協会から事実上脱会状態となった。以降、フリーの落語家となり、落語家としてはどこの協会にも所属しなかった。しかし、師弟関係を大事にし、小金治は終生にわたり小文治を師匠と仰いだ。小金治が名を返そうと小文治のもとを訪問すると「アホ!師匠に『名を返す』なんてお前いつから偉くなったんじゃ?師匠が名を取り上げるのでもあるまいに…。小金治、これからもしっかりやりや」と、小金治に名を返上しなくていいと告げたため、落語家としての名を返上せずに活動することになる。松竹時代の川島は長く小金治を起用し続けたが、1954年(昭和29年)に川島が日活に単身移籍し、コンビを解消。だが、その川島が今度は東京映画(東宝系)に移ると、小金治も1959年(昭和34年)に東宝へ移籍し、再びコンビを組む。1961年(昭和36年)、今度は小金治が日活に単身移籍し、再度コンビを解消。日活ではスターとして迎えられ、1962年(昭和37年)から1963年(昭和38年)にかけて4本の主演作を残し、1965年(昭和40年)まで在籍した。一方、1955年(昭和30年)からテレビにも進出し、フジテレビ系の『オリンピックショウ 地上最大のクイズ』や『日清ちびっこのどじまん』では司会も務めた。1965年(昭和40年)5月4日、家族で房総半島にドライブへ行ったその帰り、途中で小学生の男女を渡らせてあげていたが、後ろから軽自動車が小金治の車を含む停まっていた3台を追い越して走行し、この小学生にぶつかってしまった。小学生2人は怪我をし、小金治はその小学生の入院先に見舞いへ訪れらようになったが、あるとき小金治は小学生から「あのお兄ちゃん(軽自動車のドライバー)も謝ってるから、あまりあのお兄ちゃんのことを怒らないで」と言われたことに感銘を受け、涙ぐんだことがあった。このときから小金治は交通事故防止キャンペーンに力を入れようと思い立ち、どこかアピールの場は無いかと探っていたところ「テレビで話してみたらどう」と妻に後押しされたことから、NET(現在のテレビ朝日)のワイドショー番組『木島則夫モーニングショー』に出演し、このエピソードを涙ながらに話した。放送後、モーニングショーのスタッフに「すごい反響だ」と言われ、後に榎本猛の降板のために後任司会者を探していたアフタヌーンショーのスタッフから「あの時の正義感を以って出ていただきたい」とオファーを受け、同年4月5日に小金治司会による『ただいま正午・アフタヌーンショー』がスタートした。小金治のメイン司会起用をめぐっては、当時NETの要職に就いていた朝日新聞社・NHK出身者を中心に、「マスコミ界をリードする公共性の強いテレビの聖域に落語家はなじまない」「ニュースの真実を伝えるべきテレビ局として、ニュース性の強い『アフタヌーンショー』の司会者に落語家や漫才師はふさわしくない」といった反対の声が局内から上がっていたという。しかし小金治は、モーニングショーの木島則夫と同じく、視聴者と同じ立場を心掛けながら司会を担当。さらに、木島に輪を掛けて感情を発露した司会振りで、視聴者に向けて大きな訴求力を発揮した。1966年(昭和41年)1月からは『桂小金治アフタヌーンショー』に改題され、小金治のネームバリューやキャラクターを前面に押し出すようになる。小金治の「怒りのコーナー」では、対象者をスタジオに呼び、その対象者が意見を交わし合って、小金治はその意見を静かに聞いている。そして、フロアディレクターが小金治に小声で「怒れ!」の指示を出すと、突然のように小金治が「すねっかじりのくせに、甘えたこと言うんじゃない!」や「親を何だと思ってるんだ!」と言う風に本気で罵声を発していた。この番組で"怒りの小金治〟の異名をとるようになった。また、田村魚菜の料理コーナーや指圧治療の権威であった浪越徳治郎の指圧コーナーも人気となった。特に小金治と負けず劣らずの強烈なキャラクターの持ち主である浪越は一世を風靡した。こうしたコーナーのおかげで最高視聴率は20%という当時の平日のお昼の番組としては驚異的なものとなり、アナログUHF新局開局と相まって、クロスネット局や他系列局でのネットも増加していった。しかし、小金治が呼びつけて怒鳴りつけた相手の多くが若者であったため、次第に流行りだしていたラジオの深夜番組に「恨み」の手紙が届き、これを汲み取ったDJを介して非難されるようになった事から司会としての進め方に疑問が示される。さらに、視聴者の主婦からも批判の声が多くなり、「悪人を罵倒するような小金治さんの司会は不愉快です」や「もっと冷静に司会して下さい」や「まじめなのはいいけど、怒ってばっかりなのはいやです」「もう少し今の若者の気持ちを理解して欲しい」などの批判を受け、とある生放送中に小金治が突然涙したことがあった。これが小金治が勇退するきっかけとなり、1973年(昭和48年)8月3日の放送をもって7年半にわたる番組の司会を降板した。1975年(昭和50年)、日本テレビ系のバラエティ番組『それは秘密です!!』で司会を担当。同番組の人気コーナーであった「ご対面コーナー」では、視聴者が探したかった肉親や兄弟姉妹と再会する「視聴者の秘密さん」が登場し、再会を果たした者同士は勿論、司会の小金治や解答者も感極まる場面が多々見られた。感動のあまりもらい泣きする小金治の姿は視聴者の共感を誘い、前述とは打って変わって「泣きの小金治」と呼ばれた。1987年(昭和62年)9月29日の放送をもって番組は終了したが、「視聴者の秘密さん」のみが朝のワイドショー『ルックルックこんにちは』金曜のコーナー「桂小金治の涙のご対面」として続けられた。小金治本人がコーナー進行役を務め、テーマ音楽もそのまま使われていた。1981年(昭和56年)、当時の落語芸術協会副会長・春風亭柳昇の要請に応える形で、9月中席の鈴本演芸場・落語芸術協会の芝居「のせもの」として高座に復帰。当時の副会長・春風亭柳昇の要請に応えた。その後、2回ほど定席に上がった後、1983年(昭和58年)6月14日の第二回本多寄席に出演。以降、国立演芸場や横浜にぎわい座などを借り切って独演会形式で活動を再開。また、既設の名人会に呼ばれることもあった。2000年(平成14年)以降は放送メディアに登場する機会は少なくなっていたが、全国各地で講演活動を展開していた。2011年(平成23年) 、高座からの引退を宣言。2012年(平成24年)頃から認知症を発症。2014年(平成26年)8月初めには肺炎で東京都内の病院に入院。同年9月に川崎市内の病院に転院したが、次第に体力が低下。10月には肺炎が悪化し、11月3日午後4時45分、肺炎のため神奈川県川崎市麻生区の病院で死去。享年88。


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「怒りの小金治」「泣きの小金治」の異名をとった桂小金治。落語家としてデビューしながら、映画、テレビ番組の司会とマルチに活躍し、そのどれもを器用にこなした。落語家としては、七代目立川談志から「軽くて、うまくて、人気もあった」「芸風やあの強情な性格から言って、啖呵なら啖呵はこうだと、崩すことを許さず、きちんとした古典落語を伝えていけたのに、兄さん責任あるよって、直に言いましたよ」と談志流に褒め称えられ、映画俳優としては、川島雄三にその才能を見出され、川島作品の常連として日本映画の黄金期に大活躍。商店の主人あるいは御用聞き、またはドジな青年など、高度経済成長期を懸命に生きる庶民を演じさせたら実に上手い人であった。司会者としては、その怒りっぷりで主婦層から文句の投書が来るほどであった「怒りの小金治」時代から打って変わり、「泣きの小金治」として親しみやすい人柄と涙もろい一面が視聴者の共感を呼んだ。歯切れの良い語り口と実直な性格、そして人情味あふれる人柄が印象的だった桂小金治の墓は、東京都狛江市の慶岸寺にある。洋型の墓には「田邉家之墓」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「慈笑院幹譽演道居士」。

Commented at 2026-02-25 14:18
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by oku-taka at 2026-02-26 16:38
> あじさん
いつもご覧いただいてるとのことでありがとうございます。
確認したところ、お寺の名前を誤っていましたので今しがた修正いたしました。
正しくは、狛江市の慶岸寺となります。
by oku-taka | 2025-06-22 20:15 | タレント | Comments(2)