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池田駿介(1940~2010)

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池田 駿介(いけだ しゅんすけ)

俳優
1940年(昭和15年)〜2010年(平成22年)

1940年(昭和15年)、殺陣師の大内龍生の次男として京都府に生まれる。本名は、池田 紀生(いけだ のりお)。幼少期より神奈川県川崎市で過ごしたが、子供の頃から少年剣劇団の一員として全国を巡業し舞台に立っていた。中学進学後は芝居から遠ざかっていたが、高校生になると再び芸能界に憧れる気持ちが強くなり、大学進学と同時に劇団文化座の研究生となる。やがて、母親の知人だった東映のプロデューサー・高橋昌一の推薦で、1962年(昭和37年)に東映ニューフェイス第10期生となる。ニューフェイスに合格後は俳優座預かりという形になり、しばらくは時代劇の舞台に出演していた。1963年(昭和38年)、東映映画『白い熱球』でデビュー。その後はテレビドラマを中心に活動し、同年10月より放送の『戦友』(NET)ではレギュラーを一年間務め、翌年『風来物語』で主役の書生を演じる。初主演となった『風来物語』であったが、当時のNETはネット局が東京と長崎ぐらいしかなかったため、池田自身が有名になるまでには至らなかった。その後、東映を離れ、天知茂のプロダクション設立に参加し、たつみプロダクションに所属。1969年(昭和44年)からは国際放映制作『鬼平犯科帳』に2年間レギュラー出演した。1971年(昭和46年)、円谷プロでウルトラシリーズが再開されることを聞きつけ、マネージャーを通して円谷一に相談し、『帰ってきたウルトラマン(TBS)でレギュラー・南猛隊員を演じることとなる。翌年には再び円谷プロの『緊急指令10-4・10-10』(NET)に花形一平役でレギュラー出演。1973年(昭和48年)には、古巣の東映で『人造人間キカイダー』の続編が制作されることを知り、プロデューサー・吉川進に自ら売り込みをかけ、『キカイダー01』の主人公・イチロー役に抜擢される。『01』終了後は『キカイダー』とともにハワイ州のKIKU-TVに輸出され、初放送時は人気が出ずに打ち切られたが、その後に日本国内を凌駕する一大ムーブメントに発展。キカイダー=ジロー役の伴大介とともに現地のイベントに招かれ、超満員のファンに迎えられた。一方、俳優業の傍ら、東京・三軒茶屋で「ゼロワン・チェーン」という大判焼きの店を経営し、「巡礼」に訪れるファンも多かった。1990年代には洋服メーカー・ゼビーのレギュラーキャラクターを務め、CMにも出演。晩年は主にCMや舞台のほか、『帰マン』や『キカイダー』関連のイベントなどで活躍していた。2009年(平成21年)1月、体調に異変を感じて検診。2月初めに胃癌と判明し、中旬には手術を行った。術後は医師も驚くほどの回復ぶりで、リハビリも順調だったが、同年9月に体調が悪化。抗がん剤の治療を施したが、その後リンパに転移。11月には一時危篤状態になったが、奇跡的に回復。その後、一進一退で入退院を繰り返していた。2010年(平成22年)6月11日午前3時10分、胃癌のため千葉県の病院で死去。享年69。


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多数の特撮作品に出演し、子どもたちの人気者となった池田駿介。『帰ってきたウルトラマン』の南隊員を皮きりに、『緊急指令10-4・10-10』の花形一平、そして『キカイダー01』の主人公・イチロー役と大活躍を見せ、その他の特撮作品にもあらゆる役でゲスト出演するなど、昭和を代表する特撮俳優の一人であった。一方、気さくな人柄としても知られ、経営していた店に特撮ファンが来店しても誠実に対応し、また晩年まで特撮イベントにも積極的に顔を出していた。それだけに、69歳というあまりに早すぎる旅立ちには多くのファンが涙した。「子ども番組に出たら役者として成功しない」と言われた時代に、自ら売り込んで特撮の世界に飛び込み、多くの子どもたちから慕われるお兄さんとなった池田駿介の墓は、東京都稲城市の新ゆり天望の丘墓苑にある。洋型の墓には「駿」とあり、『キカイダー01』のマークの下部に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2025-06-15 15:39 | 俳優・女優 | Comments(0)