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夏木陽介(1936~2018)

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夏木 陽介(なつき ようすけ)

俳優
1936年(昭和11年)〜2018年(平成30年)

1936年(昭和11年)、東京府(現在の東京都)八王子市に生まれる。本名は、阿久沢 有(あくさわ たもつ)。1954年(昭和29年)、桜美林高等学校を卒業し、明治大学経営学部に入学。在学中、高校の同級生だったホキ徳田の祖母の家に画家の中原淳一が寄宿していたことが縁で中原が編集者を務めていたひまわり社を見学した際、中原が発行する雑誌「ジュニアそれいゆ」のモデルにスカウトされる。1958年(昭和33年)、大学卒業と同時に東宝へ入社。このとき、中原の命名によって「夏の太陽に向かって真っすぐに伸びていく若木のように、たくましく生き生きとした俳優になって欲しい」という意味を込められた「夏木陽介」の芸名を受け、数日後には『美女と液体人間』でデビューを飾る。当初、会社からは佐藤允・夏木・瀬木俊一の3人組で「スリーガイズ」と売り出されたが、瀬木が引退したために自然消滅した。また夏木本人もデビューからしばらくは「何かあったら辞めてやる」と軽い気持ちで役者をやっていたという。しかし、東宝の俳優養成所では講師役の小杉義男に対して一歩も引かなかったり、東宝撮影所の地主の息子だった守衛の態度に憤慨して撮影所の門の鎖をバイクで引きちぎったりと、他人に物怖じしない行動が畏敬の念を集めることとなり、東宝の社風も重なって、いじめられることはなかったという。同年、石原慎太郎が監督した『若い獣』に出演。続いて熊谷久虎監督の最後の作品となった『密告者は誰だ』で早くも主演を飾り、1959年(昭和34年)には『狐と狸』で新人賞を獲得する。1960年(昭和35年)に主演した『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』で役者としての気持ちが固まった後は、黒澤明監督の『用心棒』や稲垣浩監督の『野盗風の中を走る』などの作品で順調に出演を重ね、特に東宝の助監督が一本立ちして監督となる出世作のほとんどに主役として出演。爽やかさと野性味を兼ね備えた二枚目として、現代アクション、戦争映画、時代劇、怪獣映画、青春映画、サラリーマン物、文芸映画、コメディと東宝がカバーする多彩な領域にくまなく対応した。しかし、映画界が斜陽化の一途をたどり始める1964年(昭和39年)頃より徐々に俳優業への情熱が冷めてきて、房総半島のレジャーランド計画(行川アイランド)に幹部待遇で迎えられて参画するなど、ビジネスへと関心が傾いてゆく。そんな折に日本テレビの『青春とはなんだ』の主演を持ちかけられ、ビジネス優先を考えて固辞していたが、東宝の助監督であった松森健がこの作品で監督デビューすることなど、親しいスタッフの三顧の礼もあって出演を承諾。主役の教師・野々村健介役を務めた同作は高視聴率を誇り、一気にお茶の間での知名度を上げることとなる。1966年(昭和41年)には『青春とはなんだ』を肖って作られた主演映画『これが青春だ!』も大ヒット。また1967年(昭和42年)に主演した木下恵介監督の映画『なつかしき笛や太鼓』でも同じく教師役を演じた。1968年(昭和43年)、個人事務所「株式会社夏」を設立。同年から2年にわたり、竜雷太と共に刑事ドラマ『東京バイパス指令』に主演。1972年(昭和47年)にはNHKで『明智探偵事務所』に主演するなど、テレビドラマに活躍の場を移し、意欲的な活動を展開する。1973年(昭和48年)、東宝の先輩でもあった三船敏郎より「力を貸して欲しい、俳優が必要なんだ」との誘いを受け、竜雷太と共に「三船プロダクション」に移り、『荒野の用心棒』、『Gメン'75』、『江戸の激斗』などの人気ドラマに出演。特に『Gメン'75』は、プロデューサーの近藤照男から「次の作品がまた失敗に終われば、プロデューサーの地位を失うかもしれない、力を貸して欲しい」と言われ、「自宅から東映撮影所までは時間が掛かるので、3話に1話の位の出演にして欲しい」という条件を出して出演。しかし、同作のニューカレドニアでのロケ時に近藤と中華を食べに行き、夏木が先に支払いを済ませたところ、近藤はプロデューサーという立場の自分が支払いを、と考えていたため口論となり、夏木が「怒られる理由がない、降板する」と言い降板となった。近藤からは降板回のエピソードを作らせて欲しいと打診されたが、夏木がこれを固辞したため、突如番組から姿を消すこととなった。1982年(昭和57年)、「三船プロダクション」を退社。個人事務所「株式会社夏」で自身の活動の傍ら、芸能プロダクションの社長を務めた。一方、自動車好きとしても有名で、日本でも石原裕次郎、力道山、夏木の3人だけと言われたメルセデス・ベンツ・300SLを所有するなど免許を取得してから当時の高級車・スーパーカーを中心に数百台は乗り換えていると語っていた。その後はジャガー・SS100、ジャガー・Eタイプ2台、レクサス・SC430、ローバー・ミニなどを自身の愛車とした。そうしたことから、1985年(昭和60年)と1986年(昭和61年)にラリードライバーとダカール・ラリーに出場。また、1987年(昭和62年)から6年間にわたり「チーム三菱・シチズン夏木」の監督として篠塚建次郎・増岡浩らを出場させた。1988年(昭和63年)公開の映画『海へ 〜See you〜』でも三菱シチズンの監督として出演した。同年、個人事務所「株式会社夏」を「株式会社夏木プロダクション」に社名変更。しかし、自身はラリー参戦のため、俳優としての仕事のオファーを断ることが多かった。2009年(平成21年)7月、軽度の脳梗塞が見つかり、約1週間の入院治療を受ける。2010年(平成22年)3月には、かねてより患っていた胆石の経過観察のため検査を受けたところ、左腎臓に腎臓癌が見つかり、5月14日に摘出手術を受けた。2014年(平成26年)、自身の高齢を理由として「株式会社夏木プロダクション」を営業終了・解散する。2015年(平成27年)には再び自身の個人事務所「オフィス夏木」を作って活動していたが、2017年(平成29年)10月2日に肺炎のため入院。約2週間後に退院するも、11月25日にリハビリ中に倒れ、翌日再入院。11月29日、胸椎に癌が発見された。12月に入ると歩けない状態となり、12月27日に集中治療室へと入った。その後、意識不明となり、2018年(平成30年)1月9日に集中治療室を出て個室に移ったが、同年1月14日午前10時46分に腎細胞癌のため東京都内の病院で死去。享年81。


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東宝の二枚目スターからダンディーな俳優へと変化を遂げた夏木陽介。特に『青春とはなんだ』で演じた、ラグビーを通じて人間教育を展開していくアメリカ帰りの英語教師・野々村健介役は当たり役となり、同作のヒットで日本テレビの日曜20時は様々なバリエーションで作られる青春ドラマシリーズの枠となった。打って変わって『Gメン'75』では、渋くてダンディーな小田切警視を好演。語学が堪能で射撃の腕前も一流、私情を挟まない冷静な捜査でありながら時に見せる人間的な一面が魅力的で、途中で降板となったものの視聴者に大きな印象を残した。生涯独身を貫き、仕事は納得できるもののみ受け、こだわりの趣味に熱中するなど、自分の信じる道を歩み続けた夏木陽介の墓は、東京都八王子市の信松院にある。墓には「阿久澤家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「天優院輪覚有道居士」。

by oku-taka | 2025-05-18 17:15 | 俳優・女優 | Comments(0)