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内村剛介(1920~2009)

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内村 剛介(うちむら ごうすけ)

ロシア文学者
1920年(大正9年)〜2009年(平成21年)

1920年(大正9年)、栃木県に生まれる。本名は、内藤 操。1934年(昭和9年)、家庭の事情で姉夫婦の住む満州に渡る。14歳で満鉄育成学校に入学したが、その後に大連二中へ転校。20歳のときに旧満洲国立大学哈爾濱(ハルビン)学院へ入学し、ロシア語を学んだ。1943年(昭和18年)、同校を卒業。関東軍に徴用されて翻訳業務に従事する。1945年(昭和20年)、女子の軍属を引率して京城へ向かう途中の平壌で、日本人難民の救助活動と越冬準備に走り回る哈爾濱学院の先輩・梶浦と出会う。梶浦から頼まれ、内村は進駐してきたソ連軍による関東軍の武装解除に通訳として立ち会う。同年9月、平壌の官憲に拘束されるも釈放。しかし、収容所を出た途端に梶浦が発疹チブスに罹り、医者のいる収容所に戻ってしまう。このとき、哈爾濱学院がスパイ養成所と目され、関東軍に所属していたことを隠していたという理由で、内村はソ連諜報機関に逮捕された。1948年(昭和23年)、25年の禁固刑を受け、ソ連に抑留される。以後、11年間をソ連内の監獄・ラーゲリで過ごした。日ソ国交回復後の1956年(昭和31年)、最後の帰還船で帰国。帰国後は、日商岩井に勤務する傍ら文筆活動を始め、1967年(昭和42年)に発表した『生き急ぐ』は、青年期をラーゲリー内に拘束された「タドコロ・タイチ」とソ連取調官の攻防を描き、ロングセラーとなった。このほか、スターリニズムやソ連の文学・思想を、抑留体験から解読・批判したほか、現代日本への批判も行なった。1973年(昭和48年)、北海道大学の教授に就任。1978年(昭和53年)、上智大学の教授に就任。2009年(平成21年)1月30日午前2時41分、心不全のため東京都世田谷区の病院で死去。享年88。


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壮絶なシベリア抑留の体験を文学として昇華させた内村剛介。不当な逮捕と理不尽な仕打ちにもめげず、毅然と抗い続け、見事11年にも及ぶ地獄の生活から帰還した。そうした体験はこの男に大きな力を与え、戦後スターリニズム批判などの文筆活動を展開。旧ソ連研究などに多大な影響を与えることになった。運命を翻弄したロシアを生涯かけて追い続けた内村剛介の墓は、東京都八王子市の高尾霊園にある。1999年(平成11年)4月、ハルビン学院の同窓会が解散するにあたり、高尾霊園に「ハルビン学院記念碑」が建立された。ここには、カロートに卒業生の「分骨」や「遺品」「校旗の燃え残り」や「学院史」その他思い出の品などが収納されているとのことで、内村もこの記念碑に分骨されたとのことである。

by oku-taka | 2025-05-12 00:59 | 文学者 | Comments(0)