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松前重義(1901~1991)

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松前 重義(まつまえ しげよし)

教育者
1901年(明治34年)〜1991年(平成3年)

1901年(明治34年)、熊本県上益城郡嘉島町に生まれる。小学5年生のときに熊本市へ移った際、故郷の農村と違って夕方になると一斉に電灯がともるのを見て、その美しさと不思議さに驚き、これが後に電気を専攻するきっかけとなった。1919年(大正8年)、旧制熊本県立熊本中学校(現在の熊本高校)を卒業し、熊本高等工業学校(現在の熊本大学工学部)電気工学科に入学。在学中は、中学時代に兄の影響で始めた寝技主体の高専柔道などのスポーツに熱中する日々を送る。1922年(大正11年)、東北帝国大学(現在の東北大学)工学部電気工学科に入学。抜山平一に師事し、トランジスタやICへと発展する真空管の特性などについて研究した。1925年(大正14年)、逓信省に技官として入省。しかし、役所の生活は無味乾燥で事勿れ主義が蔓延り、思い悩んだ末に内村鑑三が主宰する聖書研究会や講演会などに通う。ここで内村の思想と人類の救済を説く情熱的な訴えに深く感銘を受け、妻や篠原登ら数人の同志と自宅で勉強会(聖書・教育研究会)を開催。シュバイツァーやペスタロッチなどの人生観、世界観、使命感や理想などを語り合い、教育への志を立てる決意を固める。その中で、プロシアとの戦争に敗れ、疲弊した国を教育によって再興させたデンマークの精神的、ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィを知り、彼の提唱するフォルケホイスコーレ(国民高等学校、国民大学とも訳す)に教育の理想の姿を見出す。1932年(昭和7年)、「無装荷ケーブル通信方式」を提唱し、篠原登と共に完成させる。それまでの電話通信の分野は、アメリカ・コロンビア大学のミカエル・ピューピンが開発した装荷ケーブル方式が世界の主流であり、これは長距離ケーブルでは2線間の静電容量により損失があるが、ケーブルに一定間隔で装荷コイルを挿入してインダクタンスで釣り合いをとる装荷方式は損失による減衰が少ないところが長所であった。しかし、この方式では音声が不明瞭、1回線で1通話しかできず不経済であるなどの様々な欠点があった。そうしたことから、松前たちは長距離ケーブルの途中に増幅器を設置して電流を増幅させ、高周波の電流に音声を乗せて送る新しい通信方式を開発し、装荷ケーブル方式の欠点を一気に解決。また、1回線で複数の通話ができる多重通信を可能とする経済的なもので、これを「長距離電話回線に無装荷ケーブルを使用せんとする提案」として発表。また、小山 - 宇都宮間で多重電話伝送を実験して良好な結果を得た。1933年(昭和8年)、逓信省より電話事業研究の目的でドイツ留学を命じられる。 無装荷ケーブルの実用化の目処が付き次第、教育事業に転身するつもりでいた松前は留学を断るが、直属の上司であった梶井剛の特別な配慮でデンマークの視察が認められたため留学。ドイツで官庁や通信施設、研究所、工場などを視察したほか、無装荷ケーブルについて電気通信関係者と議論を行う一方、留学中の1カ月余りをデンマーク各地の国民高等学校や酪農学校の視察に費やし、デンマークでは想像以上にニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィの教育理念が、国民教育や農業振興の実践面で良く生かされているということを実感した。1934年(昭和9年)、帰国。逓信省の会議にて欧米の電気通信事情を報告し、無装荷ケーブルの有用性を訴えた。これによって無装荷ケーブルが日本と大陸を結ぶ通信網に採用する方針が固まり、実用化が図られていく。その一方、技術者の地位向上を訴える技術者運動を梶井や山田守らとともに展開。当時の日本の社会は指導者として法学部出身者を最優先する風潮が根強く、技官より文系出身者を優位とみなす逓信省の組織構造があった。こうした現実を憂え、国家の正常な発展のためには文科系と理科系の相互理解が不可欠であるとの思いを強くし、世界や社会の動向に無関心になりがちな技術者の意識改革と地位の向上を訴えるべく「逓信技友会」を結成。その後、各省の技術者運動の流れと統合し「六省技術者協議会」となり、さらに「日本技術協会」へと発展した。1935年(昭和10年)年1月、電気学会より「長距離無装荷ケーブル通信方式の研究」に対し、第10回浅野博士奨学祝金を授与される。松前はこの祝金を基金の一部とし、武蔵野市西久保に自宅と浅野博士奨学記念館(現在の東海大学望星学塾の塾舎)を建築し、キリスト教主義学校「望星学塾」を開設。デンマークの国民高等学校の教育を範としながら、対話を重視し、ものの見方・考え方を養い、身体を鍛え、人生に情熱と生き甲斐を与える教育を目指し、聖書の研究を中心として日本や世界の将来を論じ合う場とした。学生が8人ぐらい寝泊りできる寄宿舎と体育館兼講堂兼図書館も完成し、日曜ごとにキリスト教の礼拝を行い、週2回はデンマーク体操、月に1度は必ず公開講演会を開いた。旧制一高で教える三谷隆正が近くに居住していたことからたびたび講師を務め、少数ではあったが熱心な青年が集まった。1937年(昭和12年)、満州国の安東と奉天間で無装荷通信方式で長距離電話通信が成功し、同年11月には『無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究』で東北帝国大学より工学博士の学位を授かる。同年、逓信省工務局調査課長に就任。1940年(昭和15年)、大政翼賛会の発足に伴い総務局総務部長に就任。しかし、主導権を争う内紛から辞表を求められて辞任する。1941年(昭和16年)、逓信省工務局長に就任。国家の正常な発展のためには文科系と理科系の相互理解が不可欠であるとの思いを強くし、大学建設の目標を共有。同年2月22日には宮本武之輔、梶井、松前を発起人とする国防理工科大学の設立計画が新聞各紙にて報じられ、1942年(昭和17年)12月8日に財団法人国防理工学園を設立。これにより、1943年(昭和18年)4月8日に航空科学専門学校が静岡県清水市(現在の静岡市清水区)で開校。1944年(昭和19年)には東京市江古田(現在の東京都中野区江古田)に電波科学専門学校も開校した。一方、太平洋戦争に突入したことで松前は、人間が体力や技能や精神力で戦ってきた過去の戦争は終わり、新しい時代の戦争は、科学技術を駆使した兵器や、それらを生産する技術と人材、資源量などによって優劣が決定すると主張。その後、技術者を集めて日米の生産力や資源量の調査を始め、当時の政府が主張したデータとは全く異なる結果を導き出した。当時の日米の生産力を比較すると、日本は米国の約十分の一であり、大規模な戦争を行うことは不可能であった。そうした現実を隠蔽し、戦争を続けようとするのは無謀であるという結論に達した松前は、この結果を軍令部や近衛文麿らに広め、総理大臣・東條英機の退陣と和平工作を訴えた。そのため、同年7月に懲罰召集を受け、42歳の勅任官が兵隊の位で一番低い二等兵として南方戦線に送られる。これにより、私塾であった望星学塾の活動は休止を余儀なくされた。マニラでは南方軍総司令官寺内寿一元帥の配慮により、軍政顧問として勤務して無事に復員。後に技術院参技官として終戦を迎える。戦後は逓信院総裁に就任。1946年(昭和21年)には松前が念願としていた「文理融合」を理念とする旧制東海大学の設立が認可された。しかし、同年4月に逓信院総裁を辞任し、同年9月には戦時中に大政翼賛会の活動に関わっていたとを理由として公職追放となる。1950年(昭和25年)10月13日、公職追放解除の閣議決定を受け、同年に旧中島飛行機の残留従業員労働組合が土地の払い下げを受けて設立した、株式会社東京グリーンパークの社長に就任。当時、首都圏では慢性的な球場不足で、プロ野球の運営をよりスムーズにすることを目的として、進駐軍より返還された三鷹駅北側の中島飛行機武蔵製作所東工場(旧武蔵野製作所)跡地に武蔵野グリーンパーク野球場が建設された。しかし、工期の限られた突貫工事だったことに加えて、フィールドと外野スタンドの盛土は保水力の乏しいローム層のため、芝の生育が不完全な状態での開場となり、さらに翌年には神宮球場の接収が解除され、川崎球場が開場するなど、首都圏の野球場不足も緩和。こうした様々な不利な条件が重なったため、完成はしたもののほとんど使用されることなく打ち捨てられ、1953年(昭和28年)に会社は解散となった。一方の松前自身は、1951年(昭和26年)に教職追放からも解除されたことから国防理工学園に復帰。1952年(昭和27年)、第25回衆議院議員総選挙に熊本1区より出馬して当選。以後、日本社会党の右派議員として当選6回を果たし、中道保守系の有力議員として社公民路線を提唱した。同年1月、新制東海大学の理事長、6月には学長に就任。この頃、戦後の経済的混乱や学制改革による大学の急増などで東海大学の学生数は減少しており、大学経営は悪化の一途をたどっていた。また、大学が静岡県清水市にあっては地理的条件から教員確保が困難であるといった様々な制約もあり、校舎を静岡県へ売却。東京都渋谷区富ヶ谷にあり同じく経営難であった名教高等学校の経営母体である名教学園と東海大学が合併する形で同地を買収し、1955年(昭和30年)に代々木校舎(現在の渋谷キャンパス)へと移転した。1954年(昭和29年)7月、貿易や経済状況など国際関係を調査するため、国会議員視察団の一人として、東南アジア(ビルマ、インド、パキスタン)をはじめ、西欧(フランス、西ドイツ、デンマーク、スウェーデン、フィンランド)、ソビエト連邦、中国を視察。ここで、原子力の平和利用に関する研究を日本でも積極的に推し進める必要性を痛感し、原子力基本法制定に尽力するとともに東海大学工学部に原子力工学専攻を設置した。1957年(昭和32年)6月、文部省(現在の文部科学省)は放送を使用した高等教育構想に関心を示しており、東洋大学文学部教授であった米林富男はテレビおよびラジオ放送を使用した勤労学生向け大学教育の研究を行っており、文部省は研究助成金も拠出していたことから、東海大学も超短波放送実験局の免許を郵政省(現在の総務省)に申請。1958年(昭和33年)4月に東海大学超短波放送実験局(呼出符号JS2AO、周波数86.5Mc(メガサイクル。現在のメガヘルツ(MHz)と同義)、空中線電力1kW)の予備免許を取得し、同年12月に放送を開始した。1959年(昭和34年)11月に周波数を84.5Mcに変更し、1960年(昭和35年)4月には「東海大学超短波放送実用化試験局」(呼出符号JS2H)も放送を開始した。1962年(昭和37年)、学生数の急増に伴い、静岡県清水市や神奈川県相模原市(現在の付属相模高等学校の敷地)に新たなキャンパスを開設。さらに、同年5月の理事会で神奈川県平塚市郊外の土地・約41万mの買収と、土地の利用計画、建設する校舎の計画についての決定がなされ、1963年(昭和38年)に湘南キャンパスとして開設した。1964年(昭和39年)、全日本大学野球連盟が翌年から全日本大学野球選手権大会の出場枠を拡大するにあたり、当時東都大学野球連盟に準加盟だった東海大学が新リーグの結成について同連盟の3部、準加盟1部2部所属校を中心に呼びかけた。この呼びかけに対し、まず成城大学、日本体育大学、東京教育大学(現在の筑波大学)、武蔵大学が賛同を示して東都大学野球連盟を脱退。明治学院大学と東京経済大学も追随した。同年6月22日にはこれら賛同チームにより首都大学野球連盟が正式に発足。同年9月9日、明治神宮第二球場で、松前による始球式を経て最初の公式戦が行われた。1966年(昭和41年)、ソ連政府の提案によるソ連と東欧との交流組織「日本対外文化協会」(対文協)を石原萠記、松井政吉らとともに設立し、会長に就任。ソ連初の野球場としてモスクワ大学松前重義記念スタジアムの建設・寄贈に尽力するなど、国際交流事業を展開した。同年、三池工業高校を甲子園で優勝させた手腕を見込み、原貢監督を東海大相模高校の硬式野球部監督に招聘。原の指導で創部7年目にして初の神奈川制覇を成し遂げ、夏の全国高校野球選手権では2回優勝を果たすなど、東海大相模の名を全国に轟かせ、神奈川高校野球界の勢力図を塗り替えた。1968年(昭和43年)、文部省と郵政省が放送を使用した高等教育を政府として行う方向へ方針を転換。また、かねてより広告放送が認められていない実験局との区別があいまいなことが国会でも問題となっていたことから、郵政省は「FM放送の実施のために必要な資料収集が完了した」という理由を東海大学に提示し、実用化試験局の再免許を拒否した。短期間再免許されたもののすぐに期間満了となり、不法無線局として郵政省は電波法違反で東海大学を告発した。これに対し東海大学は「これまでの実績を評価していない」として誣告罪で郵政省を提訴するなど、松前は古巣の郵政省と争うことになる。その後、他の出資元も増やした株式会社形式の民間放送に移行することで妥協。1970年(昭和45年)3月17日に新会社「株式会社エフエム東京」が設立され、FM東海(JS2AO)は同年4月25日に廃局となった。1969年(昭和44年)、全日本柔道連盟の理事に就任。1971年(昭和46年)、勲一等瑞宝章を受章。1978年(昭和53年)、ソ連諸民族友好勲章を受章。1979年(昭和54年)、国際柔道連盟の会長に就任。1980年(昭和55年)1月、嘉納履正が全日本柔道連盟の会長(講道館長)を辞任。後任に嘉納行光が推されたことから、松前は全柔連会長と講道館館長の双方を嘉納家が独占することに異議を唱えた。松前は東海大を中心勢力とした全日本学生柔道連盟(学柔連)を率いて抵抗したが、満場一致で嘉納行光の会長就任が決定。この件は後に大きな遺恨を残した。1982年(昭和57年)、勲一等旭日大綬章を受章。1983年(昭和58年)1月5日~6日、日本武道館にて学柔連主催の第1回正力松太郎杯国際学生柔道大会を開催し、全柔連とのトラブルが表面化する。同年1月25日、「柔道界の改革のため」として学柔連は全柔連から脱退。一方の全柔連は、同年9月21日に全柔連傘下かつ親講道館派で学生柔道界少数派の対抗団体「全日本大学柔道連盟」を設立。同年11月5日には、1984年(昭和59年)の第2回正力松太郎杯国際学生柔道大会に参加した選手、審判、役員は全柔連が主催や後援する大会、代表を派遣する国際大会には出場できなくなる旨の通知文を発行した。1987年(昭和62年)11月17日、国際柔道連盟(IJF)会長選挙において、全柔連が推すサルキス・カルグリアンが松前および学柔連が推すフランス柔道連盟前会長のジョルジュ・ファイファーに勝利。IJFを味方につけた全柔連は攻勢にかかり、同年11月30日には全柔連臨時評議員会がIJF理事会決定「IJFは全柔連に加盟していない日本国内のいかなる団体も承認しない」に基づき、学柔連への要求「全日本大学柔道連盟との統合、団体名称を日本学生柔道連盟に改称、全柔連への加盟」の三項目を決定。これを受けて学柔連は同年5月25日に三項目を合意した。1989年(昭和64年)、東ドイツ民族友好ゴールドスター章を受章。1991年(平成3年)8月25日、心不全のため神奈川県伊勢原市の東海大医学部付属病院 にて死去。享年89。没後の2022年(令和4年)、武蔵野グリーンパーク野球場建設に携わったことや首都大学野球連盟設立により初代会長を務めたこと、モスクワ大学に野球場を寄贈するなど野球界への貢献が評価され、野球殿堂特別表彰者となった。


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東海大学を創立し、日本の国際化にも尽力した松前重義。逓信省の技官として電話の「無装荷ケーブル」という世界的大発明を成し遂げたにもかかわらず、その地位を捨てて教育業界に転身。借入金や寄付だけで大学建設に挑み、自分の理想とする教育の実現を目指した。創立後もたびたび苦難に直面したが、今で言う学校法人のM&A方式の採用や、当時はまだ馴染みのなかった原子力工学の学部設置など、その斬新な手腕で従来にない学園経営を展開し、今や学生数3万人近く、北海道から九州まで10のキャンパスを展開するマンモス大学を築き上げた。また、三池工業高校を甲子園で優勝させた原貢の手腕を見込んで招聘したり、後に柔道選手として大活躍する当時高校一年生だった山下泰裕を見出したりなど、人を見る力も大変に長けていた。一方、自分の主張を曲げない人物でもあり、戦時下において日米の生産力を調査し、そのうえで圧倒的な差があることを明らかにして時の東條内閣を批判、懲罰召集されて激戦地へ送られたことは有名な話である。後年においても、FM東海の件で郵政省と、柔道界の派閥をめぐって嘉納家と争うなど、老いてなお強い存在感を発揮した。まさに昭和史の怪物の一人ともいうべき松前重義の墓は、東京都あきる野市の西多摩霊園にある。広大な敷地の真ん中に鎮座する墓には「望星」とあり、左側に墓誌、右側に顕彰碑が建つ。墓誌によると、元参議院議員の長男・松前達郎、元東海大学学長の次男・松前紀男、元衆議院議員の三男・松前仰も同墓に納骨されている。

by oku-taka | 2025-04-30 00:05 | 学者・教育家 | Comments(0)