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永山武臣(1925~2006)

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永山 武臣(ながやま たけおみ)

実業家
1925年(大正14年)〜2006年(平成18年)

1925年(大正14年)、東京府に生まれる。母が歌舞伎好きだったことから、幼少の頃より歌舞伎に触れて育つ。学習院初等科から高等科 (旧制) を卒業し、京都帝国大学経済学部に入学。真正極楽寺 (真如堂)内にある喜運院の離れを借り、そこから京大に通う生活を送る。1945年(昭和20年)8月1日、薦められるがまま豊橋の予備仕官学校に入り、伍長となる。終戦とともに京都大学へ復学するが、戦後にもてはやされた共産主義に疑問を持ち、従来から日本にあったものが何故もてはやされないのかと考えるようになる。冬になって真如堂に立て籠もり、誰とも話しをせずに考えた結果、「こんなに世の中が変わるのだったら、変わらないところで行こう」と思い立ち、歌舞伎に携わることを志す。在学中の1947年(昭和22年)10月、松竹に入社。東京劇場の夜景を務めた後、1948年(昭和23年)3月の大学卒業後は監事室に配属され、松竹創業者の一人である大谷竹次郎の下で、同年に上演された『源氏物語』(9代目市川海老蔵(後の11代目市川團十郎)や7代目尾上梅幸、2代目尾上松緑ら)や6代目中村歌右衛門襲名披露興行など第2次世界大戦後初期の歌舞伎の代表的な公演に関わる。1953年(昭和28年)12月には学習院初等科時代からの友人であった三島由紀夫に依頼し、歌舞伎化した『地獄変』(芥川龍之介原作)を歌舞伎座で上演した。1958年(昭和33年)7月、演劇部へ異動してプロデューサーとなり、正式に製作を担当。一方、1960年(昭和35年)に第1回の米国公演を行ったのを皮切りに、1961年(昭和36年)にはソビエト連邦共和国公演を行うなど、歌舞伎の海外上演に早くから取り組んで国際化を進めた。松竹は永山の存命中に33ヶ国・延べ56回の歌舞伎海外公演を行ったが、そのうちの41公演に同行して陣頭指揮を執った。1966年(昭和41年)11月、演劇部長に就任。1967年(昭和42年)10月、演劇担当取締役に就任。以降は歌舞伎だけでなく、1969年(昭和44年)にロック・ミュージカル『ヘアー』を上演したほか、1982年(昭和57年)には『アマデウス』の日本初演なども手がけるなど、ミュージカルや翻訳劇にも手を広げ、新派や松竹新喜劇まで含めた幅広い分野の演劇の製作・興行に携わるようになる。こうした取り組みの一方で、6代目中村歌右衛門達と共に古典歌舞伎の充実を図り、また歌舞伎俳優の大名跡の襲名を相次いで仕掛け、七代目尾上菊五郎や「高麗屋三代」(初代松本白鸚、九代目松本幸四郎、 七代目市川染五郎)、十二代目市川團十郎、十一代目市川海老蔵、四代目坂田藤十郎、十八代目中村勘三郎などの襲名披露興行を指揮した。1968年(昭和43年)7月、松竹演劇部発行の季刊雑誌として「古典歌舞伎の保存・振興および新歌舞伎の育成」を目的に掲げ、雑誌『歌舞伎』を創刊。自身が発行人となり、毎号特集に重点を置く編集で、「歌舞伎細見、俳優の芸談、座談会、評論、研究」や「新作の戯曲」などが掲載されたが、創刊から10年後の10巻4号をもって「完結終刊」した。1978年(昭和53年)、副社長に就任。同年12月20日、当時衰退していた関西歌舞伎を復興させるために大阪の民間労働組合(高畑敬一大阪民労協代表幹事)の呼びかけによって結成された「関西の歌舞伎を育てる会」(現在の「関西・歌舞伎を愛する会」)に参加。1984年(昭和59年)、当時社長だった大谷隆三が自宅に放火し、住み込みの手伝いの女性を焼死させる事件を起こしたことから、同年5月に大谷一族以外から初となる社長に就任した。1986年(昭和61年)、藍綬褒章を受章。1987年(昭和62年)、真山青果賞を受賞。1990年(平成2年)、1990パリ市ヴェルメーユ章を贈られる。同年8月、歌舞伎座で納涼歌舞伎を復活させたのを皮切りに、歌舞伎座を年間を通して歌舞伎上演を行う専用劇場化とした。また、東京・渋谷のシアターコクーンの「コクーン歌舞伎」のほかにも、野田秀樹の「野田歌舞伎」や蜷川幸雄の「NINAGAWA十二夜」など現代演劇の演出家を起用した新たな「歌舞伎」にも挑戦。こうした「伝統歌舞伎を現代の演劇として国民の間に広く浸透させ、あわせて海外公演を積極的に推進し、文化交流と国際親善に尽くした功績」から菊池寛賞を受賞した。 1991年(平成3年)、京都の南座を建物そのままに内部設備を一新した最新設備の近代劇場として改修。1995年(平成7年)、伝統歌舞伎の発展に尽力したことなどから、文化功労者に選出。1997年(平成9年)2月、映画館であった「大阪松竹座」が最新設備を備えた劇場として新築開場。改装ににあたり、永山は「豪華でそれでいて温かい雰囲気を持った劇場」「どこででも見やすい劇場」「俳優にとって使い勝手の良い楽屋施設のある劇場」という3つの要望を出し、8階には広い稽古場を作る「演劇専門劇場」案を示した。その後、「上方歌舞伎の復活を目指す」と宣言し、8階の稽古場を活かした『上方歌舞伎塾』を開校。関西に住んで上方の言葉を話す歌舞伎俳優を育てるという指針のもと、歌舞伎の実技や日本舞踊、長唄、義太夫などを教育し、3期生まで輩出した。また、2004年(平成16年)には大阪松竹歌劇団の後継にあたるNewOSK日本歌劇団(現在のOSK日本歌劇団)によるレビューとして『春のおどり』を66年ぶりに復活させ、以後毎年の恒例となった。1998年(平成10年)、ユネスコの外郭団体である公益社団法人国際演劇協会日本センターの会長に就任。1999年(平成11年)、レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られる。2006年(平成18年)12月13日午前7時48分、急性白血病のため都内の病院で死去。享年81。没後、演劇界に於ける功労を多として、日本政府は永山武臣を従三位に叙し、旭日大綬章を追贈された。


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今や海外に誇るジャパニーズカルチャーとなった歌舞伎。その一翼を担った人物の一人に、松竹で会長にまで上り詰めた永山武臣がいる。学生時代、野球と柔道に熱中していた青年が、松竹入社後は一貫して制作畑を邁進。歌舞伎の世界公演を成功させるのみならず、大名跡の襲名興行を次々に成功させ、敏腕プロデューサーとしての名声を極めた。それ故に、一時期は襲名披露の口上で役者たちは「松竹株式会社、永山会長のお勧めを受け…」と真っ先に謝意を述べ、本人もまたパンフレットやNHKでの芝居中継等で挨拶に応じるなど、まさに歌舞伎界の大重鎮として君臨した。かつてGHQによる伝統芸能統制や若者の歌舞伎離れ等で低迷した歌舞伎を今日に至るまでに大きく成長させた永山武臣の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「永山家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は、「徳風院本壽日武大居士」。

by oku-taka | 2025-04-24 02:59 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)