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桂由美(1930~2024)

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桂 由美(かつら ゆみ)

ファッションデザイナー
1930年(昭和5年)〜2024年(令和6年)

1930年(昭和5年)、東京府南葛飾郡小岩町(現在の東京都江戸川区小岩)に生まれる。本名は、結城(旧姓:満生)由美。父は 逓信省(旧郵政省)の官吏、母は洋裁学校(現在の東京文化デザイン専門学校)を立ち上げた人物で、長女である由美を跡継ぎとしたかった。幼少期はおとぎ話や絵本が好きで、戦時中でも白馬の王子様や美しいお城が現れる世界が頭の中を占めていたという。共立女子中学校・高等学校を経て、母の意向で共立女子大学家政学部被服学科に入学するも浴衣も縫えないほど縫製が苦手だった。一方、同校では軍国少女が海軍派と陸軍派に分かれており、由美は海軍派のリーダーであった。特攻隊員に憧れ、「私たち女性も飛行機に乗れるようにして下さい。特攻隊は男だけではありません。」という血書を書いて海軍省に送ったこともあったという。また、子供の頃から好きだった演劇部の部長も務め、大学1年のときにはプロデューサー志望として文学座の研究生となり1年過ごした。しかし、才能の限界を感じるようになり、芥川比呂志の言葉もあって大学で学び続けることを決意。大学後半は文化服装学院の夜間部にも通い、ファッション業界に身を置く決心を固める。大学卒業後、パリに1年留学してクチュール技術を学ぶ。帰国後は母が経営する洋裁学校で教鞭をとる。その後、教え子の卒業制作のテーマとしてウエディングドレスを選んだが、生徒たちがウエディングドレスを製作するために素材を探そうとすると、当時の日本には実用的な生地やレースはなく、ドレス用のインナーもなければ、白いハイヒールを手に入れるのも苦労し、幅広の生地を織れる織機もなかったことから、「日本ではまだ誰もやっていない婚礼衣装をやろう」と決意。母からは「もしブライダルと学校経営が両立しなければ学校経営を取るように」と言われたことから、ライセンス契約やフランチャイズのシステムなどを駆使して別の会社と組み、リスクを最小限に抑える形でブライダルビジネスをスタートさせる。しかし、当時は和装での神前結婚式が主流で、ドレスを着る人は全体の3%しかいなかったことから、デパートに営業へ赴いても断られてしまう。そのため、自ら店を開くことを決意し、準備のため海外視察の旅に出かけることを決める。海外のウエディング事情を取材するということで「女性自身」の特派記者として報道ビザを取得し、視察として旧ソ連、ヨーロッパ、アメリカなど約20カ国を約1年かけて巡り、オードリー・ヘップバーン、ソフィア・ローレン、グレース・ケリーなど、海外の名だたる人物に直接インタビューを行った。1964年(昭和39年)12月末、日本初のウエディングドレス専門店「桂由美ブライダルサロン」を赤坂にオープン。1965年(昭和40年)、ウェディングドレスのみのショー「第1回グランドコレクション」をホテルニューオータニで開催。河原日出子、緑魔子、入江美樹、九重佑三子、稲垣美穂子、三富邦子、草笛光子をゲストに7人7様のウェディングスタイルを披露し、オリジナルウェディングドレスの重要性をアピール。また、「ブライダル」という言葉を日本で初めて使用したことでマスコミの注目を得た。1967年(昭和42年)に開催の第3回グランドコレクションでは、オリジナルウェディングの重要性をアピールするため、チャペルウェディングドレス・ホテルウェディングドレス・ガーデンウェディングドレス・リゾートウェディングドレス・クルージングウェディングドレスという5つのブライダルシーンを提案した。1968年(昭和43年)、日本初のブライダル専門誌「ブライダルブック」を出版。1969年(昭和44年)、男性がウェディングドレススタイルを披露する「ミスターウェディングコンテスト」を開催して話題となる。同年、ブライダルのスペシャリストを養成する目的で「NPO法人全日本ブライダル協会」を設立。花嫁たちが希望する結婚式を叶えることを目的とし、精力的にセミナーを開催し始める。1972年(昭和47年)、元大蔵省官僚の結城義人と結婚。当時結城53歳、桂42歳と晩婚だった。同年、お色直しをスピーディに行うためのコンテスト、第8回グランドコレクション「ビューティフルウェディング」を全国の美容師対象に帝国劇場で開催。1975年(昭和50年)、赤坂の一ツ木通りにあったブライダルサロンを港区の乃木坂に移転。ウェディングドレスをはじめカラードレス、和装、親族衣装、ゲストドレス、メンズや子供のフォーマル、アクセサリーまで揃う日本初のブライダル専門店とし、また「適齢期のOLの1ヶ月分のサラリーで買えるウェディングドレス」を目標にプレタクチュールを発表して既製服化を実現。シンプルで「旬」を捉えたスタイリッシュなデザインが人気を博した。1976年(昭和51年)、日本フォーマルウエア協会(現在の日本フォーマル協会)を設立し、会長に就任。1981年(昭和56年)、アメリカのマーケットヘ向けて日本製品をアピールするイベント「J.F.F(ジャパン・ ファッション・フェア)」へ参加。日本独自のシルク100%の「サテンタフタ」の開発、レースの美しさを際立たせるための「くり抜き技法」「テグス・テクニック」などを編み出した。特に着物のお引きずりからインスパイアした独創的なシルエットのドレスを目にしたニューヨークのバイヤーやメディアたちは、そのドレスを桂由美の名から「ユミライン」と称して大絶賛した。1983年(昭和58年)、花婿も主役という風潮を根付かせるため、女性が花婿に着せたいメンズフォーマル として「ユミカツラムッシュ」を発表。ワンパターンのメンズファッションに対し、ニューテールコートやスペンサースーツ、セレモニーコートを次々と発表し、メンズフォーマルのファッション化に取り組む。1984年(昭和59年)、和装離れに際し、花嫁が着物を敬遠する内なる理由にも目を向け、白塗りメイクをやめて洋髪による和装ヘアの提案や着付け時間の短縮となるツーピース式の着物の開発など、次々に改革を実施。特に打掛の重さの悩みについてはふき綿を軽減する工夫や、オーガンジーなどのドレス素材を取り人れ、通常5Kgある打掛を300gまで軽減するなど、他に類のない新和装を発表した。1985年(昭和60年)、女優のブルック・シールズがゲストとしてユミカツラのウェディングドレスを披露。1986年(昭和61年)には、中国人民対外友好協会の招きで、中国人民共和国で初となるブライダルショーを北京民族文化宮で開催。そして、1987年(昭和62年)に念願のパリで初のブライダルコレクションをHotel le Grandで開催した。同年、中国の北京市内に中国初となる婚礼衣装店「桂由美婚礼服飾公司」がオープン。また、桂由美ブライダルハウス関西1号店である大阪店をオープンさせた。1991年(平成3年)、ヨーロピアンエクセレンス協会より、ヨーロッパ文化の国際的推進者に贈られる「トライアンフ大賞」(服装部門)を受賞。同年、クーデター直後のモスクワで初のコレクションを開催。1992年(平成4年)、スペイン・バルセロナのペドラルベス宮殿にてコレクション開催。また、バルセロナ衣装博物館に博多織のドレス1点を寄贈した。1993年(平成5年)、日本の博多織の素晴らしさを世界にアピールしたいと考え、第264代教皇ヨハネ・パウロ2世の祭服をデザインし、制作期間約1年半をかけて献上。3か月後、法王は復活祭のミサでこの祭服を着用し、その様子は世界各国に放送された。同年、国際文化交流への貢献が認められ「外務大臣表彰」を受賞。1994年(平成6年)、非婚化・晩婚化を危惧し、6月の第一日曜日を「プロボーズの日」と提唱。日本記念日協会に登録した。1995年(平成7年)、アジア各国の伝統の婚礼文化や婚礼衣装を大切に育み、後世に伝えるため「アジアブライダルサミット」を東京で開催。中国、韓国、インド、タイ、インドネシアなど 6か国が参加し、各国の模擬結婚式の披露や、言語の壁を乗り越えてのシンポジウムは以降アジア各国にて毎年開催されるものとなった。同年、インド・ボンベイ市でインド初となるブライダルコレクションを開催。1996年(平成8年)、中国各地でのショーの開催と生産工場や店舗運営指導をはじめとする中国の服飾文化への貢献と実績を評価され、中国婚姻家庭建設協会及び北京服飾協会より中国服飾史上初の「新時代婚礼服飾文化賞」が授与される。1998年(平成10年)には大連市において文化や産業の相互交流に貢献したとして「大連市栄誉奨賞」が授与された。1999年(平成11年)、東洋人として初めてイタリアファッション協会の正会員となる。その後、第1回春夏ローマクチュールコレクションを開催し、「WASHI-MODE」の原型となる和紙ドレスを発表。同年、宗教によらない新時代の結婚式として「シビルウェディング」を提唱。2000年(平成12年)、宝塚市で「21世紀へのカウントダウン・ウェディング」をプロデュース。2001mのベールは世界最長としてギネスブックに登録された。2001年(平成13年)、ローマクチュールコレクション最大のイベント「Donna Sotto Le Stelle」のフィナーレを飾る。由美はシャネルやアルマーニをはじめとする15人のひとりに選ばれての参加であり、友禅染、鹿の子絞り、箔押しなど日本古来の伝統美を生かした作品を発表。伝統技術を駆使した作品は「今回のローマオートクチュールで随ー」とイタリアのジャーナリズムに絶賛された。2002年(平成14年)、日本とルーマニアの修交100周年を記念し、ルーマニアで初のブライダルコレクションをブカレストで開催。その後、ルーマニアの文化交流に貢献したとしてイリエスク大統領より勲章が贈られた。2003年(平成15年)、春夏パリ・オートクチュールコレクションに初参加。パリコレでは欧米のデザイナーでは真似できない作品で勝負するしかないと考えた由美は、福井県今立町に通い詰め、JAPAN VIEWをテーマに海の世界を和紙で表現した「WASHI-MODE」ドレスを初披露。シルクにも勝るとも劣らないドレス素材「和紙を超えた和紙」を使用した作品の数々が来場者を驚かせた。以降毎年パリでコレクションを発表。2005年(平成17年)、パリ・カンボン通りのシャネル本店前に「Yumi Katsura Paris店」をオープン。2006年(平成18年)、アラブ首長国連邦のプリンセスの招きによりドバイで初のコレクション開催。同年、少子化対策と地域活性化のために「恋人の聖地」プロジェクトを提唱。海外ではイタリア・ルチアーノ市、フランスのバレンタイン市、モンサンミッシェル市、中国・蘇州市、海陽市が参加した。2007年(平成19年)、次世代のブライダルデザイナー発掘を目的に「Yumi Katsura Fashion Award」を新設。日本のブライダルファッション界にニューウェーブを起こす才能を求めるため、毎年2月に開催する東京コレクションのショーの冒頭で作品発表と授賞式を実施。2010年(平成22年)、全米ブライダルコンサルタント協会より、世界で4名のみの称号である「名誉会員」の称号が授与される。2011年(平成23年)、東日本大震災支援の一環として被災地5ヵ所4県において震災で結婚式を諦めていたカップル達に合同の市民結婚式をプレゼントする。これを機に市民参加型の結婚式「ふるさとウェディング」を提唱。同年、千葉商科大学サービス創造学部の特命教授に就任。2012年(平成24年)、第12回目パリクチュールコレクションにて、将来を危ぶまれている友禅を後世に残すため「YUMI YUZEN」と題し、フリーサイズで手軽に着られるコンテンポラリーな作品を発表。また、アコヤ真珠を13,262個(協力:ミキモト)を配したドレスとしてギネスブックに認定される。同年、第1回「ふるさとウェディングコンクール」(観光庁後援)を開催。以降毎年実施する。2013年(平成25年)、世界Beauty文化交流大会(韓国)にて「世界ビューティ名匠」を受賞。同年、シンガポールに設立されたアジアクチュール協会の創立メンバーとして、コシノジュンコと共に選任される。2014年(平成26年)、初のドキュメンタリー映画「マザーオブザブライド」が上映。同年、ブライダルー筋50年の功績が認められ、繊研新聞社より「繊研賞・特別賞」が授与される。2015年(平成27年)、2015年には滋慶おもてなし&ブライダル・観光専門学校(現在の大阪ホテル・観光&ウェディング専門学校)の名誉学校長に就任。2017年(平成29年)、日本の伝統美を駆使した作品を世界に配信すべくパリクチュールコレクションヘの参加やブライダルファッション界への功績に対し、日本生活文化推進協議会より「ベスト・プロデュース賞」が授与される。2018年(平成30年)、「BEYOND EAST & WEST ~日本の伝統工芸技術の革新と創造を世界へ~」をテーマに、迎賓館赤坂離宮で初となるショーを開催。2019年(令和元年)、出雲大社の境内で初となるブライダルショーを開催。同年、「令和元年度文化庁長官表彰」を受賞。2021年(令和3年)、一般財団法人「YUMI KATSURA」記念財団を発足。ブライダルに関する分野の将来有望な人材育成と教育発展に寄与するため、業界初となる給付型の奨学金「YUMI KATSURA 記念財団奨学金」事業をスタートさせ、ドレスデザインだけでなく美容、プランニングを加えブライダルの3分野で学ぶ学生を対象とした。2022年(令和4年)、日本初のブライダルファッションミュージアム「YUMI KATSURA MUSEUM」を
福井県若挟町にオープン。2023年(令和5年)、ウェディングドレスというジャンルを確立し、シルクの大きなマーケットを創出、更に世界20か国以上でファッションショーを行うことで日本のシルクの美しさを世界中に広く周知したことなど絹文化の発展に貢献した功績は偉大として、大日本蚕糸会より恩賜賞が贈られた。2024年(令和6年)3月に東京で最新作およそ70点を発表するファッションショーを開催、4月22日に『徹子の部屋』の収録に臨み、4月25日には大阪城ホールで執り行われた滋慶学園グループ文化・教養系の専門学校など14校の入学式に出席し、祝辞を送っていた。しかし、4月26日に東京都内で死去。享年94。


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頭に巻いたターバン姿が印象的だった桂由美。日本の婚礼衣装がまだ和服が大半だった時代に洗練されたウエディングドレスを次々に送り出し、ブライダル文化に大きな影響を与えた。特に、膝近くまで体のラインに沿い、裾にかけて広がっていくドレスは「ユミライン」と世界から絶賛され、体形を気にすることなく着られ、スタイルもよく見える桂由美のドレスは、現在もウエディングドレスの定番スタイルとなっている。ブライダルファッションの先駆者でもある一方、活動初期から一貫して「和洋の両立」を主張。織物や染物など日本の伝統技術を駆使した作品を世界に発信し、和装文化の改革と普及にも力を注いだ。そうした幅広い活動の根幹には、「すべて花嫁のために」「花嫁を輝かせるために」という思いがあった。「ブライダルマザー」と呼ばれ、亡くなる直前まで第一線で活動した桂由美の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。二基ある墓のうち、右の墓に納骨されていると思われるが、墓に刻まれた墓誌にはまだ桂由美の名前はない。ただし、山野愛子ジェーンとピンク・レディーの未唯が墓参りに訪れているので、納骨は既に済ませている模様。なお、左の墓は桂由美の生家である満生家の墓である。

by oku-taka | 2025-04-13 20:11 | 衣・食・住 関係者 | Comments(0)