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笠原和夫(1927~2002)

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笠原 和夫(かさはら かずお)

脚本家
1927年(昭和2年)〜2002年(平成14年)

1927年(昭和2年)、東京府日本橋に生まれる。父はナチス・ドイツの国策会社「イリス貿易商会」に勤める会社員で、母は元カフェの女給であったが、妻として入籍していなかったため、和夫は戸籍上私生児として扱われる。1931年(昭和6年)、母が離縁され、父は大森の元芸者と結婚。継母となるにあたり、庶子として認知される。少年時代は持病の喘息のため授業の半分は出席することができなかった。また、家の移転のため、杉並、幡ヶ谷、吉祥寺と転校を重ねる。一方、岩田豊雄(後の獅子文六)の『海軍』を読んで感銘を受け、1945年(昭和20年) 海軍特別幹部練習生に志願し、広島県大竹海兵団に入団した。敗戦後、1946年(昭和21年) に日本大学三島予科へ入学。その後、法文学部新聞学科へ進学するも、政経学科、英文科と転科を繰り返す。しかし、アルバイトのためほとんど授業には出席しなかった。同年10月、アメリカ映画『我が道を往く』を観て感銘を受け、3日連続で映画館に通って計12回観る。1950年(昭和25年)、東宝からレッドパージにより追放された映画人が、互助のために設立した「日本映画学校」に通い始める。ここで、脚本家・笠原良三と俳優・大日方傳と知り合い、大日方から「東宝の助監督にさせてやる」と言われ、大日方家の書生となる。また、同年末から大日方家が運営資金を出していた銀座の街娼用ホテル「グリーンハウス」の従業員兼用心棒として任される。1952年(昭和27年)、学費滞納等の理由により日本大学を退学。社会人になってからは、米軍労務者、喫茶店経営など職を転々とした。1954年(昭和29年) 、東映に入社し、常勤嘱託として宣伝部に配属。約4年間プレシシート執筆を担当し、年間約100本シナリオを読んで1作品ペラ10枚(2000文字)にまとめる仕事で脚本のポイントを押さえる能力を身につける。また、映画館で同じ映画を10回鑑賞して全シーンをノートに書いたり、過去のキネマ旬報で外国のギャング映画のストーリーを読んでパターンをノートにまとめるなど、シナリオの研究に打ち込む。1956年(昭和31年)、『救急医師 誰かが見つめている』で東映社内シナリオコンクール1位入選を果たす。1958年(昭和33年)、『ひばりの花形探偵合戦』で正式に脚本家デビュー。以後プロの脚本家として執筆を始める。1964年(昭和39年)、当時東映東京撮影所の所長だった岡田茂(後に同社社長)から指名を受け、『人生劇場 新飛車角』で初めてヤクザ映画の脚本を手がける。さらに、岡田から仁侠映画の本命とも言うべき企画を考えるよう指示され、二種類の企画を提出。一つは黒澤明監督の『七人の侍』を下敷きにした、ばらばらになっていた七人のやくざが集まって来て、大きな組に押しつぶされようとしている仁義に厚い小さな組を救う話、もう一つは親分を殺され、解散同然に追い込まれた組の組員が我慢に我慢を重ね、ついに決起し強欲なライバルに復讐する忠臣蔵的なストーリーだった。岡田は迷うことなく忠臣蔵を選び、これが『日本侠客伝』となる。以後多くのヤクザ映画の脚本を書き、1969年(昭和44年)には『博奕打ち 総長賭博』が作家の三島由紀夫から「これは何の誇張もなしに『名画』だと思った」(『映画芸術』同年3月号にて批評「『総長賭博』と『飛車角と吉良常』のなかの鶴田浩二」)などと述べ、ギリシア悲劇にも通じる構成と絶賛されるなど、名声を高めていく。同年、『日本暗殺秘録』で京都市民映画祭で脚本賞を受賞。1972年(昭和47年)5月、『週刊サンケイ』に「仁義なき戦い」の連載が開始。同年9月、岡田がシナリオ作成を笠原に指示。笠原は、実在する登場人物や組関係者がどのように反応するか憶測もつかないため、映画化は実現不可能と二の足を踏んだが、岡田の強い指示で取材に着手。獄中手記を書いた美能幸三に人を介して会いに行ったが、当時の美能は8年の刑期を終え、出所してきたばかりで、現役バリバリの殺気に笠原は縮み上がり、美能からずっと太ももを触られ続けられ、美能との邂逅は二重の意味で恐怖で、1分が1時間にも感じたという。「映画なんか信用できん!」という美能の一言にその場を一目散に逃げ出したが、美能が追いかけて来て「せっかく来たのだから呉駅まで送ってやる」と言われ、道中の世間話で色々話をしているうち、戦中共に海軍の大竹海兵団にいたことが分かって美能は喜び自宅にまで招かれた。手記を書いただけに脚本家という仕事に興味を持ったようで「絶対に映画には使わない」という条件でたっぷり広島抗争の真実を聞くことが出来た。美能と酒を飲み交わし聞いた話が『仁義なき戦い』の〈核心〉であり、想像ではとても書けない奇妙なエピソードの数々と物語はここから出発する。別れ際、美能に「絶対に映画にしないんだな」と念を押されたので「しません!」と答えて帰京し、さっそく脚本に取りかかった。映画プロデューサーの日下部五朗が「美能さん、あなた、恨みを晴らすために書いたんでしょう。じゃあ、とことんやりましょう!映画ならもっと効果があがりますよ」などとけしかけ、高岩淡の度重なる懐柔交渉により、美能はようやく映画化を承諾した。こうして完成した『仁義なき戦い』は記録的大ヒットとなり、1973年(昭和48年)3月にシリーズを四部作にすることが決定した。岡田に呼び出された笠原は「第二部で、何をやりますかね」と聞くと岡田は「広島事件!」と即答。笠原は「冗談じゃないですよ、まだ広島じゃ山口組と揉めてるし、原作もまだ完成してないし、第一、複雑怪奇で作りようがないですよ、あれ」 と言って「もっと面白くなりそうなのがあるから」と、何とか山口組から逃げた。笠原は「広島事件を描くと当然神戸の山口組が登場することになり、かなり慎重な配慮と手続きをしなければ」と苦悶。その結果、第一次広島抗争を実際の時代設定より後にずらし、原作でチラッと出てくる24歳で自決する殺し屋山上光治(演者・北大路欣也)を軸に脚本を書いたのが第二部『仁義なき戦い 広島死闘篇』となる。本作も大ヒットし、東映は広島事件を書くよう笠原を説得。本人も開き直り、決死の取材で広島事件をまとめて、第四部『仁義なき戦い 頂上作戦』と合わせて物語を終結させた。笠原はこのシリーズで、暴力団抗争の中で無残に死んで行く男たちの生きざまをドキュメンタリータッチで描き、高い評価を受けた。1976年(昭和51年)、東映を退社。フリーの脚本家となる。1980年(昭和55年)、悪性腫瘍で胃の全摘手術を受ける。1981年(昭和56年) 、『二百三高地』で日本アカデミー賞の優秀脚本賞を受賞。1983年(昭和58年)、『大日本帝国』で日本アカデミー賞優秀脚本賞を受賞。1998年(平成10年)、勲四等瑞宝章を受章。2002年(平成14年)12月12日、肺炎のため東京都武蔵野市の西窪病院にて死去。享年76。


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任侠路線と実録ヤクザ路線で東映の黄金期を築き上げた脚本家・笠原和夫。生み出した作品は軒並みヒットし、高倉健を任侠映画、菅原文太をヤクザ映画のスターに押し上げた。そうしたヒットの裏側には、身銭を切っての綿密な取材と膨大な資料収集から、登場人物の設定・相関図・経歴・年表等を作り上げていくという常人には真似できない血の滲むようなプロット制作があった。濃密な人間ドラマを書き続けた笠原和夫の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。納骨堂には、もともと父の名である「笠原照夫」と刻まれていたが、和夫がこれを嫌って「倶会一處」としたという。また、左側面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2025-04-03 22:02 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)