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都留重人(1912~2006)

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都留 重人(つる しげと)

経済学者
1912年(明治45年)〜2006年(平成18年)

1912年(明治45年)、大分県宇佐市宇佐町に生まれる。都留家の家督を継いだ父の兄に子がいなかったため、伯父の養子として入籍し、都留家を継ぐ。その後、父が名古屋ガスで働いていた兼ね合いから少年時代を名古屋で過ごした。第八高等学校(現在の名古屋大学)在学中に日本の中国政策に反対する学生運動に加わり、1930年(昭和5年)には日本の中国侵入に反対して欠席届を出さずにストライキを起こしたため、治安維持法違反容疑で検挙される(反帝同盟事件)。3ヶ月後に起訴猶予で釈放されたが、大学を除籍される。これによって日本の大学に進学できなくなったため、1931年(昭和6年)に父の計らいで渡米し、ウィスコンシン州のローレンスカレッジに1年間留学。ハリー・ホワイトなどの授業を受ける。1933年(昭和8年)、ハーバード大学に移って経済学を学ぶ。同校ではJ・A・シュンペーターに師事し、集計概念の方法的検討という主題に没頭した。1935年(昭和10年)、優等賞を取得して卒業。同期でただ一人大学院に進学し、後に高名を馳せたポール・サミュエルソンと同窓生になる。1936年(昭和11年)、同大大学院で修士号を取得。1940年(昭和15年)、同大大学院で博士号 (Ph.D.) を取得。そのままハーバード大学で助手を経て講師となり、ハーバード大学から三種類の学位を受けた。しかし、1941年(昭和16年)に日米開戦が勃発したため妻らと収容所に入れられ、1942年(昭和17年)2月には大学を辞職して交換船で帰国した。帰国後、妻の伯父である木戸幸一が重光葵に頼み、外務省に嘱託として勤務。1943年(昭和18年)、旧制東京商科大学東亜経済研究所(現在の一橋大学経済研究所)の嘱託研究員となる。同年、「国民所得 概念への反省」において、生産、分配、支出の三面いずれからみても国内総生産(GDP)は同値になることを発見し、これをマクロ経済学上の原則として「三面等価の原則」と命名した。1944年(昭和19年)、前年に東京帝国大学法学部でおこなった特別講義をもとに『米国の政治と経済政策』を出版。同年6月、東條英機により意見が対立していた木戸に圧力をかける目的で解雇された上、都留に召集令状が出されて陸軍に徴兵される。そのため、都城の部隊で二等兵としての生活を送る。しかし、木戸が東條の秘書官であった赤松貞雄に頼み込み、外務省から都留のために「余人をもって替えがたし」という申し入れを陸軍に出させるように取り計らい、3か月で除隊となった。その後は外務省勤務となり、1945年(昭和20年)ソ連へ出張後に終戦を迎える。戦後は東京裁判に立ち会い、木戸に「自己の無罪を立証することが天皇の無罪につながる」という助言を行った。1946年(昭和21年)、連合国軍最高司令官総司令部経済科学局調査統計課に勤務。同年6月、鶴見俊輔、鶴見和子、丸山真男、渡辺慧らと「思想の科学研究会」を結成し、雑誌『思想の科学』を創刊した。1947年(昭和22年)、片山哲内閣の下で経済安定本部総合調整委員会副委員長(次官級待遇)に就任。第1回経済白書『経済実相報告書』を執筆した。また、終戦直後の経済的混乱の立て直しを行うため、日本のインフレ抑制に助力したが共産党から反対された。1948年(昭和23年)、東京商科大学(現在の一橋大学)教授に就任。同時に、自宅で社会人を対象にした「背広ゼミ」を開始。1949年(昭和24年)、中山伊知郎の後任として、新制一橋大学経済研究所の初代所長に就任。1950年(昭和25年)、第2期日本学術会議会員となる。1951年(昭和26年)、「所得と富」学会の第1回会議の出席のため渡仏し、戦後初の海外出張となる。1956年(昭和31年)、一橋大学経済研究所長を退任。同年、ハーバード大学客員教授となる。1957年(昭和32年)、冷戦下の赤狩り(マッカーシズム)の中にあったアメリカに滞在していた都留は、留学当時の学友で後にカナダの外交官となったエドガートン・ハーバート・ノーマンについて、上院の喚問を受ける。このとき、留学当時は共産主義者であったことを告白。これが元で、エドガートン・ハーバート・ノーマンはカイロにあるホテルの屋上から投身自殺を図った。1959年(昭和34年)、ポール・サミュエルソンの来日に伴い、通訳と案内を担当。1960年(昭和35年)、イェール大学の客員教授となる。1963年(昭和38年)、宮本憲一や柴田徳衛らと統計研究会に「公害研究委員会」を発足。高度経済成長時代の公害問題を経済学者の立場から積極的に発言し、会自体は後に日本環境会議の母体となった。1965年(昭和40年)、伊大知良太郎の後任として再び一橋大学経済研究所所長に就任し、1967年(昭和42年)まで務めた。1970年(昭和45年)、東京で「ISSC公害シンポジウム」を開催。1971年(昭和46年)、雑誌『公害研究』(現在の『環境と公害』)を創刊。1972年(昭和47年)、一橋大学の学長に就任。当時、学園紛争で学長のなり手がおらず、3年間にわたり学長不在が続いていたため、一橋出身者以外からは初となる抜擢となった。しかし、後に一橋出身ではないとして批判を受けるようになり、1975年(昭和50年)に退官。一橋大学名誉教授となった。同年、朝日新聞社の論説顧問となり、約10年間にわたり務める。1977年(昭和52年)、第10代国際経済学連合(IEA)会長に日本人として初めて選出。1980年(昭和55年) 、コメンドトーレ勲章を受章。1985年(昭和60年)、ハーバード大学から日本人として2人目となる名誉学位を授与される。1986年(昭和61年)、明治学院大学の教授に就任。在職中は国際学部の創設に尽力し、また教え子の伊東光晴(当時京都大学教授)や関根友彦(当時ヨーク大学教授)の招聘などを検討していたが、やがて学内対立で、教え子の宮崎義一教授(京都大学名誉教授)などの擁護も虚しく、1990年(平成2年)に明治学院大学を辞職した。同年、日本学士院会員に選出。2005年(平成17年)1月、前立腺癌を発症。同年12月には出血して尿毒症も併発したが、手がけていた仕事の校正が終わるまで入院はしないと言い張り、2006年(平成18年) 1月12日に東京都港区の病院へ入院。同年2月5日午前1時42分、前立腺癌による呼吸不全のため死去。享年93。


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経済学者として「三面等価の原則」を提唱し、第1回「経済白書」を書き上げるなど、戦後の日本経済の礎を築いた都留重人。ヨーゼフ・シュンペーターに師事し、ポール・サミュエルソンと同じ学舎で学んだことを通し、比較経済体制論の分析、成長至上主義への批判などの足跡を残した。また、環境問題にも経済学の視点から積極的に発言し、従来の枠にとらわれない経済学者として幅広く活動した。日本・世界経済の外側と内側の両面から経済を論じた都留重人の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「都留家墓」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2025-03-18 22:57 | 学者・教育家 | Comments(0)