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日野原重明(1911~2017)

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日野原 重明(ひのはら しげあき)

医師
1911年(明治44年)〜2017年(平成29年)

1911年(明治44年)、山口県吉敷郡下宇野令村(現在の山口市湯田温泉)で生まれる。1913年(大正2年)、父が大分メソジスト教会に牧師として赴任したことから大分に転居。1915年(大正4年)には大分メソジスト教会から、神戸中央メソジスト教会(現在の日本基督教団神戸栄光教会)に移り、一家揃って神戸に転居した。1918年(大正7年)、神戸市諏訪山尋常小学校(現在の神戸市立こうべ小学校)に入学。7歳のときに父の影響を受けて受洗した。1921年(大正10年)、小学校5年のとき急性腎臓炎のため休学。療養中にアメリカ人宣教師の妻からピアノを習い始める。10歳のときには母が尿毒症で痙攣を起こし、主治医の適切な処置で一命を取りとめた場面を見て医師を志すようになる。1924年(大正13年)、旧制第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)に合格。しかし、入学式当日に友人と話していたところと、同校の校長に「日野原、立ちあがれ!」と突然怒鳴られ、その軍隊式の教育方針に不安を感じて退学。もう一つ合格をもらっていた関西学院中学部に入学した。在学中は、赤面恐怖症克服のため弁論部に入る。1929年(昭和4年)、旧制第三高等学校理科に進学。ここでは弁論部と文芸部に入部し、詩集や随筆集を作った。1932年(昭和7年)、京都帝国大学医学部に入学。学費は教会関係者の寄付を仰いだ。1933年(昭和8年)、結核に罹り、大学を休学する。当時父が院長を務めていた広島女学院の院長館や山口県光市虹ヶ浜で約1年間闘病生活を送った。そのため、医学部の内科教授になる夢を断念。医学を止めて音楽の道に進もうと考えるが、両親に反対された。1934年(昭和9年)、京都帝国大学医学部2年に復学。しかし、病み上がりで体調が悪く、仕事の楽な精神科医になることを考える。1937年(昭和12年)、京都帝国大学医学部を卒業。京都帝国大学医学部三内科副手に就任し、真下俊一教授の第三内科(循環器内科)に入局した。同年、徴兵検査で丙種合格。1938年(昭和13年)、北野病院や京都病院(現在の国立病院機構京都医療センター)に勤務。1939年(昭和14年)、京都帝国大学医学部大学院博士課程(心臓病学専攻)に進学。1941年(昭和16年)、東京で勝負をしたいと考え、聖路加国際病院の内科医となる。初仕事として同年7月から9月まで聖路加の軽井沢診療所に勤務。1943年(昭和18年)、心臓が収縮するとき低音がなることを発見し、「心音の研究」で京都帝国大学医学博士の学位を取得。1945年(昭和20年)、志願して大日本帝国海軍軍医少尉に任官。戸塚海軍病院や海軍衛生学校のある横浜市戸塚で訓練を受けるが、急性腎臓炎のため入院となり除隊となった。敗戦後、聖路加国際病院は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ) に接収。この折に日野原は、占領軍が図書館に持ち込んだアメリカの医学書や医学雑誌を読み、言及・引用されることが多かった医学博士のウイリアム・オスラーを師と仰ぐようになった。また、このことが予防や生活習慣の改善を重視する思想に繋がった。1951年(昭和26年)、聖路加国際病院の内科医長に就任。同年、ウィリアム・オスラーの文献を通してアメリカ医学を知って衝撃を受けたことから、エモリー大学医学部内科に1年間留学。ポール・ビーソン教授に師事し、メイヨー・クリニックでホリスティック医療に触れる。1952年(昭和27年)、帰国。京都大学医学部第三内科学教授ポストの打診を断り、聖路加国際病院の院長補佐(研究・教育担当)に就任。また、東京看護教育模範学院(現在の日本赤十字看護大学)講師、東京文化学園(現在の新渡戸文化短期大学)講師、医師国家試験試験委員、医師研修審議会委員なども務める。1953年(昭和28年)、国際基督教大学の教授に就任。以後4年間「社会衛生学」などを講じつつ同大学診療所顧問なども務める。その傍ら、当時の聖路加国際病院の橋本寛敏院長と、国立東京第一病院(現在の国立国際医療研究センター)の坂口康蔵元院長が「病気を治す」ではなく「病気にならないこと」に注目したことを受け、内科医長として国立東京第一の小山善之医長と組んで予防医療の制度立ち上げに奔走。血圧測定、血液検査、検尿、心電図、レントゲンといった健康診断の定番メニューを固めた一方、健康保険の対象にしてもらうため、東京・乃木坂にある健康保険組合連合会の本部にも通い、1954年(昭和29年)9月に1泊2日の「短期入院精密身体検査」を開始した。その後、これを聞きつけた新聞記者が船を点検・修理するドックからの連想で「人間ドック」と書いたことで人間ドックという呼び方が定着し、1950年代半ばには医療学会の論文にも登場するようになった。1957年(昭和32年)、当時の首相だった石橋湛山が脳梗塞で倒れ、石橋の主治医を務めた。1970年(昭和45年)、福岡での内科学会への途上でよど号ハイジャック事件に遭い、4日間拘束される。このとき、犯人に頼まれ同乗していた吉利和(東京大学医学部教授)と体調を崩した乗客の診察を行った。同年4月3日に韓国の金浦国際空港で解放されたが、この事件を契機に「これからの人生はいわば与えられた人生。だから人のため、社会のために身を捧げよう」と思い立ち、自己の内科医としての名声を追求する生き方を止めた。同年、学校法人津田塾大学評議員に就任。また、文部省医学視学委員となる。1971年(昭和46年)、聖路加看護大学(現在の聖路加国際大学)副学長および教授に就任する。1973年(昭和48年)、財団法人ライフ・プランニング・センターを設立し、理事長に就任。当時財団法人日本船舶振興会(現在の日本財団)の会長だった笹川良一が、自らの主治医であった日野原の「予防医学」に共鳴し、センターの活動資金として3億6000万円を拠出、さらに東京都港区にある笹川記念館の11階フロアを権利金・敷金なしで貸した。この頃から、癌、心疾患、脳血管疾患といった主に成人期に発症しやすい生活習慣や遺伝などが関与する慢性疾患の総称である「成人病」を「生活習慣病」と変えるよう進言し、正しい生活習慣を身につける運動を始めるよう提唱するようになった。1974年(昭和49年)、聖路加国際病院を定年退職。死去した橋本寛敏前院長の後任の院長に推されたが、理事長を務めるライフ・プランニング・センターが笹川良一から援助を受けていることを問題視され、同理事長を退任するようにいわれたため院長就任を断った。同年、聖路加看護大学の第4代学長に就任。1975年(昭和50年)、文部省看護視学委員、旭川医科大学参与となる。1977年(昭和52年)、佐賀医科大学(現在の佐賀大学医学部)参与となる。1978年(昭和53年)、厚生省医療関係者審議会臨床研修部会の会長に就任。1980年(昭和55年)、聖路加国際病院の理事に就任。同年、聖路加看護大学に大学院を開設。1982年(昭和57年)、自治医科大学の客員教授となる。同年、日本医師会最高優功賞を受賞。1984年(昭和59年)、東洋人としては初の国際内科学会の会長に就任。1985年(昭和60年)、フィラデルフィア医師会日米医学科化学者賞を受賞。1986年(昭和61年)、日本バイオミュージック研究会(現在の日本音楽療法学会)初代会長に就任。1987年(昭和62年)、国際健診学会会長、医療秘書教育全国協議会初代会長、日本総合健診医学会会長に就任。1988年(昭和63年)、聖路加看護大学に国内初の大学院博士課程を設置。1989年(平成元年)、社団法人学士会の評議員となる。1991年(平成3年)、国際基督教大学の評議員となる。1992年(平成4年)、聖路加国際病院の院長に就任。この頃、病院を建て替えることが決まっていたことから、小児科病棟を除いて全室個室の病院とし、日本ではまだ少なかった緩和ケア病棟を開設。さらに、東京大空襲の際に満足な医療ができなかった経験から、災害時の拠点となる病院づくりとして、広大なロビーや礼拝堂施設を備え、全館の廊下やチャペルに酸素吸入と吸引の装置を設置。「過剰投資ではないか」という批判を抑え、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能できる病棟として整備した。同年、国際健診学会の会長に就任。また、株式会社聖路加サービスセンター第4代代表取締役となる。1993年(平成5年)、勲二等瑞宝章を受章。同年、日本で完全独立型のホスピスとして初めてピースハウス病院(現在の日野原記念ピースハウス病院)を開設。かねてより、日本の医療では患者の意向にかかわらず「延命治療」が当たり前であることに疑問を呈し、「患者は尊厳ある穏やかな死を迎えられるべきだ」という考えから「終末期医療」を1980年代から提唱。そうしたことから、「終末期を迎える患者さんにとって最後はゆったりのんびりした安らぐ場所で過ごさせてあげたい。できれば日本の心のふるさとの富士山が見える場所がいい」と神奈川県足柄上郡中井町に同病院が建設され、さらに訪問看護ステーションやホスピス教育研究所も併設し、独立型ホスピスの礎を築いた。1995年(平成7年)3月20日、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が発生。院長として聖路加国際病院を開放する決断を下すと、当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施 。83歳の日野原が陣頭指揮を執って被害者640名の治療にあたったことで、同病院は被害者治療の拠点となり、朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら犠牲者を最小限に抑えることに繋がった。同年、全日本音楽療法連盟(現在の日本音楽療法学会)会長に就任。1996年(平成8年)、財団法人聖路加国際病院(一般財団法人聖路加国際メディカルセンター)の理事長に就任。また、院長を退任して聖路加国際病院名誉院長となる。同年、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所を設立し、理事長に就任。1998年(平成10年)、聖路加看護大学名誉学長及び名誉教授、医療法人真誠会の名誉理事長となる。同年、ハーバード大学公衆衛生大学院沖永客員教授に就任し、トマス・ジェファーソン大学人文科学名誉博士となった。1999年(平成11年)、文化功労者に選出。同年、全日本学士会アカデミア賞を受賞。2000年(平成12年)、財団法人笹川記念保健協力財団の会長に就任。また、財団法人ライフ・プランニング・センターに新老人の会を設立し、会長に就任。「愛し愛されること(to love)」、「新しいことを創めること(to commence)」、「耐えること(to endure)」の3つのスローガンと、「子どもたちに平和と愛の大切さを伝える」という使命を掲げ、75歳以上をシニア会員、60~74歳をジュニア会員、20~59歳をサポート会員として、全国に支部を作り上げた。一方、レオ・バスカーリア作のベストセラーとなった絵本『葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜』の舞台化に際し、企画・原案を担当した。同年、日本パブリック・リレーションズ協会日本PR大賞社会部門賞を受賞。2001年(平成13年)、日本音楽療法学会初代理事長、株式会社ウェル・ビーイングの顧問となる。同年、『生きかた上手』を出版し、総計350万部のベストセラーとなる。2002年(平成14年)、マックマスター大学名誉博士となる。同年、経済界大賞特別賞を受賞。2003年(平成15年)、小学校に出向き、いじめをなくすということ、他人を許すということ、いのちの大切さやその使い方、平和について子どもたちに教える「いのちの授業」をスタートさせる。同年、佐賀大学医学部の顧問に就任。また、NHK放送文化賞、朝日新聞社朝日社会福祉賞を受賞。2004年(平成16年)、日本栄養療法推進協議会の理事長に就任。2005年(平成17年)、文化勲章を受章。2006年(平成18年)、社団法人日本循環器学会名誉会員、関西学院大学名誉博士、社団法人日本スポーツ吹矢協会最高顧問となる。2007年(平成19年)、日本ユニセフ協会の大使に任命。同年、有限責任中間法人日本総合健診医学会理事長に就任する。2008年(平成20年)、広島女学院大学で客員教授を務める。同年、関西学院初等部教育特別顧問、地方独立行政法人佐賀県立病院好生館顧問、日本ハンドベル連盟理事長に就任。2009年(平成21年)、聖トマス大学日本グリーフケア研究所名誉所長となる。2010年(平成22年)、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、世界宣教東京大会顧問、公益社団法人難病の子どもとその家族へ夢を最高顧問、医療法人名古屋澄心会名古屋ハートセンター顧問に就任。同年、コルチャック功労賞を受賞。2011年(平成23年)、日本禁煙科学会賞を受賞。2012年(平成24年)、ティーペック株式会社優秀糖尿病臨床医ネットワークサービス特別顧問となり、第12回日本音楽療法学会学術大会大会長、農林水産省みどりの特別大使を務めた。2013年(平成25年)、オーストリアのアルベルト・シュヴァイツァー協会からアルベルト・シュヴァイツァー章を贈られる。2014年(平成26年)5月、血中に大腸菌があり入院。4日で回復したものの念の為に検査をしたら大動脈弁狭窄症を発見した。高齢のために手術は難しく、これを避ける為に移動のみ車椅子を使用していると、朝日新聞に連載していたコラム「102歳私の証あるがま’行く」 内で公言した。2015年(平成27年)、女子サッカー、日本-イングランドの観戦時に気分が悪くなり、聖路加で検査した結果、心房細動が発見された。晩年も100歳を超えてスケジュールは2、3年先まで一杯という多忙な日々を送り、乗り物でのわずかな移動時間も原稿執筆に使い、日々の睡眠時間は5時間、週に1度は徹夜をするという生活だったが、2016年(平成18年)頃から体力が落ち、講演などの仕事を断り、公の場にはほとんど出なくなっていった。2017年(平成29年)1月、自宅で転倒。同年3月には体調不良で入院し、消化機能の衰えと嚥下機能が低下していたため、主治医から日野原本人に体に管を入れて栄養を取る経管栄養や胃ろうなどを希望するかどうか尋ねると、「延命を望まない」「自宅に帰りたい」という意思を示した。退院後は自宅で家族の介護と聖路加国際病院のチームケアを受けながら療養を続けていたが、同年7月18日午前6時33分、東京都世田谷区の自宅で呼吸不全により死去。享年107。没後、従三位が叙位された。


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105歳の天寿を全うした医師・日野原重明。100歳を超えても現役の医師として現場に立ち続けた為、そのことばかりがクローズアップされがちだが、早くから予防医療や終末期医療の重要性を訴え、その普及に尽くした。中でも、「成人病」と呼ばれていた総称を「生活習慣病」に変えるよう提唱し、やがて国もその呼称へと変更するようになったことは、彼の功績として特筆すべき点である。一方、一部の訃報記事で「日本で最初の人間ドックを開設した」とあったが、聖路加国際病院が開設する数ヶ月前に現在の国立国際医療研究センター病院)が人間ドックをスタートさせており、日野原の経歴を紹介するうえでは誤りといえよう。このほか看護教育にも尽力し、その長い生涯をかけて医学・医療の発展に貢献してきた日野原重明の墓は、東京都東村山市の小平霊園と東京都府中市の多磨霊園にある。前者の墓には「日野原家」とあり、背面に墓誌が刻む。後者の墓は、聖路加国際病院に尽力した医師や看護師などが眠る「聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑」であり、ぐるっと刻まれた納骨者の中に日野原重明の名も刻まれている。

by oku-taka | 2025-03-11 23:28 | 医師 | Comments(0)