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猿橋勝子(1920~2007)

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猿橋 勝子(さるはし かつこ)

地球科学者
1920年(大正9年)〜2007年(平成19年)

1920年(大正9年)、東京府東京市芝区(現在の港区)白金三光町に生まれる。東京府立第六高等女学校(現在の東京都立三田高等学校)を卒業後、一旦は生命保険会社に就職するものの、勉学への思いを断ちがたく、1941年(昭和16年)に医者を目指して東京女子医専(現在の東京女子医科大学)を受験。しかし、女医として憧れていた吉岡彌生(東京女子医専創立者)の面接試験で発せられた大人気ない発言に大きな失望を味わう。試験後、偶然にも当時新設されたばかりの帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学理学部)のビラを受け取り、本来好きだった数学や物理学の道へと方向転換すべく、同校を受験して入学に至った。在学中に中央気象台研究部(現在の気象庁気象研究所)の三宅泰雄の指導を受ける。1943年(昭和18年)、帝国女子理学専門学校を卒業。この頃は戦時下で理系女子は軍関係の仕事に就いていったが、戦争に協力するのを拒んだ猿橋は、三宅の紹介で中央気象台研究部に勤務。紫外線の研究に取り組んだ後、主体研究としてオゾン層の解析に取り組み、「大気中オゾン層の形成に関する光化学的理論」および「大気オゾンの年変化と子午線分布に関する理論」という三宅との2編の共著論文として、日本気象学会誌『気象集誌第2輯』に掲載された。次に、淡水中と海水中の炭酸物質の平衡研究に取り組み、イギリスのエドワード・コンウェイが開発した微量拡散分析法を応用して正確に炭酸物質を定量した。猿橋はこの研究を2編の単著論文として「日本化学雑誌』に投稿。一方、水中の炭酸物質の量は試水の水温や酸性度、共存する他の電解質などと複雑な関係にあることから、最新の信頼し得る平衡定数を用いて、淡水及び海水について種々の水温、酸性度、塩素量を与えれば、遊離炭酸、炭酸水素イオン、炭酸イオンの各濃度を知ることのできる表を作成。これは「サルハシの表」と呼ばれ、国際的に高い評価を得た。また、自ら微量分析装置も開発。「微量分析の達人」として知る人ぞ知る存在となった。1954年(昭和29年)、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験に、爆心地から 160kmのところで日本の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が遭遇して被爆。大量に浴びた「死の灰」には、ビキニ環礁を形成している炭酸カルシウムが含まれていることが分かり、当時炭酸物質の微量拡散分析法で名が知られていた猿橋に協力の依頼が来る。これを契機とし、「死の灰」による放射能汚染の海洋調査を三宅とともに独自で実施。第五福竜丸で採取された「死の灰」が珊瑚礁のかけらである炭酸カルシウムからなることを証明した。1957年(昭和32年)、「天然水中の炭酸物質の行動について」で理学博士の学位取得(東京大学) し、化学系で女性初の理学博士となる。1958年(昭和33年)、「日本婦人科学者の会」の創立者のひとりとなる。1960年(昭和35年)、カリフォルニア大学サンディエゴ校スクリップス海洋研究所のセオドア・フォルサムらは、南カリフォルニアの海水中のセシウム137の濃度をネイチャー誌に発表した。一方、三宅・猿橋らは日本近海におけるセシウム137の濃度を報告し、その値はフォルサムらの報告した値よりも10~50倍の高さを示した。三宅・猿橋らは日米における測定値の差を海流の解析によって説明したが、海水で希釈されるので放射能汚染の心配はないとして核実験の安全性を主張していたアメリカを初めとした科学者からは猿橋らの測定を誤りだとして批判が起こった。そこで、三宅はアメリカ原子力委員会に同一の海水を用いた日米の相互検定を申し入れ、1962年(昭和37年)から約1年間、猿橋は放射能分析法の相互比較を目的としてスクリップス海洋研究所に招聘され、フォルサムとの間で微量放射性物質に対する分析測定法の精度を競うこととなった。さっそく与えられた試料の放射性核種の分析にあたったが、極微量の放射性物質を分析するには濃縮の必要があり、スクリップス研究所は「フェロシアン化ニッケル吸着法(NIFER 法)」を、猿橋は日本で開発した「リンモリプデン酸アンモニウム沈殿法(AMP 法)」を用いて放射性物質を濃縮した。不利な闘いであったにもかかわらず、猿橋は周到にセシウム 134の濃縮を行い、最終的に正確な分析結果を導き出してアメリカチームを圧倒した。フォルサムは猿橋の分析を認めて高く評価するようになり、日米の測定法の相互比較の結果は共著として発表されることとなった。その研究成果は、1963年(昭和38年)の部分的核実験禁止条約成立に繋がった。1964年(昭和39年)、「大気および海洋における人工放射能の研究」で運輸大臣表彰、また「海水中の放射性核種の分析法」で放射線影響協会研究奨励助成金を受けた。1970年(昭和45年) 、日本学術会議の水地球化学・生物地球化学国際会議組織委員会の委員に就任。1974年(昭和49年)4月、気象研究所地球化学研究部第2研究室長に就任。1979年(昭和54年)4月には、女性として初めて同研究部長に就任した。同年、原子力連絡会議委員や海洋開発審議会専門委員に就任。1980年(昭和55年)、気象庁気象研究所を定年退官するにあたって集まった寄付金をもとに「女性科学者に明るい未来をの会」を設立。自ら専務理事となって発足から自身の死去までその運営にあたった。同年、女性で初めて日本学術会議会員に選出。1981年(昭和56年)、女性科学者を表彰する「猿橋賞」を創設。同年、女性研究者に贈られる「エイボン女性大賞」を受賞。1985年(昭和60年)、「放射性及び親生元素の海洋化学的研究」によって日本地球化学協会から第13回三宅賞を受賞。1993年(平成5年)、長年の海水化学の進歩への貢献によって日本海水学会から田中賞(功労賞)を贈られる。2007年(平成19年)9月29日、間質性肺炎のため東京都内の病院で死去。享年87。


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日本における女性科学者の草分け的存在であった猿橋勝子。猿橋の名を広く世に知らしめたのは、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験であった。「大規模な核実験の影響が日本にも及んでいるのではないか」という不安の声を科学的な根拠で裏付け、日本だけでなく世界中の海が放射能に汚染されていると発表。これにアメリカは激怒し、6ヶ月にわたる分析競争の末、アメリカ側が猿橋の研究結果を認めるに至った。この出来事を、物理学者の米沢富美子は「敗戦国日本の女性科学者の挑戦にアメリカは敗れた」と評したが、まさにその通りであると強く共感する。また、後年には「猿橋賞」を創設し、歴代受賞者の中から女性物理学会や地震学会の会長に選出されるなど、女性科学者の地位向上の原動力となった。放射能汚染研究で世界的な業績を上げ、女性が科学をリードする時代をも創った猿橋勝子の墓は、東京都東村山市の小平霊園にある。洋型の墓には「猿橋家」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「慈教院勝譽聡香善大姉」。

by oku-taka | 2025-03-03 01:10 | 学者・教育家 | Comments(0)