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肝付兼太(1935~2016)

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肝付 兼太(きもつき かねた)

声優
1935年(昭和10年)〜2016年(平成28年)

1935年(昭和10年)、鹿児島県揖宿郡喜入村(現在の鹿児島市喜入町)に生まれる。本名は、肝付 兼正(きもつき かねまさ)。3歳のときに鹿児島を離れ、4歳ぐらいまで東京府東京市中野区(現在の東京都中野区)に住み、その後は東京府東京市板橋区(現在の東京都板橋区)で育った。戦時中は群馬県利根郡水上村(現在のみなかみ町)湯檜曽に学童集団疎開し、その後、山梨県中巨摩郡竜王村(現在の甲斐市)に疎開した。当時は内向的で気弱な性格で、着いた夜から東京の両親を慕って涙を流し、毎夜泣き明かして暮らしていた肝付をもてあまし、教師は肝付を両親の元へ帰した。終戦後は陽気で明るく、よくお喋りする性格の少年に一変し、町中を駆け回り、遊び仲間を集めては、疎開先のラジオで覚えた落語や、街で見かけていたGIの真似をしておどけ、皆を笑わせるようになった。中学へ進学するにあたり、私立中学を受験したが失敗。その一方で映画俳優への夢もあり、2回ほどオーディションを受けたことがあった。中学2年生の時に、木下惠介監督の映画『少年期』のオーディションに行って第2次まで受かったが、落選。その後、気を紛らわすためにラジオドラマを聞いており、NHKの『話の泉』という番組の公開録画を見に行った折「この場所で仕事が出来たら…」と思ったのがきっかけで映画俳優を志す。しかし、祖母から「映画俳優をやれる容姿ではない」と諭され、顔出しよりもラジオドラマで声のみで出演する「声優」の仕事を目指すようになる。その後、帝京中学校・高等学校に進学し、在学時に自ら演劇部を設立。その演劇部で木下順二の『夕鶴』を上演したのがきっかけで芝居の道へ進む。高校卒業後は父親の他界により大学進学を断念。ラジオ東京(現在のTBS)放送劇団の第4期生の募集に応募するが落選し、髙島屋に勤務しながら劇団七曜会に入団した。当時、七曜会がNHKの仕事に積極的に取り組んでいたため、それが縁でNHKのラジオドラマに出演するようになり、役者として食べていくという自分の気持ちを確固たるものにするため、高島屋を退社した。1956年(昭和31年)、『こぶしの花の咲くころ』(家城巳代治監督)で映画デビュー。当時はまだ劇団の研究生で本名の「肝付兼正」として床屋の青年役で出演した。ラジオドラマデビューは、主婦向けの昼の番組『婦人の時間』(NHK)で、クリーニング屋の御用聞きの役。アフレコデビューは、海外ドラマ『地方検事』(TBS)での暴走族の役。一方、声優としてデビューした後も金欠だったことにより、1964年(昭和39年)頃には仲間を集めて自ら設立した旅行会社の添乗員、宴会の司会者や靴磨き、歯科医などを掛け持ちでアルバイトをしていた。七曜会が解散した後は、青野武と共に日生劇場のこけら落とし公演のオーディションを受けて合格。七曜会から分裂した劇団作品座の所属を経て、TBS放送劇団出身の千葉耕市がプロダクションを建てるために役者集めをしていたところに誘われ、そのプロダクションに所属した。1965年(昭和40年)、TBS版の『オバケのQ太郎』のゴジラ役でアニメのレギュラーを獲得。この作品で、「スタジオの外だと面白いのに、中だとつまらない」とマネージャーから言われ、第4話収録時に開き直ってアドリブを入れまくったところ、それを見学に来ていた原作者の藤子不二雄が手を叩いて喜び気に入ったことがきっかけとなり、藤子指名で役を貰うこともあったほか、指名していない作品も制作時に藤子から「肝付さんは何をやるんですか」と聞くことがあるほど、藤子作品にはほとんど出演した。1973年(昭和48年)放送の『ジャングル黒べえ』では初主役となる黒べえを演じた。1979年(昭和54年)からはテレビ朝日版の『ドラえもん』で骨川スネ夫の声を26年間担当した。その一方、1980年代の小劇場ブームの時に、北村想の作品『寿歌』と出会い衝撃を受ける。自身も演劇をやりたいと強く思い、紀伊國屋で北村の『十一人の少年』の台本を見つけ「この戯曲の上演をしたい」と考えて許可を取り、当時講師をしていた養成所の若者を集め、1983年(昭和58年)9月に劇団がらくた工房、ぷろだくしょんバオバブを離れて、劇団21世紀FOXを結成した。劇団では演出、構成を手がけるだけでなく、若手俳優の育成指導にもあたった。1985年(昭和60年)11月から12月にかけて喉の手術のため入院。手術の際、自分の声が綺麗になってしまうことを恐れ、ポリープをピンセットで潰した。2004年(平成16年)にニトロプラスから発売されたドラマCD『鬼哭街』では「ディレクション」(演出)としてクレジットされているが、出演はしていない。2005年(平成17年)、第14回日本映画批評家大賞で、『ドラえもん』のオリジナルレギュラー陣(大山のぶ代、小原乃梨子、野村道子、たてかべ和也の4人)とともに田山力哉賞を受賞。さらに2006年(平成18年)11月、第11回アニメーション神戸で同じくオリジナルレギュラー陣4人とともに特別賞を受賞。2007年(平成19年)3月には東京国際アニメフェア2007で、同じくオリジナルレギュラー陣4人とともに第3回功労賞を受賞した。2010年(平成22年)、医師から肺癌と告知され、手術を受ける。2012年(平成24年)、第六回声優アワード「功労賞」を受賞。2016年(平成28年)5月頃に体調を崩し、都内の病院で肺炎と診断される。その後は何度か検査入院し、退院後も声優活動をしていたが、同年10月に体調が悪化。10月20日、肺炎のため死去。享年80。


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独特の甲高い声で印象的なキャラクターを多く演じた肝付兼太。藤子不二雄の作品には必ずといっていいほど出演し、代表作『ドラえもん』の骨川スネ夫役を26年にわたって担当した。そのほか『おそ松くん』のイヤミ、『ドカベン』の殿馬一人、『それいけ!アンパンマン』のホラーマンなど、当たり役のほとんどが濃いキャラクターであったが、落ち着いた『銀河鉄道999』の車掌役なども担当し、役の幅広さを見せつけた。また、アドリブの天才としても知られ、『ドラえもん』スネ夫の「のび太のくせに生意気だ」や、『キテレツ大百科』苅野勉三の訛り口調など、各キャラの代名詞的セリフは肝付によるアドリブから生まれたものであった。まさに、昭和のアニメ史そのものというべき活躍をみせた肝付兼太の墓は、東京都あきる野市の西多摩霊園にある。洋型の墓には、薔薇の絵と「肝付家」、背面に墓誌が刻む。戒名は「釋兼聲」。

by oku-taka | 2025-01-26 20:42 | アニメーション関係 | Comments(0)