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久我美子(1931~2024)

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久我 美子(くが よしこ)

女優
1931年(昭和6年)〜2024年(令和6年)

1931年(昭和6年)、侯爵、貴族院議員久我通顕の長女として、東京府東京市牛込(現在の東京都新宿区牛込)に生まれる。本名は、小野田 美子(おのだ はるこ)。旧姓は、久我(こが)。久我家は村上天皇まで遡る村上源氏の流れを汲む清華家の家格であり、華族の家柄である。しかし、当時の久我家は世間知らずの祖父・久我常通と父親が、高利貸しに金を借りて慣れぬ事業に手を出して失敗し家屋敷を押さえられた上に、その窮状を詐欺グループに付け込まれ、1932年(昭和7年)自邸内に事務所を置かせた欠食児童同情協会の寄付金詐欺事件で新聞沙汰になり、警視庁から厳しい取り調べを受けるなど、経済的に追い詰められていた。詐欺事件以降も久我侯爵家の生活苦は変わらず、常通は、破綻した「東日本炭砿」の取締役を一時務めていたほか、運送・倉庫会社の設立にも関わった。常通の事業失敗により、伯母(常通長女)の三千子は当時70歳の北海道の高利貸し・五十嵐佐市に嫁いだ。常通の弟で男爵久我通保の長男・久我通政も、1933年(昭和8年)に家出後の生活苦から詐欺まがいの行為を行い警察から取り調べを受けたことで翌年廃嫡された。彼の弟で家督を継いだ次男の通武(戦後は農林省キャリア官僚として活躍)も共産思想に染まり、1934年(昭和9年)に多くの華族子弟と共に宗秩寮から懲戒を受けた。このように戦前から久我家一族は分家も含め経済苦等による醜聞に次々と見舞われており、美子が戦後に映画界にデビューする前からすでに実家筋の評判は芳しくなかった。戦後になると華族制度が廃止となり、ますます実家の生活が悪化することを憂慮した美子は、家計を助けるため職につきたい一心から第一期東宝ニューフェイスに応募。見事合格となるも、実家からは「久我家の体面を汚す」と猛反対された。結局美子が「久我(こが)」姓を名乗らないことと、戸籍を母の兄の養子先である池田家に移すことを条件に芸能活動を許された。そのため、当初は池田 美子(はるこ)の名前で東宝に入ったが、東宝の希望で久我 美子(くが・よしこ)となる。1946年(昭和21年)7月、女子学習院を中退して東宝演技研究所に入所。養成期間を経て、10月に専属俳優となる。この頃、第2次東宝大争議の真っ只中で、主演級のスターが相次いで脱退したため、新人にも出演機会がめぐってくることになり、美子も製作再開第1作のオムニバス映画『四つの恋の物語』の第1話、豊田四郎監督「初恋」のヒロインに大抜擢された。同年3月には華族世襲財産法の廃止により、戸籍を元の久我姓に戻した。その後、成瀬巳喜男監督『春のめざめ』でも再び主役に起用され、1948年(昭和23年)には黒澤明監督『酔いどれ天使』に出演。同年4月には第3次東宝争議で東宝の俳優たちは独自の活動を余儀なくされ、美子も自立俳優クラブに参加する傍ら、成瀬が東横映画で撮った『不良少女』に主演。その後、松竹の渋谷実監督『朱唇いまだ消えず』、東宝の谷口千吉監督『ジャコ万と鉄』などに出演。1950年(昭和25年)にはロマン・ロランの反戦小説『ピエールとリュース』を水木洋子と八住利雄が翻案・脚色し、フリーになった今井正が監督した『また逢う日まで』に主演。戦争によって引き裂かれた恋人の姿を描き、入隊目前の大学生に扮した岡田英次とのガラス越しのキスシーンは大いに話題となった。その後、溝口健二監督『雪夫人繪圖』、黒澤監督『白痴』への出演を経て、1951年(昭和26年)に自立俳優クラブを離れて大映の専属となる。1952年(昭和27年)には市川崑監督の『あの手この手』に出演し、恐妻家の叔父の家庭での主権を回復すべく奔走する“アコちゃん”なる末恐ろしい家出娘を快演し、コメディエンヌとしての才能も開花させた。1954年(昭和29年)、フリーとなり、木下惠介監督の『女の園』をはじめ、島耕二監督『風立ちぬ』、溝口監督『噂の女』など様々なタイプの作品に主演または助演。特に『女の園』、『この広い空のどこかに』、『悪の愉しさ』、『億万長者』での演技が認められ、毎日映画コンクール女優助演賞を受賞した。この『女の園』撮影中、岸と美子は「女だけのプロダクションをつくろう」と意気投合。「でも二人だけじゃ寂しいわね」と美子が言うと、岸は「有馬稲子っていう威勢のいい人がいるじゃない」と提案し、同年4月16日に3人は「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立した。資本金は50万円(当時)、代表取締役社長は、「改造社」出身で岸の従姉の夫にあたる若槻繁、設立目的は「俳優のための映画の企画をする(自由に映画を創る)」ためとした。本来は、3人らが決めた「にんじんくらぶ」を社名としたかったのだが、プロダクションであるということを説明する必要上、肩書きが付け加えられ「文芸プロダクションにんじんくらぶ」の名称で登記された。当初は、3人を中心とした俳優のマネジメントを業務とする予定だったが、やりたい作品を実現させるための製作費については自ら拠出することが条件となったため、会社の定款に当初なかった「映画製作」を付け加えることとなり、独立系映画制作プロダクションとして活動した。一方、美子は主演の機会は減りつつも、1956年(昭和31年)には、木下監督『夕やけ雲』『太陽とバラ』、久松監督『女囚とともに』の演技でブルーリボン賞助演女優賞を受賞。1957年(昭和32年)、五所平之助監督による、原田康子のベストセラー小説の映画化『挽歌』で久々に主演を務め、興行的に成功をおさめた。また、美子のファンであった稲垣浩監督に起用され、『柳生武芸帳』に出演。時代劇でもその演技力が発揮され、1961年(昭和36年)には同じ稲垣監督の『大坂城物語』にも出演した。この作品で共演した平田昭彦は、『酔いどれ天使』を観て以来ずっと美子に憧れを抱いており、美子は俳優と結婚する気はなかったが、平田からの猛烈な求愛の末に交際をスタート。撮影中は毎朝ロケ地の宿泊先前の喫茶店でデートを重ねたが、スタッフや共演者たちは誰も冷やかさず、週刊誌などにもゴシップとして漏らさなかったのは、平田の日頃からの人柄の良さゆえのことであった。同年秋、2人は帝国ホテルで結婚式を挙げた。また、日本テレビ『石庭』を皮切りに、次第に活動の場をテレビに移す。舞台も1964年(昭和39年)の『シラノ・ド・ベルジュラック』のロクサーヌ役で初舞台を踏んだ。1969年(昭和44年)、『3時のあなた』の司会を約1年間務める。1970年代以降はテレビ・舞台を中心に活躍。平田とのおしどり夫婦ぶりも広く知られ、2人でバラエティー番組に出演したりしていたが、1984年(昭和59年)7月25日に平田が56歳で死去。1989年(平成元年)、五社英雄監督『226』で20年ぶりの映画出演を果たした後、大森一樹監督の『ゴジラvsビオランテ』では亡き夫・平田の遺志を受け継いで女性官房長官役で出演。当時史上初の女性官房長官である森山眞弓とシンクロしたことが報道された。その後も女優活動を続けたが、2000年(平成12年)公開の映画『川の流れのように』以降はほとんど活動休止状態となった。2004年(平成16年)、義姉にあたる女優・三ツ矢歌子(久我の方が年上)死去の際、久々に公の場に姿を見せた。晩年は養護施設で暮らし、亡くなる直前まで元気だったが、2024年(令和6年)6月9日、誤嚥性肺炎のため死去。享年93。


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日本映画史に燦然と輝くヒロイン女優の一人であった久我美子。由緒ある華族の家柄に生まれながら、困窮する家庭を助けるために映画界ヘ。家族の反対に遭いながらも、その可憐な容姿と演技力は数々の名監督達がこぞって自らの作品に起用するほど確かなもので、戦後の日本映画黄金期を支える名女優となった。そんな彼女に惚れ、猛アタックの末に夫の座を射止めたのが平田昭彦だったが、56歳の若さで病死。夫を早くに亡くした久我美子は、次第に芸能界からも遠ざかっていったが、波乱な生涯を歩んできただけに、その晩年は穏やかな生活を送れたのであろうと思いたい。平田昭彦の死から40年、93歳という大往生を遂げて平田の待つ黄泉へと旅立った久我美子の墓は、東京都八王子市の善能寺にある。 墓には「南元阿弥陀佛 小野田家」とあり、右側面に墓誌が刻む。 戒名は「真妙院釋尼香美」。

by oku-taka | 2025-01-12 18:59 | 俳優・女優 | Comments(0)