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黒川利雄(1897~1988)

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黒川 利雄(くろかわ としお)

医師
1897年(明治30年)〜1988年(昭和63年)

1897年(明治30年)、北海道空知郡三笠山村大字幾春別(現在の三笠市幾春別町)に生まれる。実際の誕生日は、前年の12月25日だが、年末の多忙、深い積雪のせいで届出が年を越したという。幾春別尋常高等小学校高等科を卒業後、父は商人にさせるため小樽の北海商業に入学させようとしたが、どうしてもその気になれず無断で私立北海中学(現在の北海高校)に願書を出して入学。1914年(大正3年)3月に同校を卒業。母と姉が結核だったことと小学校の校医に憧れたことから、同年9月に北海中学で私淑していた英語担当の佐々木哲郎先生に勧められた仙台の第二高等学校第三部医科に入学。1917年(大正6年)7月、東北帝国大学(後の東北大学)医科大学に入学。2年生のとき腸チフスに罹患し、大学付属病院に1か月半入院。その後鳴子温泉で療養したため1年留年となったが、1922年(大正11年)7月に卒業。卒業後、直ちに副手として山川内科教室(山川章太郎教授)に入局。本来は病理学を専攻したかったが、親友の内山泰(岩手医科大学病理学教授)も病理学志望だったことから競争を避けて内科を専攻した。1923年(大正12年)、関東大震災の際に東北帝国大学医学部が上野に設置した救護班(班長:山川章太郎教授)に参加し救護活動を行った。1927年(昭和2年)5月、東北帝国大学医学部の助教授に就任。また、学位論文「糖質代謝の基礎的研究、ことに血中注入後の葡萄糖の運命」で医学博士の学位を授与される。1932年(昭和7年)4月、内科学研究のため文部省官費留学生として渡独。ハイデルベルク大学(薬理学ホイプナー教授)で学んだ後、同年8月ウィーン大学(生化学フェルト教授)に移り、核酸に関する研究を行う。さらに、同大学臨床放射線学(ホルツクネヒト教授)教室でプレッサー講師の指導により消化管レ線診断学を学ぶ。1934年(昭和9年)7月に帰国後は直ちに消化管レ線診断法の改良に取り組み、瞬間狙撃撮影装置を試作、次いで連続狙撃撮影装置を完成させた。当時、胃癌の診断は専ら触診に基づいていたが、この装置によりレ線による診断を可能とした。特に胃癌をレ線診断学的に4分類し、その臨床症状と手術適応及びその予後との関係を明らかにし、手術成績向上に貢献した。同時に、レ線診断に用いる造影剤、撮影装置・方法についても改良を加えたほか、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、慢性腸重積症のレ線診断法を確立し、消化管レ線診断学の発展に寄与した。1936年(昭和11年)、山川教授との共著『消化管ノ レントゲン診断』を刊行。1939年(昭和14年)、日本消化機学会総会で特別講演「レ線像ヨリ分類サルル胃癌ノ型ト其ノ臨床的特徴」を行う。1941年(昭和16年)3月、山川教授の逝去に伴い後任教授に選考され、内科学第三講座(黒川内科教室)を主宰。1942年(昭和17年)、日本内科学会総会、日本消化機病学会総会ならびに日本外科学会総会の合同宿題報告「胃及ビ十二指腸潰瘍ノ診断」を行う。1943年(昭和18年)11月、汪兆銘(南京政府主席)夫人の陳璧君に胃癌の疑いが生じ、陸軍省医務局の依頼で極秘裡に南京に出張。その際に汪兆銘の糖尿病などについても診療を行った。1944年(昭和19年)2月、背部銃弾摘出手術を行った汪兆銘に両側下肢の運動麻痺が生じ、再度南京に赴いた。その後、名古屋帝国大学医学部外科の斎藤眞教授に応援を依頼。斎藤教授は診察を終えると、即座に汪兆銘に来日して入院するよう指示。同年3月、汪兆銘は名古屋帝大病院に入院し、詳細な再検査の結果、多発性骨髄腫と診断された。体内に残った弾を摘出したものの弾が腐蝕して悪影響を及ぼしたのが原因と考えられ、患部には腫れがあり、周囲を圧迫するところから、入院翌日には第4および第7胸椎の椎弓を切除する手術を行った。しかし、病状は悪化の一途をたどり、同年11月10日に死去。この間、延べ10ヶ月間にわたって大学を離れて汪兆銘の診療に没頭し、その間の記録を約300枚(400字詰め原稿用紙換算)残している。1948年(昭和23年)、東北大学医学部長に就任し、二期務める。1952年(昭和27年)、約6ヶ月間にわたりロックフェラー財団招聘の医学教育視察団(草間良男団長ら6名)として米国、カナダの22大学で、アメリカ医学教育の現状を視察。1957年(昭和32年)、学長選挙により初の東北大学出身者として第10代東北大学学長に就任。在任中は学長任期を2期6年とする内規を定めた。また、東北大学総合整備計画として、仙台市の「川内・青葉山地区キャンパス移動事業」を立案。川内地区に関しては、東北大学、宮城県(大沼康知事)、仙台市(島野武市長)の三者協議の結果、それぞれ33.9万平米 (48.6%)、24.1万平米 (34.5%)、2.2万平米 (3.2%) に分割された。東北大学創立50周年事業として、川内記念講堂と松下会館(松下幸之助寄贈)を建造した。一方、青葉山地区(200万平米)のほぼ半分(109万平米)は、既に農地として戦後入植した30戸の開拓者に使用されており、青葉山開拓地解放推進委員会による反対運動が生じて紛糾したが、学長として自ら農家への長期間に渡る説得活動を続けた結果、約2年後に宮城県の斡旋により立ち退きが終わり、東北大学総合整備計画が完了した。一方、1955年(昭和30年)頃から、当時黒川内科在籍の西山正治、長谷川昭衛の協力を得て、胃癌集団検診用機器の製作に着手。1958年(昭和33年)に「黒川・西山式がん診断狙撃装置」を作成した。同年8月、日本対がん協会が発足され、翌月には都道府県として初の宮城県対がん協会が設立されて初代会長に就任した。1959年(昭和34年)、1か月間にわたって西ドイツ招聘の学術視察団(兼重寛九郎団長ら10名)として渡独し、医学教育体制の現状を視察。1960年(昭和35年)、大学、医師会、自治体、経済界の協力を得て胃集団検診車「日立号」を用いた日本で最初の「宮城方式」胃がん集団検診を開始。この功績により、10年後に宮城県対がん協会は河北文化賞を受賞した。1963年(昭和38年)、東北大学の学長を退官し、同大学の名誉教授となる。同年、胃癌の研究に関する集大成を日本医学会総会特別講演「日本人の胃癌」として発表。また、癌研究会癌研究所の所長であった吉田富三の要請を受け、癌研付属病院院長に就任。その後、名誉院長として91歳で急逝するまで週二回の外来、回診などを継続した。1965年(昭和40年)、日本学士院会員に選出。同年、日米医学協力委員会の委員長に就任。1968年(昭和43年)、文化勲章を受章。また、文化功労者にも選出された。1973年(昭和48年)、第2次田中角榮内閣による「一県一医大構想」において、医科大学・医学部72校設置調査会議長としてその実現に貢献した。同年、東京都公安委員となり、以後15年間務める。1974年(昭和49年)、勲一等旭日大綬章を受章。同年、医道審議会の会長に就任。1976年(昭和51年)、尚志会(旧制第二高等学校同窓会)の会長に就任。1985年(昭和60年)、日中医学協会の会長に就任。1986年(昭和61年)、日本学士院の第19代学士院長 に就任。1987年(昭和62年)9月15日にはNHKで『100歳までフロンティア精神で―がん博士・黒川利雄―』が放送されるなど、晩年まで精力的に活躍していたが、1988年(昭和63年)2月21日午後6時12分、急性心不全のため三鷹市の杏林大学付属病院にて死去。享年91。没後、正三位を追贈された。

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今や馴染みの深いものとなった「がん検診」。このシステムを提唱し、日本初となる胃がんの集団検診を実施したのが黒川利雄である。このほか、レントゲンや内視鏡による診断法を確立するなど、日本の医療界に大きく貢献した。そうした功績は、東北大学出身者として初となる東北大学の学長就任、歴代で初となる東京大学出身以外の日本学士院長就任といった形で結実した。母と姉を結核で失ったことから歩み始めた医師としての人生、90歳になっても現役として立ち続け、「何とか2001年まで生きて、3世紀に渡って生き延びたい」と語っていたという黒川利雄の墓は、東京都八王子市の上川霊園にある。洋型の墓には「黒川家」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は、「慈光院釋利行居士」。なお、医学研究者である長男・黒川雄二も、2022年(令和4年)9月21日に亡くなっているそうである。

by oku-taka | 2025-01-01 22:31 | 医師 | Comments(0)