人気ブログランキング | 話題のタグを見る

藤沢武夫(1910~1988)

藤沢武夫(1910~1988)_f0368298_18405419.jpg

藤沢 武夫(ふじさわ たけお)

実業家
1910年(明治43年)〜1988年(昭和63年)

1910年(明治43年)、現在の茨城県結城市に生まれる。3歳のときに肺炎を患い、その後も病弱な内向的の少年として育った。加えて運動神経が鈍く、友人と外で遊ぶというよりは室内で読書にふける性格だった。1923年(大正12年)、関東大震災によって生家の広告代理店が立ち行かなくなり、借金取りに追われる生活を余儀なくされる。1928年(昭和3年)4月、旧制京華中学校に進学。その後、奨学金制度のある東京高等師範学校を受験するも失敗。病床に伏した父に代わって一家の家計を担うことになり、日雇いや「筆耕屋」(ハガキの宛名書き)など様々な職に就く。また、幹部候補生として軍隊にも入隊したが、物事を深く考えず、一方的に記憶するだけの訓練に馴染めず、1931年(昭和6年)に伍長で除隊となった。その後、2年間ほど金融や経済などについて勉強。1934年(昭和9年)、鉄が百貨店では売っていないことに目をつけ、また鉄鋼業界が学歴不問であったことから、鋼材小売店「三ツ輪商会」に入社した。折しも中国大陸での戦火拡大によって鉄の需要は拡大し、藤沢もトップセールスマンとして少しずつ頭角を現す。店主が出征してからは、事実上の経営者として手腕を発揮。出資者との交渉に成功したことで交渉の方法を体得し、さらに自分の目で市場を見てまわる実践的経営学をも体得する。1939年(昭和14年)、独立に向けて「日本機工研究所」を板橋に設立。切削工具をつくる会社として立ち上げたが、常に金策に走りまわる苦しい日々を経験。そこで、切削工具の検査にやってきた中島飛行機の技師・竹島弘に技術部門を任せ、自らは経営に専念する。1942年(昭和17年)、「三ツ輪商会」の店主が帰還するとともに退社。「日本機工研究所」一本となったが、後に戦争が激化したため福島県安達郡二本松町(現在の二本松市)に疎開。同地に工場も疎開させる予定だったが、稼働の前に終戦を迎える。終戦後も福島にとどまり製材業を営んでいたが、1948年(昭和23年)に帰京。池袋で製材業をスタートさせた。1949年(昭和24年)8月、商工省(現在の経済産業省)に転職していた本田宗一郎を紹介される。同年10月には本田技研工業の常務に就任。本田技研工業の資本金は100万円であったが、藤沢はそこに自らが用意した100万円を増資。そのお金で本田と藤沢は東京進出を決めるも、当時の経理担当者からは拒否されてしまう。そのため藤沢は、東京に進出するお金を別にかき集め、1950年(昭和25年)に本社を浜松から東京の八重洲に移し、東京進出を果たす。これを皮切りに、藤沢はホンダの財務並びに販売を一手に取り仕切るようになる。1951年(昭和26年)、東京都北区に東京工場を開設。新工場の設立は、銀行に頼らず地主との交渉により成功した。1952年(昭和27年)、専務に就任。同年3月、自転車用エンジンを搭載したカブF型の発売にあわせ、本田の懸案となっていたまともな販売網づくりに着手する。全国5,000を超える自転車販売店に「1台の定価25,000円 卸価格19,000円 代金は前金で願いたい」という本田技研工業に極めて有利な取引条件が付帯されたダイレクトメールを送付。同社の知名度が低かった当時は詐欺とも誤解されかねなかったが、早々に5,000軒もの自転車店が反応。ほどなく注文が殺到したことで、販売網を確立させた。その後、代理店や営業所から小売業務を分離し、卸専門のシステムを構築。この販売ルートはやがて四輪にも適応され、併せて修理のためのSF工場(サービス・ファクトリー)、中古車販売会社を全国へ展開して小売店をサポートしていく体制へと展開する。同年3月、埼玉県和光市に白子工場(埼玉工場)を設置。ここでも銀行に資金調達を依頼せず、地主との交渉で月賦にて工場跡地の購入に成功。雨漏りや備え付けの工作機械の修理、本田と中古の工作機械の購入・設置などを行い、2か月ほどで生産体制に入る。その後、藤沢は三菱銀行に経緯を報告し、支店長を新工場の見学に招待。以降は何でも報告するようにしたので、銀行が本田技研工業の状態を把握でき信頼を得るようになった。一方、将来を見据えて生産能力の大幅な増強を図るべく、最新鋭の輸入機械の導入するなど4.5億円にものぼる巨額の設備投資も行った。そうした結果、この年の売り上げは前年比の約8倍となる24億4千万円を記録した。しかし、1954年(昭和29年)に東京証券取引所へ株式店頭公開した頃から、カブ、スクーター「ジュノオ」、90CCの「ベンリィ」の主力商品が売れ行き不振となり、また三菱銀行からの借入金(大半が短期借入金)の返済期限が迫り、債務超過寸前に陥るなど、危うい財務政策となった。追い打ちをかけるように、3年前に発売したドリーム4Eがブレーキング時にかぶったり、停止時に勝手にエンストするというトラブルが発生。多くのクレームで販売も低迷し、資金繰りはさらに切迫する。そこで藤沢は工場に赴き、工場内で働く従業員全員を集めて会社の現状を報告。ドリーム4E型の生産を一時中断し、売上が見込まれる製品の生産に切り替えを指示した。その後、本田からエンジントラブル解決の見込みの急報を受け、5月からの改良された新しいキャブレターの生産に合わせて生産体制を絶妙なタイミングで戻していくことに成功。既に販売していたドリーム号のリコールは、すべて無償で行うことを決断する。また、製品を出荷して十数日で代金を全額回収するという手法を用い、75%を現金で、残りはユーザー自身の手形を問屋や代理店が裏判したものとした。三菱銀行にも現状を説明して頭を下げ、2億円の融資を取り付けることに成功した。その後、マスコミによる「ホンダの危機」報道の払拭と工場で働く従業員たちの士気を上げるべく、「マン島TTレース」に出場を宣言。同レースでは125ccクラスに参戦して完走し、谷口尚己が6位入賞という明るい話題を振りまくことに成功した。2年後にはマイク・ヘイルウッドの手によりマン島初優勝を記録。その翌年には1位から5位までを独占し、125ccと250ccの両方で、個人とメーカータイトルを獲得するという偉業を成し遂げた。1950年代中期に至ると初期ホンダの経営を支えた自転車後付け式のエンジンキットも同クラスの類似競合製品が増加し、カブF型も安穏としていられる状況ではなくなりつつあった。また、日本のオートバイ市場でも簡易な自転車補助エンジンに不満を持つユーザーからは、富士重工業(現在のSUBARU)製「ラビット」・中日本重工業(現在の三菱重工業)製「シルバーピジョン」に代表される125 cc - 250 ccクラスの上級スクーターが、運転しやすさや性能面のゆとりにより支持されるようになっていた。このような市場趨勢をマネジメントの見地から考慮した藤沢は、カブF型の後継モデルとなり得る廉価な実用的小排気量オートバイの開発・製造販売を考えた。藤沢は「(商品として)カブのような自転車に取り付ける商品ではなく、50 ccエンジンとボディぐるみのもの(完成車)が欲しい」と本田に訴えたが、本田は技術を担う立場からの判断で当初は「(50cc完成車として)乗れる(性能の)ものは作れない」と一蹴していた。しかし藤沢は、1956年(昭和31年)の欧州視察旅行往路旅客機中で50 cc級完成車の件を再び本田に持ちかけた。本田も最初はうるさがっていたが、藤沢の熱心さにようやく関心を持ち始め、結果として道中でクライドラーやランブレッタなどの欧州製スクーター・モペッドなどを見かけると「これはどうだ」と藤沢に尋ねるようになった。問答を重ねるうち、本田は藤沢の求める商品性の高い新製品のイメージを膨らませるようになった。帰国後には本田の陣頭指揮により新型モペッドの開発が開始され、1958年(昭和33年)6月にスーパーカブ50 として生産を開始した。1959年(昭和34年) 4月、ホンダ開発株式会社の前身となるホンダ不動産興業株式会社を設立。初代社長に就任した。その後、レースの勝利とモータースポーツの普及のために本格的なサーキットが必要であると確信した本田によるサーキット建設命令を受け、藤沢は自宅を抵当に入れるなどして推進に向けての意見をまとめ、社内にレース場建設委員会を発足。複数候補地を検討した結果、1960年(昭和35年)4月に開設したばかりの鈴鹿製作所の近隣の土地を買収することになった。1961年(昭和36年)2月、ホンダの全額出資により運営母体となるモータースポーツランド(現在のホンダモビリティランド)が設立され、同年6月にサーキット建設に着手。同年9月に鈴鹿サーキットが完成し、11月3日 - 4日にかけてオープニングレースとして第1回全日本選手権ロードレースが開催された。当時はオートバイで騒音を撒き散らすカミナリ族が社会問題化していたが、藤沢は「子供のころからエンジンを楽しむことこそが、未来の自動車環境の発展に寄与する」という理念を持ち、当初からサーキットに家族連れで楽しめる自動車遊園地を併設することを考えていた。この「モータースポーツランド構想」の下、東京都の多摩テック(1961年 - 2009年)、奈良県の生駒テック(1961年 - 1965年)、鈴鹿サーキットのモートピア(1963年 - )、埼玉県の朝霞テック(1964年 - 1973年)が順次開園した。1964年(昭和39年)、副社長に就任。派閥解消のための役員大部屋制や役員の子弟を入社させないといったシステムを構築したほか、「ホンダの社長は、技術畑出身であるべき」という方針を打ち出し、現在まで忠実に守られている。藤沢本人は、本社とは別に銀座の越後屋ビルの一室を借り、調度品にいたるまで全て黒で統一してその部屋にこもって経営戦略を練ったという。また洒落者で知られ、着流し姿で出社することもしばしばあったという。洒落た紳士的な雰囲気の一方で、仕事に対して厳しく部下の不手際を叱る際は容赦なく厳しい言葉を浴びせた。大きな目と半開きぎみの口から次々と大きな声で怒鳴る仕草から当時流行っていた怪獣映画になぞらえ「ゴジラ」とも陰で呼ばれていた。1961年(昭和36年)、藤沢と本田はホンダの株式及びそれに伴う配当金などから得た莫大な創業者利益を元に、苦学生への研究助成を行う基金として「財団法人作行会」を設立。同会が給付する奨学金・助成金に関しては、1.奨学金の用途は問わない(遊びに使おうが、生活費に使おうが自由)。2.レポートは必要ない。3.将来の進路も自由。4.返還の必要はない。5.誰が支給しているか知らせてはならない。という条件を藤沢が考案した。作行会は1983年(昭和58年)に解散するが、本田・藤沢の二人が作行会のスポンサーであったことは当時は徹底的に伏せられ、解散記念謝恩会の席で初めて二人がスポンサーであった事実が公開された。1968年(昭和43年)、本田が固執していた空冷エンジン(V型8気筒)を搭載したRA302が制作され、この年のF1フランスGPに持ち込まれたが、スポット参戦でドライブしたジョー・シュレッサーが炎上死する悲劇に見舞われた。この事故の後、ホンダはF1を撤退するのではないかとささやかれ始め、この頃社会問題になっていた大気汚染に対する市販車用低公害型エンジンの開発を理由として、シーズン終了後にF1参戦の一時休止を宣言した。1969年(昭和44年)には中村良夫(後のホンダF1チーム監督)が企画したホンダ・シビックが却下され、本田の推す空冷エンジン搭載のホンダ・1300が企画が通るなど、「走る実験室」と呼ばれたF1だけでなく市販車にまで技術的に限界のある空冷で本田は押し通そうとした。本田の理工学的な無理解、そして開発において強大な権限が本田にあって、決定が下されると技術者はそれに従うしかない状況に嫌気がさした中村は一旦辞めることを決心したが、河島喜好ら役員の「本田宗一郎はもうすぐ引退させるから」と慰留されている。1970年(昭和45年)頃には本田と若手技術者たちの間でエンジンの冷却方法について激しく対立するようになり、当時技術者であった久米是志(後の3代目社長)が辞表を残して出社拒否をしたほどであった。技術者達は副社長の藤沢に、あくまで空冷にこだわる本田の説得を依頼。藤沢は電話で本田に「あなたは社長なのか技術者なのか、どちらなんだ?」と問いただした。設立以来、経営を担ってきた他でもない藤沢のこの言葉に本田は折れ、ようやく若手技術者たちの主張を認めた。そして、1300の生産中止と共に1971年(昭和46年)の初代ライフを皮切りに、初代シビック、145と水冷エンジン搭載車が次々とホンダから送り出されるようになり、本田が執念を燃やした空冷エンジン乗用車はホンダのラインナップから消滅した。1973年(昭和48年)、後継育成を見極め、副社長を退任。本田は藤沢の決断を聞いた際に藤沢の意思をくみ取り、自らも引退を決断。創業25周年を前にして両者の現役引退は当時最高の引退劇とも評され、2人は取締役最高顧問となった。1972年(昭和47)、秋田県仙北郡に手づくり煎餅製造会社セセを創業。同地は毎年冬になると出稼ぎに出る人が多く、そういった人の中に本田技研工業の耕運機を利用しているお客がいたことから、冬でも家族の元を離れずに仕事ができるようにと、冬の間だけ稼働する工場を設立させた。しかし、採算の目途が立たず6年余りで廃業となった。1979年(昭和54年)、鈴鹿サーキットと多摩テックのマスコットキャラクター「コチラちゃん」のデザインモデルとして手塚治虫から取材を受け、同年10月に「コチラちゃん」はマスコットとして誕生した。1983年(昭和58年)、取締役を退任。その後は政財界とは距離を置き、オペラや歌舞伎などを愉しむ趣味人として余生を過ごした。隠居後は「自分は引退した老骨」と語り、社の経営に口を出す事はしなかった。1988年(昭和63年)12月30日、心筋梗塞のため死去。享年78。生前、社業に没頭し対外活動を一切行っていなかったため、生存者叙勲には縁はなく、また自身も貰うつもりはなかった。そうした藤沢の性格を熟知していたホンダの役員陣も積極的に働きかけを行っていなかった。没後、それを見かねた通産省機械情報局自動車課長の鈴木孝男(後の同省環境立地局長、三菱ふそうトラック・バス副会長)が叙勲を所管する総理府に働きかけたが、総理府は藤沢の対外活動が乏しいとして難色を示した。しかし、鈴木は粘り腰で押し切り、社葬3日前の1989年(平成元年)1月24日、贈従四位勲三等旭日中綬章の叙位叙勲が決定した。同年、本田が日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たした際、本田は授賞式を終えて帰国したその足で藤沢邸に向かい、藤沢の位牌に受賞したメダルを架け「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ。これは二人のものだ」と語りかけた。その後、藤沢も2023年(令和5年)2月10日に自動車殿堂へ加わることが運営母体により発表され、同年7月に米国自動車殿堂授賞式典で正式に殿堂入りを果たした。


藤沢武夫(1910~1988)_f0368298_18405545.jpg

藤沢武夫(1910~1988)_f0368298_18405888.jpg

藤沢武夫(1910~1988)_f0368298_18410109.jpg


ホンダを経営面から支えた藤沢武夫。技術屋で経営についてはからきし弱い本田に代わり、鋭い洞察と時代を読む力、そして大胆な発想と手腕でホンダを世界的な企業へと成長させた。しかし、当の本人は「私は経営学など勉強した事がない。何冊か手にとって読んだことはあるが、結局その逆をやれば良いんだと思った」と語っているのだから驚かされる。自らは免許を持たず、 オートバイはおろか自動車も運転しなかったが、ただひたすらに本田の才能を信じ、彼が活躍できるようお膳立てから段取りまで全て一人で整えた。それだけに、藤沢の没後アメリカの自動車殿堂入りを果たした本田が、授賞式終了後真っ先に藤沢邸に赴き、藤沢の位牌に受賞メダルを架け「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ」と語りかけたというエピソードには深い感動を覚える。本田と二人三脚で歩んだ名参謀・藤沢武夫の墓は、東京都八王子市の東京霊園にある。墓には「藤澤家」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「高輪院釋旺悠居士」。

by oku-taka | 2024-12-16 18:43 | 経済・技術者 | Comments(0)