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保田隆芳(1920~2009)

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保田 隆芳(やすだ たかよし)

競馬騎手・調教師
1920年(大正9年)〜2009年(平成21年)

1920年(大正9年)、東京府東京市神田区小川町に生まれる。生家は当時高級果物だったバナナの輸入と卸を行っており、大変裕福だった。幼稚園時分から花月園遊園地でロバに跨ることを楽しみとしていた。小学4年生のとき、中学受験の準備のため軽井沢の別荘にこもることになった兄に同伴し、この滞在中に乗馬を覚える。帰京後、両親の許可を得て下谷区根岸にあった石田乗馬倶楽部に通い始め、日本大学中学校に進学してからは週3日ほどの頻度で通うようになった。騎手への憧れを募らせた保田は、2年生になると父親を説得し、乗馬倶楽部の主・石田馬心の紹介で、東京競馬倶楽部(目黒競馬場)に所属する尾形景造(尾形藤吉)のもとに入門した。入門後、官営の下総御料牧場へ修行に出され、1年先に働いていた野平好男、後から入ってきた二本柳俊夫、勝又忠らと下積み生活を送った。3歳馬とデビュー前の4歳馬の育成に当たりながら騎乗を覚え、調教師から認められるまでは何年でも居続けなければならないところ、保田は8カ月目の11月に東京に帰され、尾形厩舎での生活を始めた。当時の日本競馬界では騎乗法は各厩舎ごとに異なり、調教の騎乗フォームでどこの厩舎の者かが一目瞭然というほどであった。特に「尾形流」は長鐙のフォームで、後方から追い込む戦法を身上としており、保田もこれを身につけるべく、兄弟子のうち特に伊藤正四郎の技術を真似ようと努めた。1936年(昭和11年)11月21日、東京競馬場の秋季開催で騎手としてデビュー。初戦は17頭立ての15着で、当年は4戦0勝に終わった。1937年(昭和12年)10月に初勝利を飾り、翌月には騎乗馬リプルスで主要競走のひとつであった五歳馬特別(東京)を制している。1938年(昭和13年)からは急速に成績を上向かせ、5月28日には牝馬アステリモアで東京優駿(日本ダービー)に初騎乗して3着。秋には当年より創設されたクラシック競走・阪神優駿牝馬に同馬で臨み、優勝を果たした。18歳8カ月でのクラシック制覇は史上最年少記録として保持されている。1939年(昭和14年)11月、テツモンで当時の最高格競走であった帝室御賞典(後の天皇賞)を制覇し、通算10勝への端緒をひらいた。また、タイレイで中山四歳牝馬特別(後の桜花賞)を制した。1941年(昭和16年)、徴兵されて歩兵第3連隊に入り、北支(中国北部)に派遣された。歩兵隊の蹄鉄工兵を経て機関銃隊に入った保田は、軍務のかたわら隊長の命令で現地の競馬にも参加し、勝利を挙げたという。同じ部隊に所属していた男性が後年執筆したエッセイ「陸軍上等兵 保田隆芳殿」によれば、保田は中隊長の乗馬の調整も担当していた。1945年(昭和20年)8月、終戦に伴い帰国し、日本競馬会が各地に人馬の疎開先として設けた支所のひとつ・盛岡育成場で保護されていた馬たちの調整にあたった。1946年(昭和21年)、競馬の再開が決定すると、それらの馬と共に帰京。騎手として復帰するも、日本では5年以上のブランクもあり、しばらくは芳しい成績が挙がらなかった。1949年(昭和24年)秋、武田文吾の騎手引退に伴い、関西の小川佐助厩舎から菊花賞優勝馬ニューフォードの騎乗を依頼され、同馬と天皇賞(秋)を制した。さらに、1950年(昭和25年)にヤシマドオター、1951年(昭和26年)にはハタカゼと、天皇賞(秋)三連覇を達成。1953年(昭和28年)、ハクリョウで菊花賞を制覇。1954年(昭和29年)には同じくハクリョウで天皇賞(春)を制覇した。1956年(昭和31年)、ハクチカラで東京優駿(日本ダービー)を制し、ダービージョッキーとなる。同馬は1957年(昭和32年)に天皇賞(秋)と有馬記念を制した後、1958年(昭和33年)より長期のアメリカ遠征に入り、保田もこれに同行した。現地のジョッキーライセンスを取得した保田はハクチカラの渡米初戦から騎乗したが、勝利を挙げることはできなかった。5戦を消化したところで尾形から帰国を促され、ハクチカラを残して先に離米。以後ハクチカラはアメリカの騎手を乗せて出走を続け、渡米後11戦目のワシントンバースデイハンデキャップ(レイ・ヨーク騎乗)を制し、日本の競走馬による米重賞初勝利を挙げた。一方、アメリカで先行して差すレースの勝率が高いことを体感した保田は、帰国後「尾形流」のフォームを一変させ、滞在中に習得した鐙を短く詰めるモンキー乗りで騎乗を始め、40歳を前にしての大幅なフォーム改造は感嘆の声とともに迎えられた。従来、日本ではごく一部にモンキー乗り、あるいは「半モンキー」程度のフォームで騎乗する者もあったが、多くの者は長鐙長手綱で、モンキー乗りに対しては「あんな格好で馬が御せるものか、馬が追えるわけがない」という非難の声もあった。ある時には天神乗りの名手として知られたベテラン騎手が酒席で「アメリカのやつらのサルまねをしやがって」などと保田のモンキー乗りに難癖をつけ、それに対し保田は「理に適っているから取り入れただけです。慣れればちゃんと追えます」と応じたところ、そのベテラン騎手が殴り掛かってきて取っ組み合いの喧嘩になったこともあった。1959年(昭和34年)、自己最高の89勝を挙げて初のリーディングジョッキーのタイトルを獲得。さらに1960年(昭和35年)、1961年(昭和36年)と3年連続でその座に就いた。同年9月17日には通算865勝目を挙げ、蛯名武五郎の記録を抜き通算最多勝利騎手となる。こうしたことから、保田のフォーム改造と活躍は他の騎手にも大いに影響を与え、以後モンキー乗りは日本競馬界でも広く普及し主流の騎乗法となった。また、アメリカで見た騎手の休養のためのジョッキールーム設置を競馬会に進言したことで、中央競馬にも「調整ルーム」が設けられることになったほか、アメリカで使われている馬具や鞭なども日本に紹介した。1963年(昭和38年)6月30日、スズカンゲツで史上初の通算1000勝を達成した。1966年(昭和41年)秋、コレヒデで天皇賞通算10勝を達成。1968年(昭和43年)、マーチスに騎乗して皐月賞に優勝し、史上初の八大競走完全制覇を達成した。この記録は、武豊が2人目の達成者となるまでの30年間、保田のみが持つものであった。1970年(昭和45年)、50歳を目前に控え、年齢による限界を感じて引退を決意。2月22日に最終日を迎えた。最後の競走は重賞の京王杯スプリングハンデキャップで、尾形厩舎のミノルに騎乗。ミノルは必ずしも好調ではなかったにもかかわらず、1番人気に支持された。レースでは後方待機から、最終コーナーで内を衝いて追い込み先頭に立つと、野平祐二が騎乗するメイジアスターの急追をクビ差凌いで優勝。通算1295勝目で引退を飾った。3月1日には東京競馬場で引退式が行われた。引退後は、師の尾形から10馬房を割譲されて厩舎を開業。3月8日には初出走を迎え、同日中に管理馬ケンポウで初勝利を挙げた。譲られた管理馬にはミノルの同期で当時すでにオープン馬だったメジロアサマがおり、5月には同馬が安田記念を制し、調教師として重賞初勝利を果たす。11月には天皇賞(秋)を制して八大競走初勝利も挙げた。メジロアサマは1972年(昭和47年)末に引退し、保田は友人の森末之助を通じて、それまで付き合いがなかった藤正牧場の幼駒を紹介され、森の兄弟子である茂木為二郎から管理を譲られた。トウショウボーイと命名された同馬には後躯の踏ん張りが甘いという欠点があったが、1976年(昭和51年)にデビューすると関東所属馬の筆頭格として台頭し、同年皐月賞と有馬記念を制して年度代表馬に選出されるなど、翌年末の引退までに15戦10勝という成績を残した。その卓越したスピードから「天馬」と称され、同期馬テンポイント、グリーングラスと共に「TTG」と並び称されたライバル関係は後々まで語り継がれるものとなった。トウショウボーイは後に殿堂入りしているが、騎手として後の顕彰馬(ハクチカラ)に乗って八大競走で勝利、かつ調教師として後の顕彰馬を管理したホースマンは保田が初めてとなった。1988年(昭和63年)、田中朋次郎の後を継いで第7代の日本調教師会会長に就任。1994年(平成6年)2月まで務めた。1995年(平成7年)、長年の競馬に対する功績が認められ、調教師としては初の勲等となる勲四等瑞宝章を受章。1997年(平成9年)2月28日、定年により調教師を引退。調教師としての通算成績は3485戦334勝、うち八大競走3勝を含む重賞17勝であった。2004年(平成16年)、日本中央競馬会創立50周年を記念して調教師・騎手顕彰者制度が発足し、保田は野平祐二、福永洋一と共に騎手部門で顕彰され殿堂入りした。2009年(平成21年)7月1日午後9時21分、食道癌のため都内の病院にて死去。享年89。


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史上初の八大競走完全制覇を達成し、その圧倒的な強さから」「盾男」の異名をとった保田隆芳。このほか、史上最年少となる18歳8ヶ月でのクラシック制覇達成、天皇賞3連覇達成、史上初の通算1000勝達成など、次々に輝かしい記録を打ち立てた。その一方、アメリカ遠征で身につけた「モンキー乗り」を日本競馬界に定着させたのみならず、「調整ルーム」の設置やアメリカで使われている馬具や鞭などを日本に紹介するなど、日本競馬界に多大な貢献をもたらした。引退後は「天馬」と称されたトウショウボーイを育て、騎手のみならず調教師としても成功をおさめた。まさに、野平祐二と並ぶ日本競馬界が誇る至宝的存在であった保田隆芳の墓は、東京都八王子市の高尾霊園(春泉寺)にある。墓には「保田家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は、「勲徳院優驀隆盛日芳居士」。

by oku-taka | 2024-11-24 20:44 | スポーツ | Comments(0)