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吉野弘(1926~2014)

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吉野 弘(よしの ひろし)

詩人
1926年(大正15年)〜2014年(平成26年)

1926年(大正15年)、山形県酒田市に生まれる。1938年(昭和13年)、酒田市琢成第二尋常小学校を総代として卒業し、1942年(昭和17年)12月に山形県酒田市立酒田商業学校を戦時繰り上げ卒業した。1943年(昭和18年)1月、帝国石油に就職。この頃、高村光太郎の「道程」を読んで感銘を受ける。1944年(昭和19年)、徴兵検査に合格するが、入隊5日前に終戦を迎えた。戦後は労働組合運動に専念していたが、1949年(昭和24年)に過労で倒れ、肺結核のため3年間療養した。入院中に詩人の富岡啓二と親しくなり、療養の傍ら詩作を始める。1952年(昭和27年)、詩学社詩誌「詩学」に「爪」「I was born」を投稿し、注目を集める。1953年(昭和28年)、川崎洋と茨木のり子が創刊した詩誌「櫂」に第三号から参加。1957年(昭和32年)、私家版詩集『消息』を刊行して注目をあつめ、1959年(昭和34年)には詩集『幻・方法』を上梓した。1962年(昭和37年)、帝国石油を退職してコピーライターに転職。1972年(昭和47年)、『感傷旅行』で第23回読売文学賞の詩歌俳句賞を受賞。同年から埼玉県狭山市北入曽に在住し、1977年(昭和52年)には同所を題材とした詩集『北入曽』を発表した。1979年(昭和54年)から西武池袋コミュニティカレッジで詩の公開講座を担当し、7年間にわたり後進の育成に励んだ。1980年(昭和55年)からは文筆を専業とするようになった。1983年(昭和58年)から13年間、狭山市民の文芸雑誌『文芸狭山』(狭山市立中央図書館刊行)の編集委員を務め、自作の詩や随筆を投稿している。1990年(平成2年)、『自然渋滞』で第5回詩歌文学館賞を受賞。1994年(平成6年)、『吉野弘全詩集』を刊行。2007年(平成19年)、静岡県富士市に転居。米寿を目前に控えた2014年(平成26年)1月15日午後9時48分、肺炎のため富士市の自宅で死去。享年87。


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戦後を代表する詩人の一人・吉野弘。代表作「祝婚歌」は結婚式のスピーチで度々引用され、また「夕焼け」「Iwas born」は国語の教科書に掲載されるなど、その作品群は多くの人たちに親しまれている。芸能界でもファンは多く、ミュージシャンの浜田省吾は吉野の「雪の日に」にインスパイアされて出来た曲が『悲しみは雪のように』だと語り、脚本家の山田太一も自身が手がけたドラマに度々吉野の詩を取り入れている。ここまで彼の詩が数多の人を惹きつけるのは、さりげない日常の出来事をありのままの思いで、決して飾った言葉ではなくわかりやすい表現で描き、そしてそれが共感を呼ぶからであろう。日常に潜む美しさを詩い続けた吉野弘の墓は、埼玉県狭山市の慈眼寺にある。墓には「吉野家之墓」とあり、側面に墓誌が刻み、左側に「草」とした「人さまざまの 願いを 何度でも 聞き届けて下さる 地蔵の傍に 今年も 種子をこぼそう〉の詩碑が建つ。戒名は「慈風弘照信士」。

by oku-taka | 2024-11-17 22:45 | 文学者 | Comments(0)