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飯干晃一(1924~1996)

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飯干 晃一(いいぼし こういち)

作家
1924年(大正13年)〜1996年(平成8年)

1924年(大正13年)、大阪府に生まれる。大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)卒業後、旧制第七高等学校(現在の鹿児島大学)を経て、1950年(昭和25年)に京都大学法学部(現在の京都大学大学院法学研究科・法学部)を卒業。読売新聞社に入社し、社会部記者として組織暴力団追及に健筆を振るった。その後、社会部副編集長となったが、「現場に出られないとつまらん」と1968年(昭和43年)に退職。1970年(昭和45年)、『山口組三代目』を執筆。1972年(昭和47年)、『週刊サンケイ』5月19日号から『広島やくざ・流血20年の記録 仁義なき戦い』と題するノンフィクションの連載をスタート。この連載は、戦後の広島県で発生した「広島抗争」に当事者として関わった美能幸三が網走刑務所で服役中に執筆した原稿用紙700枚に及ぶ手記をベースとし、これに飯干が当時の状況を書き加えた内容となっており、やくざと関わりの深い政治家、芸能人、プロ野球選手等の人名、団体・地名も全て実名で掲載され、手記と解説が一対になって広島抗争が事件や行事ごとに時系列に沿って進行する。それまでになかった切り口で広島ヤクザ抗争の内部を克明に描いたことから圧倒的な人気となり、印刷所ではゲラの奪い合いになったというほど反響を得た。翌年には『仁義なき戦い』として東映から映画化されて大ヒットとなり、シリーズ化することになる。これを受け、飯干も『日本の首領』、『会津の小鉄』『暴行』など、緻密な取材に裏づけされたエンターテイメント作品を多く発表していく。1992年(平成4年)春、娘でタレントの景子が統一教会(現在の世界平和統一家庭連合)の行事に参加するようになり、同年夏には失踪する。9月25日、「今、ニューヨークに着いたところです」とのファックスが、行方を捜していた晃一のもとへ届いた。10月1日、晃一は記者会見を開き、娘を取り戻すと宣言するとともに「あの集団は許せない。景子が戻ってきても戦いは続ける」と述べた。10月4日、景子は急遽帰国。脱会に向けての晃一の説得が始まり、元信者も交えて2週間の話し合いを行った末、景子は脱会を決意。11月5日発売の『週刊文春』11月12日号に告白手記を寄稿し、脱会した旨を明かした。1993年(平成5年)には『われら父親は闘う 娘・景子を誘いこんだ統一協会の正体』を発表した。1996年(平成8年)3月2日午前0時46分、急性心筋梗塞のため東京都港区の東京船員保険病院で死去。享年71。


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暴力団の実情を描いた作品で知られる飯干晃一。新聞記者として自ら取材していた実績を活かし、裏社会で暗躍するヤクザたちの現実を世に知らしめた。そのうちの一つである『仁義なき戦い』が映画化されるやいなや大ヒットとなり、その後シリーズ化されたことで東映の実録路線を切り開く契機となった。一方、晩年は娘を統一教会から奪回するべく果敢に闘い、あらゆる手段を駆使して徹底抗戦する姿が話題をさらった。娘を脱会に導いた安堵感からなのか、そのときの苦労が祟ったのか、3年半後に心筋梗塞で世を去った飯干晃一の墓は、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園にある。墓には「飯干家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。

by oku-taka | 2024-11-17 22:36 | 文学者 | Comments(0)