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筑紫哲也(1935~2008)

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筑紫 哲也(ちくし てつや)

ジャーナリスト
1935年(昭和10年)〜2008年(平成20年)

1935年(昭和10年)、大分県日田郡小野村(現在の日田市)に生まれる。静岡県立沼津東高等学校、東京都立小山台高等学校を経て、早稲田大学第一政治経済学部経済学科を卒業し、1959年(昭和34年)に朝日新聞へ入社。この年の朝日新聞社の入社試験は英語と論文と面接だけで一般常識などの筆記試験がなく、「常識なしの(昭和)34年組」と社内で皮肉られたという。面接の身上調書では愛読書を1冊書けとあり、一世を風靡した丸山眞男『現代政治の思想と行動』にしようとしたものの、面接で論争したら負けると思い、「鉄道時刻表」と書いて出した。面接では無銭旅行の話で大ウケであったが、論説主幹であった笠信太郎に(大学でやったはずの)景気循環論の話題を振られると、まったく歯が立たなかった。新人記者としての赴任先は宇都宮、次いで盛岡であった。支局で計4年を過ごし、政治部に異動。その後、政治記者として内閣総理大臣・池田勇人番を務める。1968年(昭和43年)5月から1970年(昭和45年)まで、アメリカ統治下の沖縄に政治部の「特派員」として赴任し、返還前の沖縄を精力的に取材。沖縄返還を翌年に控え、朝日新聞の130回にわたる長期大型連載企画「日本とアメリカ」において、キャップの松山幸雄から各章のまとめと次章へのつなぎの執筆をすべて任された。次いで、1971年(昭和46年)7月から1974年(昭和49年)まではワシントン特派員となり、1972年(昭和47年)に起こったウォーターゲート事件について、発端から終末まで現地で取材した唯一の日本人記者となった。1976年(昭和51年)1月から「朝日ジャーナル」副編集長を務め、1977年(昭和52年)6月に外報部次長となる。1978年(昭和53年)4月、テレビ朝日『日曜夕刊!こちらデスク』にメインキャスターとして出演。1979年(昭和54年)、番組として第16回ギャラクシー賞を受賞した。1983年(昭和58年)6月、第13回参議院議員通常選挙にあたって無党派市民連合の政見放送に出演し、停職3か月の処分を受ける。また、同年4月からキャスターを務めていたテレビ朝日系『TVスクープ』も降板となった。同年10月、TBSラジオ『筑紫哲也のハローワールド』にレギュラー出演。翌年4月から『筑紫哲也のニュースジョッキー』に出演した。1984年(昭和59年)1月、「朝日ジャーナル」編集長を務める。編集長自らインタビューを行う「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」「元気印の女たち」などの「軽チャー路線」が世間の目をひく一方で、1986年(昭和61年)12月5日号を皮切りにマスメディアとしてはじめて統一協会による霊感商法を徹底的に追及。「霊感商法」という言葉が世間に定着するきっかけをつくった。1987年(昭和62年)3月、編集長を伊藤正孝に譲り、ニューヨーク駐在の編集委員を務める。1989年(平成元年)夏、TBSからの打診を受けて朝日新聞社を退社。同年10月2日、『筑紫哲也ニュース23』の放送が開始。テレビ朝日系列『ニュースステーション』メインキャスターで大学の後輩でもある久米宏と並び、民放ニュースキャスターの顔として広く認知された。1992年(平成4年)、第21回ベストドレッサー賞学術・文化部門を受賞。1993年(平成5年)には『筑紫哲也ニュース23』のメインキャスターとしての業績に対して第30回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞した。同年に創刊された『週刊金曜日』の発刊を呼びかけ、朝日新聞同期入社の本多勝一らとともに手弁当で全国を行脚。創刊前から死去するまで15年にわたって同誌の編集委員を務め、コラム「自我作古」を連載した。1994年(平成6年)、出身地の大分県日田市に新たな地域文化を築くべく若者を中心に設立された市民大学「自由の森大学」の学長となり、2006年(平成18年)の閉校まで務めた。一方、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)に関する『筑紫哲也ニュース23』の報道において、ヘリコプターからの取材に臨んだ筑紫が、地震による火災で燃え上がる神戸市の様子を「まるで温泉街(おんせんまち)に来ているようです。そこらじゅうから煙が上がっています」と発言。これが「あまりに無思慮である」と視聴者から批判され、筑紫も非を認めた。1996年(平成8年)3月25日、坂本弁護士一家殺害事件の契機となったとされるTBSビデオ問題では、内部調査の結果として一貫して否定していたTBS側が、この日一転して事実を認めて謝罪したことを受け、筑紫が番組コーナー『多事争論』内でマスメディアが視聴者との信頼関係の上で存在していることに触れながら「TBSは今日、死んだに等しいと思います。……今日の午後まで私はこの番組を今日限りで辞める決心でおりました」と発言。この発言は大きな波紋を呼んだが、筑紫はその後10年以上にわたってメインキャスターを務めた。しかし、この問題が発覚して以降、『きょうの出来事』(日本テレビ)や『ニュースJAPAN』(フジテレビ)といった裏番組に視聴者が流れ、一時は視聴率が急速に低下した。1997年(平成9年)9月29日、『筑紫哲也ニュース23』から『TETSUYA CHIKUSHI NEWS23』にリニューアル。新聞表記も「ニュース23」から「NEWS23」となった。2004年(平成16年)、これまで国会議員の年金未納問題を批判していたが、自身の2年11か月分の年金未納が発覚。同年5月13日放送の『NEWS23』で謝罪し、翌日から一時期番組の出演を見合わせた。2007年(平成19年)5月14日、『NEWS23』で初期の肺癌であることを告白。治療のため、翌日から番組出演を休止した。入院中も音声メッセージによる出演を行い、同年10月には5か月ぶりにスタジオから出演。以後は不定期の出演となる。しかし、12月に全身への癌転移が判明。2008年(平成20年)3月28日をもって『NEWS23』を降板した。この日の多事争論では、「来週からの番組刷新で、タイトルから私(筑紫)の名前が消えます。ただ、体力が許される範囲・番組にプラスになると思える範囲内で番組には関わりたい」と、タイトル変更の話題にも触れつつ今後に対する意欲も示していた。同年4月、「わが国のテレビジャーナリズムの確立に多大な貢献をした」として、日本記者クラブ賞を受賞。この頃には肺や膵臓にも水がたまり、激しい痛みとの闘いを余儀なくされていた。同年7月7日、痛みをやわらげるペインクリニックの名医の治療を受けるため、鹿児島県内の病院に転院。10月15日、肺に水がたまり、呼吸困難で危篤状態に陥る。その後、同県内の別の病院に転院し、危機を脱したため、10月末には都内の病院に転院した。しかし、痰を切る力がなく、11月1日には再び危篤。喉を切開する手術を行い、2度目の危篤を脱したが、予断を許さない状態が続いた。11月7日午後1時50分、肺癌のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。享年74。


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落ち着いた語り口と鋭い批評で知られたジャーナリズム・筑紫哲也。政治・外交はもとより、文化活動の発掘と紹介にも力を入れ、新しいジャーナリズムを確立した。特に、朝日ジャーナルの編集長時代には「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」などの企画が話題となり、「新人類」「元気印」の流行語を生んだ。平成に入ると『筑紫哲也NEWS23』でキャスターに転身し、フリップにタイトルを示して世相を評論する「多事争論」コーナーや各国の首脳をスタジオに招いて直接対話するなど、従来の枠にとらわれない斬新なニュース番組を作り上げた。それだけに、阪神・淡路大震災の報道における「まるで温泉街に来ているようです」、TBSビデオ問題での「TBSは今日、死んだに等しいと思います」など、彼の発言は度々注目を集めた。訃報が報じられた際、各界の著名人から惜しむ声が相次いだが、ネットでは罵倒のお祭り騒ぎだったことをよく覚えている。テレビ報道の第一人者でありながら功罪相半ばす筑紫哲也の墓は、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園にある。墓には「筑紫家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「無量院釋哲也」。

by oku-taka | 2024-11-04 00:02 | 評論家・運動家 | Comments(0)