人気ブログランキング | 話題のタグを見る

猪熊弦一郎(1902~1993)

猪熊弦一郎(1902~1993)_f0368298_21233994.jpg

猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう)

画家
1902年(明治35年)〜1993年(平成5年)

1902年(明治35年)、香川県高松市に生まれる。その後、丸亀市に転居し、丸亀東幼稚園、城北小学校と進学。小学生の時から絵が上手く、学校の美術の授業で教師の代わりをする事もあった。1921年(大正10年) 、旧制丸亀中学校(現在の香川県立丸亀高等学校)を卒業。上京して本郷洋画研究所に通い、1922年(大正11年) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)洋画科に入学。一時病のため休学したが、1925年(大正14年)から藤島武二教室で学ぶ。1926年(大正15年) 、『婦人像』で帝展初入選を果たす。同年、再び健康を害したため東京美術学校は中退した。1927年(昭和2年)、美校の同期生だった岡田謙三、荻須高徳らと上杜会を結成。また、帝展、光風会展に制作発表を行い、1929年(昭和4年)には第16回光風会展で光風賞を、第10回帝展に『座像』で特選をそれぞれ受けた。1931年(昭和6年)、光風会の会員となる。1933年(昭和8年)、『画家』で第14回帝展の特選を受ける。1935年(昭和10年)、新文展発足に反対する有志と第二部会を組織し、第1回展に『海と女』を発表したが、翌年、第二部会の新文展参加に反対し同会を脱退。光風会も退会し、伊勢正義、内田巖、小磯良平、佐藤敬、三田康、中西利雄、脇田和、鈴木誠と新制作派協会(現在の新制作協会)を結成。以後、発表の舞台とする。1938年(昭和13年)、フランスに遊学。アンリ・マティスの指導を受けるが、マティスに自分の絵の批評を請うと「お前の絵はうますぎる」と言われ、これを自分の画風が出来ていないと捉えて愕然とする。以来、自らの画風を模索する歳月を過ごすが、マティスの影響からなかなか抜け出せなかった。しかし、第二次世界大戦勃発に伴い、1940年(昭和15年) に最後の避難船となった白山丸で帰国。以後、半具象によるモダニズム絵画の旗手として画壇をリードするに至るが、1940年(昭和15年)には中国文化親善のため佐藤敬と南京方面に派遣される。1942年(昭和17年)には陸軍省派遣画家となり、フィリピン、ビルマ(1943年)に従軍画家として戦地へ赴いた。1944年(昭和19年) 、陸軍美術展で戦争画『◯◯方面鉄道建設』を発表。終戦後、田園調布純粋美術研究室を発足し、後進の指導にあたる。一方、1946年(昭和21年)の第10回展から新制作派協会展に出品し、このほか美術団体連合展に毎回出品、日本国際美術展、現代日本美術展などに出品した。1948年(昭和23年)、『小説新潮』の表紙絵を描く。以降、39年にわたり表紙絵を担当した。1950年(昭和25年)、白地に赤で有名な三越の包装紙「華ひらく」のデザインを行い、当時としては破格の報酬でも話題となった。1951年(昭和26年)、上野駅の壁画『自由』を制作。また、慶應義塾大学大学ホールの壁画『デモクラシー』と名古屋丸栄ホテルホール壁画『愛の誕生』で、第2回毎日美術賞を受賞する。また、同年の第1回サンパウロ・ビエンナーレ展、翌年の米国ピッツバーグ市カーネギー美術館における国際美術展に出品したのをはじめ、以後しばしば海外の国際展に参加した。1955年(昭和30年) 、再度パリでの勉学を目指し日本を発つが、途中滞在したニューヨークに惹かれ、活動の拠点をニューヨークに移す。1956年(昭和31年)、ニューヨーク・ウィラード画廊の所属画家となる。以後20年間ニューヨークを足場に制作活動を展開。この間に半具象のモダニズム絵画から幾何学的構成による抽象へと転じ、明るい色彩と単純な点や線による明快な構成に独自の作風をうち立てた。またこの時期に、マーク・ロスコ、イサム・ノグチ、ジョン・ケージ、ジャスパー・ジョーンズなどさまざまな著名人と交友関係を深めた。1973年(昭和48年) 、日本に一時帰国中、ニューヨークへ戻る際に開かれた送別会の席上で脳血栓に倒れる。そのため、1975年(昭和50年)にニューヨークのアトリエを閉じ、温暖なハワイで毎年冬をすごしながら創作活動を続けた。1980年(昭和55年) 、勲三等瑞宝章を受章。晩年は、妻の死を機に「顔」シリーズの制作に意欲を燃やし、人間の表情を曼陀羅風の構成で描いた。1991年(平成3年)、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館が開館。1993年 (平成5年)1月、「祝90祭猪熊弦一郎展」で第34回毎日芸術賞を受賞。同年5月17日、動脈瘤破裂のため東京都中央区の病院で死去。享年90。


猪熊弦一郎(1902~1993)_f0368298_21233967.jpg

猪熊弦一郎(1902~1993)_f0368298_21233943.jpg

昭和の画壇を代表する世界的な洋画家・猪熊弦一郎。具象から抽象、そして人間の顔に至るまで、スタイルを変えながらも常に新しいものへと挑戦し続けた。「絵には勇気がいる」「どんなことをしても僕なんだ」をよく口にし、絶えず新しいことに挑戦し続けた猪熊弦一郎の墓は、埼玉県所沢市の所沢聖地霊園にある。墓には十字架と直筆による「猪熊」、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2024-09-30 21:25 | 芸術家 | Comments(0)