1935年(昭和10年)、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)に生まれる。父は当時中学校の校長であり、1943年(昭和18年)には岡山一中の校長となったことから岡山市へ転居。岡山県立師範学校男子部附属国民学校(現在の岡山大学教育学部附属小学校)に転校した。1951年(昭和26年)、岡山大学附属中学校を卒業し、岡山県立朝日高校に入学。1954年(昭和29年)に同校を卒業し、東京大学教養学部文科二類(東大文二、現在の東京大学文科三類)に入学して上京する。1955年(昭和30年)、ポール・グリモーの映画『やぶにらみの暴君』(のちに改作され『王と鳥』となる)が日本公開され、これに衝撃を受けて映画館に通うようになる。これが、フランスの詩人・脚本家であるジャック・プレヴェールの作品との出会いであり、強い影響を受けた高畑は、フランスの長編アニメーション映画でプレヴェールが脚本を執筆した『王と鳥』の字幕翻訳を手がけ、後に彼の名詩集《Paroles》(邦訳題名『ことばたち』)の日本初完訳(2004年)という仕事を行う。また、『枯葉』や『バルバラ』、『美しい星へ』といったシャンソンの曲群にも多大な影響を受け、『紅の豚』の劇場用パンフレットではさくらんぼの実る頃(原題: Le Temps des cerises)の訳詞を載せている。1959年(昭和34年)、東京大学文学部仏文科を卒業。長編漫画映画『やぶにらみの暴君』(『王と鳥』の原型)に感銘を受け、アニメーション映画を作る事を決意して東映動画に入社。東映動画による演出助手公募の第一期生として、映画『安寿と厨子王丸』『わんぱく王子の大蛇退治』で演出助手になり、テレビアニメ『狼少年ケン』で演出デビュー。その仕事ぶりを認められ、大塚康生の推薦により、長編漫画映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』の演出(監督)に抜擢される。同作でタシケント国際映画祭監督賞を受賞し、後に高い評価を得たが、制作当時は予算やスケジュールの大幅な超過から高畑をはじめとするメインスタッフはその責任を負う形で他と待遇に差を付けられ、興行面でもターゲットと宣伝の不一致から不振だった。同作の制作遅延や組合活動によって、高畑は東映動画で長編劇場作品の演出や「やりたい企画」のテレビアニメを任される可能性はほぼないと考えていた。そんな折、Aプロダクションに移っていた楠部大吉郎と大塚康生から『長くつ下のピッピ』のアニメ化(企画は東京ムービー)のために移籍を勧誘される。大塚が手がけていた『ムーミン』にテレビアニメの可能性を感じていたことから、東映動画のテレビアニメにはないチーフディレクターによって作品全般を統括できる点にも魅力を感じて誘いに応じるも、宮崎駿・小田部羊一の2人が不可欠と考え、両者に移籍を説得。高畑は「将来のある2人を巻き添えにする」ことに悩んだが、宮崎はすぐに決断し、小田部は悩んだものの妻の奥山玲子が残ることで周囲から容認された。その後、原作者であるアストリッド・リンドグレーンとの交渉に向かう藤岡豊(東京ムービー社長)に同行する形で宮崎がスウェーデンにロケハンに赴き、その経験を生かして大量のイメージボードを描く一方、高畑は「覚え書き」や「字コンテ」を作って作品の方向性を固めようとしたが、原作者の許可が下りず、企画は頓挫した。移籍の理由が消失した高畑らはAプロダクションの様々なテレビアニメの企画や制作への参加を余儀なくされ、『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』後半パートの演出を宮崎と共に担当した。1972年(昭和47年)、映画『パンダコパンダ』の演出を務める。この年、日中友好の一環として中国からジャイアントパンダが上野動物園に贈られたことをきっかけに日本でパンダブームが起こり、東宝から「パンダもの」制作の指令がなされ、宮崎は『長くつ下のピッピ』用のキャラクターを作り変えるとともにその世界観や設定(少女の一人暮らし、三つ編みでそばかすのある主人公、オーブンのある台所など)を活用。本作品の好評を受け、翌年には『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』が制作され、こちらでも高畑は演出を務めた。1973年(昭和48年)、ズイヨー映像(後に日本アニメーションに改組)に移籍。『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』の演出・監督を担当し、海外ロケハンや徹底的に調べ上げた資料を元に生活芝居を中心としたリアリズムあふれるアニメを構築した。また、『未来少年コナン』では数話のコンテ・演出を担当し、初監督で苦しむ宮崎をアシストした。1977年(昭和52年)、Aプロダクション時代に面識のあった楠部三吉郎がシンエイ動画での『ドラえもん』の再アニメ化を原作者の藤本弘(藤子・F・不二雄)に持ち込み、藤本から「どうやって『ドラえもん』を見せるのか、教えてもらえませんか」と問われた際に、楠部は高畑の自宅を訪れ『ドラえもん』の単行本を読ませた上で、企画書の執筆を依頼した。高畑は目にした『ドラえもん』を「子供の心をぐいっとつかまえる力がある」と絶賛した上で企画書を書き、数日後に楠部と二人で藤本を訪れると、企画書を読んだ藤本はアニメ化を承諾した。後に楠部は高畑を『ドラえもん』の「恩人のひとり」と記している。1980年(昭和55年)、漫画『じゃりン子チエ』の映画化の企画が持ち込まれる。高畑は原作を熟読した上で「やってみたい」と返事し、大阪の下町へのロケハンも敢行した。1981年(昭和56年)に公開された映画は、非常に制約の多い中で制作されたにもかかわらず、興行的にも成功。その後、TV版が制作されることになり、再び高畑の元へと依頼が来る。この時、高畑は引き受ける条件として、映画版で主役・竹本チエを務めた中山千夏、準主役・竹本テツを務めた西川のりおを起用すること、それ以外の声優に関しても、ナチュラルな大阪弁が話せる声優を起用すること、という条件を出したが、制作側がその条件を呑み、チーフディレクターを務めることとなった。高畑自身この作品を非常に気に入っており、本作で西川のりおが演じた竹本テツをもじった武元 哲(たけもと てつ)の別名を使ってコンテを切ったり演出をしている。1981年(昭和56年)、テレコム・アニメーションフィルムに移籍。同時期、オープロダクションが自主制作で手がけた『セロ弾きのゴーシュ』の監督も担当し、5年を費やして1982年(昭和57年)に公開。同作で毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞した。また、『じゃりン子チエ』に前後して、当時テレコム・アニメーションフィルム(および親会社である東京ムービー)が社運をかけて取り組んでいた日米合作の劇場大作『NEMO/ニモ』にも参加。いったんは日本側の監督にノミネートされたが、制作体制の問題から1983年(昭和58年)に降板し、テレコム・アニメーションフィルムを退社する。このとき、フレデリック・バックの作品『クラック!』に出合い感銘を受けている。その後、宮崎が監督する『風の谷のナウシカ』に参加。宮崎からプロデューサーにされるが、当初自分はプロデューサー向きではないと渋り、アニメージュの鈴木敏夫副編集長の説得により受諾するに至った。この『風の谷のナウシカ』が成功を収めたことから、宮崎はこの映画で得た資金を有意義に使いたいと考え、今度は高畑が監督する映画を製作しようと提案。その結果、水の都として知られる福岡県柳川市の風情をとらえた映画『柳川堀割物語』を撮影することになり、高畑が脚本・監督を務め、宮崎の個人事務所「二馬力」が製作を担当した。同作で第42回毎日映画コンクール教育文化映画賞を受賞したが、高畑があまりにも巨額な製作費を費やしたため、宮崎が用意した資金を全て使い果たした挙句、宮崎の自宅を抵当に入れざるを得ない事態となった。困惑した宮崎は徳間書店の鈴木敏夫に相談し、『柳川堀割物語』の製作費を回収するには、新作アニメーション映画を製作しその収入で賄うしかないとの結論に至る。その後、宮崎と鈴木は新作映画『天空の城ラピュタ』の製作を目指し奔走することになる。『風の谷のナウシカ』を制作したトップクラフトは既に解散していた為、宮崎と鈴木は『天空の城ラピュタ』を制作してくれるアニメーションスタジオを探していた。しかし、宮崎・高畑コンビが在籍した会社はそのあとダメになるという通説があり、制作拠点探しは難航。そのとき、高畑が「なら、いっその事、スタジオを作ってしまいませんか」と宮崎、鈴木等に提案。これを受け、1985年(昭和60年)に徳間書店が宮崎等の映画製作の為、スタジオジブリを設立した。高畑も宮崎に請われてスタジオジブリに参加したが、高畑は「作り手は経営の責任を背負うべきではない」と主張し、役員への就任を辞退した。また、ジブリとは別に高畑個人の様々な窓口的事務を行う「畑事務所」を持った。1988年(昭和63年)、『火垂るの墓』の監督を担当。同時上映となった『となりのトトロ』は、当初60分程度の中編映画として企画されており、単独での全国公開は難しかった。そこで鈴木の発案として同時上映作品として『火垂るの墓』の企画が決定したという経緯が伝えられている。両映画の制作はスタジオジブリで同時に進行。高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった。特に揉めたのが作画監督の近藤喜文の処遇であったが、結果として宮崎側が新しく参入したスタッフを中心に制作したのに対し、高畑側は近藤や美術監督の山本二三など旧知のベテランを集めた。当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『となりのトトロ』の時間も延び、結果的に長編2本の同時進行となった。しかし、彩色の作業がどうしても公開までに完了しないことが判明。高畑は、大幅なカットで破綻させることなく観客の鑑賞に堪える方法を百瀬義行とともに検討し、「『演出意図』としての必然性が感じられれば、見る人に受け入れてもらえるのではないか」という「苦肉の策」で、公開時点では清太が野菜泥棒をして捕まる場面などを色の付かない白味・線撮りの状態で上映することとなった。これらの箇所は公開後も制作を続け、後に差し替えられている。鈴木によると、公開が間に合わないという話になった際、高畑は同様に未完成版を公開したポール・グリモーの『王と鳥』(『やぶにらみの暴君』)のように未完成になった経緯の説明を冒頭に付けて公開する提案をして、鈴木がそれを断ると、2箇所彩色が抜けることを明かし、鈴木はその状態での公開を承諾したという。最終的に両作とも上映時間は90分近くなり、長編2本体制で4月に公開された。同作で、日本カトリック映画大賞、国際児童青少年映画センター賞、シカゴ国際児童映画祭最優秀アニメーション映画賞、モスクワ児童青少年国際映画祭グランプリに輝いたが、当時としてみれば地味な素材であった上、東宝宣伝部が消極的だったことや、高畑・宮崎両監督の一般的な知名度も現在ほどではなく、公開日が春休み後の中途半端な時期でもあったため、配給収入は5.9億円と伸び悩んだ。一方、わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑はいったんアニメ演出家の廃業を決意。しかたしん原作の『国境』を元に、満州国と朝鮮半島における人々の日常生活を淡々と描く中で、日本人の現地人差別の実態を詳らかにする企画を進めていたが、結局は1989年(平成元年)に起きた天安門事件の影響で企画が流れた。その後、オムニバスプロモーションの斯波重治から企画を受けた宮崎は、「アニメ化するには難解な原作で、高畑勲しか監督できない」と高畑を後押しし、1991年(平成3年)に『おもひでぽろぽろ』で高畑は監督に復帰する。一方、鈴木敏夫は高畑没後のインタビューにおいて、『火垂るの墓』を未完成なまま公開した高畑に再度監督できる機会を与えるとしたら「ジブリとしてこの作品を高畑さんでやると発表することだ」と宮崎が言ったと述べている。同作では、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1994年(平成6年)、自ら原作を手がけた『平成狸合戦ぽんぽこ』を公開。高畑が原作・脚本・監督の3役を務めた初のオリジナル作品となったが、当初『平家物語』を映像化しようと試みたがなかなか実現せず、狸映画を作ろうと考えていた宮崎と鈴木の案をもとに狸の平家物語のオリジナルシナリオを執筆。開発が進む多摩ニュータウン(多摩市)を舞台に、その一帯の狸が「化学」(ばけがく)を駆使して人間に対し抵抗を試みる様子を描く物語を完成させ、同作は第49回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、第12回ゴールデングロス賞予告編コンクール賞及びマネーメイキング監督賞、アヌシー国際アニメーション映画祭長編部門グランプリを受賞。配給収入では26億円を得て、高畑監督作品で最高の成績となった。1998年(平成10年)、紫綬褒章を受章。1999年(平成11年)、およそ20億円の制作費用をかけ鳴り物入りで封切られた『ホーホケキョ となりの山田くん』で第3回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞。しかし、全体の売り上げを示す興行収入は15.6億円、映画館などの取り分を差し引いた配給収入は目標の60億円を大きく下回る7.9億円に留まった。高畑の意向で、デジタル彩色でありながら水彩画のような手描き調の画面となっており、これを実現するために通常の3倍もの作画(1コマにつき、実線、塗り、マスク処理用の線の合計3枚が必要となる)17万枚が動員され、製作途中の画風模索もあって制作費が膨れ上がったのが原因となった。また、ジブリの親会社である徳間書店社長だった徳間康快が東宝側と「ケンカ」してしまったため、松竹でやらざるを得なくなり、その松竹もシネマジャパネスク戦略の迷走や、度重なる興行収入の不振から2000年2月期決算において21億円の特別損失を計上した。2000年代初頭、次回作と目されたのは『平家物語』のアニメ化であったが、メインアニメーターが同意しなかった事などにより断念。鈴木の発案により、日本の古典『竹取物語』を原作としたアニメ映画が次の企画となるも、進捗の不調から山本周五郎の『柳橋物語』や赤坂憲雄の『子守り唄の誕生』を原作やベースとした企画に変更される曲折を経る。2009年(平成21年)、ロカルノ国際映画祭名誉豹賞を受賞。同年10月、新作が『竹取物語』を原作に『鳥獣戯画』の様なタッチで描いた作品である事が報じられた。制作には時間を要し、2012年(平成24年)12月にスタジオジブリは『かぐや姫の物語』のタイトルで2013年(平成25年)夏に公開予定である事を正式に発表した。しかし、同年2月になって制作の遅れから公開予定が秋に延期される事が発表され、同年11月23日に公開された。同作では、第68回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、第37回日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞、第23回日本映画批評家大賞アニメーション作品賞及びアニメーション監督賞、東京アニメアワード監督賞を受けた。海外においても、ファンタスティック・フェスト観客賞、第36回ミルバレー映画祭アニメーション映画観客賞、第35回ボストン映画批評家協会賞アニメーション映画賞、第40回ロサンゼルス映画批評家協会賞アニメーション映画賞、第18回トロント映画批評家協会賞アニメーション映画賞、第12回国際シネフィル協会賞アニメーション映画賞、第16回リスボン・アニメーション映画祭長編アニメ映画グランプリに輝いた。2014年(平成26年)、アヌシー国際アニメーション映画祭名誉賞を受賞。2015年(平成27年)6月、アメリカの映画芸術科学アカデミー会員候補に選出。同年、フランス芸術文化勲章オフィシエを受けた。晩年にはフランスのミッシェル・オスロ監督の長編アニメーション映画の日本語版字幕翻訳や演出、原作本の翻訳も手がけた。また、西村義明と共に年来の夢であった『平家物語』の短編映画の制作に取りかかったが、2017年(平成29年)4月に肺癌の手術を受けて以降は体調不良(発熱、せき、味覚障害)に苦しめられ、2018年(平成30年)に制作を断念。同年2月までは講演等もこなしていたが、3月末に入院したときには呼吸困難から会話も出来なくなった。同年4月5日午前1時19分、肺癌のため帝京大学医学部附属病院で死去。享年84。