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近藤喜文(1950~1998)

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近藤 喜文(こんどう よしふみ)

アニメーター
1950年(昭和25年)〜1998年(平成10年)

1950年(昭和25年)、新潟県五泉市に生まれる。幼少期から絵を描いたり、畳んだ新聞を切り抜いて作る細工物などに熱中。小学生の頃には絵が上手なことに定評があり、卒業文集の表紙を手がけた。1965年(昭和40年)4月、新潟県立村松高等学校に入学。美術部に所属し、同人誌「ぺんだこ」を制作する。1968年(昭和43年)3月、高校を卒業し、同年4月に新橋の東京デザインカレッジ・アニメーション科に入学。熊川正雄、大塚康生らの講義を受ける。東映長編に憧れ、東映動画志望だったが入れてもらえず、Aプロダクション(現在のシンエイ動画)を紹介され、同年10月1日に入社。早くから才能を認められ、『巨人の星』、『ルパン三世』、『ど根性ガエル』などに参加した。1976年(昭和51年)、日本共産党に入党し、居住地の住民運動に尽力する。1978年(昭和53年)6月20日、シンエイ動画を退社。同年、日本アニメーションに契約入社。『未来少年コナン』、『赤毛のアン』などに参加し、高畑勲や宮崎駿らと出会う。同年、新人養成テキストブック『アニメーションの本―動く絵を描く基礎知識と作画の実際』を共著で出版。1980年(昭和55年)、日本アニメーションを退社。同年12月16日、テレコム・アニメーションフィルムへ移籍。『名探偵ホームズ』などを担当した。1984年(昭和59年)9月より日米合作劇場用アニメーション『NEMO/ニモ』のパイロット・フィルムを友永和秀と共同で監督にあたり、12月に完成させる。1985年(昭和60年)3月16日、テレコム・アニメーションフィルムを退社。フリーとなったが、同年6月から8月まで自然気胸で入院した。1986年(昭和61年)1月頃、日本アニメーションに契約入社。1987年(昭和62年)1月、日本アニメーションを退社。同年2月1日、『火垂るの墓』準備のためスタジオジブリに入る。しかし、高畑が『火垂るの墓』、宮崎が『となりのトトロ』をそれぞれ同時に制作しており、両者の間で近藤の争奪戦が起こった。高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と発言し、仲裁に入った鈴木敏夫の「宮崎は自分で絵が描けるから」という助言で、近藤は『火垂るの墓』の制作に携わった。1989年(平成元年)9月11日にはスタジオジブリへ正式に入社し、『魔女の宅急便』や『おもひでぽろぽろ』など、宮崎や高畑の監督作品で作画スタッフとして活動する。1995年(平成7年)、かねてより近藤が演出をするという宮崎との約束があったため、宮崎が企画を持ってきた『耳をすませば』の監督を任される。同作の製作中、近藤と宮崎の間では何度も衝突があり、時には宮崎が演出の変更を求めたり脅すようなこともあったという。同作で監督デビューを果たすが、結果的に生涯唯一の監督作となった。1997年(平成9年)、作画監督を務めた『もののけ姫』が最後の参加作品となった。同年12月中旬に解離性大動脈瘤で倒れ、東京都立川市の病院に入院。手術をして一命を取り留めたが、1998年(平成10年)1月21日午前4時25分に死去。享年47。


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スタジオジブリを支えた伝説のアニメーター・近藤喜文。メリハリある描写から細やかな箇所まで手がける高い技術は、多くのアニメーターに影響を与えた。特に高畑勲と宮崎駿からは、2人の間で近藤を取り合う事態に発展するほどの信頼を寄せられた。ジブリの二大巨頭が求める高クオリティーに応えるべく格闘し、難産の末に作品を完成させる日々が続いたせいか、47歳という若さで亡くなってしまった。葬儀の際、とあるベテランアニメーターが「近ちゃんを殺したのはパクさん(高畑勲)よね」とつぶやくと、高畑は無言でうなずいた、という話は知る人ぞ知るエピソードである。アニメーションを愛し、そのアニメーションに命を削られた近藤喜文の墓は、埼玉県所沢市の狭山湖畔霊園にある。洋型の墓には、花を持って駈ける少女の絵と「近藤」が、背面には墓誌が刻む。そして、右隣には共に作品を創り出した高畑勲の墓が建立されている。

by oku-taka | 2024-09-15 01:11 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)