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いわさきちひろ(1918~1974)

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いわさき ちひろ

画家
1918年(大正7年)〜1974年(昭和49年)

1918年(大正7年)、福井県南条郡武生町(現在の越前市)に生まれる。本名は、松本 知弘(まつもと ちひろ)。旧姓は、岩崎。幼少から絵を描くのが得意で、小学校の学芸会ではたびたび席画(舞台上で即興で絵を描くこと)を行うほどだった。あるとき、隣の家で絵雑誌「コドモノクニ」を見かけ、当時人気のあった岡本帰一、武井武雄、初山滋らの絵に強く心を惹かれた。その後入学した東京府立第六高等女学校(現在の東京都立三田高等学校)でも絵がうまいと評判だった。母は娘の絵の才能をみとめ、ちひろが14歳のときに岡田三郎助の門をたたいた。そこでデッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たした。女学校卒業後は岡田の教えていた美術学校に進むことを希望したが、両親の反対にあって第六高女補習科に進学。18歳になるとコロンビア洋裁学院に入学。その一方、書家の小田周洋に師事して藤原行成流の書を習い始めた。1939年(昭和14年)、3人姉妹の長女だったことから、両親の薦めを断り切れずに婿養子を迎える。同年6月には夫の勤務地である満州・大連に渡ったが、夫を心身共に受け入れることが出来ずに拒否し続け、そのショックから翌年に夫は自殺。その後帰国して中谷泰に師事し、再び油絵を学び始めた。しかし、再度習い始めた書の師である小田周洋から「絵では無理でも書であれば自立できる」と励まされ、書家を目指すようになる。1944年(昭和19年)、女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡るが、戦況悪化のため同年に帰国。翌年には5月25日の東京大空襲で東京・中野の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えた。1946年(昭和21年)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加した後に入党。同年5月には党宣伝部の芸術学校(後の日本美術会付属日本民主主義美術研究所、通称「民美」)で学ぶため、両親に相談することなく上京した。東京では人民新聞社の記者として働き、また丸木俊に師事してデッサンを学んだ。この頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、1949年(昭和24年)に発表した紙芝居『お母さんの話』をきっかけに画家として自立する決心をした。広告ポスターや雑誌、教科書のカットや表紙絵など、画家としての多忙な日々を送る中、党支部会議で演説する松本善明と出会う。2人は党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、1950年(昭和25年)1月21日のレーニンの命日を選んで結婚した。同年、善明はちひろと相談の上で弁護士を目指し、ちひろは絵を描いて生活を支えた。善明は1951年(昭和26年)司法試験に合格し、1952年(昭和27年)4月に司法修習生となる。一方、ちひろはヒゲタ醤油の広告の絵を担当。1954年(昭和29年)には朝日広告準グランプリを受賞した。同年4月、善明は弁護士の仕事を始めて自由法曹団に入り、弁護士として近江絹糸争議、メーデー事件、松川事件などにかかわる。しかし、自宅に泥棒が入って私信を盗まれたり、執拗な尾行を受けたり、家政婦として住み込みで働いていた若い女性が外出中に誘拐され、松本家のことを事細かに聞かれたが隙を見て逃げ出す等の出来事があった。1956年(昭和31年)、福音館書店の月刊絵本シリーズ『こどものとも』12号で、小林純一の詩に挿絵をつけて『ひとりでできるよ』を制作。これが初めての絵本となったが、この頃のちひろの絵には「少女趣味だ」「かわいらしすぎる」「もっとリアルな民衆の子どもの姿を描くべき」などの批判があり、そのことに悩んでいた。1963年(昭和38年)、雑誌『子どものしあわせ』の表紙絵を担当。「子どもを題材にしていればどのように描いてもいい」という依頼に、それまでの迷いを捨てて自分の感性に素直に描いていくことを決意。1962年(昭和37年)の作品『子ども』を最後に油彩画をやめ、以降はもっぱら水彩画に専念することにした。1964年(昭和39年)、日本共産党の内紛で交流の深かった丸木夫妻が党を除名されたころを境に、丸木俊の影響から抜け出して独自の画風を追い始める。「子どものしあわせ」はちひろにとって実験の場でもあり、そこで培った技法は絵本などの作品にも多く取り入れられている。当初は2色もしくは3色刷りだったが、後にカラー印刷になると、代表作となるものがこの雑誌で多く描かれるようになった。1963年(昭和38年)6月、世界婦人会議の日本代表団として渡ったソビエト連邦で異国の風景を数多くスケッチし、かねてより深い思い入れを持っていたハンス・クリスチャン・アンデルセンへの思いを新たにした。1966年(昭和41年)、アンデルセンの生まれ育ったオーデンセを訪れたいとの思いを募らせていたことから、「美術家のヨーロッパ気まま旅行」に母とともに参加。このときにアンデルセンの生家を訪れ、ヨーロッパ各地で大量のスケッチを残した。2度の海外旅行で得た経験は、同年に出版された『絵のない絵本』に生かされた。1966年(昭和41年)、赤羽末吉の誘いで、まだ開発の進んでいなかった黒姫高原に土地を購入。アトリエとして山荘を建て、毎年訪れては絵本の制作を行うようになる。1968年(昭和43年)、『あめのひのおるすばん』を出版。当時の日本では、絵本というものは文が主体であり、絵はあくまで従、文章あってのものにすぎないと考えられていた。至光社の武市八十雄は欧米の絵本作家からそうした苦言を受け、ちひろに声をかけた。2人はこうして新しい絵本、「絵で展開する絵本」の制作に取り組んだ。『あめのひのおるすばん』以降ほぼ毎年のように新しい絵本を制作し、中でも1972年(昭和47年)の『ことりのくるひ』はボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞した。一方、当時挿絵画家の絵は美術作品としてほとんど認められず、絵本の原画も美術館での展示などは考えられない時代で、挿絵画家の著作権は顧みられず、作品は出版社が「買い切り」という形で自由にすることが一般であったことから、ちひろは教科書執筆画家連盟、日本児童出版美術家連盟にかかわり、自分の絵だけでなく、絵本画家の著作権を守るための活動を積極的に展開した。1973年(昭和48年)秋、肝臓癌が発覚。入退院を繰り返しながらも作品を描き続けたが、1974年(昭和49年)8月8日、原発性肝癌のため死去。享年55。


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淡い色彩と柔らかなタッチで、優しい眼差しの子供を描き続けたいわさきちひろ。生き生きとした子供の姿を美しく描き、黒柳徹子は自著『窓ぎわのトットちゃん』で彼女の作品を挿絵するなど、その世界観に魅せられた著名人は多い。しかし、いわさきちひろ自身は、最初の夫を拒絶して自殺をもたらし、空襲で家を焼かれ、共産党に入党して夫婦共に共産党員、スパイに尾行されるなどの陰湿な目に遭うなど、その絵からは想像できない壮絶な生涯を送った。若くして癌に倒れたいわさきちひろの墓は、埼玉県所沢市の狭山湖畔霊園と長野県松本市の蟻ヶ崎霊園にある。前者の墓には、「松本」とあり、後ろにいわさきちひろの描いた少女の絵のレリーフと墓誌が刻まれている。

by oku-taka | 2024-09-02 20:39 | 芸術家 | Comments(0)